6.終わらない夜の歌と、星の巫覡
その日は、隣国のイグドラム国からの要請により、北の国境付近へ向かったとされる逃亡者の追跡に駆り出されていた。
不審な武装集団が、三觭獣の生息域である山脈を抜けた先にいるとの情報をもとに、中央から数千規模の人員が派遣され、山狩りと、近隣の村の避難誘導を行い、自分の隊は現在、運悪く避難途中で三觭獣に出くわして分断され、山中に取り残された者たちの救助に当たっていた。
要救助者のほとんどが子供たちだ。有鱗人や蛇足種は、子供たちが集まって行動し、その中の年長者が、年下の者達の面倒を見る習性がある。
隊の最年少で、一番の実力者でもあるウッパラは、子供たちのリーダーに、何故子度が隊服を着ているのかと、絡まれている。
紺色の長い髪に幼い容姿は、少女のように見えるだろうが、彼は国家元首の甥で三觭獣対策のために呼ばれたのだった。
ウッパラはその武器となる声を封じ、構う子供たちを鬱陶しそうに黙って眺めている。
有翼人のような声量や、広い音域をもつ舌構造ではないものの、特殊な器官によって発生させる波長により、三觭獣の脳からの身体への指示を一時的に分断することが出来る。
先に襲われた際も、ウッパラの歌によって三觭獣から逃げる時間を稼いだのだ。
とりあえず、山小屋に避難してきたが、三觭獣が付近を離れた隙を狙って、下山して安全圏に逃げるつもりで付近の様子を伺っていた。
地響きから、他の山へ移動したとは思う。だが、あの獣は基本的には温厚だが、怒らせると執拗に追いかけてきて、その方法が騙し討ちなど、狡猾であることが確認されている。
有翼人のように、空から確認できればいいのだが、ここにはナーガ族の隊員と子供たち、それと自分を含め二名のクールマ族の隊員しか居ない。
ナーガ族の隊員が空砲を喉から発し、跳ね返って来る音で三觭獣の位置を計ろうと試みるも、それらしい物体が特定できない様子だ。
近くに隠れ潜む生き物を温度で見つける事には長けているが、遠くを見渡す視力はそれほど良くないため、そういった索敵には向いていない。
山小屋へ戻ると中では、子供たちが騒いでいる。
「どうした? 何か問題か?」
「用足しに抜け出した、子供数人が帰ってこないようです」
子供たちのリーダーが、今にも外に飛び出さんとしているのを、隊員が止めている。
褐色の肌に、燃えるような金色の髪に瞳、蛇足部分も金色の鱗に覆われていて、頭部には既に角も生え始めている。南方に生息域があるナーガ族でもかなり強い力を持つ種で、この北側で暮らしている者は珍しい。
建物が傾ぐほどの揺れが起こり、子供たちの中に悲鳴が起こる。
隊員が幼い子供たちを守ろうと動いた隙に、リーダーの子供が山小屋を飛び出した。
「三觭獣はこの山にいるようだ、子供たちを連れ戻そう」
リーダーの子供が頻りに空砲を打ちながら、山中の道を躊躇いなく進んでいく。
応えがあるのか、分岐を迷わず進んで、やがて崖下の僅かな足場に子供が三人固まっているのを見つけていた。
子供に追いつき、崖下を覗き込む。
「よく見付けた。だが、勝手な行動はとるな」
「うるせえ! いいから早く助けろ」
牙を見せ威嚇音を発する子供。
「分かっている」
子供たちの臂力や脚力では這って上がることが難しい角度と高さで、取りつける木もない。大ナーガであれば、子供らを背に乗せて這って移動できるが、大ナーガに変態する種のウッパラも、まだその年齢に達していない。風魔法を用るにも、子供たちの存在している位置が微妙である。
直ぐに胴に紐を巻き付け、端を太い木に括り、他の隊員に持たせて崖の降下を開始する。
十数メートルを滑落したであろう子供たちの一人は気を失っているが、他は気丈に救難の叫びをあげていた。
まずは気を失っている子供を、紐で背中に括り付け、残りの二人を腹側にしがみ付かせ、子供たちの蛇足が上手く絡みついてきたのを確認し、垂直に近い斜面に足を掛ける。まだ角が生えていないのが救いだ。ナーガは雌雄ともに角が生えるため、腹に抱えると角が当たって、さぞかし痛いことになっていただろう。クールマ族の背中は堅強だが、腹はそこまで強度がない。
「隊長、急いでください! 高温反応が近づいて来ます!」
上にいる隊員たちの紐を引き上げる速度が増す。
振り返らずとも分かる、背後から強烈な威圧を感じる。
急いで崖を登り切り到達した先で、硬直した隊員たちの視線の先を辿る。
それは、思いの外近くにいた。
崖下からこの場所まで、闇が立ち昇り視界を覆うように黒い壁となって、突き出した獣の鼻先の奥の巨大な目が、太陽のように燃え滾ってこちらを見ていた。
子供たちが悲鳴を上げる。いや、その場にいた者すべてが叫んでいたかもしれない。
一番気丈だったのは子供たちのリーダーで、人の尻を蛇足を鞭のように撓らせて叩き、早くこの場を離れるようにと叫ぶ。
二人の子供を下ろして、一人をそのまま背負い、来た道を引き返す。
