第89話 言の音
ジョエルさんが椅子から立ち上がると、午後の陽射しが彼の後ろ姿を包んだ。空港の天井から差し込む光が、まるでスポットライトのように彼を照らしている。
「こちらへ」
彼はゆっくりとピアノの方へ歩き始めた。その足音が、周りの喧騒の中でも不思議とよく聞こえる。俺もその後に続いた。
成田空港のストリートピアノは、いつ見ても立派だった。カラフルで艶やかなグランドピアノが、まるで宝石のように空港のロビーで輝いている。近づくにつれて、俺の心臓の鼓動が少し速くなった。
ジョエルさんはピアノの椅子に腰を下ろすと、席を半分開けて俺の方を振り返った。
「座って」
優しい笑顔で促されて、俺も隣に座る。二人で座ると少し窮屈だったけれど、なぜか安心感があった。
ジョエルさんは鍵盤を見つめながら、静かに口を開いた。
「優斗君の音を聴いて思ったんだ……」
その声は穏やかで、低く澄んでいた。俺は視線を鍵盤に向けたまま、その言葉をただ聞いていた。
「君の音にはね、一音ずつに"意味"がある」
意味……俺は眉をひそめた。そんなこと、意識したことがあっただろうか。
「表面上の技術や和声のセオリーに収まらない、"何か"がある」
ジョエルさんは鍵盤の上に指を置きながら続けた。
「指先から放たれる音が、まるで君の呼吸のように流れてくる……どんな音にも、どんなリズムにも、君はちゃんと"気持ち"を、"意味"を込めているんだ。無意識のうちに、ね」
無意識のうちに……そう言われてみると、確かに俺は音を出す時、何かを伝えたいという気持ちが先にある気がする。でも、それって当たり前のことじゃないのか……?
彼はふと、軽く鍵盤に触れた。音は鳴らさず、そのまま指をすべらせる。その仕草がとても美しくて、俺は見入ってしまった。
「……たとえば、ある人は音を聴いて"形"を感じ、別の人は"温度"を感じる」
ジョエルさんの指が、まるで鍵盤と会話しているみたいに動いている。
「そして僕や娘のように色を感じる。そういう脳の知覚の結びつきが共感覚だ」
共感覚……。
「君の場合――おそらく、音そのものの"意味"を感じている」
俺は何も言えなかった。ただ、彼の声が心に染みるような感覚があった。音の意味を感じている……そんな特別なことをしているという自覚は全くなかった。
「聴けばわかる。旋律が浮かぶ前に、"意味"が先にある……」
ジョエルさんの声が、より深く響いた。
「その一音に何が必要か、それを選び取る力がある。君は気づいていないかもしれないが、それは本来、作曲者の領域だ」
作曲者の領域……俺は確かに、音を出す前にどんな音が必要かを考えることがある。でも、それはみんなやっていることだと思っていた。
「だが君は演奏者でありながら、常に"作っている"側の感覚で音を鳴らしている」
ゆったりと語られるその声に、不思議な感覚が生まれた。なぜか周りの雑音が消えていくような……まるで世界が静かになっていくような感覚だった。
近くを通りすぎる旅行客の足音も、天井から降るような館内アナウンスの音も、全部どこか遠くなっていった。ジョエルさんの声だけが、クリアに俺の耳に届いている。
「演奏がうまい子は、たくさんいるよ」
ジョエルさんが、鍵盤を愛おしそうに見つめながら言った。
「でもね、君のように……"音そのものに触れようとする人間"は少ない」
音そのものに触れる……それがどういうことなのか、俺にははっきりとは分からなかった。でも、その言葉になぜか心がざわめいた。
「楽譜じゃなく、音に問いかけてる。目の前の鍵盤じゃなく、まだ鳴っていない音を見てる……」
まだ鳴っていない音を見る……その表現が、なぜか俺の胸に響いた。確かに俺は、音を出す前に、頭の中でその音がどう響くかを想像することがある。
「それが、君にだけできることなんだ」
君にだけ……その言葉に、俺の心が震えた。俺にだけできることなんて、本当にあるんだろうか。
