第3話 婚約者
サクラのログアウト通知を見ながら、俺は小さくため息をついた。
「イズモさん」
俺がイズモを咎めると、目の前の女は耳を塞いでみせた。
「あ――あ、聞こえない聞こえない。まったく……なんでうちの箱って、みんな自分の欲望に忠実な変人ばっかりなんだろうね」
「それ、イズモさんが言うのはどうかと思うけど」
俺は小さくため息をつき、漂うファイルに視線を戻した。
「やれやれ……。イズモさんの私情でサクラを強制ログアウトさせたせいで、残りの作業、全部俺たちで片付ける羽目になったじゃないか。いやあ、実に理性的ですね」
「ごめんって。でもさ、サクラ、ちょっとやりすぎだったでしょ?むしろ、シオンくんの危機感のなさのほうが問題だと思うけど?」
口では謝っているものの、イズモはまったく反省している様子がなかった。
「はあ……あんなの、ただの雑談だろ。イズモさんが過剰に反応しすぎなんだよ。それに、あの程度でアウトなら、普段のイズモさんの無意識なセクハラなんて、とっくにレッドカードだろ」
言い返せずに黙り込んだイズモを横目に、俺は肩をすくめて作業を続けた。
しばらく静かな時間が流れたあと、ぽつりとイズモが口を開いた。
「ねえ、シオンくん」
「ん?」
「怒ってる?」
「なんで?」
「その、サクラを帰らせたこととか。もしかして、私と二人きりになるのが嫌だったんじゃないかって」
「……たまに思うけど、イズモさんって本当に面倒くさいよな」
「なんだよ、それ。そんな言い方しなくても」
「イズモさんって、見た目はクールでくせに、中身は意外と繊細なんだよな。まあ、怒ってるかって言われたら、別に怒ってないよ。イズモさんが俺のことを思って動いてくれてるの、ちゃんとわかってるから」
「そっか。それなら──」
「でもな、点数もらったからってすぐ調子に乗って、さらに踏み込もうとするのは減点対象だぞ」
「心を読むのやめてくれない?」
「いやいや。そんな面倒なこと、俺はしないよ。ただ、イズモさんの行動パターンなら、もうだいたい把握してるだけさ」
「つまり、私たち、心が通じ合ってるってことね。まあ、こんなに長く一緒にいたら、当然か。私にもいいところ、あったみたい」
イズモはどこか嬉しそうに、笑いを堪えながら口元を緩めた。
そんな彼女を見て、俺は思わずため息をついた。
「まあね。でも、せめてその時折漂ってくる童貞臭だけは、何とかしてほしいな」
「シオン君って、たまに容赦ないよね」
「いやいや。俺がそんなこと言うの、イズモさん限定だから」
「え?」
「そんな嬉しそうな顔しないでよ。まったく……。いい加減、無駄話は終わりだ。ほら、整理終わったぞ」
「……ねえ、シオンくん」
「ん?」
「さっきサクラが言ってたけど、シオンくんって婚約者いるんだよね」
「うん」
「どうやって知り合ったの?」
「うーん、別に特別な出会いとかじゃないよ。普通に、幼なじみってだけ」
「そっか」
「ていうか、そのくらいのこと、イズモさんもう知ってたでしょ。急にどうしたの?」
「何でも。ただ、ちょっと確認したくなっただけ」
「ふーん?」
「んで、この前の配信でも言ってたよね。犯人は本命のために練習してるんじゃないかって」
「ああ、言ったな」
「私、その推論、当たってると思う。被害者たちの質を見ても、たぶん彼女の本命って、普通じゃ手が届かない高嶺の花なんだよ。だから必死で練習して、自分を釣り合う存在にしようとしてる。……手段はともかく、その気持ちは、なんとなくわかる気がする」
「そうかもな……彼女?」
「ん?犯人、女の人でしょ?ターゲットが少年ばっかりだし」
「そう言われると……まあ、可能性はあるけどな。ただ、生物学的に断定できる証拠はまだない。現場には毛髪も、抵抗の跡も、体液の類も残されてないし」
俺が答えると、イズモはふっと目を細め、メガネを押し上げながら俺を見た。
「あのような行為は、彼女が求めない。もちろん、そういう関係も悪くないけど、それがゴールじゃないの。犯人が求めてるのは、一瞬の快楽なんかじゃない――いや、違うな。本当は、『相手とひとつになる』っていう体験を、たかが練習台で無駄にしたくないんだろう。それはきっと、本命との、本当の意味での結合に取っておきたいんだ」
「イズモさんの推論って、いずもロマンティックだな」
