第2話 動機
かつて勃発した大戦は、この世界をほぼ滅ぼしかけた。
敵対していた政権はすべて消え去り、天災のような戦乱が人々に平等に降り注ぎ、不平等を拭い去る代わりに、平等な「死」をもたらした。
そして、当時濫用された核兵器の影響により、人類の男性出生率は激減した。それでも過酷な環境下で生き延びた女性たちは、肉体的な耐性や免疫力の面で進化的な強化を遂げていた。
壮絶な戦争の果て、生き残ったわずかな人々は、忠実な人工知能たちの手を借りて新たな暮らしを築いた。
新たな楽園では、人々はもはや生存をかけた争いを必要としない。
衣食住、教育、娯楽に至るまで、すべてロボットが仕えてくれる。
戦時が地獄だったとすれば、今こそが天国なのだろう。
だが、いかに統括AIが優秀であろうとも、犯罪だけは、どうしても消し去ることができなかった。
どれほど精密な心理カウンセリングが施されようと、どれだけ徹底された予防プログラムや検察システムが存在しようと、犯罪という行為そのものを完全に止めることはできなかった。
そして、俺のチャンネルのフォロワー数が増え続けている事実が、人々の多くが「罪」に対して少なからず興味を抱いていることを示している。
「……結局、人ってそういうもんなんだろうな」
所詮は人間。刺激や非日常に憧れてしまう──俺も、例外じゃない。
見てごらん。
暴力と血にまみれた、黒い香りの甘美さを。
「強き光に焼かれた影にこそ、こぼれ落ちた真実がある。初めまして。そして、久しぶり。俺はシオン、夜の語り部。闇を裂き、真実を拾い上げる時間へようこそ。共犯者諸君」
ウインクすると、視界の端では拡張モニターに映るコメントと投げ銭が高速で流れ続けていた。俺はそのまま、仮想空間の部屋の中心へと足を進める。
イマリは無言で横からホワイトボードを押してきて、それをセットすると、恭しくマーカーを差し出してきた。
俺が指を鳴らすと、空中には無数の映像クリップと写真が次々と投影された。
「さて。マシュマロ質問コーナーに入る前に、今回の物語の主役を、もう一度おさらいしておこうか。狙うのは美少年ばかりの連続殺人犯――ウェディング・マーチ」
俺はホワイトボードに丸を一つ描き、その中に今回のターゲットの名前を書き込んだ。そして、そこから下に線を引き、時間軸として整理していく。
「最初の犯行は、今年の年明け。犠牲になったのは、当時わずか十二歳の少年だった。事件は当時、かなりの騒ぎになった」
浮かぶ写真の一枚を手でつかんで、拡大表示する。
画面には、多少ぼかし処理がされた画像――
新郎衣装をまとい、花束を抱いてベッドに横たわる少年の姿があった。
「致命傷は心臓への銃撃。ただし、発見された場所は犯行現場じゃない。証拠から見て、殺害後に運ばれてきたものと推定されている」
タイムラインの横に、俺はこう書き加えた。
「警察のデータベースによれば、被害者の体内からは規制対象の麻酔薬が検出されてる。ウェディング・マーチは、少年を着飾らせ、美しく整え、処刑した」
俺は時間軸の上に、事件ごとのポイントをひとつずつ書き込みながら、丸でマークしていく。
「だけど、ウェディング・マーチは、最初の作品だけじゃ満足しなかった。あいつは次々と犯行を重ねていく。その手口は、回を追うごとに洗練されていった」
そう言いながら、俺は処理済みの現場写真を何枚も貼り出していく。
映し出されたのは、いずれも違うポーズで横たわる少年たち。
皆、新郎衣装をまとい、命を失って――美しく飾られていた。
「それから――被害者たちには、着飾られていた以外にも、いくつかの共通点がある」
俺はリスナーに向かって、ほんの一瞬、沈黙した。
そしてゆっくりと手を上げ、自分の左手の薬指を強調するように見せつける。
「彼ら少年たちは全員、婚約者がいた。それを象徴するように――犯人は彼らを殺すだけでなく、婚約の証として指輪をはめるはずだった『左手の薬指』を、切り取っていたんだ」
俺はあえて黙ったまま、ゆっくりと観客たちに歩み寄る。
そして、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「諸君。お前らは、犯人の気持ちがわかるか?」
一秒、二秒、三秒。
俺は何も言わず、ただ静かに視線を向けた。
まるで、沈黙そのものが問いになっているように。
視線はリスナーの奥を探るように、じっと刺す。
やがて視線をそらし、何事もなかったかのようにホワイトボードの前に戻る。
そして太字で書いた。
――動機は?