ジョエルさんはそこで一度言葉を切り、鍵盤をそっと見下ろした。叩かれたわけでもないのに、なぜかその表情には音の響きが映っていたように見えた。まるで、見えない音楽が彼の周りで踊っているみたいだった。
「君は、音の"表情"が見えるんだ」
ジョエルさんが、より優しい声で続けた。
「声じゃない。顔でもない。ただの波形でもない……でもそこに確かに感情があると、君は感じ取ってる」
音の表情……そう言われてみると、確かに俺は音に感情を感じることがある。悲しい音、嬉しい音、怒った音……それは当たり前のことだと思っていたけれど。
「だからこそ、他の人間には聞こえない"息遣い"を拾える」
息遣い……そんなものが音にあるなんて、考えたこともなかった。でも、ジョエルさんがそう言うと、なんだか納得できる気がした。
「"意味のない音"を、君は一度も鳴らさない……」
その言葉に、俺ははっとした。意味のない音……。
「それは、君にとって当たり前でも、他者にとっては、奇跡なんだよ」
奇跡……俺が音楽をすることが奇跡だなんて、そんな大げさな……でも、ジョエルさんの真剣な表情を見ていると、冗談を言っているようには見えなかった。
俺は視線を落としたまま、ほんの少しだけ指を鍵盤に触れた。押すつもりはなかった。けれど、ほんの一瞬、指先に何かが震えた気がした。まるで鍵盤が生きているみたいに……。
「君の中には、最初から音がある」
ジョエルさんの声が、より深く響いた。
「――鳴らしてから考えるんじゃなく、感じた時にはもうそこにある。それが"才能"だよ」
才能……俺に才能なんてあるんだろうか。いつも必死に音を探して、必死に気持ちを込めているだけなのに。
「説明はいらない。意識すらいらない。ただそこにあって、君を通して外に出てくる」
ジョエルさんが俺の方を向いて、優しく微笑んだ。
「それが、君の音だ……そこから導き出される答えは……」
それだけ言うと、彼は再び前を向いた。言葉の余韻が、まるで音楽みたいに胸に残っていた。空港の雑音が戻ってきて、俺は現実に引き戻される。
でも、今のジョエルさんの言葉が頭の中でぐるぐると回っていた。『"意味のない音"を、君は一度も鳴らさない……』そう考えた瞬間、俺ははっとした。
「……意味のない音なんて……ない……!」
自分で言っておいて、俺は驚いた。そうだ、俺にとって意味のない音なんて存在しない。どんな音にも、どんな響きにも、何かしらの意味がある。チック音だって、工事の音だって、車の音だって、人の話し声だって……全部何かを伝えようとしている。
俺はジョエルさんを見上げた。彼は嬉しそうに微笑んでいる。
「ふふ……正解だ」
ジョエルさんが優しく俺の頭に手を置いてくれた。その手の温もりが、心地よく感じられる。
「君にとって不必要な音なんてないのさ」
そう言いながら、彼は俺の髪をそっと撫でた。
「耳を澄ませて、全てを受け入れてあげるんだ。どんな音にも、きっと君だけが感じ取れる何かがある」
君だけが感じ取れる何か……その言葉が、俺の胸の奥で響いた。俺だけの音楽……俺だけにできることがあるのかもしれない。
鍵盤を見つめながら、俺は新しい可能性を感じていた。今まで当たり前だと思っていたことが、実は特別なことだったのかもしれない。そして、その特別を理解してくれる人がいるということが、何より嬉しかった。
ジョエルさんの手が俺の頭から離れると、不思議と心が軽くなった気がした。真珠のことで悩んでいた心も、音楽に対する迷いも、全てが少しずつ整理されていくような感覚だった。
ジョエルさんの言葉の余韻に浸っていると、遠くから聞き慣れた声が響いてきた。
「お~い、優斗!」
その声に振り向くと、空港の人混みの中を縫うようにして、見慣れた姿がこちらに向かってくるのが見えた。
「拓哉!」