ウッパラが殿となり、リーダーの子供を押しやる。
「おい! ふざけんな! 逃げろよ!」
ウッパラは子供の声に首を振る。
黒い毛に覆われ、鼻先と頭部に合計三本の角を持ち、四足歩行の獣の前に立ち塞がる。
子供がウッパラの腰に足を絡めて引くが、ウッパラその場離れようとせず、目を閉じて首の付け根を上向かせ頤を開いた。
音が、津波のようにいくつもの塊になって、ぶつかって来る。
ウッパラの歌は、ナーガの空砲や威嚇音を発する器官と、人語を話すときに利用する舌の両方をつかって魔力で増幅させて発している。
三觭獣の目が閉じられていき、やがてその場にひっくり返ってしまった。
眠っているようだ。
「すげえ・・・・・・・」
「惚けていないで、急いで麓へ逃げるんだ」
ウッパラの素の声で彼が少年と気づき、驚きながらも子供は付き従う。
山小屋まで戻り、全員で下山を開始する。
後方の山腹に、眠りから覚めた三觭獣の姿が見える。
「連続で使用したせいで、歌の威力が落ちていたようです。隊長、もう一回は無理そうです。このまま逃げ切るしかありません」
「ああ、分かった」
三觭獣は生息域の山々を周回して暮らし、麓の平原地帯へは何故か出てこないため、そこまで逃げ切る必要がある。
だが、こちらは、全力で走っても三觭獣の移動速度の半分に満たない。分断されたときに、騎馬を失ったことが痛かった。風魔法や強化魔法を使っても、子供たち全員を抱えて移動するのにはかなり絶望的な状況である。
ウッパラは、ああは言っているが、きっといよいよとなった時には、喉を潰してでも歌を使う気だろう。そうなる前に、自分が囮となって、三觭獣を避難民から遠ざけねばならない。今更自分の命をどうこう言う気はないが、できれば隊の、ウッパラ達の成長をもっと見ていたかった。
平原は目の前に見えている。
後方には森林地帯を抜け、草原に差し掛かる地帯に猛然と追いかけてくる三觭獣の姿が見えていた。
ウッパラが案の定、走行を止めるが、その体を持ち上げて他の隊員へ投げ渡し、三觭獣のもとへ走り出す。
「隊長!!」
「止まるな!!」
黄色い知性を失った獣の目が差し迫る。
「こっちを見ろ! こっちへ来い!」
三觭獣の視線が自分に止まったことを確認し、避難民から遠ざかる。
地響きで平衡感覚が失われ、縺れそうになる足を必死に動かず。
直ぐに殺されては意味がない、少しでも長くひきつけなくてはならない。
三觭獣の爪が背後から迫る。
背に爪が掠めるが、地を転がっただけで、致命傷に至る怪我ではない。
クールマ族の背中はダイヤの硬度を持った最強の盾である。
獣がじゃれ付いている間に、どうか、子供たちを安全圏へ・・・・・・・。
突然、地面が数度にわたり大きく揺れた。
空から光が急激に失われ、見上げると辺り一帯に暗雲が垂れ込めているのが分かった。
すぐそばの大地に、大陸を分断するかのような亀裂が走り、その隙間の至る所から白い煙のようなものが上空へと一直線に噴き出した。
目の前にいた三觭獣は、この白い煙を浴びて数度うめき声を発したのち、銀色に染まって動かなくなった。雪が降り積もったようにも、白いカビに覆われたようにも見える。
やがて、山々から吹き上がった白い煙は、ここから遥か先の国境付近の上空に集まって、巨大な球体となって浮かび留まっている。そのあまりの大きさに、まるで側で見ているような錯覚を覚える。
「あれはなんだ・・・・・・・」
侵食してくる白い煙状は、この目を塞ぎ、後方であがる子供たちの悲鳴をも飲み込んだ。
まるでこの世の終焉を告げるような暗澹たる天に、気がふれたように猛り狂う雷鳴が縦にも横にも走り、白い球体の所々が薄汚れたように黒いまだら模様を蠢かせ、時折身震いして、銀色の雨を降らせる。
その粒子に触れたものは一様に活動を停止し、球体を中心に大地は銀色の死の雪に覆われたように静止している。
山狩りを行っていた数千人のウィドラ連邦国の兵士は、国境付近に穿たれた大穴
の付近で物言わぬ白い塊となっていた。
様子を観測していたガルトマーン王国の国境警備は直ちに中央へ飛び、ヴィドラ連邦国でもまた、謎の物体について政府に連絡が走った。
国家元首の副官であり広報務めている僧正のナーランダは、イグドラムの使者との会談中に北の地に出現した謎の物体の一報を聞き、急ぎ物体出現周辺の避難と観測を指示後、北の地まで最速で馳せ参じていた。
球体を目視できる位置に天幕を張り、銀色に変色した大地の侵攻を防ぐための防波堤の作成部隊を編成し、近隣の全ての寺院より武装僧兵に召集を掛けた。
また、国家元首のヴァスキツの進行通路の確保し、元首の到着を待つとともに、いま、再びイグドラムの使者との打ち合わせを始めていた。
使者の容貌はナーガ族をもってしても思わず目を逸らしてしまうほど、只者ではない迫力がある。嘗て、エルフ族は中性的で端麗な容姿の者が多いとされていたが、今ではドワーフやオーガの如き強面も存在するようになったようだ。
