第88話 想像する力
夏の強い陽射しが、空港の巨大なガラス窓から差し込んで、俺の頬を照らしていた。成田空港第3ターミナルの喧騒の中、俺はぼんやりと遠くを見つめている。目の前にあるのは、珈琲を持ったジョエルさんの優しい笑顔のはずなのに、なぜかそれらがぼやけて見えた。
――あの時も、こんな風に暖かい光が差し込んでいたっけ……。
記憶の奥底から、懐かしい光景が浮かび上がってくる。小さな俺が、おもちゃ売り場の前で立ち尽くしていた、あの日の午後。陳列棚に並んだピアノのおもちゃを見つめながら、心の奥で何かを願っていた幼い俺の姿が、まるで古いフィルムのように頭の中で蘇ってくる。
あの頃の俺は、まだ何も知らなかった。嫉妬という感情も、人を疑うということも……真珠のような存在に出会うことも。
指先が無意識に膝の上でピアノを弾く動作をしていて、俺は慌ててそれを止めた。でも心は、まだあの幼い日の記憶の中を漂っている。
「――ん? 優斗君?」
優しい声が、俺の意識を現実に引き戻した。ハッとして顔を上げると、ジョエルさんが心配そうな表情でこちらを見つめている。温かい茶色の瞳に、俺の困惑が映り込んでいるのが分かった。
「あ……すみません、ぼうっとしてました」
俺は慌てて頭を掻きながら謝った。頬が少し熱くなるのを感じる。さっきまで真剣に話をしていたのに、急に意識が飛んでしまうなんて……きっと失礼だったに違いない。
「いや、構わないさ」
でも、ジョエルさんは全く怒った様子を見せず、むしろより穏やかに微笑んでくれた。
「話疲れただろう。長話に付き合わせてすまなかったね」
そう言いながら、彼は手元のコーヒーカップをゆっくりと回している。蒸気が立ち上って、午後の光に溶けていく様子が、なんだか詩的に見えた。
「いえ! 全然そんなことないです!」
俺は思わず身を乗り出して答えた。それは本心だった。ジョエルさんと話していると、なぜか心が落ち着く。まるで長年会っていなかった親戚のおじさんと話しているような、そんな不思議な安心感がある。
「むしろ話し足りないというか……俺も聴いてほしいことがあるというか……」
言いかけて、俺は口ごもった。聴いてほしいこと……それは確かにある。でも、どこから話せばいいのか分からない。真珠のこと、カルマ君のこと、そして俺の中で渦巻いている得体の知れない感情のこと……。
ジョエルさんはとても話しやすい人だ。初対面のはずなのに、つい思ったままのことを話してしまいそうになる。本当に不思議な人だった。
「聞いてほしいこと……何かな?」
ジョエルさんが、柔和な笑みを浮かべながら尋ねた。その表情には、急かすような雰囲気は全くない。まるで「いつでも聞く準備はできているよ」と言っているようだった。
「僕で良ければ何でも聞くよ」
その言葉に、俺の胸がじんわりと温かくなった。何でも聞いてくれる……そう言ってもらえるだけで、心の重荷が少し軽くなったような気がする。
「あ……え~と、そのですね、なんというか……」
でも、いざ話そうとすると言葉が出てこない。どう説明すればいいんだろう……。好きになった人に、初めて嫉妬という感情を抱いてしまった。その黒い感情が自分でも怖くて、彼女を傷つけるような言葉を言ってしまった。そのせいで、音楽にも集中できなくなって……。
でも、そんなことを口に出して言うのは恥ずかしい。大人びて見えるジョエルさんの前で、俺の幼稚な悩みを話すなんて……。
俺が黙り込んでいると、ジョエルさんの目が少しいたずらっぽく光った。
「おや……もしかして……恋バナかい?」
俺の心臓が跳ねた。
「いいね~、ぜひ聞かせておくれよ」
そう言いながら、ジョエルさんが楽しそうに俺の肩を軽く叩いた。その仕草がとても親しみやすくて、俺の緊張が少しほぐれる。
「うっ……こ、恋バナって、まあ当たってますけど……」
俺は顔を赤らめながら言い淀んだ。恋バナなんて言葉、なんだか照れくさい。でも、確かにその通りなんだから否定もできない。
「はは。恥ずかしがることないじゃないか」
ジョエルさんが優しく笑いながら言った。