俺は思わず手を挙げて返事を返した。久しぶりに会う親友の姿に、心がぱっと明るくなる。
拓哉は少し息を切らしながら俺たちに近づいてきた。カジュアルなTシャツにジーンズ、肩から斜めがけにしたメッセンジャーバッグが、いかにも彼らしい格好だった。
「よう、優斗!バッチし撮って来たぜ~!って……」
拓哉が俺の肩を軽く叩きながら言った。そして、ふと隣に座っているジョエルさんに気づく。
「ん? この人は……?」
拓哉が首を傾げながら俺に尋ねた。その視線はジョエルさんに向けられている。確かに、俺が知らない大人の人と一緒にいるのは珍しいことだろう。
「ああ、ごめん。この人は……」
俺が説明しようとした時、ジョエルさんが穏やかな笑みを浮かべながら立ち上がった。そして、自然な動作で拓哉に向かって右手を差し出す。
「ディー・ジョエルだ」
その声は温かく、親しみやすかった。
「優斗君の演奏に魅せられたファンだよ。よろしくね」
ジョエルさんのそんな紹介に、俺は少し驚いた。ファンって……そんな風に言ってもらえるなんて。
「あ、ど、ども!」
拓哉も慌てたように手を差し出して、ジョエルさんと握手を交わした。
「俺も優斗の大ファンで、拓哉って言います! 優斗のピアノ、本当にすごいんですよ!」
拓哉が嬉しそうに話している姿を見て、俺は心が温かくなった。こうして俺の音楽を認めてくれる人がいることが、本当に嬉しい。
ジョエルさんも、拓哉の熱意に微笑んでいる。
「そうだね、優斗君の音楽は本当に素晴らしい。君も音楽をやるのかい?」
「えっと、俺は聞く専門で……でも優斗とは親友だと思ってます!」
拓哉が少し照れながら答えた。そんな二人のやりとりを見ていると、なんだか微笑ましい気持ちになる。
その時だった。
「お兄ちゃんたち、ピアノひけるの~?」
突然、澄んだ幼い声がかけられた。俺たちは一斉に声の方を振り返る。
そこには、五、六歳くらいの可愛らしい女の子が立っていた。薄いピンク色のワンピースを着て、ツインテールにした髪にはリボンがついている。大きな瞳を輝かせながら、俺たちを見上げていた。
「え? あ、うん、弾けるよ」
俺は慌てて女の子に返事を返した。そんな小さな子に話しかけられるなんて、予想していなかった。
「すごーい!」
女の子が目をさらに輝かせて、両手をぱちぱちと叩いた。
「ひいて、ひいて! ぽよフレ! ぽよフレがいい!」
そう言いながら、女の子が嬉しそうに両手を上げて飛び跳ねた。
ぽよフレ……ああ、ぽよぽよフレンズのことかな? 確か、ぽよぽよ動くマスコットたちの日常と冒険を描いた、小さな子供たちに大人気のアニメだった。テレビで何度か見かけたことがある。
でも、フルコーラスで聞いたことはないんだよな……どうしよう。メロディーはサビしか知らない……。
「お嬢さん」
そんな俺の迷いを察したのか、ジョエルさんが優しく女の子に話しかけた。彼は女の子の目線に合わせて、少ししゃがんでいる。
「良ければ、どんな歌か教えてもらえるかな?」
「え~と、え~と……」
女の子が急にモジモジとし始めた。さっきまでの元気な様子とは一転して、恥ずかしそうに足元を見つめている。きっと、大人の人に話しかけられて緊張してしまったのだろう。
そんな女の子の様子を見て、拓哉がにっこりと笑いながらしゃがんで女の子と同じ目線になった。
「ぽよフレかあ、俺の妹も大好きなんだ」
拓哉の優しい声に、女の子が少し顔を上げた。
「本当?」
「本当だよ。いつも観てるから、俺も歌詞覚えちゃったんだ」
拓哉がそう言うと、女の子の表情がぱっと明るくなった。
「よっし! じゃあお兄ちゃんと一緒に歌おうぜ」
拓哉が手を差し出すと、女の子は嬉しそうに頷いた。
「う、うん! いっしょにうたうなら、うたってもいいよ」
女の子が拓哉を見上げながら言った。その笑顔がとても可愛らしくて、思わず俺も微笑んでしまう。