「今のところ、我が国の軍部の魔法攻撃も利いていないようですね」
イグドラムからの逃亡犯の確保に訪れた、代表のカデン・ノディマーと、軍部や警察機関などから集められた数十名の使節団は今、謎の物体の出現地点最前線でこちらの武装僧兵に混ざり物体を打ち落としに掛かっている。
「物体に到達する前に、何かに阻まれている様子。魔法が無効化されているというより、物体の周辺に、空壁のように何か透明な膜の様なものがあり、こちらの攻撃を跳ね返しているように見受けられますな」
銀色の部分に触れた者は、銀色の物質に浸食され飲み込まれてしまうため、近寄ることが出来ない上、魔法が通らない。
打合せの中、いくつか出た案を前線に伝える。的を絞り、同じ個所に魔法を当て続けるという案。物体の真上や、真下から魔法を当てる案。物体の真下の地面を熱して、風を起こし、炎の竜巻をぶつける案。大人数で行う魔術式を用いて、膨大な威力の魔弾を当てる案。これらすべてが、悉く通用しない。
やがて、前線から引き揚げてきた美しいエルフがノディマーに言う。
「あれは、私にも手に負えないわ」
「失礼ですが、こちらは」
「私の妻です」とノディマーが真顔で答える。
「そういうことを聞いているのではないと思うわ。お話し中、突然失礼いたしました。私は前イグドラシル大司書を務めさせていただいておりました、ヒャッカ・ノディマーです。私のレベルでは、あの物体の討伐には力が及ばないようです」
「前大司書様で在られましたか、この様な若くお美しい方とは、他国の宗教事情に疎く大変失礼いたしました。私はウィドラ僧正のナーランダと申します」
「ナーランダ様、あの物体はおそらく太歳です。過去の出現記録では、あらゆる物理、魔法攻撃を受け付けず、環境や物質的な弱点も見つからずに、あらゆる有機物の命を刈り取って大陸を横断したのちに、地下へ潜ったとされています」
「そんな、ではあれはいずれ移動を開始し、この銀色の区域を広げながら進行してくると」
「今は何らかの事情であの場所に留まっている様ですが、本来はとても速く動くもののようです。とはいえ、前回出現したのは千年も前の話のようで、イグドラシルにもあまり詳しい文献はありませんでしたが」
「前大司書の貴方様でも、あれをどうにかする方法は分からないのですね?」
「ええ、私の権限で閲覧できる第六指定までのイグドラシルの蔵書には、太歳の討伐方法はありませんでした」
「それでは、我が国の大僧正ヴァスキツ様に、この後を託すより他ないようですな」
ナーランダは、今まさに前線に到着したヴァスキツを見て言った。
陸上では比肩する者のない魁偉であり、上半身が五メートル、蛇足部位が二十メートルにもなる半人半蛇の巨人で、紺色の長い髪に、頭部左右に白い角、紺色の鱗に覆われた蛇足、青白い肌に赤い模様と金色の鎧を纏っている。その顔は目の部分までを金色の鎧と朱色の布で覆い、口元しか見えない。二度の変態を経た大ナーガで、千年近くを生きている。
銀色の区域の際に立ち、球体めがけて徐に頤を下げ、咆哮による衝撃波を放つ。
辺り一帯にいた兵達は、耳を聾するほどの衝撃を受け、近い者はその風圧に転がって、立っていられないほどだった。
ヴァスキツの口から真っ直ぐに放たれた衝撃波が太歳の周囲の防護壁を裂き、太歳本体に穴を穿った。だがすぐに、太歳の体表を覆っている白い繊維が、周辺の強風とは無関係に波立ち、光が行ったり来たりさせたのち、穴を塞ぎ始めた。
二度三度、ヴァスキツが咆哮するも、穴は一定のダメージから広がることはなく、すぐさま塞がってしまう。
「穴が穿たれたタイミングで、さらに衝撃を加えない事には、これ以上のダメージを与えられないようだな」
「ヴァスキツ様と同程度の力をもった国民は居りません」
「我々の方でも、あれほどの威力のある攻撃を放つ魔術師も武器もない」
ヴァスキツが喉を振り絞るように、咆哮を上げ続ける。
「ヴァスキツ様! このままではただ消耗するだけです」とのナーランダの声をかき消すように、先ほどより威力の増した咆哮が、太歳の防護壁を破って太歳本体を抉る。
この時、破れた防護壁に何かが飛び込んで、太歳に向かって行った。
すぐさま太歳の体から赤い炎が上がり、数度の爆発が起こる。
「なっ、何が起こった⁉」
真っ赤に燃えた大きな翼が、一回、二回と翻るたびに爆発が起こり、太歳の体が削られていく。その、そぎ落とされた中から、緑色に光る何かが垣間見えた。
だが、その凄まじい鳥の攻撃も決定的なダメージには繋がらないようで、鳥は自らを閉じ込めた太歳の防護壁を鶏鳴で抉じ開けて脱出した。
「有翼人か」
「あれは、ガルトマーン王国のガルダ王では」
カデンとナーランダは身を乗り出して、赤く大きな翼を持つ有翼人を見上げる。
