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第86話 はじめからそこにあったもの

 放課後の夕陽が、校舎の窓ガラスを赤く染めていた。


 俺は三階の教室で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。さきほどの真珠との会話が、まだ頭の中をぐるぐると回っている。あの時の彼女の表情……久しぶりに見た気がする。


 あれは?


 校門の前に、何やら人だかりができているのが見えた。目を凝らすと……やっぱりだ。昨日と同じように、そこにはカルマ君の姿があった。


「カルマ君……」


 思わず口に出してしまった彼の名前が、静かな教室に響く。また真珠の迎えに来ているのだろうか。胸の奥で、何かが疼いた。


 無意識に胸を押さえている自分に気づいて、俺は慌てて手を下ろす。何をやってるんだ、俺は……。


 窓から見下ろす光景では、制服姿の生徒たちがカルマ君を取り囲んでいる。その中心で、真珠とカルマ君が何やら話をしているようだった。二人の距離が、なんだか近く見えて……。


「優斗……?」


 突然声をかけられて、俺は振り返った。そこには梢がいる。いつものように上品な微笑み。でも、その目の奥に、さっき真珠が言ったように、何か急いでいるような色があるのが気になった。


「それで……私と一緒に来てくれるわよね?」


 梢の言葉に、俺は返事に困ってしまった。千秋のこと……この前は突然泣き出した彼女を慰めただけで、その後落ち着かせてから家まで送っただけだ。正直、あの状況で自分が今の千秋のために何ができるのか分からない……。


 俺が悩んでいると、梢がゆっくりと俺の隣に歩み寄ってきた。同じように校門の方に目を向けて、薄く笑みを浮かべる。


「あら……仲が良いこと」


 梢の声には、どこか皮肉めいた響きがあった。


「あの二人、美男美女で絵になるわよね。優斗もそう思わない?」


 その言葉が胸に刺さる。確かに、遠目から見ても二人は絵になる組み合わせだった。カルマ君の整った顔立ちと、真珠の美しい白金色の髪……。


「……そう――」


 俺がそう答えかけた時だった。


 校門前の光景に、何か異変が起きたようだ。さっきまで真珠と話していたカルマ君が、なぜか固まっている。そして真珠は……さよならするように手を振っている?


「……え?」


 梢が眉をひそめて、小さく声を漏らした。俺も目を見開いて、その光景を見つめる。


 瞬間、俺の脳裏に今日の真珠の言葉が浮かび上がった。


『とにかくカルマ君とは何もないから!誤解させるようなことして本当にごめん!』


 あれは……本当に……。思わず自分でもハッとした。


 口元が緩みそうになって、慌てて手で軽く押さえる。


 なんだこれ……安堵したような、どこか嬉しくて、こそばゆい感覚……。


 真珠は本当にカルマ君とは、何もなかったのか……。そう思った瞬間、ハッとした。


 ……今の俺は、真珠に対して同じように誤解させるような事をしているんじゃないか。梢と一緒にいて、千秋の話に付き合って……二人っきりになって……。


 何をやってるんだ俺……。


「フン……」


 梢が小さく鼻を鳴らして、俺の方を見た。


「まあいいわ、優斗。行きましょう」


 その瞬間、俺は梢に背を向けた。


「ちょっと、優斗?」


 背後で梢の困惑した声が聞こえる。でも、俺はもう決めていた。


「ごめん梢……」


 振り返らずに、俺は口を開いた。


「千秋の事は心配だよ。でも、今の俺じゃ千秋の力にはなれない。それに……」


 言いかけて、少し躊躇する。でも、言わなければならない。


「この前みたいに二人っきりにさせられるのも困るから……本当にごめん」


 そう言って、俺は歩き出した。


「優斗っ!?」


 梢が慌てたような声で呼びかけてくる。でも、俺はそれ以上返事を返さず、教室を後にした。


 廊下を歩きながら、胸の奥で何かがわずかに晴れていくのを感じていた。ようやく、少しだけ前に進めたような気がする。


 夕陽が廊下の窓を赤く染めて、俺の影を長く伸ばしていた。






 夜の九時を回った頃、俺は自室のデスクの前に座っていた。


 夕食と風呂を済ませ、いつものようにPCに向かっている。画面にはDAWソフトが立ち上がっていて、無数のトラックが縦に並んでいる。ピアノ、ストリングス、ドラム、ベース……それぞれの波形が、まるで俺の心の波紋のように揺れて見える。