「さて、ここからが本題だ。賢い諸君……あるいは、犯人の行動にどこか惹かれてしまったお共犯者諸君。ウェディング・マーチが、何を思ってこの連続殺人に踏み切ったのか。その動機についての推理を、マシュマロで送ってくれ。この場でランダムに選ばせてもらう」
視界の端には、コメント、絵文字、投げ銭が途切れることなく流れていく。
イマリが差し出した仮想の抽選ボックスに手を入れ、俺は一枚の紙を引き上げ、そのまま読み上げた。
「『シオンたんかわいすぎて、さっきのガチ恋距離で心臓がバクバクしました』……ありがとな。でもこれは事件の推理じゃない」
かみきれを軽く放り、俺は次の一枚を引き上げる。
「どれどれ……『初マシュマロ失礼します。今回の犯人は男性に敵意を抱いている人物だと思います。社会における男性の優遇に不満を持ち、それが犯罪行動機に繋がったのでは』……なるほど、悪くない視点だ。憎しみが動機って線なら、確かに筋は通る」
そう言って、その意見をホワイトボードに書き記す。続けて、もう一枚。
「次――『病的な愛、もしくは収集癖』……ふむ、これも面白いな。意外と核心に近い可能性があるかもな」
ひとつひとつ、読み上げては記録していく。
『変態的なショタコン。完全にイカれてるヤツ』
『でもさ、被害者は全員婚約者持ちなんだよね。……なんか、エロくない?』
『愛だろ。じゃなきゃ、わざわざ礼服と花束まで用意する理由がつかない』
『本当の目的はパートナーへの攻撃かも。男の子たちはついでだったりして。実際、パートナーを潰した記録もあるし』
マシュマロが増えるたび、ホワイトボードには単語やフレーズがどんどん埋め尽くされていく。ついに書ききれなくなったところで、最後の一枚を引き上げ、俺はゆっくりと開いた。
そして、そのまま読み上げる。
――『シオンさまも、ああやって飾られてほしい』
瞬間、コメントが二倍、三倍の速さで流れ始める。
罵倒、警告、動揺――あらゆる感情が言葉となって、洪水のように画面を埋め尽くしていった。
暴れ出したチャットを前に、俺はただ、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ありがとう」
俺はマーカーのキャップを静かに閉じた。
それだけで、仮想空間に響いた「パチン」という音が、リスナーたちの過熱した心を一瞬だけ冷やした。
「じゃあ、俺の推理を話そうか」
黒板に二つの丸を描き、俺は、リスナーたちに向き直った。
「ウェディング・マーチっていう奴は、実は二人いるんじゃないかってこと」
ざわつき始めたチャット欄を横目に見ながら、俺はさらに自分の想像を語り続けた。
「これだけの現場を見てきたけど、どうにも違和感が拭えないんだ。俺のパートナーの分析によると、被害者たちの薬指は、どうやら後から切り取られたらしい」
俺は思い返していた。直前の犯行現場のことを。
被害者は白い手袋をしていた。けれど、それごと切り落とされていた。しかも、血がべっとりとついていた。
どうにも、後から切り取られたようにしか思えない。
俺なら、もし手袋をはめるとしたら、血が乾いたのをきちんと確認してから作業を終えるはずだ。
それに──俺の推測が正しければ、本来、あの「舞台」の焦点は、胸元の銃創と、手に抱えたブーケだったはずなんだ。
「遺体の状態から考えると、まず最初に一人目の犯人が、被害者を飾り立てて殺害して、そのあと、別の誰かが現場に来て、指を持ち去った……そんなふうに思えるんだ」
心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
アドレナリンとドーパミンが血液に混じり、体中を駆け巡る。
「でもさ、もし本当に二人目がいるとしたら──その動機は何なんだろう?共犯なのか、オマージュなのか、それとも、わざと現場を汚そうとしてるのか」
俺はあえて沈黙を置いた。
時間を稼ぎ、その間に皆の感情を発酵させるために。
そして、唇を軽く舐め、大胆に俺の推論を口にした。
「俺は思うんだ。これまでの作品はすべて──たった一つ、一生に一度の本命を手に入れるための練習だったんじゃないかって」
声に力を込める。
「技術を磨き、試行錯誤を繰り返す。すべては、ただ一人──唯一無二の『恋』の相手に辿り着くために。だから──愛するたった一人のために、腕を磨くために。『ウェディング・マーチ』は、これからも犯行を続けるだろう。命を積み重ねて、恋の歌を紡ぐように」