一度引いたガルダに代わって、数万の色とりどりの翼をもつ有翼人が、太歳に一斉攻撃を加える。鶏鳴で穿った防護壁から侵入し魔法や、投擲を行う。
壮絶な攻撃が繰り出されるが、ガルダほどのダメージを与えることはなく、太歳の体表を覆っている白い繊維が波立つに留まるのみだった。
やがて大地を一面覆い尽くす白い物体が振動を始め、そこかしこで渦となり柱状に巻きあがり竜巻へと変化した。
「あれはまずい」
カデンは前線へ飛行移動し、土壁を築いていたエルフやナーガ達に退くよう叫び、召喚術を展開した。
カデンが空間に描いた魔法陣から、額に紫色の宝石のような角を持つ白く大きな怪鳥が出現する。
「触れずに、あの竜巻を消すんだ」
怪鳥はひと鳴きして、竜巻のギリギリを滑空し、額の角を光らせる。怪鳥の通り過ぎた後では竜巻が分断し、消滅していった。
怪鳥だけでなく、ヴァスキツやガルダもまた咆哮や鶏鳴で、次々と竜巻を消滅させる。
だが、白い物体そのものが消失したわけではなく、竜巻を消して、物質を地に叩き落としたにすぎないため、地に落ちた物体はまた振動を始め回転し巻きあがる。
「消耗戦だな」
援軍がくるまで、何とかあれをこの地にとどめなくては。
前線は村や町、人々が暮す場所を背後に、火山や海の方へ向けて太歳に攻撃を加え続ける。
天幕から前線を観察するナーランダは、この大陸の最大の攻撃力を誇る二人でさえ決定打にかけることに、早くも絶望を覚えていた。
ソゴゥ達を乗せた土掻竜は、ブロンが尻に敷いたティフォンの案内で、かつてソゴゥ達が見た魔獣のいた洞窟の近くから地下へ穿たれた穴を通り、地中深くの大きな横穴へ到達した。直径が百メートルを超える巨大で真っ暗な横穴を、それぞれが魔法で光を灯す。
ソゴゥはイグドラシルの蔵書から「太歳」について記されているものを読み漁る。
太歳の生体については、地下にあっては粘菌のように龍脈に取りつき肥大しながら移動し、陽の光を当てると、地上へ湧き上がって、有機物を糧とした進行を開始する。
形状は球体で、色は白。空中に現れて、白い竜巻を従え大地を白い死の世界に変えていく。
かつての人々は、出現した太歳をその時の文明において最大の火力を持つ武器、最強の魔術、そして物理攻撃を試したが、討伐に至らなかったようだ。
身を隠し、避難を続け、いなくなるのを待つより他なかったのである。
何ものにも止めることが出来ない天災であり、その災禍は数ヶ月に及んだと。
「クソッ、どうしろっていうんだ・・・・・・・」
台風なら海上で水蒸気の潜熱をエネルギーにして発達するため、上陸すればいずれエネルギーを失って消滅するが、太歳は地脈からいったい何をエネルギーに変換して行動しているのだろう。台風を止めるには、星を数度破壊するほどの核が必要だとされていたが、太歳が魔獣と分類されているならば、天災の様な星のエネルギーを相手取るようなやり方ではなく、生態による弱点があるはずだと思うのだが、それについて書かれたものが一切見つからない。
太歳の進行を止めることが出来なければ、多くの生き物が、自然や暮らしの場が失われていく・・・・・・・。
ソゴゥは焦り、握りしめた拳から血が流れていることにも気づかず、何か、何かと、太歳を退ける方法がないか考える。
もともと地下にいたのだから、地下へ戻す方法はないか。それこそ、魔力の強い者を生贄にと言うのなら、自分が囮になればいい。
そういえば、自分たちが生贄にされたときにいた、あの黒い虫の様な魔獣と文献の太歳とは形状が異なっている。
「おい」
ソゴゥは前にいるティフォンに声を掛ける。
「お前は、太歳を見たのか?」
ティフォンは窮屈そうに首を曲げ、こちらに向く。
「はっきりと見てはいない」
「それでもいい、見たものを話せ」
ティフォンが応えないでいると、ヨルがティフォンの前髪を燃やした。
「やめろ!」
ご自慢のエルフらしい手入れの行き届いた金色の髪を燃やされ、ご立腹のようだ。
ソゴゥは無言で、視線でのみ促す。
「クッ、この横穴に地上から竪穴を掘って繋げたときに、陽の光が差し込む場所に動物の死骸を置いておいた。奥の方から、何かが騒めいて、白い煙の様なものが移動してくるのが見えた。そこからはすぐに最大速度で移動をしたから見てはいないのだ」
「白い煙のようなもの・・・・・・・それが、この巨大な横穴を掘って進む化け物の正体か」
ソゴゥは円形の穴の床から天上まで、土面に螺旋状の細かな傷があることに気付いた。
そこに、何か白く埋もれているものを発見し、土掻竜の操縦しているヨルに、土掻竜を止めるよう声を掛ける。
「これは何だろう?」
土掻竜から降りたソゴゥは、土の中に埋もれた白いカビの様なものに覆われた個所を見つめ、漣のように繊維が動いているのを確認した。
ソゴゥが躊躇いなくそれに触れようとするのを、ヨルが制し「我が」と白いものに触れた。