「僕も君ぐらいの時は頭の中そればっかりだったよ。あ、これはここだけの話にしといてね」
そう言って、彼は人差し指を口に当てて、まるで秘密を共有するような仕草をした。
「は? はあ……」
俺は若干引き気味に返事を返した。ジョエルさんも昔はそうだったって……なんだか想像がつかない。こんなに落ち着いた大人の人が、俺みたいに恋愛のことで頭がいっぱいになったりしていたなんて。
「で? 話っていうのは?」
ジョエルさんが改めて尋ねてくる。その表情は真剣で、俺の話を本気で聞こうとしてくれているのが伝わってきた。
「あ、はい。実は――」
俺は一度深呼吸をして、意を決した。ここまで来たら、もう話すしかない。
「好きな人がいるんです。その人とは、最近少しずつ仲良くなれてきて……すごく嬉しかったんです。でも、ある日……」
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。真珠の名前は出さずに、でも正直に。カルマ君と一緒にいるところを見てしまったこと。その時に感じた、どす黒い感情のこと。今まで知らなかった嫉妬という感情に支配されて、彼女に酷いことを言ってしまったこと……。
「それで、音楽にも集中できなくなってしまって……弾けるんですけど、何か音楽を逃げ口にしている様な気がして……」
俺は俯きながら続けた。
「彼女は誤解だって言ってくれたんです。でも、俺はその言葉を素直に受け取ることができなくて……なんで早く言ってくれなかったのかとか、本当は俺を騙していたんじゃないかとか……そんなことばかり考えてしまうんです」
話し終えると、空港の雑音だけが耳に残った。ジョエルさんは静かに俺の話を聞いていてくれた。
「なるほどね……」
ジョエルさんがゆっくりと頷いた。
「本来なら信じてあげたいけど、素直になれない感情が邪魔をしているってところかな?」
その通りだった。俺は頷きながら答えた。
「……そう、ですね……謝ってもくれていたし、誤解だとも言われました……でも、だったらなんで、もっと早く言えなかったのかとか、何で彼女を許せないのか、いろいろ考えちゃうんです……」
俺は手元のカフェオレを見つめながら続けた。
「そして俺は、その度にピアノに逃げてました……音楽の世界に閉じこもって、現実と向き合うことから逃げて……でも、それに気づけたからといって、どうすればいいのかなんて俺には分からなくて……」
最後の方は、ほとんど独り言のような声になっていた。俺は完全に俯いて、自分の膝を見つめている。
「なるほど」
ジョエルさんが、深く理解するような声で言った。
「君は彼女を信じたいと思いながらも、不安と疑いが先に立ってしまったんだね……それは当然のことだよ。大切に思っているからこそ、傷つきたくなくて、そんな自分を守りたくて、つい言葉が尖ってしまう。でもね――」
彼は一度言葉を切って、静かにコーヒーを口に運んだ。その仕草がとても優雅で、まるで時間がゆっくりと流れているみたいだった。
「大人になるっていうのはね、自分の気持ちと、相手の事情の両方を受け止める余裕を持つことなんだ」
ジョエルさんの声は、穏やかで深みがあった。
「彼女には彼女なりの"言えなかった理由"がきっとあった。信じたくても、今すぐには聞けなかったこともあるかもしれない」
そう言いながら、ジョエルさんが俺の肩にそっと手を置いてくれた。その手の温もりが、心に染みる。
「君が彼女を責めたのは、自分の気持ちを理解してほしかったからだろう? なら、次は彼女の気持ちを理解する番だ」
俺は顔を上げて、ジョエルさんを見つめた。
「恋というのは、"どちらかが勝つ"ものじゃない。"お互いに譲り合って、育てていく"ものだよ」
その言葉が、胸の奥深くに響いた。お互いに譲り合って、育てていく……俺は今まで、自分の気持ちばかりを主張していたような気がする。
ジョエルさんは少し間をおいてから、優しく付け加えた。
「焦らなくていい。今の感情を知ったこと自体が、君にとっては大きな一歩だ」
俺の心が、少しずつ軽くなっていくのを感じた。