あえてチャット欄には目を向けず、俺は笑顔を作って、リスナーたちに向き直った。
「じゃあ、本命に辿り着くまでに、この犯人はあと何人の犠牲者を生み出すんだろうな。それに、被害者たちの薬指を奪ったあの存在は──どんな心を抱えているのか。……その答えは、まだ、これから明らかになる」
余韻を残すように、そして熱を途切れさせないように。
俺は少しだけ声のトーンを落としながら、視聴者たちに静かに別れを告げた。
「では、本日の配信はここまで。たくさんの投稿、ありがと。次回の配信は、スーパーチャットの朗読と雑談の回だ。お楽しみに──強き光に焼かれた影にこそ、こぼれ落ちた真実がある。深くて黒い、次の夜に。次回の物語でお会いしましょう、我が共犯者たち」
指をひとつ鳴らす。
配信のストリームは、切断された。
配信の余韻に浸っていたのも、ほんの数分。
俺の拡張現実視界に着信の通知が現れた。
発信者は――イズモだ。
「シオンくん、配信お疲れさま」
「イズモさん?どうかした?」
「ごめん、休んでるところ悪いんだけど。この前も言った通り、審査を手伝ってほしいの。書類のフォーマットチェックはもう終わったから、次は個性のある新人をピックアップする作業よ。時間は予定通りだから、そのときはよろしくね。サクラも一緒にいるわ」
◇
予想以上の重労働に、俺は心の中でイズモの無茶なスケジュールを呪った。
その場に他の人がいなかったら、俺はきっと、イズモに延々と文句を言っていただろう。
こういうとき、小規模事務所ならではの人手不足の問題が、はっきりと浮き彫りになる。
──まあ、イズモがこの辺を何とかしてくれることを、期待するしかないか。
仮想空間の仮想会議室で、俺は面接者のデータを閉じた。
「お疲れさまです、先輩」
澄んだ、柔らかくて、あたたかみのある声。
声をかけてきた相手に顔を向けると、自然と微笑みがこぼれる。
「ああ。サクラもお疲れ」
そこに立っていたのは、まるで良家のお嬢様のような女だった。
両手を重ね、たおやかな微笑みを浮かべている彼女――俺の後輩、サクラだった。
思っていたよりも、ずっと多くの応募者が集まっていたのだ。
たった十分間で、それぞれの応募者の特徴を把握し、強みや特技を見抜こうと必死だった。
想像以上に時間も気力も削られたせいで、今は少し頭がぼうっとしている。
なのに、目の前の後輩は、俺と同じだけ時間を使ったはずなのに、まったく疲れた様子も見せず、端正な姿勢を保ったままだった。
その体力には、思わず感心してしまう。
──いや、違う。
ここは仮想空間だ。本体の彼女は、もしかしたら疲れてぐったりしているかもしれない。
それに、そもそも俺は、目の前で親しげに話しかけてくるこの後輩の「本当の姿」を知らない。極端な話、実際に女性かどうかすら、わからないのだ。
それは、俺たちの事務所の方針に関わる話だからだ。
うちの事務所は、タレントの身元に関してはかなり寛容だ。
基本的に、名前と演算通貨を振り込める口座さえ用意できれば、登録できる。
それ以上の個人情報は求められない。
性別すら、各タレントの自己申告に任されている。
声とパフォーマンスで人を惹きつけ、配信ノルマさえ達成できれば、中の人の事情には一切干渉しない。
実のところ、今はAI加工技術が進みすぎて、本人の真偽を見抜くのが難しい時代だ。
そんな背景もあって、他の事務所でも似たような方針を取っている。
ただ──うちの社長は、その中でも群を抜いて過激だった。
イズモ社長の話によれば、この事務所を立ち上げた目的は、「特別」な経歴を持つタレントたちを集めることだったらしい。
この「特別」という言葉に、イズモ自身の犯罪嗜好が加われば──当然、ここに集まる面々も、どこか常軌を逸した過去を持つ者ばかりになる。
うちの箱のウリは、そんな危うい香りをまとった配信内容だ。
たぶん、ここじゃなかったら、俺みたいにグレーゾーンをギリギリで渡り歩くような配信なんて、到底許されなかっただろうな。
だから、目の前にいる後輩――サクラも、結局は虚像に過ぎない。
だけど、俺にとっては、それでもいい。
たとえ虚像だったとしても、きちんと向き合って、うまくやっていきたいと思えるから。