その途端、白い物がヨルの手から腕に取り付き白く覆っていく。
ヨルは黒い炎でそれを焼き払うと、炎と共に腕がなくなっていた。
「おい! ヨル、お前腕が!」
「腕ごと燃やさないと、体に侵食してくるところであった」
「そんな」
「大丈夫だ、心配には及ばぬ。暫くすれば、生えてくる」
「本当に?」
「ああ」とヨルが人間臭く笑う。
ソゴゥは壁から少し離れて、白い物体を観察する。
「これは、太歳から剝離した物体なのだろうか?」
そこから数歩下がり、火球を作ってそれを白い部分に放つ。
小さな火球だったが、大砲を打ち込んだように壁が凹み、土面を黒く焦がした。
だが、白い部分は繊維を波立たせただけで、焼けも、焦げもしない。
続けて氷結、風刃、電撃、蒸気、打撃、毒、酸、呪詛、祝福と思いつく限りの魔法を当てる。
まるで新しい素材の耐久テストのように、固定された試料に負荷を加え続ける。
しかし、状態に変化は見られない。
ヨルは再生した腕を振り、動きを確かめている。
「ヨル、この白い部分を、あの黒い炎で燃やせるか?」
ヨルが試すも、炎は物体の表面を掠めるだけで、燃焼までには至らない。
ソゴゥは土掻竜の上に積んでいた、ティフォンたちから回収した円盤状の武器を持ってきて、土掻竜と皆をずっと遠くに遠ざけてから、ティフォンに吐かせた操作方法でこれを対象へ投擲する。武器は白い部分の周囲の土壁を削っただけで、物体そのものには傷をつけた様子がない。
その後も、ヴィント、ヨル、グレナダそして、ティフォンを押さえつけるのをヴィントと交代したブロンがそれぞれの魔法や技を当てるが、対象に変化は見られなかった。
「歌はどうでしょう?」
「歌? あの魔獣を眠らせた歌か」
グレナダが、蝉の幼虫のような魔獣の腹の中で歌ったという歌を歌う。
エルフでは到底出せない高低が広い音域でグレナダが歌うも、やはり変化はなかった。
「俺たちが見たあの黒い魔獣は、やはり太歳ではなかったようだな」
「そうですね、私が読んだ本には太歳や災という表記では記されていませんでした。ただ、巨大で、地下に在るものについて記されていました」
「あの魔獣は何だったんだろう。どうして太歳と同じ穴にいたんだろう」
ソゴゥは思考から戻り、グレナダを見る。
「グレナダ、地下に在るものについて書かれていたという本の題を覚えているか?」
「はい」
グレナダから聞いた本を、ガイドでイグドラシルの蔵書から探し出す。
「これか」
本のページを猛烈な勢いでめくり、ソゴゥはある1ページをグレナダに見せた。
「これ、この旋律、歌える?」
「これは、眠りの歌とは違いますね」
暫く譜を確認していたグラナダは、首を振って「私には、ここまでの広域な音階を発声することは出来ません」と答えた。
ソゴゥは落胆し目の前が回転していくような眩暈を覚えたが、何とか堪え「他に何か、そうだ、楽器があればいけるのか?」と、思考を巡らせ続ける。
「マスター、我なら可能だ」
「ん? 何が?」
「その譜通りの音を発声することが出来る」
「本当か! それなら、ああ、もしかしたら!」
ソゴゥが興奮してよろけるのをグレナダとヨルが支える。
土掻竜まで駆け戻って飛び乗り「『地に在るもの』を探すぞ!」とソゴゥは、ヨルに前進を急がせる。
「どういうことですか?」
ヴィントの問いに、ソゴゥは「太歳の天敵が見つかったかもしれない」と答える。
「以前この地に、太歳とは別の魔獣がいたんだ。地中深くに存在し、星を巡る巨大な魔獣という共通点だけで、俺はその魔獣を太歳や災と呼ばれるものと同じだと思っていたが、一方は個体惑星に寄生して、地脈に取り付き惑星の寿命奪うもので、質量があり、個体、液体、気体に干渉する。もう一方は、惑星の地中深くをただ巡り、惑星の寿命に干渉せず、惑星の消滅時に羽化を果たして飛翔し、他の星へ移動する星渡の魔獣。こちらは、物質の三形態とは異なる第四の形態を持って、基本的には質量がないと推測できる」
「質量がない生物など想像つかないのですが、幽鬼のようなものでしょうか?」
「ああ、そうだ、言われてみればまさに幽鬼のようだ。俺の解釈では、俺たちが認識している次元とは別の次元にいるため、こちらの次元での物理干渉を受けない存在。だが、本によると、太歳がいる場合のみ、こちらの次元に干渉するようだ。『地中に在って、惑星外来生物を取り除き巡り、星の循環を正常とする』とあるからね、俺はこの一文がとてつもない希望に思えたんだが、肝心の魔獣が二年前にこの地を移動したというから、この穴の先へ、太歳と一緒に移動したんじゃないかと思うんだ」
「それで、歌はどう関係するの?」
グレナダが尋ねる。
「歌は、言葉なんだ。旋律で意思を伝えあうことが出来る。祈りを、お願いを、旋律という言葉で伝えて、助けてもらうんだ」
「じゃあ、眠りの歌は、私が眠らせたのではなく、魔獣が私のお願いを聞いて眠っていてくれたってことなのね?」
