第90話 午後は猫日和
夏の陽光が、成田空港の巨大なガラス窓から斜めに差し込んで、俺たちの影を長く地面に伸ばしていた。ゆいちゃんの無邪気なリクエストから始まった即興コンサートは、気がつけば空港中を巻き込んだ大合唱になって、最後は温かい拍手の嵐で幕を閉じた。
その余韻がまだ胸の奥に残っている。
「いや~、まさかあんな大騒ぎになるとは思わなかったぜ!」
拓哉が興奮冷めやらぬ様子で、カメラを肩にかけ直しながら言った。彼の頬は上気していて、さっきまでの演奏の熱がまだ冷めていないのがよく分かる。
「そうだね……最初は緊張したけど、とても楽しかった」
俺も素直にそう答えた。実際、最初は小さな女の子のリクエストに応えるだけのつもりだったのに、気がつけばあんなに多くの人たちと音楽を共有していた。あの一体感は、今まで経験とはまた別のものだった。
「優斗君の音が、本当に皆の心を掴んでいたね」
ジョエルさんが穏やかな笑みを浮かべながら言った。その声には、父親のような温かさが込められていて、俺の胸がじんわりと温かくなる。
「いえ、ジョエルさんの伴奏があったからこそです。あんなに息の合った演奏は初めてでした」
本当にそうだった。初対面のはずなのに、まるで何年も一緒に演奏してきたパートナーのように、自然に音が重なり合っていく感覚は不思議で、そして心地よかった。
三人で空港の出口に向かいながら、俺は今日という日を振り返っていた。朝、拓哉に誘われて空港見学に来ただけだったのに、こんなにも濃密な時間を過ごすことになるなんて想像もしていなかった。
自動扉が開くと、七月の熱気が一気に肌を包んだ。でも、それすらも心地よく感じられる。
「あっちぃ……でも気持ちいいな」
拓哉が空を見上げながら伸びをした。青い空には白い雲がゆっくりと流れていて、遠くではまだ飛行機の離着陸の音が聞こえてくる。
成田空港駅へと続く歩道を歩きながら、俺たちは今日の出来事について話していた。ゆいちゃんの可愛らしい歌声のこと、観客の皆さんの温かい反応のこと、そして何より、音楽を通じて感じることができた繋がりのこと……。
「ぽよぽよフレンズかあ……俺も今度最初からちゃんと見てみようかな」
拓哉がくすくすと笑いながら言った。
「妹ちゃんと?」
俺が聞くと、拓哉は少し照れたような表情を見せた。
「まあ、そんなところかな。あいつ、俺が歌えるって知ったら絶対にせがんでくるし」
「きっと喜ぶよ」
ジョエルさんが微笑みながら言った。
「家族との時間は大切にしなければね……」
その言葉には、どこか深い意味が込められているような気がした。俺は何気なくジョエルさんの横顔を見つめた。優しい表情の奥に、何か複雑な想いが隠れているような……。
駅前のロータリーに差し掛かると、ジョエルさんが足を止めた。タクシーが何台か客待ちをしていて、夏の陽射しでアスファルトが陽炎を立てている。
「それじゃあ……僕はここで」
ジョエルさんがゆっくりと俺の方に振り返った。その表情には、別れを惜しむような寂しさと、何かを決意したような強さが混在していた。
「あ、はい……こちらこそ、本当に色々とありがとうございました」
俺は明るい笑顔でそう答えた。今日ジョエルさんと出会えて、本当に良かった。音楽について、そして自分について、たくさんのことを教えてもらった。
「ふふ……いい顔になったね」
ジョエルさんがそう言いながら、俺に向かって右手を差し出してきた。その手は温かそうで、父親の手を思い出させた。
俺もすぐにその手を取って、しっかりと握手を交わした。ジョエルさんの手はとても温かかった。その握り返しからは、今日一日の感謝の気持ちが伝わってくるようだった。
握手を終えると、ジョエルさんは今度は拓哉の方に向き直った。
「拓哉君も、ありがとう」
そう言って、拓哉にも手を差し出す。
「あ、いえいえ!俺こそありがとうございました!」
拓哉が慌てたように手を差し出して、二人は握手を交わした。拓哉のその慌てぶりが微笑ましくて、俺は思わず小さく笑ってしまった。
ところが、拓哉との握手を終えたジョエルさんが、急に何かを考え込むような表情を見せた。眉間に小さなしわを寄せて、どこか遠くを見つめるような……そんな様子だった。
その変化に気づいた俺は、思わず声をかけた。
「あの……どうかされましたか?」
俺の声に、ジョエルさんははっとしたような表情を見せた。そして、深いため息をつきながら俯いた。