「まあ、結局は私の想像にすぎないけど。本当は、犯人もそこまでロマンチックじゃないかもしれないし。でも、たぶん八九割方、当たってると思うよ。私の直感が、そう言ってる」
「それって……イズモさんの経験から?」
「そう」
「じゃあ、参考にはさせてもらうよ。さっきサクラが言ってた情報とも矛盾しないしね。つまり、特殊なサービス店を出入りして、男性の被害者を物色していたのは──女の可能性があるってわけか……すごい変態だな」
「そりゃ変態でしょ。あんなことする時点で、まともなわけないじゃない」
イズモはじっと俺を見つめた。
「ねえ、シオンくん。気づいてないみたいだけど──無意識のうちに、君は奴らを『理解できる存在』だと捉え始めてる。でもね、統括AIが完璧に福祉を管理して、救済措置も万全なこの社会では──生きるために犯罪に走る必要なんて、もうないんだよ。奴らは、やむを得ずではない。望んで、そうしているんだ。」
「……」
「確かに、奴らには奴らなりの行動原理や理論がある。でもそれは、あくまで異常であって、正常な社会とは断絶してるものよ」
イズモは、真っ直ぐ俺を見据えた。
「だから、気をつけて。慎重にならないと──いずれ、シオンくん自身が『人』として死んじゃうかもしれない。これはね、一度死んだ人間の経験談よ」
嘲るように、悟ったように、そしてどこか心配そうに。
病的な美しさを持つ彼女は、その病的な笑みを浮かべた。
「はあ……イズモさんって相変わらず謎かけと焦らしが好きだよな」
「かっこいいでしょ?」
「まあ」
「なにその、曖昧な態度」
「いや、わからなくもないっていうかさ。女のロマンってやつ?でも、まあ」
「あ~~あ。シオンくん、それアウト。ちょっと今、心が傷ついたから」
「はは。やっぱりイズモさんって、いつも面白いよな」
半空に漂うデータブロックをイズモに放り投げ、俺は大きく伸びをした。
時計をちらりと見ると、すでにけっこう遅い時間になっていた。
「じゃあ、俺はそろそろログアウトするよ。明日は、新しい線を追ってみたいし」
「はいはい。またね」
ログアウトした俺は、自分の部屋に戻った。
見慣れた天井、薄暗い室内。
デバイスを外して、ベッドの上でごろりと体を転がす。
イズモやサクラの言葉を思い返しながら、俺は、夢の中へと沈んでいった。
そして──
「おはようございます、シオンさま」
目を開けると、すでに朝の光が差し込んでいた。
「おはよう、イマリ」
欠伸を噛み殺しながら、俺はイマリが差し出してくれたコーヒーを受け取る。
「俺が寝てる間に、何か新しい情報はあった?」
「はい。匿名の情報がアップロードされました。新たな事件現場が発見された可能性があります。警察はまだ気づいていません。今向かえば、取材には問題ありません」
「よしっ」
まだぼんやりしていた脳が、その一言で一気に覚醒し始めた。
心臓の鼓動が速くなり、血がざわめく。
期待と恐怖が入り混じった感情が、脳を支配していく。
「案内してくれ、イマリ。最速で――現場に向かうぞ」
◇
俺は、街の中心から遠く離れた、朽ちかけた教会へと足を踏み入れる。
「こんな廃墟みたいな場所が、まだこの街に残ってたなんて、知らなかったよ。ねえ、イマリ」
「無理もありません、シオンさま。この区画は昔の再開発区域でして、もう何十年も前の話です。現在の市街地は、もともとこの辺りから移されたんですよ。統括AIがこの地域の更新プランをまだ計画中ですが、歴史的価値もあるため、実行方法の演算には時間がかかっているようです」
「へぇ」
……よくもまあ、こんな雰囲気バツグンの場所を選んだもんだ。あの犯人、なかなか凝ってるじゃないか。
まだ近づいてはいないが――あの大きなガラス窓の前に横たわる祭壇。あそこにいるのが、今回の被害者だろう。
けれど、俺の直感が告げていた。今回の「作品」には、何かが違う。
「アイツ、腕を上げたな。それに……この場所に残ってる『香り』が、他と違う気がする。パートナーは?」
「こちらに」
イマリに導かれ、俺は教会の一角へとたどり着いた。
そこには、いつものように、歪み、破壊されたパートナーの残骸が薄暗がりに横たわっていた。
まるで祭壇に横たわる被害者と、意図的に対比を成すかのように。
俺は軽く肩をすくめながら、続けた。
