第91話 予期せぬメシア
渋谷駅の人波は、まるで濁流のように絶え間なく流れていた。平日の午後にも関わらず、駅構内は様々な目的を持った人々で溢れかえっている。俺は改札を抜けながら、無意識のうちに肩に力が入っているのを感じていた。
美紗が何を話したがっているのか、まるで見当がつかない。『逃げたくなるような話』って一体何だろう……。胸の奥で不安がもやもやと渦巻いている。
駅の外に出ると、七月の午後の熱気が一気に肌を包んだ。アスファルトから立ち上る陽炎が、街の風景を微かに歪ませている。頭上には青い空が広がっているものの、ビルの谷間を吹き抜ける風は熱を含んでいて、とても涼しいとは言えなかった。
渋谷センター街への道のりは、いつもの通り賑やかで、ファッションビルから流れ出てくる冷気と、街頭から響く音楽が混じり合って、独特の都市的な雰囲気を作り出している。歩いている人たちも若い世代が多く、夏らしい軽やかな服装の人が目立つ。
俺も人波に紛れて歩きながら、心の中で何度も美紗との電話を振り返っていた。あの時の彼女の声には、普段のクールな調子とは違う、何か切迫したような響きがあった気がする。
センター街に入ると、さらに人通りが多くなった。両側に並ぶ店舗からは、それぞれ違った音楽が流れ出していて、街全体が一つの巨大なスピーカーのように響いている。看板の明かりも昼間だというのに煌々と輝いていて、まるで時間の感覚を失わせるような、そんな独特の空間だった。
そして、ようやく俺は渋谷センターのマクドナルドの前に到着した。
「ここ……だよな……?」
俺は建物を見上げながら呟いた。ガラス張りの店内は冷房が効いているらしく、外から見ても涼しげだった。窓越しに店内の様子を見渡すと、平日の午後ということもあって、学生やサラリーマンが適度に散らばって座っている。
そして、窓際のテーブル席に座っている美紗の姿を見つけた。
おお……すっごい目立ってる……。
黒のオーバーサイズのカットソーに短いデニムパンツ、首元には首輪のようなチョーカー、足元にはぶ厚いブーツ。全身がモノトーンでまとめられていて、すごくおしゃれだし、確かに美紗にはよく似合っている。でも、だからこそ外から見ていても一際目立つ存在になっていた。
他の客たちと比べても、明らかに異質なオーラを放っている。美紗という人間の個性が、服装を通してストレートに表現されているような感じだった。
俺は意を決して、店の扉に手をかけた。自動ドアが開くと同時に、冷房の効いた空気が頬を撫でていく。店内に入ると、昼時を過ぎた時間帯特有の、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
美紗のテーブルに向かって歩き始めた時だった。
「お姉さん一人?俺ここで待ち合わせしてたんだけどドタキャンされちゃってさ、良かったら――」
突然、金髪の若い男が美紗のテーブルに近づいて声をかけた。軽そうなシャツにダメージジーンズ、典型的なナンパ男の格好だった。美紗は最初、男の方を見向きもせずにスマホの画面を見つめている。
その瞬間だった。
「うっざ……臭い息で話しかけてくんのやめて……」
美紗の口から、氷のように冷たい声が響いた。
瞬間、店内の空気が凍り付いた。
文字通り、時が止まったような静寂が訪れる。近くにいた客たちは箸や、スプーンを持ったまま固まり、カウンターにいた店員も作業の手を止めて、恐る恐るこちらの様子を窺っている。
男は完全に予想外の反応に、口をパクパクと開閉させている。顔は真っ赤になったり青ざめたりと、目まぐるしく色を変えていた。
「えっ……あの……俺そんなに……」
「『そんなに』じゃないの。論外なの。分かる?日本語通じる?」
