第87話 ギフテッド
俺は慌てて頭を下げながら、目の前の男性をちらりと見上げた。
スーツの仕立てがとても上品で、どことなく品格が漂っている。プラチナブロンドの髪が柔らかく額にかかり、青い瞳が穏やかな光を湛えている。整った顔立ちだけれど、それよりも……なんだろう、この感じは。
初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい。まるで昔から知っているような、温かくて安心できる雰囲気があった。胸の奥が、ふわっと暖かくなる。
「ありがとうございました」
俺がもう一度お礼を言うと、男性は首を軽く振った。
「いやいや、こちらこそ素晴らしい演奏を聴かせてもらったよ。久しぶりに心躍るような気持ちになったよ」
その声にも、どこか聞き覚えがあるような……。俺は困惑しながらも、つい男性の顔をじっと見つめてしまった。どうしてこんなに親近感を覚えるんだろう。
「ん?どうしたのかな?僕の顔に何かついてる?」
男性が少し首をかしげて、困ったような笑顔を浮かべた。その表情が、またしても既視感を呼び起こす。
「あ、いえ、すみません!」
俺は慌てて手をひらひらと振った。顔が熱くなってくる。
「なんか初めて会った気がしなくてつい……失礼しました」
正直に言ってしまってから、ちょっと恥ずかしくなった。変な人だと思われないだろうか。でも、男性は驚いたような顔をして、それからにっこりと笑った。
「おや、奇遇だね」
男性の青い瞳が、優しく細められた。
「実は僕も同じ事を考えていてね……特に君のその音色、初めて聴いた気がしなかったんだ」
そう言って、男性は本当に嬉しそうな笑みを零した。その笑顔を見ていると、なぜか胸がじんわりと温かくなってくる。
「そうなんですか?」
俺は驚きながら答えた。
「どこかで会った事があるのかな……でも、お顔に見覚えがないんです」
「かもしれないね」
男性は穏やかに頷いた。それから、はっとしたような顔をして右手を胸に当てた。
「ああ、申し遅れた。僕はディー・ジョエル、ジョエルと呼んでくれ」
そう言いながら、ジョエルさんは俺に向かって小首を傾げた。
「え~と、君は……?」
「あ、僕は天川、天川優斗って言います」
俺は慌てて自己紹介した。
「優斗……?」
その瞬間、彼の表情が変わった。青い瞳が大きく見開かれて、俺の顔をまじまじと見つめ始める。まるで何かを確かめるように、食い入るような視線だった。
「はい、え~と、どうかしましたか?」
俺は首をかしげながら尋ねた。急に真剣な顔になったジョエルさんに、少し戸惑ってしまう。
「ふむ……」
彼は何かを考え込むように眉をひそめた。それから、小さく頭を振って苦笑いを浮かべる。
「まさか……ね」
そう呟いてから、ジョエルさんは俺を見上げた。
「優斗君、良ければ向こうで少し話をしないかい?」
そう言って、彼は空港の壁際にあるベンチを指差した。人通りが少なくて、落ち着いて話せそうな場所だった。
「え?」
俺は困惑した。初めて会ったばかりなのに、どうして話を……?でも、不思議とジョエルさんに対して警戒心が湧かなかった。むしろ、もっと話してみたいという気持ちの方が強い。
「はい。構いませんけど」
何だろうと思いながらも、俺は何となく頷いていた。
ジョエルさんは安堵したような表情を浮かべて、ゆっくりとベンチの方へ歩き始めた。俺もその後を追いかけながら、胸の奥で静かに高鳴る鼓動を感じていた。
この人は、一体何者なんだろう……。
第三ターミナルの奥まった場所にあるベンチに座ると、頭上の大きな窓から柔らかな午前の陽射しが差し込んできた。空港特有の騒音が遠くに聞こえる中、ここだけは不思議と静かで落ち着いている。
ジョエルさんは「少し待っていて」と言って立ち上がると、近くの自動販売機へ向かった。俺は一人ベンチに腰をかけて、辺りを見回してみる。
行き交う人々の足音、遠くから聞こえる搭乗案内のアナウンス、キャリーバッグの車輪が床を転がる音……。いつもの日常とは全く違う、どこか浮遊感のある空間だった。
しばらくすると、彼が戻ってきた。手には二本の缶が握られている。
「はい、カフェオレだよ。甘いものの方が好きかと思って」
俺に向かって、温かそうな缶を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
俺はジョエルさんから飲み物を受け取りながら、丁寧にお礼を言った。缶の温もりが手のひらに伝わってきて、なんだかほっとする。
「どういたしまして」