「次に彼女と話すときは、問い詰めるよりも、君がどう感じたかを"素直に伝える"といい。きっと彼女も、君の言葉を待ってると思うよ」
ジョエルさんが優しく微笑みながら言った。その笑顔を見ていると、本当にそうかもしれないと思えてくる。
「言えるでしょうか、俺に……」
俺は不安げに呟いた。
「胸の奥底で、真っ黒な感情が渦巻いてしまうんです……歯止めの利かない怒りが湧いてきて、また彼女を責めてしまうんじゃないかって……」
その感情を思い出すだけで、胸が苦しくなる。あの時の自分が怖い。もう二度と、あんな風に彼女を傷つけたくない。
「優斗君」
ジョエルさんが、俺の名前を優しく呼んだ。
「君が怒ったのは……本当に彼女のことが好きだからなんだよね。だからこそ、"どうしてもっと早く言ってくれなかったのか"って、責めるような言葉が出てしまうんだろう」
言いながら、彼は静かに微笑んでいる。
「でもね――その言葉は、相手の心を閉ざしてしまうこともあるんだ。君が感じた不安や寂しさは、本物だ。否定する必要なんてない」
ジョエルさんは少しだけ視線を落として、続けた。
「でも、たとえ誤解でも、伝え方を間違えていたとしても、彼女なりに一生懸命だったことも、どうか忘れないであげてほしい」
俺の胸に、チクリとした痛みが走った。彼女なりに一生懸命……そうだ、真珠はいつも一生懸命だった。不器用で、時々とんでもないことをするけれど、いつも精一杯だった。
「人は、誰かを好きになると、不安にもなる。嫉妬することもある」
ジョエルさんの声が、より深く響いた。
「けれど、それを相手に"ぶつける"形でしか表現できなかったとしたら……それはまだ、恋に溺れているだけかもしれない」
恋に溺れている……その言葉が、俺の心に刺さった。
そして、ジョエルさんが優しく、俺の核心に触れるように言った。
「大切なのは、"気持ちをぶつける"ことじゃなくて、"気持ちを伝える"ことなんだ」
俺は息を呑んだ。
「『寂しかった』『怖かった』『だから、もっと早く君の言葉が欲しかった』……そう言えたなら、きっと何かが変わっていただろうね」
もし、あの時そう言えていたら……俺たちの関係は、今頃どうなっていただろう。
「優斗君は優しい子だ」
ジョエルさんが、俺の瞳を真っ直ぐ見つめながら言った。
「でも、優しさってね、"想像する力"なんだよ。彼女がどうして、そうせざるを得なかったのか。どうして君に黙っていたのか……想像してあげられる人が、本当に優しい人なんだ」
想像する力……俺は、真珠の気持ちを想像しようとしたことがあっただろうか。自分の不安や怒りばかりに囚われて、彼女がどんな思いでいたのかを考えようとしたことがあっただろうか。
ジョエルさんは穏やかに笑って、そっと俺に語りかけた。
「恋は、正しさよりも、やわらかさを大事にしなさい。謝ることや、許すことは、弱さじゃない。君の"強さ"の証だよ」
重ねてくれた。その手の温もりが、俺の心の奥まで届いた気がした。
「想像する力……」
俺はその言葉を反芻した。そうだ、俺に足りなかったのはそれだった。真珠の立場に立って考えること。彼女がなぜそうしたのか、どんな気持ちでいたのかを想像すること。
胸の奥で、何かがカチッと音を立てたような気がした。まるでパズルの最後のピースがはまったみたいに、今まで見えなかった景色が急に開けた感覚だった。
そうか……俺は今まで、自分のことばかり考えていた。自分がどれだけ傷ついたか、どれだけ不安だったか……でも、真珠だって同じように不安だったかもしれない。言いたくても言えない理由があったかもしれない。
俺がすべきことは、彼女を責めることじゃない。まず、俺自身の気持ちを素直に伝えること。そして、彼女の気持ちを理解しようと努力すること。
「さてと……」
ジョエルさんがゆっくりと立ち上がった。椅子が軽く音を立てて、俺は現実に引き戻される。
「次はこれだね」
そう言いながら、ジョエルさんが近くに置かれたピアノに向かって手を差し出し、俺を促した。その笑顔には、「さあ、君の音を聞かせておくれ」とでも言いたげな温かさがあった。