「俺はそう思う」
「どうりで、あの空間があんなに優しかったわけね。有翼人とはいえ、翼を括られてあんな深い穴に落とされたら魔獣の体に叩きつけられて死んでいたはずだったのに、穴に落とされた皆が無事だったのだもの」
「何とかして、探し出さないと」
ソゴゥ達を乗せた土掻竜は横穴を疾走し、ウィドラ連邦国を目指す。
燃え立つ真っ赤な翼、赤い髪に金冠を付け、緑色の風切り羽と七色の尾羽、赤にも緑にも見える光彩に好戦的な凶暴さが滲み出た風貌でありながら、神話の生物の様な荘厳さをもって目の前に飛来するガルダ王に「小僧」とヴァスキツが声を掛けた。
傍らにいたカデンはギョッとするも、無表情を取り繕う。
「おいジジイ、てめえ『災』を掘り起こしやがって、この落とし前は付けてもらうぞ」
「五百歳しか違わないのだ、ほぼ同じ世代だろう、ジジイはお前も同じよ」
「ジジイの感覚で物を言うんじゃねえ、何処の世界に五百歳違いが同年代なんて耄碌したことをいうやつがいるんだ。ともかく、この失態は重いぞ。俄か元首には国一つ管理できなかったということだ」
「なに、『災』はお主の管理する土地からやって来たのだ、それを知っていて、こちらへ移動するとみるや、国境に壁を設けて、厳重に監視していたのにこの体たらく、お主こそ我らに逐一報告しておれば、もう少しはましな準備ができたであろうよ」
「掘り返しさえしなければ、こんなことにはなっていないんだよ!」
「ああ、その済みません。どうせ後で分かることですから言っておきますが、あれを掘り返したのは我々エルフ族の者達です。イグドラムを出奔していた者達が、このウィドラ連邦国に逃げ込んだため、我々がウィドラ連邦国側に確保協力を要請していた矢先に起きたことでして」
「ほう、この俺を真っ直ぐ見て、目が焼かれていないところを見ると、それなりの力を持ったエルフだなお前。まあ、どうでもいい、『災』が動き出したら、どの国もただではいられないのだからな。だが、その前にお前と、ジジイは俺がコロス」
「この大陸で前回『災』が出現したときは、イグドラシルが犠牲になったと聞く。聖樹の根が災をとらえて地中に引きずり込むと同時に、聖樹は枯死して倒れ、二つに折れてしまったのだとか」
「流石ジジイは昔話が得意だな」
「我らの神は他にいるが、イグドラシルには多大な敬意を持っている。この星を守る重要な存在の一つだ」
「だが、もう死んじまったものを頼るわけにはいかねえんだ。後はもう、ここら一体を土地ごと消失させる大魔法を使う他ない。ジジイ、異存はないな?」
「あの白い台地には同胞たちがいる。まだ救い出せるかもしれないのだ」
「無理だろ、もう死んじまっている。腹をくくれ」
ヴァスキツは長い尾を苛立たし気にうねらせながら、体を折り曲げて地上にいるガルダの顔を覗き込むように屈む。
「まだ同胞たちは死んでいない」
「ああ、そういえば、お前たちナーガは三回蘇るんだったな。だが、これ以上の犠牲を出さないために決断しなくてはならないんだよ、俄か野郎が。王としては俺の方が先輩だ、ここは俺に従っておけ」
神鳥と聖獣の睨みあう中、後方からナーランダとヒャッカがやって来た。
「大僧正様、太歳の様子がおかしいようです」
「ヒャッカ、どうした? 何かあったのか?」
「あなた、イグドラシルが近くに来ているわ」
「どういうことなんだい?」
「イグドラシルの気配を感じるのよ」
「おい、エルフの女、聖樹は死んでいるんだろ?」
ガルダが容喙する。
「まさか、死んでいませんよ。これまで千年間、イグドラシルの意思を継ぐ司書達が守ってきたのです」
「概念の話をしているんじゃねえ、樹そのものは枯れただろ」
「樹も新たに芽吹き、小さいながらもあの場所に育っていますよ。あまりに小さいので誰も気付いていませんが、司書にはその場所が分かるのです」
先ほどのエルフの男といい、この女も真っ直ぐ見てくる。隣にいるジジイの部下らしい変態を経たナーガでさえ、直視は避けているというのにだ。
「なら、その聖樹がここに来ているというんだな?」
「そうとしか考えられません、それに、ほら、太歳が苦しんでいます」
それぞれが目を向けた先で、白い球体がその表面を激しく波立たせ、黒い斑を浮かび上がらせている。
いつの間にか竜巻はすべて消え、球体の上で旋回を続けていた白い怪鳥までもが、役割を終えたように、こちらへと戻って来る。
よく見ると、球体の前に黒い翼の有翼人の姿が見える。
「あれは悪魔か?」
「そのようですな、角と尾があるように見受けられます」
ナーランダがガルダの問いに同調して答える。
澱んだ天が一層暗くなり、夜が訪れたように辺りから光が失われた。
広げた黒い翼から黒い炎が揺らめき、悪魔の声がようやくここへ届いた。
それは、可聴領域と身体を揺さぶる可聴領域以外の音が織り成す、天上の聖歌隊が成す旋律のようで、脳天から脊髄を振動させて末端へ雷のように駆け抜けていく、強烈な波だった。