「適当に現場の写真を撮って、データモデルを作成したら、引き上げよう」
「了解です」
イマリは周囲のスキャンを始め、データベースの構築に取りかかった。
俺は一人、祭壇へと足を踏み出す。
花の香りには、どこか鉄錆の匂いが混じっていた。古びた絨毯の上を踏みしめながら、光が差し込む祭壇の前へと歩みを進める。
彼は――そこに置かれていた。
仰向けで眠るように目を閉じた少年。青ざめた顔には、唯一、唇だけが紅く彩られている。
年の近い、まさに咲き誇る年頃の美しい少年。まるでドライフラワーのように、その美しさのまま保存された紅顔の遺骸。
俺の心臓が跳ね、呼吸が浅くなる。
その穏やかな寝顔を見つめながら、ふと、幼い頃の自分が重なって見えた。
まるで、ここに横たわっているのが――俺自身のようだった。
「ふぅ」
考えすぎだ。
すでに過去のことだ。時は流れ、俺はもう、あの頃の無知な子供じゃない。今も、思い出に浸る時じゃない。
ブーケをそっと横にずらすと、やはり。少年の胸元には、きれいに穿たれた穴があった。
薬指は──まだあった。
……ああ、そうか。
やっぱり。
もう一人の奴は、まだ来ていない。
これまでの事件では、遺体はどれも密閉された、隠された空間で見つかっていた。だが――今回は違う。窓のある、開けた場所。まるで……隠す気がなかったみたいに。
「……見せたかったのかもな。誰かに」
「そうですか?でも、ここはかなり外れた場所です。通る人なんて、まずいません」
仕方は今までよりずっと派手だ。まるでこの「作品」のために全ての心血を注いだかのような丁寧さ。だけど、この辺りは市街地からも遠く、警察がすぐに気づけるような場所じゃない。もし見せびらかすつもりだったのなら、普通なら発見される頃には骨になっているだろう。
――待て。
「イマリ」
「はい、シオンさま」
「今回は、どうやってここを突き止めた?」
「それは……ネット経由で、匿名の通報を受け取りました」
振り返ってそう答えたイマリの目が、突然見開かれる。彼女は素早く懐へ手を差し入れ、拳銃を抜いた。
「――伏せてください!顔を隠して、シオンさま!」
カシャッ。
銃声の前に、シャッターのような音が聞こえた。
「っ」
イマリが発砲し、俺の背後、祭壇のガラスが砕け散る。
煙を上げながら落ちた小さな装置。それは、一目で正体がわかった。
「……ステルスドローン!」
「シオンさま!私の後ろへ!」
とっさに襟を立てて顔を隠しながら、俺はイマリの指示に従い窓から距離を取る。彼女は袖から小さな球体を投げ、空中で煙幕を散らす。
そして地面に転がったドローンにもう一発撃ち込んでから、踏み砕いた。
「……撮られたか?」
「恐らく。幸い、このドローンは通信機能を持たない自律型です。まだデータは送信されていないはず。ですが――」
「ああ、撤退しよう。援護を頼む、イマリ」
「わかりまし……っ!熱源反応!これは――!」
いつも冷静なイマリの顔に、明らかな動揺が浮かんだ。
「敵性武装を確認!識別コードなし!データベースに未登録!サイボーグです!」
「……罠か。でも、誰を釣ろうとしてる?これは、自分の『作品』を刈り取っていくもう一人の犯人をおびき出すために仕掛けられた、罠か?それとも――」
「っ!考察は後回しでください!交戦は避けられません!」
隣にいたイマリの体から、何かが高速回転する音が響き出す。灰色の瞳が青く輝き、周囲を睨みつけながら、青白い雷光が全身を奔る。彼女の体が変形していく。
「プロトコルに基づき、状況を最危急と認定。マスターの生命安全を最優先とし、本機、制限解――」
「バカ。何かあればすぐ制限解除で解決しようとする。そのアホさ、相変わらずで笑えるわ」
大気が揺れた。少女の嘲笑と共に、何かがイマリを直撃した。
「ぐあっ!」
まるで急に呼吸ができなくなったかのように。あるいは、喉を絞められたかのように。イマリの動きがピタリと止まった。ビクンと痙攣し、火花を散らしながら、彼女は煙を上げてその場に膝をついた。
「イマリ!」
カッ、カッ、カッ。
背筋に冷たい汗が流れる中、俺は振り返る。
黒。
目に飛び込んできたのは、漆黒の存在だった。黒髪。黒い瞳。黒の古風な学生服。黒の中にある色といえば、少女の白い肌と、唇に差された紅だけ。
革靴の音。
少女は、一歩ずつ、俺の方へと歩みを進めてくる。