彼は俺の隣に腰を下ろすと、自分のコーヒーの缶を開けて一口飲んだ。その横顔を見ていると、やっぱりどこか見覚えがあるような気がしてならない。
「君はいつからピアノを弾いているんだい?」
俺の方を向いて、穏やかな声で尋ねてきた。
「え?ああ……」
俺は少し考えてから答えた。
「小学校四年生の頃から……ですかね。幼馴染と音楽の先生が、君には才能があるからって言われて、それで始めたんです」
そう言いながら、俺は思わず照れ笑いを浮かべた。あの頃のことを思い出すと、今でも少し恥ずかしくなる。
「つまり七年前、か……」
ジョエルさんが何かを確かめるように呟いた。それから、急に表情が変わって、小さく笑い始める。
「なるほどね……ふふ、ははは」
最初は控えめだった笑い声が、だんだんと大きくなっていく。まるで何かとても面白いことを思い出したかのように。
「え?ど、どうしました?」
俺は慌ててジョエルさんに聞いた。急に笑い出されて、正直戸惑ってしまう。何か変なことでも言っただろうか。
「まさかこんな事が……」
彼は手で口元を押さえながら、まだくすくすと笑っている。
「ふふふ、いや、すまない。こっちの話だよ、気にしないでくれ」
そう言って俺の方を見ながら、本当に嬉しそうな笑みを零した。
「ちょっと、この出会いを神に感謝したくなってね」
「神様……ですか」
俺はそんなジョエルさんの様子を見ながら返事を返したけれど、正直呆気にとられていた。神様に感謝って、大げさな……。でも、その表情は本当に嬉しそうで、まるで長い間探していた何かを見つけたような、そんな顔をしている。
少しの沈黙が流れた後、ジョエルさんが改めて口を開いた。
「優斗君。君はとても不思議な弾き方をするんだね」
「弾き方……ですか?」
俺は自分の両手を見つめた。特別変わったことをしているつもりはないんだけど……。
「何か癖でもありましたか?」
「いや、すまない、聴き方が悪かったね。打鍵による技術的な話ではないよ」
ジョエルさんは首を振って、俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「きっと君の音楽性なんだろうね。楽曲に対する解釈や表現力とでもいうのかな……」
ジョエルさんが言葉を選びながら続ける。
「音の表情やニュアンスが、他の人のそれとは明らかに違うんだ。まるで音一つ一つに意味があるかのような……大変稀有な才能だよ」
そう言いながら、彼は俺の肩にそっと手を置いた。その優しい笑顔には、本当に心からの喜びが込められているのが分かった。
「才能……」
俺はその言葉を小さく呟いた。才能、か。正直、自分にそんなものがあるなんて思ったことはない。でも、ジョエルさんがそんなに真剣に言ってくれると、なんだか嬉しくなってくる。
「あの、もしかしてジョエルさんってピアニストなんですか?」
俺は思い切って聞いてみた。さっきの演奏を聞いた時の反応といい、今の話といい、普通の人じゃないような気がする。
「ああ、これでも一応ね」
ジョエルさんは少し謙遜するような笑みを浮かべた。
「五歳の頃からピアノをやってるよ」
「五歳から!?」
俺は驚いて声を上げた。
「初めて弾いたのは、母に連れられて訪れた教会でね……」
彼の声が、どこか懐かしそうな調子に変わった。
「あの日の事は今でもよく覚えてるよ。小さな教会で、古いアップライトピアノが置いてあったんだ」
俺は話に引き込まれるように、じっと聞き入った。
「ピアノが物珍しくて、じっと見つめていたら、神父さんが『弾いてみるかい?』って声をかけてくれたんだ」
「それで弾いてみたんですか?」
「ああ。それで鍵盤に指を置いて音を出してみたら……」
ジョエルさんが一度言葉を切って、俺の方を見た。
「目の前で凄い事が起こったんだ」
「凄い事?」
俺は興味津々に身を乗り出した。一体何が起こったんだろう。
「色がね……見えたんだ」
青い瞳が、きらりと光った気がした。
「色……ですか?」
俺は思わず聞き返した。色って、どういうことだろう。
ジョエルさんがゆっくりと頷く。
「一音一音奏でる度に、視界に鮮やかな色が飛び交うのさ」
言いながら手を宙に浮かべて、何かを掴むような仕草をする。
「赤、青、黄色、緑……本当に美しい色が、まるで花火のように舞い踊っていた」
「そんな事が……」
俺は息を呑んだ。
「そうするとね、その光景が目に焼き付いて消えないんだ。音を奏でる度に記憶されて、やがて自在に音が出せるようになった」
「凄い……そんなピアノを弾く人がいるなんて……初めて知りました」