美紗は相変わらずスマホから視線を外さないまま、淡々と追い打ちをかけた。その声は感情を一切込めていないのに、だからこそ恐ろしく残酷に響く。
「あー……はい……すいませんでした……」
男は完全に戦意を喪失し、肩を落として踵を返した。その背中は見ているこちらが申し訳なくなるほど小さく見える。店の出口に向かって歩いていく男の足取りは、まるで敗残兵のようだった。
男が店から出ていくと、店内にゆっくりと日常の空気が戻り始める。客たちは気まずそうに視線を逸らし、店員たちも何事もなかったかのように作業を再開した。
でも、俺は入り口付近で完全に固まっていた。
やだ……やっぱもう帰りたい……。
あの男の末路を目の当たりにして、俺の中の逃走本能が大音量で警鐘を鳴らしている。美紗の破壊力は予想以上だった。あんな容赦のない対応ができる人間と、果たして俺は普通に会話できるんだろうか……。
足が竦んで、その場から動けずにいると――
「あ、優斗、こっち」
美紗が俺に気づいて、軽やかに手招きした。その表情は先ほどの冷酷さとは打って変わって、前に見た美紗らしい自然な笑顔だった。まるで何事もなかったかのように。
この温度差は一体何なんだ……。
「あ、うん……」
俺は観念して、重い足取りで美紗のテーブルに向かった。向かい側の椅子に腰を下ろすと、美紗の前にはチョコレートシェイクとポテトが置かれているのが見えた。
美紗はストローを口に運び、ゆっくりとシェイクを飲んだ。その仕草はとても上品で、さっきの出来事が嘘のように思えてくる。ストローから口を離すと、今度はバッグからスマホを取り出して、指先で画面を操作し始めた。
「ん?」
美紗の様子に、俺は小首を傾げた。急に呼び出しておいて、今度は俺を無視してスマホをいじり始めるなんて、一体どういうつもりなんだろう。
そんな俺の困惑をよそに、美紗は何かを探すような仕草でスマホの画面をスクロールしている。その表情は真剣そのもので、まるで重要な資料でも確認しているかのようだった。
しばらくして、美紗の指が止まった。
「これ……」
そう言って、美紗はスマホの画面を俺の方に向けた。
俺は目を細めて画面を覗き込んだ。そこに映っていたのは――
あっ……。
それは、以前俺が駅前でゲリラライブをした時の映像だった。美弥と初めて出会った、あの日の動画だ。画面の中では、例の馬の覆面を被った俺がピアノを弾いている。真珠の透き通るような歌声と、俺や北斗、美弥の演奏が重なり合って、駅前の雑踏に響いている。
思わず驚いて、俺は画面を見つめた後、ゆっくりと美紗の顔を見上げた。美紗がなぜ今、この動画を俺に見せるのか……。
固唾を呑みながら美紗を見つめる俺。画面を指差している俺の指がワナワナと震え、口がパクパクと動いているのが自分でも分かった。
「あ、あの……これは……」
「優斗って嘘つくの下手って言われない?その顔でもう全部分かった……」
美紗が呆れたような小さなため息をつきながら、スマホをバッグにしまった。その表情には、まるで答え合わせが終わったような、確信に満ちた様子が浮かんでいる。
俺は言葉を失った。完全に看破されている。
美紗はテーブルの上で両腕を組んで、前のめりになりながら俺の方を見つめた。
「私らさ、あんまりボカロ界隈とか良く分かんなくて、そっちのジャンルにあんまり興味なかったんだよね」
そう言いながら、美紗の目がキラキラと輝いている。まるで謎解きに成功した探偵のような表情だった。
「でもこの間一緒に演奏してピアノ熱が再燃しちゃってさ、ピアノ動画漁ってたらやたらバズってた動画見つけたのよ……」
美紗は楽しそうに話を続ける。
「優P……ボカロ界隈じゃ今かなり熱いんだってね?」
その名前を聞いて、俺の背筋にぞっとした感覚が走った。自分の作曲者としての名前を、こんな形で呼ばれるなんて思ってもみなかった。