その場の誰もが、硬直し、口を利くことさえできなかった。
悪魔は時折翼を羽ばたかせ、まるで太歳に聞かせるように正面に浮かび歌い続ける。
太歳の体表に浮き上がってきた黒い部分がから、黄緑色の光が見える。
やがて太歳の白い表皮を突き破って、黒い虫の肢の様なものが突き出した。
この大陸のいかなる生物、いかなる魔獣よりも大きな、規格外の虫の肢だ。
まさに一心不乱といった体で、悪魔は旋律を紡ぎ続ける。
それは、妖しさや不浄さを一切感じさせない、崇高な儀式のようだった。
太歳の中から、虫型の魔獣が出現する。
背に幾何学模様の黄緑色の光を放ち、この世でいま、光は、その魔獣の背にある光だけであるかのように輝いている。
完全に太歳の表層を破って、星の船のような巨大な魔獣の全貌が露わとなる。
空に浮かぶそれは、黒く、宇宙のようで、その躰は透けている。
太歳が逃すまいと、白い煙状の触手を伸ばすが、魔獣は複数の肢を、オールのように動かして空を掻き、悪魔のもとへとたどり着く。
そして、その端から黒い躰が増々薄く、透明になり、悪魔の体に触れると同時に眩しい黄緑色の光だけが残った。
光りはやがて照度を落とし、そしてそこに人の形が出現し、悪魔の歌に合わせて踊るように、くるりと宙を返った。
人型の背がフルフルと震えて、羽化したばかりの蝉の羽の様な、透明で黄緑色の光の羽が、いくつも生えた。
確認できる容姿は、白銀の長い髪、羽と同じ色に光る瞳。まるで、精霊のようだ。
四肢には幾何学模様の緑の光が奔り、その光の模様が生き物のように明滅して動く。
今度は、一回り小さくなった球体が、先ほどとは逆に光を避けるように後退する。
悪魔が歌を終えると、金縛りから解けたように、体の硬直が解けた。
あれは何だ。
ガルダはその非常に発達し視力で、ヴァスキツとナーランダは対象の温度でその存在を確認する。
すぐ横で、エルフの二人が驚いたような声を上げる。
「あら、あの子ったら!」
「何であんなところにいるんだ?」
竪穴の真下へと到着する。地上からの光が差し込むとはいえ、昼間の光とは思えないほどに、暗く、見上げれば空はどんよりと曇っている。
それよりもなによりも、見上げた先に見えるものが、あまりに大きく、あまりに不吉で、世界の終わりを予感させた。
まるで月が落ちてきたかのようだ。
白い球体。天上は絶え間ない大気の擾乱により、見たこともない色の雷が、網目状に空を奔る。
時折、この地下数百メートルまで大地を揺るがす衝撃が伝わる。
あの巨大な球体の形が変形し、削られているのだ。
「信じられない、誰かが上で太歳と応戦をしているようです」
ソゴゥは背骨が凍るような恐怖を感じながらも、上空の戦いに胸が熱くなった。
誰もがその姿に絶望し、抵抗をやめ、希望を捨てるかと思っていたのに、上ではあんなにも激しい攻撃が続いているのだ。
一層激しい衝撃が来た後、数度の爆発が起こり太歳の体から赤い炎が上がった。
「おお! 効いているんじゃないか!」
「あれは、ガルダ王です!」
ブロンとグレナダが興奮して叫ぶ。
真っ赤に燃えた大きな翼が、一回、二回と翻り、太歳の体が抉られ、そぎ落とされた中から、緑色に光るものが垣間見えた。
「案外、あっさりと見付けられたな」
ソゴゥは安堵し、ヨルに見せるためにガイドに先ほどの譜面を映し出して見せる。
「一度見れば、大丈夫である」
「そうか、なら頼むぞ、あのままだと星の魔獣までもが討伐されかねない。あの中から救い出そう」
星蝉である。
「え?」
「どうした、マスター」
「だから、ソゴゥって言えって、今何か・・・・・・・」
言葉の途中で、ガイドが光りその光に飲み込まれるようにしてソゴゥの姿が消えた。
「マスター!!」
「ソゴゥ!!」
「ソゴゥ様!!」
周囲を見渡すも、付近には土掻竜と自分たちより他はなく、ソゴゥの姿はどこにもなかった。
瞬間移動をした時のように、一気に視界が変わり、ソゴゥは自身の能力の誤発動を疑った。
周囲は一面の花畑で、この雰囲気は以前訪れたことがある。
あの魔獣の中だ。
何処までも続く柔らかな花の奥に、青々とした葉をつけて枝を伸ばす、巨大な樹の姿を見つける。いつもそばに感じている、イグドラシルのようだ。
吸い寄せられるように、ソゴゥは大樹のもとへとやって来て、その幹に触れる。
何かとても安心した様な、帰る場所に戻ってきたような、静かな気持ちになる。
素剛。
誰かが呼んでいる。
左胸に空いた穴から、赤い血が滴り落ちるも、時間が巻き戻るように血は渇き、穴は塞がり、在りし日の自分の姿がそこにあった。
見上げると、前世で自分の胸を貫いた鉄材が宙で静止している。
これを避ければ、俺は死なないで済むのか。
これを避けてしまえば、太歳はどうなる?
ガルダ王が倒してくれるのか?