「……僕がもっと親としてしっかりしていればね……」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるような、そんな響きがあった。
「すまない……君たちに、こんな話をするものじゃないね」
ジョエルさんの声には、自分を責めるような調子が含まれていた。
「え?あの……どういうことですか?」
俺は戸惑いながら聞いた。親として……ということは、娘さんのことだろうか。でも、一体何があったんだろう。
そのとき、ふと気づいた。困ったような表情を浮かべるジョエルさんの顔が、なぜかとても見覚えがあるような気がした。どこかで見たことがあるような……でも、それが何なのかは思い出せない。記憶の奥底に眠っている、大切な何かを思い出しそうで思い出せない、そんなもどかしさがあった。
「ふふ……いや、子育てって難しいねって話さ」
ジョエルさんは苦笑いを浮かべながら、俺に向かって小さく笑って見せた。でも、その笑顔は少し無理をしているように見えた。
「忘れてくれ」
俺は小首を傾げた。子育てが難しい……確かにそうなのかもしれないけれど、ジョエルさんがそこまで自分を責めるようなことがあったんだろうか。
すると、今まで黙って聞いていた拓哉が口を開いた。
「あの……俺の婆ちゃんがよく言ってたんですけど……」
拓哉が頭を掻きながら、少し照れくさそうに話し始めた。
「親は子供を育てながら一緒に学んでいくものだって。失敗も成功も一緒に共有するから家族なんだって……だからこそ、そうやって悩むことってとても大事なことなんじゃないかなって思うんです」
そこまで言って、拓哉は慌てたように手をひらひらと振った。
「あ~、なんかすみません!俺みたいなガキが偉そうなこと言っちゃって!全然説得力ないですよね、ははは……!」
拓哉の顔が真っ赤になっていて、本当に恥ずかしそうだった。でも、その言葉には確かな重みがあった。きっと、おばあちゃんから聞いた言葉を大切にしているんだろう。
すると、ジョエルさんの表情がぱっと明るくなった。
「あははは!その通りだ、拓哉君」
ジョエルさんが嬉しそうに笑いながら、拓哉の両肩にぽんぽんと手を置いた。
「ありがとう。君のおかげで目が覚めた気分だよ」
その笑顔は、さっきまでの無理をした笑顔とは全然違って、心の底から嬉しそうだった。
「そうだね……本当にその通りだ。これからも僕は娘と一緒に……いや、家族とともに悩み、苦しみ、そして一緒に考えていこうと思う」
ジョエルさんが拓哉の肩を優しく叩きながら言った。その言葉には、新たな決意が込められているようだった。
「いや、その……はい……頑張ってください」
拓哉が頭を掻きながら照れていた。きっと自分の言葉がこんなにも喜ばれるとは思っていなかったんだろう。
娘さんのことで色々と悩むことが、ジョエルさんにもあるんだろう。きっと、俺たちには想像もつかないような苦労があるに違いない。でも、こうして悩んでくれる親がいるということは、娘さんにとってはとても幸せなことなんじゃないだろうか。
ふと、俺は自分の手を見つめた。
今では普通に動いているこの手も、昔はよく震えていた。チック症のせいで思うようにいかなくて、イライラして机を叩いたこともあった。そんとき、母さんは怒らなかった。ただ、そっと俺の背中を撫でて、「大丈夫、大丈夫よ」って何度も繰り返してくれた。
今になって、ようやく分かる。あれは、母さんにとってもすごく苦しいことだったんじゃないかって。
チック症のこと、発達の偏りのこと……俺が普通にできないことが多すぎて、周りの目もきつかったと思う。学校の先生から呼び出されたこともあったし、他の保護者から何か言われたこともあったんだと思う。きっと、うまくいかなかったことも、たくさんあったはずだ。
夜中に、不安になって泣いたこともあったかもしれない。何度もぶつかって、悩んで、それでも俺の前では笑っていてくれた。
ずっと、自分だけが苦しいんだと思っていた。でも、本当は父さんも母さんも、ずっとこんな風に俺のことを支えてくれていたんだ。失敗しながらでも、俺のことを想って、あの人たちなりに全力でやってくれていたんだな……今のジョエルさんみたいに。
胸が熱くなって、俺は顔を上げた。
「きっと、ジョエルさんの想いは娘さんに伝わっていると思います……いや、必ず伝わっています」