「な、何でそう思ったの……?」
俺は美紗の顔をチラリと見ながら、恐る恐る尋ねた。心の中では、まだどこかで否定できる余地がないかと必死に探っている。
美紗は「はぁ」と息をつきながら、椅子の背もたれに身を預けた。
「あの演奏とあの音、そして渋谷マークシティで着てたカーディガン、さっきのゲリラライブで来てたのと一緒だよ……」
そこまで言って、美紗は肩を竦めて見せた。
「マヌケ過ぎない……?」
俺の心に、鋭いナイフが突き刺さった。
「うっ……」
図星を突かれて、俺は俯いて肩を落とした。ぐうの音も出ない。完全に論理的に追い詰められている。
あんまり服持ってないからな、油断した……あとで拓哉にお願いして渋谷の動画は上げないよう頼まないと……。
心の中で俺は必死に今後の対策を考えていた。でも、もう遅い。美紗にはすべてバレてしまったのだ。
「ていうか何なのあの馬の覆面……」
美紗が残念そうな目で俺を見た。その視線が、俺の心をさらに深く えぐってくる。
「お願いだからそれ以上心を抉るの止めて……」
俺は胸を押さえながら、半ば本気で懇願した。美紗の観察眼と推理力は、想像以上に鋭すぎる。
その時だった。
ブルルルル……
俺のスマホから着信音が響いた。
「こっちは気にしないで、どうぞ」
美紗はポテトを一本取って口に運びながら、あっさりとそう言った。
「あ、うん、ありがと」
俺は慌ててスマホを取り出した。画面を見ると、そこには『北斗』の文字が表示されている。
「北斗?」
俺は呟きながら、通話ボタンを押した。
「もしもし?北斗?」
『おっす優……進捗具合はどうよ?』
北斗のよく通る、いつもの元気な声がスマホから響いた。
「あ、うん。曲はできたよ。あ、あと撮りためてた動画も今夜中には見せられるから、夜にリンク先送るよ」
俺は美紗のことを意識しながらも、なるべく普通に答えようとした。
『おう、修行の成果見させてもらうよ。でだ……』
北斗がそう言って、一旦話を区切った。何か言いにくそうな雰囲気が電話越しでも伝わってくる。
『あれから真珠と何かあったか?』
北斗の声が、普段より気を遣った感じになった。
「あ……うん。この前学校で、突然謝られたかな」
俺は頬を搔きながら答えた。
『あ~優もか、なるほどな……』
北斗の声に、何か納得したような響きがあった。
「え?北斗のとこにも来たの?」
俺は驚いて聞き返した。真珠が北斗にも謝りに行ったということなのか。
『まあな。カガミさんにベースとギター習ってた時にいきなり乱入してきてよ。何かと思ったら土下座だぜ土下座……相変わらずあいつの行動は予測できねえよ』
北斗の呆れた口調が、電話越しでもよく伝わってくる。
『まあだからって許すつもりもねえし、一旦謝罪だけは受け取ったけどな……』
「土下座……あれをそっちでもやったのか……って」
俺は額に手を当てながら言った。真珠の謝り方は、やっぱりどこでも同じなんだな……。
そこで、俺ははっとした。
「ん?カガミ……?え……?なんでカガミさんが??」
突然出てきたカガミ・シンの名前に、俺は慌てて北斗に問い返した。
『あ~カガミさん美弥の事めっちゃ気に入ってんだよ。なんかそれで最近よく美弥のライブハウスに通い詰めてんだと』
北斗があっさりと説明した。
「美弥の事を……カガミさんっていくつ……?」
俺の胸に嫌な予感が走る。
『確か二十九とかじゃなかったっけ?』
北斗の答えを聞いて、俺は目を見開いた。
「えっ!?ロリ、いやなんでもないや……うん、聞かなかった事にするよ……」
俺は慌てて口を閉ざした。二十九歳の大人が十七歳の美弥に……それはちょっと色々と問題があるんじゃないだろうか。大丈夫なのか?