俺は体を動かせなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、全身から冷や汗が噴き出す。
少女は俺のすぐ目の前、数歩の距離で立ち止まった。
暗い瞳がゆっくりと倒れたイマリを見下ろし、鼻で笑った。
「使えない人形ね」
そう言って、少女はゴミに興味ないかのようにイマリを跨ぎ、俺の前まで来る。
「……」
「……」
少女の昏い瞳が、俺の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。
俺も、視線を外さずに見返す。
その瞳は底なしで、まるで奈落のような闇だった。見つめるだけで、自分という存在が吸い込まれそうになる。
「ふふっ」
彼女が笑った。
気がつけば、少女の冷たい指先が俺の頬をなぞり、左手をそっと握ってきた。
彼女からどこか懐かしくも正体のわからない香りが漂っていた。
「久しぶりね、あなた」
「……久しぶりだな。カオル」
少女はさらに深く笑んだ。彼女――我が婚約者は、俺の頬にキスを落とした。
◇
もし「大戦」によって人類の社会制度に何か顕著な変化があったとすれば――
行政機関の多くが、高効率かつ合理性を備えた統括AIに置き換えられたこと。男性を守るため、統括AIは高性能な護衛──つまり、パートナーを配備した。そして、それに並んで大きかったのが……婚姻制度の改変だろう。
男性の数が著しく減少した結果、重婚が奨励されるようになった。そして、自分の血を後世に残すため、女性たちはあらゆる手段を講じ、いち早く男性と婚約を結ぼうと奔走する。
まるで中世に逆戻りしたかのように、生まれる前から決まっている婚約が、再び当たり前のように存在しているのだ。
場合によっては、男の子がこの世に生を受ける前から、すでに複数の婚約者が決まっていることすらある。
……考えてみれば、ちょっと怖い話だよな。
俺も無関係ってわけじゃない。
なぜって、今、俺のすぐ隣にいるのが、まさに俺の婚約者なのだから。
優雅にグラスを傾けるその姿まるで一枚の絵のように洗練されていた。指先の動き一つ、視線の流し方に至るまで、上流階級のお嬢様らしさが滲み出ている。
それもそのはずだ。この少女の出自は、決して凡庸なものではない。
もし、この都市にまだ「権力」というものが存在するとするなら、彼女の一族は、間違いなくその頂点に名を連ねるだろう。
行政の多くは統括AIに任されているが、立法や司法には、今でも人間の意志が介在する。そして政府機関を除けば、この社会で最も強い力を持つのは、財閥。
財閥は莫大な演算通貨を保有している。つまり、AIの演算リソースそのものを握っているということだ。もし彼らが資金の供給を止めれば、この都市のあらゆるシステムが一瞬で停止しかねない。
もっとも、そんな馬鹿な真似をするはずもない。
奴らにとっても、この都市の存続は自らの利益に直結しているのだから。
――俺の幼なじみであるカオルは、この都市最大の財閥の令嬢だった。
あの廃墟の教会で包囲されたあと、屈強な護衛たちに守られながら、俺はこの、いかにも高そうなホテルへと運び込まれた。
パートナーが倒された俺には、もう抵抗する術なんてなかった。
おとなしく従うしかなかったんだ。
俺の視線に気づいたのか、我が婚約者は、昏い黒き瞳をこちらへ向け、そして、ふわりと微笑んだ。
「なに?」
「なんでもないさ。ただ、カオルが元気そうで……嬉しいなって思っただけ」
「ふふっ。だって、久しぶりにあなたに会えたんだもの」
蛇のようにしなやかに、少女の手が俺の腕へと絡みつく。
「この間は……あの、配信?っていうやつでしか、あなたの声を聞けなかったけど。こうして近くで、あなたを感じられるのは……やっぱり全然ちがうね」
少女の体温がじわじわと上がっていく。
鼻腔をくすぐる甘い香り――彼女の体が、まるで溶けるように俺に密着してくる。
耳元に鼻先を寄せ、カオルの熱を帯びた吐息が、肌を撫でる。
その手は、するりと俺の太ももの内側へと滑り込んできた。
俺は思わず、眉をひそめる。
「ねえ」
少女が耳元でささやく。その声は、火照った空気をまとっていた。
「今夜、泊まってって?」
「……悪い。まだ仕事があるんだ」
「んん~?そんなつれないこと言わないでよ。久しぶりに会えたのに」