 マウスを手にしながらも、俺の頭の中は今日起きた出来事でいっぱいだった。真珠との会話、梢を断った時の気持ち、そして……千秋のこと。


 マウスを握る手に力が入らなくて、俺はそれをそっと机に置いた。


「千秋には悪い事したかな……」


 思わず口に出して、俺は深くため息をついた。


 話だけでも聞いてあげるべきだった。それが、人として当たり前のことだったんじゃないか。


 でも……正直あの時は感情が先だったけど、千秋が言っている事が真実だと確証があるわけじゃない。確かに浅間は警察に逮捕されてるようだけど……。


 それに、俺は真珠にあんな責めるようなことを言ったんだ。『どうして話せないんだ』って。そんなことを言っておいて、今度は俺が誤解を招くような行動をとるのは、あまりにも身勝手すぎるような気もする。


「はぁ……」


 深いため息が、胸の奥から押し上げられてくる。椅子の背もたれに体重を預けて、天井のシーリングライトを見上げた。白くて冷たい光が、俺の迷いを照らし出しているようだった。


 ふと、今日の真珠の姿を思い浮かべる。


 なんだか久々に、いつもの真珠の姿を見た気がする。突拍子もなく予想外の行動、ちょっと強引だけど、真っ直ぐなあの瞳で訴えかけてくる……俺がよく知っている真珠そのものだった。


「寿司に筋って……ぷっ」


 思わず苦笑いが漏れる。あの時の真珠の慌てふためいた様子が頭に浮かんで、胸の奥が少し温かくなった。


 でも、その笑みも直ぐに搔き消え、その後で思い出されるのは、カルマ君と一緒にいた真珠の姿だ。


 あの時、俺は真珠に裏切られた気がした。今までの真珠は全て計算づくで、千秋のように俺を騙していたんじゃないかって……全てが嘘だったんじゃないかって……。


 ……千秋と付き合っていた時には知りもしなかった感情……どす黒くて、思わず目を背けたくなるような……得たいの知れない感情に、心が染まりそうになる。


 だって、千秋の時はただただ孤独しかなかったから……。


 暗闇の中で、急に手を離されたような恐怖しかなくて、すがるような絶望しかなかったんだ。


 でも、今回はそれと明らかに違う。


 どうしても思い出すたびに、あの光景が頭から離れない。胸の奥が、ぐにゃぐにゃに捻じれたみたいで、息がつまる。


 真珠がカルマ君と一緒にいるのを見た時、体は煮えたぎるように熱くなり、俺の心は不安で真っ黒に染まった。


 あの時の感情が蘇ってくる。胸が苦しくなって、俺は思わず胸を押さえながら俯いた。


 俺が見ていない所で、真珠はカルマ君にどんな顔をしていたんだろう……俺には見せない笑顔とか、あったのかな……。


「っ……!」


 そう考えた瞬間、俺は思わず首に下げてあったヘッドフォンを、慌てて耳に掛けた。


 だめだ、考えるな‥‥…!頭の中にフィルターを掛けて、雑音を排除して音に集中して……。


 だが、再びマウスを手に取り曲を再生しようとして、俺の人差し指は止まった。


 これって……。


 そう、あの時八王子オクトーレで演奏した時と同じ……。


 ひょっとして俺……逃げて……ないか……?


 この得体のしれない感情から、音だけは俺を裏切らない――そう信じて……。

 

 でも、悪いのは俺を裏切った真珠なんだ……そしてあんな態度を取り続けたカルマ君が……。


 そうだ、俺は今まで散々辛い思いをしてきたのに、真珠やカルマ君はそんな俺に……。


 不意に、真珠の声が頭の中を過った。


『優の事は信じてるから。何か理由があるんだよね。今ならよく分かる……だから、優が話せる時でいいよ』


 信じてる……俺を?


 じゃあ俺は……俺は彼女を信じる事が、できていたのか……?