妹がいたんだ……そういえば、拓哉が家族の話をすることはあまりなかったけれど、小さい子の扱いにも慣れているし、やっぱり頼りになるな。
俺は改めてピアノに向き直り、ジョエルさんの方を見た。彼も俺を見つめていて、お互いに小さく頷き合う。
「それじゃあ、やってみようか」
ジョエルさんが穏やかに言った。
「優斗君、君が主旋律を弾いて、僕が伴奏をつけよう。拓哉君とお嬢さんが歌ってくれるなら、きっと素敵な演奏になるよ」
俺は頷いて、指を鍵盤の上に置いた。女の子のリクエストに応えられるように、精一杯やってみよう。
「それじゃあ、お嬢さん」
ジョエルさんが女の子に向かって言った。
「お名前を教えてもらえるかな? 演奏する時は、お客さんのお名前を知っていた方がいいからね」
「わたし、ゆい!」
女の子――ゆいちゃんが、恥ずかしそうに答えた。
「ゆいちゃんね。素敵な名前だ」
ジョエルさんが優しく微笑んだ。
「それじゃあ、ゆいちゃんのために、最高のぽよぽよフレンズを演奏しよう」
その言葉に、ゆいちゃんが手をぱちぱちと叩いて喜んだ。拓哉も嬉しそうに笑っている。
空港のロビーに、小さなコンサートが始まろうとしていた。
ゆいちゃんが小さな手をぎゅっと握りしめて、大きく息を吸った。その真剣な表情がとても可愛らしい。
「……せーのっ!」
幼い声が空港の喧騒をすり抜けて、まっすぐに俺たちの心に飛び込んできた。
「ぽよんと はねたら きらりんこ!」
ゆいちゃんが、ちょこんとした可愛らしい声で歌い出す。その声は少し緊張で震えていたけれど、一生懸命さが伝わってきて、聞いているだけで心が温かくなった。
隣では拓哉がしゃがんで並び、ゆいちゃんと同じ目線で笑いながら歌に入った。
「ゆめの おそらに あいことばー」
拓哉の声は少し恥ずかしそうだったけれど、ゆいちゃんを励ますように優しく歌っている。妹のことを思い出しているのかもしれない。
空港のストリートピアノの前で、子供の小さなリクエストから始まったこの演奏。俺たちの出番は今だ――歌声に乗って、音を放つ時が来た。
俺は右手で軽く旋律をなぞり始めた。その瞬間、ジョエルさんがすっと左手を添えてきた。息を吸うよりも早く、まるで以前から一緒に演奏していたかのように、二人の指が鍵盤に触れる。
不思議だった。初めて一緒に弾くはずなのに、まるで長年のパートナーのように息が合う。ジョエルさんの伴奏が、俺の旋律を包み込むように響いている。
その瞬間、天井の方から金属音が響いた。
――ガンッ、ガガガガ……!
空調工事の作業音が、空間を割るように響く。普通なら演奏の邪魔になりそうな音だった。
でも、俺の耳には別のものが聞こえていた。
空気の流れ、空調のリズム、工具の打音……それらすべてが、まるで打楽器のパートのように俺の音楽に溶け込んでいく。
ジョエルさんが言っていた通りだ。意味のない音なんて、俺には存在しない。フィルターなんて必要ない。すべてを受け入れて、俺の音楽として伝えるんだ。
工事のリズムに合わせて、俺は左手で即興のリズムを刻み始めた。右手は歌の旋律をなぞりながら、ほんの少し崩してニュアンスを加える。
「おはよう こんにちは おやすみのー」
ゆいちゃんが楽しそうに歌いながら、小さな足でステップを踏んでいる。その無邪気な姿に、俺の心も軽やかになった。
拓哉も音に合わせて軽く手を振りながら歌っていて、時々俺の方を見て「いい感じだろ?」とでも言いたげに笑いかけてくる。
工事の音にさえ、ちゃんと"息遣い"がある。叩きつけるようなドリルの音が鳴る直前に、わずかな空気の震えがある。それを感じた瞬間には、もうその音は旋律の一部としてそこにある。
音を出してからじゃない。感じた時には、もう次の音がそこにある。
ジョエルさんが教えてくれたことが、今になってよく分かる。聞こえてくる旋律よりも先に、"意味"が俺の中に生まれている。自然と指が動き、音が鳴る。