誰が決めたんだろう。バーチャルな姿の奥に、本物の心を隠しちゃいけないなんてさ。
ここは、そんなふうに、誰もが心に抱えた闇を受け入れてくれる場所なのだから。
「どうだった? サクラ。気になる新人はいた?」
「うーん、そうですね。ちょっと気になる方は何人かいました。今回の応募者さんたち、すごく才能にあふれてて……。私、なんだか自分が見劣りしちゃって、追い越されそうで怖いです」
「そうか? 俺は、確かに悪くないと思うけど……なんというか、どこか物足りない気がしたな。うちの箱特有の、あの『匂い』が足りないっていうか」
サクラは苦笑した。
「先輩が言うその『匂い』、特徴っていうか……不幸っていうか。確かに、うちだけのものですね。業界を見渡しても、タレントたちに秘められた『裏』をウリにしてる事務所なんて、たぶんうちだけですよ」
「ああ。イズモさんは変態だけど、その辺の見極めはマジで上手い。普通だったら、問題児ばっか集めてまともに運営なんてできるわけないからな。ほら、噂になったこともあるだろ?本物のヤンデレだけ集めて開店したヤンデレメイド喫茶、全員マジモンすぎて一瞬で潰れたって話」
「そんな噂、聞いたことあります」
「だろ? そう考えると、やっぱイズモさんは褒めるべきだよな。変態だけど、経営の手腕は一流だ」
「……二人とも、人が忙しくしてる間に好き勝手言ってくれて」
ため息交じりに、仮想空間の少し離れたところで、イズモが半眼になりながら大量のデータを空中に展開し、分類作業を続けていた。
「でも確かに、シオンくんが言った通り、今回の応募者たちはちょっと真面目すぎるかもね。うちの事務所の方針とは、少しズレてる気がする。やっぱり、もう少しユニクな子が欲しいなあ」
「そういうこと言うから、うちら業界で『混沌のゴミ捨て場』なんて呼ばれるんだよ、イズモさん」
「どうでもいいわよ。バカたちに好きに言わせておけばいい。私はただ、自分の美学を貫きたいだけだから」
イズモは肩をすくめながら言った。
「それより、早く手伝ってよ、シオンくん。サクラもね」
「わかりました」
「はいはい」
俺とサクラは、再び作業に取りかかり始めた。
そんな中、サクラがふと思い出したように口を開く。
「そういえば、先輩って、今『ウェディング・マーチ』の事件を追ってるんですよね?」
「ん?ああ。今、そいつについて調べてるところだ」
「そっか」
サクラはふわりと微笑んだ。
どこか嬉しそうなその表情に、俺が意味を探る間もなく、彼女は続けた。
「実は、その人に関して、私もちょうど耳にした話があって。せっかくだから、先輩にも共有しようと思って」
「おお、頼む」
「常連のお店で知り合った男の子が話してたんですけど……最近、サービスをしてる子たちの間で、あまり良くない噂が広まってるみたいです。なんでも、あるお客さんに会った後、姿を消す子が出てきてるとか」
「へぇ?詳しく聞かせてもらおうか」
「はい。私の知り合いの男の子の、さらに友達の、そのまた友達って感じの話なんですけど……その子たち、特定のお客さんと会った後に行方不明になって、再び見つかった時には、すでに『ウェディング・マーチ』の作品になってたそうです」
「それは興味深いな」
俺が感心すると、サクラは静かに頷いた。
「はい。噂によると、『ウェディング・マーチ』は、いろんな店を回って男の子を物色してるらしいんです。気に入った子がいたら、攫っていくみたいで」
「なんでそんな噂が立ったんだ?犯人の特徴が目立ってるってこと?だったら、すぐに指名できそうなもんだけど」
「はい、目立つといえば目立つんですが……その人、店に来るとき必ず仮面をつけてるらしくて。顔までは覚えられないみたいなんです」
「なるほどな」
そこまで聞いて、俺はふと違和感を覚えた。
「待てよ。そもそも『ウェディング・マーチ』が狙ってるのって、婚約してる男の子ばっかりだろ?だったら、そういう店に通うのは矛盾してないか?」
「ああ……」
サクラは苦笑いを浮かべた。
「先輩、たぶん知らないと思うんですけど――意外と多いんですよ。そこで働いてる男の子でも、実は婚約してるってケース」
「マジか」
「ええ。ストレス発散のためにあえてそういう場所に飛び込む子もいるし、中には、自分を壊したくてわざとって子も。お金のためっていうより、もっと複雑な、歪んだ理由で」
「……そうか」