『違うの!これは誤解なの!』 


 あの日、真珠は初めから言っていた、誤解だって……。


 なのに、俺はそんな真珠に言ったんだ。


『……君は、僕の音の……邪魔だ』


 なんで、あの時、真珠の話を聴こうとしなかったのか……。


 聞いても嘘だと思ったから?いや、違う……そうか……俺、そう思いたかったんだ……。


 そう思ってしまえば、全て諦めてしまえば、俺には音楽さえあればいいって……。


 だって、そう思えば楽なんだ。苦しいことから目を背けて、音の世界に逃げ込めば、後はみんなが守ってくれる。これまでのように、何とかしてくれる。そんな気がしたから……。


 そう、高校に入って挫折して、ボカロPとして活動し始めた時のように……暗い部屋の中、誰かが見つけてくれるのを、誰かが声をかけてくれるのを、ただひたすら待っているだけの、俺……。


「でも……」


 俺は自分の手を見つめた。再びピアノを弾いたこの手。真珠と初めて手をつないだ時の記憶が、指先に蘇ってくる。


 苦しくても、辛くても、目を逸らすべきじゃなかったんじゃないか……。それが、本当に大事なものなら……。


 彼女が平気で嘘をつくような子じゃないってことは、近くで見てきた俺が一番よく知っている。彼女が千秋みたいに器用に立ち回れる子じゃないことくらい、俺にも分かっていたじゃないか。


 不器用だけどひたすら真っすぐで、失敗しても諦めない、あのひたむきな思いを、誰よりも側で感じていたのは、俺だったはずなのに……。


 だって、真珠は俺を元気づけるために学校まで転校してきてしまうような子で……。


 初めて学校に転校してきた真珠のことを思い出して、思わず口元が緩みそうになる。


 そう、そうだった。真珠は本来そういう子だった……。


 俺を見つけるために全校生徒の前で歌い出したりするような、そういう子だ。


 何でそんな大事なことを、俺は忘れていたんだろう……。


「そういえば真珠、今日言ってたっけ……」


 『私、こういうの本当に初めてで、ほんとちゃんとできてなかったんだなって……』


 彼女の言葉が、胸に響く。


 そっか……初めての感情……そういう事だったんだ。


 俺……嫉妬、してたんだな。俺も……真珠と同じだったんだ。


 俺は初めて人を本気で好きになることで、自分でも気づかないうちに臆病になっていたんだ。


 千秋と付き合っていた時の、捨てられるかもしれないという支配的な恐怖とは違う。


 今度は、人を好きになることで傷つくことや、失敗することを恐れていたんだ。


 だから逃げた。目を背けた。そして……大事なものを見失いそうになった。


 ふうっと小さく息を吐くと、俺は立ち上がり、窓に向かった。カーテンを開けると、そこには夏の夜空が広がっている。


 窓を開けると、涼しい夜風が頬を撫でていく。見上げた夜空には、無数の星が瞬いている。雲がゆっくりと流れて、星座の形を変えていく。


 その時だった。


「あ……」


 分厚い雲の隙間から、ひときわ明るく輝く星が姿を現した。


 スピカ……。


「はは……そっか」


 俺は思わず声に出して笑った。


「最初からそこに、あったんだ……」


 雲に隠れていただけで、その星はずっとそこにあった。目を逸らさなければ、ちゃんとそこにあるんだ。あの一等星と同じように……真珠も。


 俺はその星に向かって、そっと手を伸ばした。指先が夜空に触れるような、そんな不思議な感覚を覚える。


 真珠は俺にたくさんのものをくれた。失ったはずの音、本当の居場所、支え合うことのできる仲間たち。そして、本当に人を好きになるという気持ちも……。全部、彼女がくれたものだ……。


「貰ってばかりだな……俺」


 窓辺に両腕を組んで体を預けると、夏の夜風が前髪をサラサラと撫でていく。


 不思議だった。久しぶりに真珠のことを素直に思い浮かべているのに、胸が苦しくない。むしろ、温かくて穏やかな気持ちになっている。


 部屋の時計が、静かに時を刻んでいる。外からはスズ虫の鳴き声が微かに聞こえてきて、夏の夜の静寂を物語っていた。どこかの家の窓に明かりが灯っている。この街のどこかで、みんなそれぞれの夜を過ごしているんだろう。