俺は目を丸くして呟いた。
「おそらくだが、君のその才能も僕に近しいものだと思うんだ」
ジョエルさんが俺の目を真っ直ぐ見つめながら言った。
「世の中には、そういった感覚を持った人たちが意外と多く存在しているんだよ」
そう言うとその表情が、どこか誇らしげに変わった。
「実はね、僕の娘もそのうちの一人なんだ」
「娘さん?」
俺は思わず聞き返した。
「ああ、君と同い年くらいのね」
ジョエルさんがそう言って、茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。その仕草が妙に愛嬌があって、俺は思わず笑いそうになる。
「なんか意外です。全然そうは見えませんでした」
確かに、彼は若々しくて、せいぜい二十代後半か三十代前半くらいにしか見えない。
「もっとお若いのかと思ってました……」
「はは、ありがとう」
言いながら彼は嬉しそうに笑った。
「今度娘に会ったら、若く見えると言われたって自慢させてもらうよ」
そんなジョエルさんの愉快そうな様子を見ていると、俺も自然と笑顔になってしまう。きっと娘さんのことを本当に大切にしているんだろうな。
「その娘さんは、どんな才能を持ってる方なんですか?」
俺は興味深く尋ねた。彼と同じような、不思議な力……。
「彼女はね……」
ジョエルさんが少し考えるような顔をしてから答えた。
「自分の歌声を、視覚化できているそうなんだよ」
「視覚化……?」
俺は首をかしげた。
「自分の声が目で見えるっていうことですか?」
「ああ……」
ジョエルさんの表情が、急に遠くを見つめるような、どこか切ない色を帯びた。
「あれは娘が四歳の頃だった……」
声のトーンが、ゆっくりと沈んでいく。
「娘は幼い頃に小児白血病にかかってしまってね」
俺の胸が、きゅっと締め付けられた。
「合併症を起こして、生死の境をさ迷った事があるんだ……」
ジョエルさんがどこか沈痛な笑みを浮かべながら言った。その表情には、当時の辛さや不安が今でも残っているのが分かる。
「奇跡的に助かりはしたけれど……」
彼は一度言葉を切って、深く息を吸った。
「脳に障害が残るかもしれないと、医者に言われたよ」
「そんな……」
俺は思わず声を漏らした。まだ四歳の小さな女の子が、そんな大変な思いをしていたなんて……。胸が痛くて、何と言葉をかけていいか分からない。
「その後、ASD……自閉スペクトラム症と診断された」
ジョエルさんが続ける。
「でも、生活に支障はない軽微なものだと言われてね。娘にはその事を伝えずにいたんだ」
その声に、深い愛情が込められているのが分かった。
「彼女には余計な心配をかけずに、のびのびと思うがままに生きて欲しかったからね……」
俺は黙って頷いた。きっと、親としてとても悩んだ決断だったんだろう。
「でも、ある日ね……」
ジョエルさんの表情が、今度は優しく変わった。
「喋れるようになった娘が、僕に言ったんだ」
空を見上げながら、懐かしそうにそう呟く。
「『あのねパパ、ママみたいに歌うとね、私の声に色のついた光の粒が飛ぶんだよ』ってね」
「色のついた……光の粒……」
俺はその言葉を聞いて、思わず息を呑んだ。口の中で反芻するように、そっと呟いてしまう。
ジョエルさんの話には、どこか懐かしい響きがあった。けれど、その内容はまるで夢かファンタジーの話みたいで、俺の頭ではうまく処理しきれない。でも、なぜかとても……とても大切な話のような気がした。
「ふふ、信じられないといった顔をしているね」
言いながら俺の顔をちらりと見て、彼は苦笑いを浮かべた。
「僕も最初は『子どもらしい空想』だと思ったんだ」
ジョエルさんが首を振る。
「けどね、その時の娘の目が……本当にまっすぐで」
続くその声が、温かく柔らかくなった。
「見えもしないものを見ている子どもの目って、あんなに澄んでいるんだなって思ったよ」
俺は喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じながら、曖昧に頷いた。それと同時に、『子どもらしい空想』という言葉の中に、どこか自分を重ねてしまう。
「こんな風にも言っていたよ。『歌うとね、私の声に色のついた光の粒が、聴いてくれる人たちに飛んでいくんだよ、だからどんな色を届ければ皆が喜ぶか分かるの!』って」
ジョエルさんが続ける。
「娘は本当に嬉しそうに話してくれた。まるで……それが当たり前のことみたいに」
「……それって」
俺の声が少しだけ震えた。