『まあそれは置いといてだ……』
北斗の声が急に真剣な調子に変わった。電話越しでも、彼の表情が引き締まったのが分かるような気がする。
『問題は明日の生ライブをどうするかなんだよ』
その言葉を聞いて、俺の胸が重くなった。明日のライブ……そう生放送によるアニメタイアップを決める生放送ライブだ。
どうするか……おそらくそれは、真珠の代わりをどうするかという問題なんだろう。以前北斗からその話は聞いていた。しばらくは真珠をステラノートから外すと。今のままじゃ足手まといだと、北斗は本当に怒っていた。
でも、真珠なしでライブなんて考えられるんだろうか。あの透明感のある歌声、聴く人の心を掴んで離さない表現力……ステラノートの核となる部分を失ってしまうことになる。
『一応楽曲提供のみの打診もOK貰ってるし、今回はそれで通すのもありだと思ってる』
北斗の声が続く。
『ただし、その場合はあくまで形だけの参加で、採用は絶望的だろうけどな……』
その声が、明らかに気落ちしたような調子になった。北斗だって分かってるんだ。楽曲提供だけじゃ、本当の意味での参加にはならないということを。
俺は美紗の視線を感じながらも、思い切って口を開いた。
「真珠は……真珠は何か言ってた……?」
その質問をするのは、正直怖かった。でも、知りたかった。彼女が今、どんな気持ちでいるのかを。
『あいつは……』
北斗がしばらく沈黙した後、重い口調で答えた。
『歌いたいけど、自分に歌う資格はないって……皆に許してもらうまでは、自分に権利はないってよ』
その言葉が、俺の胸に深く刺さった。
『お前を傷つけて後悔してる、今はただ謝る事しかできないって。まあ、長年つるんだ俺から見ても、嘘は言ってねえみたいだけどな……』
北斗が軽く息をついているのが、電話越しでも聞こえた。
真珠が……そんなことを言っていたのか。歌う資格がないなんて……。
「北斗と美弥は……?」
俺はさらに尋ねた。
『美弥はもうやり返したからあとは俺たちに任せるってよ』
やり返した……?美弥の奴、一体何をやったんだ……?想像もつかないんだが。
『俺は……正直分かんねえ……』
北斗の声に、珍しく弱気な響きが混じった。
『あいつがなんでカルマの事を優にだけ話せねえのか……一体どんな理由があるのか、その理由が分んねえと、許せるもんも許せねえだろ』
「そう……だね……」
俺は小さくため息をついた。
「何で俺だけには言えないのか……言えないって事は何かやましい事があるんじゃないかって、疑いたくないのに疑ってしまう……」
その通りだった。理性では真珠を信じたいと思っているのに、感情がそれを許してくれない。俺にだけ話せない理由があるということが、どうしても引っかかってしまう。
俺は意を決して、さらに踏み込んだ質問をした。
「北斗……北斗は真珠がカルマ君と会っていた理由って知ってる?」
『えっ……!?』
北斗の驚いた声が響く。明らかに動揺している様子だった。
『ああ……うん、実は……知ってる』
北斗が一旦押し黙った後、再び口を開いた。
『でもわりぃけど、その理由は話せねえ……例え優でもな。真珠と約束してんだ。誰にも話さないってよ……だから……悪い』
北斗の申し訳なさそうな声が、スマホから聞こえてきた。
そうか……北斗らしい答えだな。彼女は義理堅くて、約束事はどんなことがあっても守ろうとする奴だ。ある意味、彼女らしい反応だと思う。
「ううん。大丈夫、気にしないで。北斗がそういう奴だってことは理解してるから」
俺はやんわりとそう言った。北斗を責める気にはなれない。
「でも、やっぱりそうなると、俺にだけ話せない理由……だよね」
その事実が、改めて俺の心を重くした。
『ああ、でも別にやましい理由で二人が会ってる訳じゃねえぞ?ちゃんとした理由だ……』
北斗が慌てたように説明する。
『ただ、なんでそれを優に話せねえのか、俺には全く分からねえ……隠す必要もないし、言っちまえば楽になるのによ、なんであそこまで頑なに言わねえのか……意味が分かんねえよ』
北斗の困惑した声が、俺の心境とまったく同じだった。
「そっか……でもさ、この前俺に謝りに来た時の真珠は、僕がよく知っている彼女だったんだ。初めて会った時と変わらない、そのままの……」