「ぽよぽよ フレンズ てをつなごう~」
サビに入った瞬間、俺の中の何かが確信に変わった。これだ、これが俺の音楽だ。
ジョエルさんが隣で嬉しそうに頷きながら、美しいアルペジオを重ねてくる。彼の音は包み込むように優しくて、俺の音は火花を散らすように情熱的だ。そのはずなのに、ぶつかり合うことなく完璧に溶け合っている。
これが、音楽の"対話"なんだ。
気づくと、いつの間にか周りに人が集まり始めていた。子供連れの親子が増え、子どもたちの歌声が周囲の空気を変え始めている。
最初は足早に通り過ぎていた旅行客たちが、一人、また一人と足を止めている。スーツケースを引いていた人も、ベンチに座って休憩していた人も、みんなこちらを見つめている。
天井の工事現場でも、作業員の人たちが手を止めて、足場の上からこちらを見下ろしていた。
「まるくて ふわふわ こころが ポン!」
どこからか拍手のようなリズムが聞こえてきて、別の子どもが楽しそうに体を揺らしている。気づけば、ちびっこたちが何人も前に集まってきて、手を繋いで踊り出していた。
「ぽよぽよー!」
「こころが ポン!」
合いの手が飛び交い、歌声が増えていく。最初はゆいちゃんと拓哉だけだった歌声が、いつの間にか大合唱になっている。
旋律に乗せて、俺は思った。
これが、俺の本当の音なんだ。
誰かの声があって、誰かの感情があって、それを支えるための"音"。俺だけの音じゃない。俺一人のものじゃない。みんなで紡ぐ音楽。
演奏者のはずなのに、常に"作っている"感覚がある。無意識のうちに、この世界の音をひとつ残らず拾って、意味を与えている。
それが、俺に宿った音楽なんだ。
「ふしぎな せかい このままでー」
ジョエルさんの和音が、まるで空へ昇っていくように広がっていく。その音色は虹のように美しくて、俺の心を高く舞い上がらせた。
「ずっと ずっと ぽよぽよフレンズ!」
最後の一音が空港のロビーに響いた瞬間、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
でも、それは終わりじゃなかった。
「アンコール!」
「お兄ちゃん、もういっかい!」
ゆいちゃんの声を皮切りに、周囲がざわめき始める。拍手が次第に手拍子に変わり、子どもたちが再び「ぽよぽよー!」と声を上げる。
その熱気に包まれて、ジョエルさんが微笑みながら小さく首を傾げた。
「……いけるかい? 優斗君」
彼が軽く手を掲げると、まるで見えない指揮棒を振るようにして、俺たちのテンポを導いてくれた。
俺は頷いて答えた。もちろん、やろう。この瞬間を、もう少し続けたい。
気づけば、空港中がひとつの大きなステージになっていた。
工事の騒音はそのまま響いているけれど、もはや雑音じゃない。それはリズムであり、舞台効果だ。拍手と笑顔があふれて、旅立ちを待つ人も、誰かを迎えに来た人も、みんなが"今"というこの瞬間を共有している。
ジョエルさんのピアノは、まるで世界を包むように響いていた。
強くもあり優しくもあり、繊細なのに圧倒的。その音のひとつひとつが、俺に語りかけてくる。
『音楽に国境はない』
誰かがそう語ったように、ジョエルさんは誰よりも"自由"な音を奏でていた。
そして俺も、その音と肩を並べていられることが、ただただ嬉しかった。
子どもたちの笑顔。拓哉の嬉しそうな顔。拍手と笑い声に包まれて、奇跡のような午後が、そっと幕を開けていた。
俺は鍵盤に向き直り、もう一度「ぽよぽよフレンズ」のイントロを弾き始めた。今度は最初より自信を持って、もっと自由に。
空港のロビーに、再び歌声が響き始める。今度は最初より大きな歌声が。そして俺の音楽が、みんなの心を繋いでいく。
優しい旋律が、言の葉となって、優しい午後の空港に満ちていく……。