ソゴゥは振り返り、青白い顔の数千のナーガ族、兵士や子供たち、見たこともない巨大な獣、森に棲んでいたであろう動物達が佇んでいるのを見て、そして理解した。
このままでは、彼らの命が失われることに。
もしも、こちらの世界で母や父、それに兄弟達と会えなかったらきっとすごく悩んだに違いない、でも、大切な人は皆ここにいる。
「イグドラシル、そして星蝉、飛来した惑星外来悪腫を取り除くために、できることを教えて欲しい」
目の前の大樹が光りに包まれる。
かつてイグドラシルが取り込んだ、太歳を構成する物質。千年に及ぶ解析により、その物質を崩壊させる振動数。そして、対消滅しないため、発生したにエネルギーを吸収するためのプロセスを、異次元で星蝉が請け負う。
なるほど、十年前に自分が星蝉と出会ったこと、イグドラシルの司書となったことすら、この太歳駆除の計画の一部であったのだと理解する。
レベル7であれば、完全にイグドラシルの巫覡となれる。
イグドラシルだった光が、神降ろしのようにその御霊がソゴゥへと集約する。
やがて、その姿がイグドラシルと星蝉を合わせた精霊の様な姿へと変化し、星蝉に力を送り続けていた悪魔の前でその目を開ける。
くるりと回転し、太歳へと向き直り、幾星霜の間、星を壊し続けてきた白い物体に近寄る。
弱体化を計れても、完全に消滅させることは出来なかった。
星蝉にとっては、いくつもの棲み処を壊されてきた恨み、イグドラシルにおいては築きあげてきた文明や文化の破壊や消失の悲しみ、この世界にいらないものなど何一つないのだという。ただ、この星に、太歳はいらないというだけだ。
ソゴゥは羽を羽ばたかせ、光の粉を撒き散らしながら、太歳のもとへと飛ぶ。
太歳に比べ、あまりに小さい羽虫のような存在だが、その手が、太歳の白い体表に触れた瞬間、太歳の崩壊が始まった。
それはあまりに静かで、あまりにあっけない最期だった。
衛星が落ちてきたのかと思う程の巨大な球体は、集合状態を保てなくなった後、その繊維の一つ一つが砕け散るように霧散していった。
やがて、ソゴゥが大地に降り立つと、その場所から波紋のように地を覆う白い物体もまた一息に砕け、消え去って通常の大地の色を取り戻し、空を覆っていた厚い雲さえも掻き消えるように青い空へと変わり、灰色の世界に色が戻った。
竪穴付近で倒れ込む兵士たちの一人に、ソゴゥは近寄り、その顔を息を確かめるように覗き込む。
ナーガ族の兵士は、冬眠から覚めたように徐に覚醒し、そこかしこから声が聞こえる。
ソゴゥは安心したように、後方で自分の名前を呼ばわる声を聴いて、そこへと飛んだ。
目の前で起こったことが信じられなかった。
太歳が崩壊したばかりでなく、白い大地に埋もれていた同胞たちが息を吹き返したのだ。
ヴァスキツは生まれて千年近く、ここまでの感情を覚えたことはない。
これは、感動というものだ。
「ソーちゃん!」と横でエルフが、あの信じがたい存在を呼んでいる。
この世界にあれほどの力を持った精霊がいたのかと、恐怖さえ覚えるのに、隣の声は至極暢気で、拍子抜けする思いだ。
ガルダでさえ驚愕に打ち震え、いや、むしろ興奮で震え、好戦的な目を炯々と輝かせている。こやつの五百年でも、ここまでの好敵手は見たことがないのであろう。
少しばかり、呆れた目をガルダに向けていると、エルフの呼びかけに答えるように、黄緑色の光の粉を撒き散らしながら、光る羽を震わせて精霊がこちらへ飛んでくる。
目の前に降り立つと、よこでナーランダは頭を垂れ、敬意を表し、ガルダもまた腕を胸に当てて、礼を示している。
我も頭を垂れてはいるが、何せ見下ろすことになるため、詳らかに観察をしてしまう。
「知っている精霊か?」とガルダがエルフ達に尋ねる。
「私達の息子です」とエルフが答える。
「ソーちゃんです」
「母さん、ソーちゃんはまずいって、王様の前で」と精霊が小声で窘める。
「いや、本当に、そなた等の子供であるか?」
「エルフなのか? 精霊ではなくて?」
ソゴゥは明らかに、王の風格のあるナーガ族と、先ほど見たガルダ王の前に緊張しながら自己紹介を始める。
「私は、イグドラシル第一司書のソゴゥ・ノディマーです。ここへは、イグドラムより出奔した犯罪者を追ってきました」
「だが、太歳の中から出てきたであろう」
「はい、太歳の中にいた星蝉の中におりました。星蝉の中にはイグドラシルの記憶があり、私はイグドラシルに呼ばれて、その手伝いをいたしました。この姿は本来の姿ではございません。じきに戻るかと思います」
「それで、そっちの黒いのは」
いつの間にか、ソゴゥの後ろに控えていたヨルについて、ガルダが尋ねる。
「私の、いえ、イグドラシルの護衛の悪魔です。この度の同胞の不始末についてなど、この後のことは、そちらの、父、カデン・ノディマーに任せ、我々は罪人を連れてイグドラムへ戻ります」とソゴゥはヴァスキツとガルダ、それにその場にいたナーランダにお辞儀をして、立ち去ろうとする。
「いや、待て!」
ソゴゥの腕を掴むガルダの腕を、ヨルが掴む。
「ヨル」
放すように、目で促す。
「何でしょうか、ガルダ王」
澄ましているが、イセトゥアンの神鳥を怒らせたら終わると、フラグともとれる言葉を思い出し、内心ドキドキである。
「我が国へ招待する。使者を送るから必ず来るように」
「それは、光栄です」
「こちらもだ、我が同胞を救ってくれたのだ、まずはうちへ来られよ」
「おい、ジジイ」
「何だ小僧」
「ソーちゃん、外国に行く口実が出来てよかったわね、ずっとイグドラシルに籠り切りだとつまらないものね」
「いや、この場合どうだろう。こんな緊張を強いられる外国訪問はちょっと」
ソゴゥが羽をフルフルと震わせ、頭を振ると、体中から光が垂直に天へと伸びた。
やがて、光が抜けきると、いつもの黒目黒髪で丸耳のソゴゥの姿へと戻る。
「人間だったのか?」とガルダ。
「いえ、エルフです。突然変異的なものです」
頭上で星蝉が空を悠々と飛びながら、その黄緑色の光を回収するように纏わせて、やがて薄れて消えていった。
クールマ族の男が目を覚ますと、目の前にいた三觭獣もまた、その目を開けた。
一体何が起こったのか分からないが、窮地は脱していないらしい。
ところが、三觭獣は男に背を向け、来た道を山へと戻っていく。
まるで憑き物が落ちたように、全身から発散されていた怒りは消えていた。