俺ははっきりとそう言った。
「だから……頑張ってください」
ジョエルさんの瞳が、一瞬潤んだような気がした。そして、深々と頭を下げた。
「ああ……優斗君もありがとう。君たちのおかげで、本当に勇気が湧いてきたよ」
そう言いながら、ジョエルさんは背を向けて歩き始めた。タクシー乗り場に向かっているようだった。
でも、俺はそのまま見送るのが寂しくて、思わず声をかけていた。
「あの……また会えますか?」
去っていくその背中に向かって、俺は大きな声で言った。
ジョエルさんは足を止めて振り返ると、今度は本当に優しい笑顔を見せてくれた。
「ああ、会えるよ。近いうちに……きっとね」
そう言って軽く手を挙げると、ジョエルさんはタクシーに乗り込んでいった。
「近いうち……?」
俺はその言葉を反芻しながら、小首を傾げた。なんだか意味深な言い方だった。
「変な人だったな……日本語もピアノも超上手いし、本当に謎だらけ過ぎだろ」
拓哉がジョエルさんのタクシーが走り去っていく方向を見ながら言った。
「でも……すげぇいい人だったな!」
拓哉が俺に向かって満面の笑みを向けた。
「うん……だね。また、会いたいな……」
俺は呟くように言った。きっと、またどこかで会えるような気がする。そんな予感があった。
成田スカイアクセス線の車内は、午後の柔らかな陽射しに包まれていた。窓の外を流れる田園風景を眺めながら、俺と拓哉は並んで座っていた。
「いや~、それにしても今日は本当にすげぇ一日だったな」
拓哉が満足そうにカメラのストラップを撫でながら言った。液晶画面には、今日撮影した写真がずらりと並んでいる。
「うん、俺も楽しかった」
俺は心からそう答えた。朝から始まった空港見学が、まさかあんな素晴らしい演奏で締めくくられるなんて思いもしなかった。
「あのジョエルって人、本当に不思議な人だったな。昔から知ってるみたいで、すぐ仲良くなれたし、優しい人だったよな」
「そうだね……でも、すごくいい人だった」
車窓の景色が次第に住宅地へと変わっていく。電車は途中駅に停車するたびに乗客が入れ替わり、午後の帰路についた人々の穏やかな表情が車内に広がっていた。
「あ、俺ここで降りるわ」
拓哉が席から立ち上がった。
「お疲れさま、今日は誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ!動画、期待しててくれよ」
拓哉が電車から降りる前に、俺の肩をぽんと叩いた。
「またな、優斗!」
ドアが閉まると、拓哉の姿がホームの向こうに小さくなっていく。俺も手を振り返して見送った。
一人になった車内で、俺は今日という日をゆっくりと振り返っていた。ジョエルさんとの出会い、音楽について教わったこと、そして何より、たくさんの人と音楽を共有できたあの瞬間……。
電車は都心に向かって走り続け、やがて俺の乗り換え駅である押上駅に到着した。
押上駅のホームは、東京スカイツリーを見上げる観光客と、日常の足として電車を利用する地元の人々で適度に賑わっていた。俺は人混みを避けて、ホームの端にあるベンチに腰を下ろした。
午後の陽射しがホームの屋根を通して斜めに差し込み、コンクリートの床に幾何学的な影を作っている。遠くからは電車の発着音が規則正しく響いていて、都市特有のリズムを刻んでいた。
ふと、ポケットの中でスマホが振動した。メッセージの着信音だった。
画面を見ると、拓哉からのメッセージが届いている。
『お疲れ!羽田以降の撮りためといた動画、今夜中にアップするから楽しみにしておいてくれ。あと、これも忘れるなよ!』
メッセージの下には、何枚もの写真が添付されていた。画面をスクロールすると、青と白で美しく彩られた飛行機の写真が次々と現れる。機体には医療十字のマークが描かれていて、確かに他の飛行機とは違った雰囲気がある。
ああ、拓哉の奴、フライング・アイ・ホスピタルをちゃんと撮れたんだな……。
彼がどれだけこの飛行機を見るのを楽しみにしていたか知っているだけに、俺も嬉しくなった。
でも、正直に言うと……う~ん、やっぱり俺には他の飛行機とそんなに違いが分からないなあ……ごめん拓哉。
俺は苦笑いを浮かべながら、拓哉の熱意に感謝の返信を打とうとした。その時だった。
ブルルルル……
突然、スマホに着信が入った。画面を見ると、そこには予想外の名前が表示されていた。
『美紗』
美紗から?なんで急に……?