 俺もその一人として、今夜はゆっくりと自分の気持ちと向き合えた気がする。


 明日から生ライブ本番まで連休だ。少し時間をかけて、本当に大切なものが何なのか、もう一度考え直してみよう……。


 星空を見上げながら、俺はそんなことを思っていた。心の中で、何かが静かに変化していくのを感じながら。






 ブルルル、ブルルル……。


 まどろみの中から聞こえてくる、けたたましい着信音に意識を引き戻された。枕元で震えるスマホの振動が、ベッドのスプリングに伝わって小刻みに響いている。


 俺は目を擦りながら、ぼんやりとスマホの画面を見た。時計の表示は午前七時ちょうど。寝室のカーテンの隙間から差し込む朝の光が、うっすらと部屋を照らしている。


 今日から二連休だというのに、こんな朝早くに誰だろう……。


 まだ眠気が残る頭で着信画面を確認すると、そこには『拓哉』の文字が表示されていた。


「拓哉……?」


 思わず小さく呟いて、俺はスワイプして通話ボタンを押した。


「ふぁい……?」


 かすれた声で応答する。まだ完全に目が覚めていなくて、声帯の調子もいまいちだった。


『おっはよ~優斗!朝だぜ~!』


 スピーカーから飛び出してきたのは、拓哉の異常なまでに元気な声だった。俺の眠気なんてお構いなしに、朝の静寂を破って響いている。


『ふぁぁ~……拓哉……おはよぉ……』


 俺は片手で目を擦りながら、もう片方の手でスマホを持ち直した。寝癖で髪がボサボサになっているのが、指に触れて分かる。


『おいおい、休みだからってたるんでんなよ。シャキッとしろって、シャキッと』


 拓哉の声には、まるでどこぞの教官のような威勢の良さがあった。


「はぁ……北斗が二人いる気分だよ……」


 俺は深くため息をついて答えた。どうして俺の周りには、こうも朝から元気な奴らが多いんだろう。


『北斗??』


 拓哉が疑問の声で聞き返してくる。


「何でもない……」


 俺は苦笑いを浮かべながら、ゆっくりとベッドから起き上がった。背伸びをすると、背骨がポキポキと音を立てる。


「それで?何かあったの?こんな朝早くから電話してくるなんて、何か緊急事態?」


『緊急事態だよ!実はさ』


 拓哉の声が一気に興奮した調子に変わった。


『今日成田空港から、あの、フライング・アイ・ホスピタルが離陸するらしいんだよ!』


「フライング・アイ……何?」


 俺は眉をひそめて聞き返した。まだ頭がボーッとしていて、拓哉が何を言っているのかよく分からない。


『バカ、ホスピタルを付けろでこすけ野郎!フライング・アイ・ホスピタルだ!』


 でこって……。


 拓哉が俺を小馬鹿にするような口調で説明する。


『世界にたった一機しかない貴重な医療航空機なんだぞ!知らないのか?』


 拓哉の熱量に押され気味の俺は、とりあえず相槌を打った。


「そ、そうなんだ……」


 正直、全然興味がわかない。飛行機には詳しくないし、医療用だろうが何だろうが、俺には同じに見える。


『こんなチャンス滅多にないんだぞ?これはもう撮るしかないだろ!な?優斗もそう思うだろ?』


 拓哉が確信に満ちた声で聞いてくる。どうやら俺を巻き込む気らしい。


「うーん……」


 俺は頭をかきながら躊躇した。


「ちょっと曲の最終調整とかしなきゃいけないしな……」


 何とか断ろうとして、適当な理由を並べる。本当は、今日くらいはゆっくり休んでいたかった。


『そんなこと言うなよ~』


 拓哉の声が甘えるような調子に変わった。


『成田空港にもストリートピアノあるしさ、ついでにどうよ?気分転換にもなるじゃん』


「ピアノか……」


 その言葉を聞いて、俺はふと窓の方を見た。カーテンの隙間から見える空は、雲一つない快晴だった。青い空が広がっていて、夏の陽射しがキラキラと輝いている。