「さっき教えてくれた、共感覚……ですか?」
「多分ね」
ジョエルさんがゆっくりと頷いた。
「それに、ASDを発症した人の中には、特定の分野に強い関心を持って、そこへの集中力や探究心が非常に高い場合があるらしくてね」
ジョエルさんが肩を竦めながら説明する。
「その分野で類まれな才能を発揮することがあるそうだ。まあ、その分苦労する面も多いそうだけれど」
「苦労……ですか?」
俺は心配になって聞いた。
「イマジネーションの障害とも呼ぶべきかな」
ジョエルさんが少し考え込むような表情を見せた。
「特定の事に対して強いこだわりをもつせいか、物事を限定的に捉えがちで、大局的に考えられなかったりね……よく言うだろ?木を見て森を見ずってね。それに他者よりも感覚が過敏なせいもあって、感情的な側面へ異常な関心を示してしまうんだ……」
ジョエルさんの声に、少し疲れたような響きが混じった。
「そのせいで、相手に伝えるべき事がおろそかになりやすくて……昔はよく『パパ、なんで分かってくれないの!』って、泣きながら理不尽に怒られたもんさ」
ジョエルさんが苦笑いを浮かべながら言った。
「大変だったんですね……」
俺は心から同情して言った。きっと親として何度も言い聞かせ、教えてきたに違いない。その思いは俺にもよく分かる。
幼い頃、知的障害だと告げられたことがある俺にとって、両親は根気よく教え導いてくれた。決してあきらめず、ずっと側で寄り添い続けてくれたのだ。
「いや……僕よりきっと、彼女の方が大変だったと思うよ」
ジョエルさんが悲しそうに笑った。
「どうすれば自分の考えが伝わるのか、彼女なりに小さい頃から悩み苦しんでいたからね……」
伝えたいのに伝わらない……。俺も、そんな経験がある。簡単に言葉にできるはずの事が、どうしてもうまく表現できない。相手に分かってもらえない。そんな時の、あのもどかしさ……。
どんなに辛かっただろう。特に、まだ小さな子どもだったら……。
「普通の人にはできて当たり前のことが、彼女にはできなかったんだ」
ジョエルさんが続ける。
「自分が悪いと分かっていても、それをうまく伝えることができない。辛くないはずがないさ」
ジョエルさんの声が、少し震えた。
「そのせいで、よく自分の感覚に圧倒されて、落ち着くために部屋に閉じこもる事も多かった」
ジョエルさんの目元に、うっすらと涙が浮かんでいる。
「両耳をふさいで蹲って、僕たちに悟られまいと必死に泣き声を押し殺してね……」
俺の胸が、ぎゅっと痛んだ。そんな小さな女の子が、一人で部屋で泣いている姿を想像すると、胸が締め付けられそうになる。
「でもね」
ジョエルさんが涙を拭いながら、今度は本当に優しい笑顔を見せた。
「それでも彼女は真っ直ぐ育ってくれた。優しくて明るい、素直でいい子にね」
ジョエルさんの声に、深い愛情と誇りが込められている。
「そして、そんな彼女だからこそ、神様はギフトをくれたんだと、僕は思っている」
「ギフテッド……」
俺は小さく呟いた。
「神様からの贈り物……聞いた事があります」
ジョエルさんがゆっくりと頷く。
「音や言葉に『色』を感じるタイプの人はいるらしいけれど、彼女の場合は『声』そのものに色があったと言っていた」
ジョエルさんが一度言葉を切って、俺の目を見つめた。
「しかも……それが『誰かの心にくっつく』って」
「……心に?」
俺はうまく言葉にならなかった。でも、なんだろう。俺の中で、何かが妙にざわついていた。
今までの話、そして歌に色があって、しかもそれが『心にくっつく』……?
なんでそんな表現に、こんなにも俺は惹かれているんだろう。まるでそれを、前から知っているような……。
「その娘さん……」
自然と、そう訊いていた。
「今も歌ってるんですか?」
何か……もっと知りたい。自然とそう思った。
ジョエルさんは、どこか目を細めて、静かに頷いた。
「ああ。歌ってるよ」
ジョエルさんの声が、とても優しく響いた。
「音楽の世界にいるからね、今も。昔と同じように、『自分の世界』の中で音を紡いでる」
ジョエルさんが空を見上げる。
「誰かの心を照らしながら……ね」
その瞬間、ふわっと、鮮やかな風景が、脳裏に浮かんだ気がした。
夜空に輝く、一つの星。
『じゃあ……君は僕の一等星になってくれる?』
遠い過去に、俺が放った言葉だった……。
空港の喧騒が遠のいて、世界がゆっくりと静寂に包まれていく。
俺の心の奥で、何かが静かに響いていた。
まるで、失くしていた大切な記憶の扉が、そっと開かれようとしているかのように……。