俺は首を傾げながら、おそるおそる通話ボタンを押した。
「も、もしもし……?」
恐る恐る電話に出ると、スマホの向こうから聞き慣れた声が響いてきた。
『あ、優斗?』
美紗の声だった。いつものクールな調子だけど、なんとなく普段より親しみやすい響きがある。
「えっ?呼び捨て――」
俺がそこまで言いかけた時、美紗の声が割って入った。
『何?なんか文句あるの?』
その声には明らかに不満が込められていた。電話越しでも、美紗が眉をひそめている様子が目に浮かぶ。
「あ、いえ、なんでもありません……」
俺は慌てて謝った。この子を怒らせるのは危険だ……前にも痛い目に遭ったし。
「それで、美紗ちゃん、俺に何か……」
『ちゃん……?』
また不満そうな声が響いた。そういえば「ちゃん」付け禁止だった……。
「み、美紗……俺に何か用……かな?」
やっぱりこの子、ちょっと怖い……。俺は内心でそう思いながら、できるだけ穏便に話を進めようとした。
『ねえ、今からちょっと会えない?話したいことがあるの』
美紗の声が、少し真剣な調子に変わった。
「話したいことって……どんな?」
俺は素直に聞き返した。一体何の話なんだろう。
『ダメ。会ってから話す』
美紗がきっぱりと言った。
『電話だと逃げられそうだし』
「逃げ……え?逃げたくなるような話なの……!?」
俺は慌てて聞き返した。なんだか不穏な予感がしてきた。
『今どこにいるの?』
美紗が話題を変えるように聞いてきた。
「押上駅だけど……じゃなくて、美紗、俺の話聞いてる?」
俺は慌てた。どうしてこの子は人の質問に答えてくれないんだ。
『押上駅ね……じゃあ今から渋谷センター街のマクドナルドに集合でいい?』
「え?」
『いいよね?』
「ちょっ」
『じゃ、そういうことで』
美紗が矢継ぎ早にそう言うと、俺が返事をする間もなく通話が切れてしまった。
「き、切られた……」
俺はがっくりと肩を落とした。完全にペースを握られてしまった。
ホームにアナウンスが響き、ちょうど新宿方面行きの電車が滑り込んできた。銀色の車体が午後の光を反射して、眩しく輝いている。
「仕方ない……断ったら噛みつかれそうな勢いだったしな……」
俺は諦めの気持ちでつぶやいた。頭の中に、鋭い牙を剥いて威嚇する猫のような美紗の姿が浮かんで、思わず身震いした。
電車のドアが開き、乗客たちが乗り込んでいく。俺もその流れに従って車内に入った。座席はほぼ埋まっていたので、ドア付近のつり革に掴まった。
電車が動き出すと、窓の外の景色がゆっくりと流れ始めた。住宅街から商業地域へ、そして高層ビルが立ち並ぶ都心部へと、景色は刻々と変化していく。
途中、浅草駅を通過する時には、遠くに浅草寺の五重塔がちらりと見えた。観光客らしき外国人のカップルが、窓に顔を寄せて写真を撮っている。
新宿が近づくにつれて、車内の人も増えてきた。学生、サラリーマン、買い物帰りらしき主婦……様々な人々が同じ電車に乗り合わせている。
俺は美紗が何を話したがっているのか考えながら、渋谷に向かった。一体どんな話なんだろう……逃げたくなるような話って、いったい……。
電車の振動に身を委ねながら、俺の心は次第に不安と期待で複雑に揺れていた。