「だから、そういう店って意外と人気なんですよ。略奪愛みたいな気分を味わえるし、それに、婚約したばかりの男の子たちは、だいたい若いから……値段もどんどん跳ね上がるんです」
「なるほどな。つまり、そんな場所で被害者を物色できる『ウェディング・マーチ』って、ある意味、金持ちってことか」
「はい」
目の前の少女──サクラは、さっきまで話していた内容とは裏腹に、照れたような笑みを浮かべて頷いた。
「こんな情報でも、先輩の役に立てましたか?」
「ああ。いい線を突いてるよ。あいつら二人組の正体を探るうえで、かなり参考になった」
俺がそう答えると、サクラの眉がぴくりと跳ねた。
「……二人組、ですか?」
「ああ。俺は『ウェディング・マーチ』が二人組だと疑ってる」
「どうして、そう思うんですか?」
「痕跡を見ればわかる。あの『作品』たち、手口というか、美学がまるで違うんだよ。たとえば、一方は画家。もう一方はハイエナみたいなものだ。式場を模した現場、ブーケや傷跡まで丁寧に演出されてるけど──欠けた指と全体のコンセプトには、微妙なズレがある。まるで、誰かが心を込めて描いた絵を、別の誰かが勝手に上から塗りつぶしたみたいに」
「……なるほど。確かに、妙にしっくりきますね。さすが先輩」
「だろ?もちろん、まだ間接的な証拠しかない。でも俺は、二人組説を推してる。
で、さっきサクラが聞いた話では、目撃されたのは一人だけだったんだよな?」
「はい。目撃者の子が言うには、見たのは一人だけだったみたいです」
「そうか。まあ、別々の店で同時に物色してた可能性もあるし、あるいは、そもそも二人が直接の共犯じゃなくて──一人が『作品』を作り、もう一人が勝手に手を加えてるだけって線も捨てきれない。いずれにしても、次の配信で使うネタとしては十分だ。助かったよ、サクラ」
「いえ、役に立ててよかったです」
「……二人とも、随分と楽しそうにお喋りしてるわね。ほら、手が止まってるわよ」
「ごめんごめん」
俺は慌てて手を動かし始めた。
だけど、すぐに隣からの視線に気づく。
ちらりと横を見ると、サクラが微笑みながら、まっすぐ俺を見つめていた。
「サクラ?」
「先輩、さっき私が話したあのお店のこと……興味ありますか?」
「ん?急にどうした。まあ、興味があるかないかで言えば、あるかな。サクラが言ってた通りなら、あそこは『ウェディング・マーチ』が出没してるかもしれない場所だし。取材してみたい気持ちはある」
「それなら」
サクラは、そっと自分の胸に手を当てた。
「私が紹介しましょうか?私の紹介があれば、先輩も入れると思います。ああいうお店って、特殊な趣向を持ってるから、基本的に紹介制なんですよ。私、人脈はけっこう広いので」
「へぇ……でも、それって客としてってことか?あいにく、俺は男に興味ないんだ」
サクラは小さく首をかしげ、微笑んだまま両手を合わせた。
「もし、客としてに興味がないなら……別の立場で入るっていうのはどうですか?」
「え?」
「たしか、先輩も婚約者がいましたよね?」
目の前の後輩は、まるで日常会話でもするかのような軽い調子で、当たり前のように続けた。
「先輩になら、相場の百倍だって……いえ、私のすべてだって、差し出しても──」
「アアアアアアーーーッ!!!」
隣から、イズモが突然叫び声を上げた。
サクラの言葉はそこでぶった切られ、彼女は小さく眉をひそめたものの、何も言わずに肩をすくめ、また淡々と申請書類の整理に戻った。
「……はあ。イズモさん、いきなり叫ばないでくれよ」
俺が文句を言うと、イズモはまったく悪びれる様子もなく、空中に浮かべたデータの束を俺のほうへ押しやった。
「分担」
「はいはい」
「それから、シオンくんは今日、残業ね」
「はぁ?なんでだよ。それ、あんまりじゃない?」
「サクラは時間的にそろそろ上がっていいわ。残りは私たちで片付ければいい。君、今夜も配信の予定あるんでしょ?」
「……わかりました」
突然の追い出し宣言にも、サクラは顔色一つ変えず、微笑みを浮かべたまま、丁寧に一礼した。
「それでは、私はここまでにします。お疲れさまでした」
「うん。お疲れ」
「先輩もお疲れさまです。また何かあったら、遠慮せずに言ってください」
「ああ、わかってる。ありがとな、サクラ」
ログアウトの音とともに、サクラの姿はふっと消えた。