俺は少し穏やかな口調で話した。あの時の真珠の姿を思い出すと、心がほんの少し軽くなる。
『まあ……確かにな……俺たちのとこに来た時も、まるで憑き物が落ちたみてえだったし……』
北斗も同じような感想を持っていたらしい。
『ああ~くそっ!やっぱあいつだけは全く読めねえ!どうすりゃいいんだよ!』
北斗の苛立ちが電話越しでも伝わってくる。
『いっそ代役でも立てるか!?ってそんなのいねえよな……時間もねえし、はぁ……』
深いため息が聞こえた。
「相手は真珠だよ……?せめてプロの歌手ぐらいじゃないと代役には……」
俺も同じようにため息をついた。
そう、このままいけば今回はあの真珠が敵に回ることになる。聴く人を魅了してやまない、あの歌声が、俺たちの前に立ちはだかることになるんだ……。
真珠の歌唱力は本当にすごい。今のままじゃ勝てる気がしない。でも、だからといって諦めるわけにもいかない。何か方法はないものだろうか……。
その時だった。
「プロの歌手ならここにいるけど……?」
すぐ横から、突然声が響いた。
俺は驚いて声の方に振り向いた。向かい側に座っていたはずの美紗が、いつの間にか俺の真横の椅子に移動して、じっと俺を見ていた。
「うわぁっ!」
俺は思わず声を上げた。いつの間に移動したんだ……全然気づかなかった。
『ん?今の声……女?優……お前まさか女と一緒に居んのか!?』
北斗のとげとげしい声がスマホから響いた。明らかに機嫌の悪そうな声。
「私プロだけど?ボーカルがいるんでしょ?」
美紗が俺の持っているスマホに向かって、はっきりとした声で言った。
「き、聴いてたの?」
俺は慌てて美紗に聞いた。
「どうぞって言ったのは私だけど、流石に放置し過ぎっしょ。ありえないんだけど」
美紗があっけらかんとそう答える。確かに、俺は電話に夢中になって、美紗のことを完全に忘れていた。
「うっ、ごめん……」
俺が美紗に頭を下げていると、スマホから悪態をつくような北斗の声が響いてきた。
『あのな、自称プロなんて間に合ってんだよ、悪いけどこっちは真剣な話してんだ。関係ねえ奴は――』
彼女がそこまで言いかけた瞬間だった。
「すぅ~……」
美紗が大きく息を吸った。そして――
その表情が一瞬で集中したモードに切り替わる。
そして次の瞬間――
「ルミナス――」
美紗の口から、驚くほど澄んだ高音が響き出した。
「音に乗せて 涙さえも 歌に変えて――」
その歌声は、まるで空気を震わせるような圧倒的な存在感を放っていた。マクドナルドの雑音が一瞬で消え去り、美紗の声だけが空間を支配する。
「夜空に 火を灯すように 心を焦がしてゆく――」
歌詞の一言一言が、まるで言霊のように心に響いてくる。俺は完全に魅了されていた。これが美紗の本当の実力なのか……。
「私たちは 今を 生きている――」
最後の高音が、まるで天井を突き抜けるように響いた。その瞬間、店内は完全に静寂に包まれた。
さっきまで談笑していた客たちも、注文を取っていた店員も、全員が美紗の方を振り向いて固まっている。誰もが呼吸するのを忘れたかのように、ただ美紗を見つめていた。
俺も唖然としていた。美紗の歌声が、こんなにも圧倒的だったなんて……。しかもそれは確かに、俺が以前ピアノで演奏したCANARYの楽曲。
歌い終わると、しばらくの沈黙の後、店内がざわめき始めた。
「えっ?今の何?」
「めっちゃ上手くなかった!?」
「今のCANARYの曲だよね?そっくりじゃない?」
「いや、もしかして本人?」
周りの客たちが興奮して話している。すべての視線が美紗に集まっていて、中にはスマホを取り出して写真を撮ろうとする人もいた。
その時だった。
『ボーカル、お願いします!!』
俺のスマホから、すがるような北斗の声が響いた。さっきまでのとげとげしい調子とは正反対の、必死な響きだった。
「ちょっと北斗!?」
俺は北斗の豹変ぶりに驚いたけど、それよりも今は……。
はっとして振り返ると、美紗が頬杖をつきながら俺の方を見て、怪しくにやりと笑っていた。
夕日が店内のガラス窓を通して差し込み、美紗の横顔を金色に染めている。その表情には、まるで獲物を捕らえた猫のような、満足げな笑みが浮かんでいた。
俺は改めて思った。
こ、この子は、本当に只者じゃない……。