甘ったるい声。
少女の指先が、俺の太ももの内側をなぞりながら上へと這い上がってくる。
俺はその手首を掴んで、動きを止めた。
「――自重しろ。お前の部下たち、まだ近くにいるだろ」
「見せてあげればいいじゃない。あなたは私のものなんだから。いくら羨ましがっても、どうにもならないでしょ?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、場所を変える?」
「……いや、そういう意味でもない」
「えー? ダメ?」
「甘えても無駄だ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ちょっとだけでもダメだ。俺たちは確かに婚約者だけど、正式に結婚したわけじゃないだろ」
「一緒じゃん。あなたはもう私のものだもん」
「ダメ」
「……防御が堅いのは相変わらずね」
カオルはふくれっ面になりながら、ふわりと俺にもたれかかってきた。
そのまま、胸元に顔を埋めるように体を預けてくる。
「ふふ……でも、これくらいがちょうどいいのかも」
カオルは俺の胸に顔を埋めたまま、大人しくなった。
ようやく俺にも、ひと息つく余裕ができる。
小さくため息をついてから、周囲の様子を改めて確認することにした。
仲間の姿が、どこにも見当たらなかった。
「なあ」
「んん~?」
「イマリ――俺のパートナーは、どこへやった?」
カオルは顔を上げて、ぷいっと不満げに唇を尖らせた。
「あの役立たずの人形?技術班に預けたわよ。ああ見えても、あなたが愛用してる物なんでしょ? シオンが怒るのはイヤだもん」
「……そうか」
俺はほっと息をついた。だがその瞬間、ミオは不機嫌そうに眉をひそめる。
「あんな使えない機体、早めに処分した方がいいわよ。あんなの連れてたら、いつか本当に危ない目に遭うわ」
「そうか」
最近、似たような忠告ばかり聞いている気がする。
「それより、もう外で一人暮らしなんてやめて、こっちに来なよ。あの人形に世話させるくらいなら、私が全部管理した方が絶対にいい。配信みたいな大変な仕事も、あなたが無理してやる必要なんてないの。全部、私が代わりにやってあげる。だから――あなたのすべてを、私に委ねて?」
少女の体温が、またじわじわと上がりはじめる。
寄り添ってくるその体はたしかに柔らかい――けれど、俺にはそれが、まるで蛇にきつく巻きつかれているような錯覚を覚えさせた。
「あなたは、ただ気持ちいいことだけを、考えていればいいの、ねっ」
「はあ?そんなの、まっぴらごめんだ」
「えぇ――」
「わがまま言ってもムダ」
「むぅ」
「甘えても、可愛くしてもダメ」
「じゃあ、ほんのちょっとだけ……」
「だからさ」
「だって――」
「ダメだ。そういうのは……もっと先の話だ」
そう。
それは、その時が来たらの話だ。
俺は、今は……考えたくもない。
だけど、カオルの受け取り方は違ったようだ。
「ふふっ」
少女が笑う。獣のように、獰猛で。
「……」
言葉が詰まる。反応できない俺を見て、満足げなカオルは少しだけ距離を取った。その昏い瞳に、今度は光が宿っていた。
「いいわ。焦らされるのが好きなら、とことん付き合ってあげる。お酒だって、熟成されるほど味わい深くなるんだし」
「そうかもな」
「ええ。そこまで泊まりたくないって言うなら……今夜は寂しいけど、しょうがないわね。でも、あの人形がいないと、あなた外に出られないでしょ? 修理が終わるまで、もうちょっとおしゃべりしていってよ」
「別にそれは構わないけど。代わりに、俺にセクハラしないって保証できる?」
「……」
「おい」
「ふふっ。冗談よ、冗談」
「はあ」
カオルは肩をすくめて、俺のグラスに飲み物を注いだ。だが俺は、口をつけるふりだけして――中身を、そっと飲まずに置いた。
「どうせ話すなら、単刀直入に聞くぞ」
「んん~?」
「……なんでカオルが、あそこにいたんだ?あのウェディング・マーチの犯行現場に」
「あら」
まるで何でもないことのように、少女はグラスの中の飲み物をひと口。
それから、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。奈落のようなあの瞳は、何ひとつ色を変えず。
「そんなの、全部あなたのために決まってるじゃない」