 確かに、こんな天気の良い日にピアノを弾くのも悪くないかもしれない。昨夜の事で、少しモヤモヤした気持ちも残っているし、気分転換にはちょうどいいかも……。


「……うん、分かった」


 俺はクスリと笑いながら答えた。


「一緒に行くよ」


『おっし!決まりだな!』


 拓哉の声が一気に弾んだ。


『んじゃあ待ち合わせは……えーっと、成田空港第三ターミナルの……』


「うん――」


 俺は拓哉の説明に相槌を打ちながら、既に頭の中で今日の予定を組み立て始めていた。顔を洗って、朝食を済ませて……。


『時間は十時頃でどうだ?』


「十時……OK、間に合うよ」


 俺はベッドから完全に立ち上がって、クローゼットに向かった。


『よし、じゃあそれで決定!楽しみにしてるぜ~』


「あ、それと拓哉」


 通話を切る前に、俺は付け加えた。


「その……ホスピタルとかってやつ、撮れたら俺にも見せてよ」


『おお、興味出てきたか!?まかせとけって!』


 拓哉が嬉しそうに答える。


『フライング・アイ・ホスピタルだからな?ちゃんと覚えとけよ~』


「はいはい……」


 俺は苦笑いしながら通話を切った。


 急に静かになった部屋で、俺は大きく伸びをした。窓から差し込む朝日が、思ったより明るくて眩しい。


 予定のなかった休日に、突然できた外出の約束。なんだか久しぶりに、ワクワクするような気持ちになってきた。


 昨日までの気分が嘘のように軽くなって、俺は足取りも軽やかに支度を始める事にした。






 午前十時少し前、俺は成田空港第三ターミナルの巨大なエントランスホールに立っていた。


 休日の影響もあって、ここは人でごった返している。スーツケースを引いた家族連れ、バックパッカー風の若者たち、出張らしきビジネスマン……様々な国籍の人々が行き交って、まるで小さな国際都市のような賑わいを見せていた。


 天井は吹き抜けになっていて、そこから差し込む自然光が床のタイルに幾何学的な影を落としている。空港特有の、どこか非日常的で浮遊感のある空間が俺を包んでいた。


「えーっと……」


 俺は片手にスマホを持ちながら、周囲を見回した。普段あまり来ない場所だから、建物の構造がよく分からない。案内板を見ながら、拓哉と待ち合わせしているストリートピアノの場所を探す。


 アナウンスが英語、日本語、中国語で次々と流れて、その間を縫うように足音や会話声、キャリーバッグの車輪の音が響いている。


 しばらく歩いていると、やがて俺の視界に色鮮やかなものが飛び込んできた。


 そこには、カラフルなアートが施されたグランドピアノがあった。ボディ全体に虹色のペイントが施され、まるで子供たちが思い思いに絵の具をぶちまけたような、自由で開放的なデザインだ。


 そして、そのピアノの前で大きく手を振っている人影が見える。


「おっす優斗!」


 拓哉の声が、空港の雑踏の中でも一際大きく響いた。相変わらず元気いっぱいで、周りの人たちが振り返るほどだ。


「おはよう拓哉。お待たせ」


 俺は苦笑いしながら彼に近づいた。


「朝言ってたフライング……えーっと、何とかってやつはまだ大丈夫なの?」


「てめえわざとか!フライング・アイ・ホスピタルだ!」


 拓哉が大げさに胸を張って訂正する。


「それがさ、正確な離陸時間が分からないんだよ。ネットで調べても、時間書いてなくて……」


 拓哉の声には、明らかに焦りが混じっていた。肩にかけたカメラバッグを何度も持ち直している。


「行ってきたら?俺はここでピアノ弾いて待ってるよ」


 俺はピアノを指差しながら言った。


「悪いけど、そうさせてもらうわ」


 拓哉が安堵の表情を浮かべて、俺の肩にポンと手を置いた。


「一応、三脚とカメラだけそこに設定して置いてるからさ。動画の撮り方は前に教えたから覚えてるだろ?もし何かいい場面があったら撮っといてくれよ」


「うん、大丈夫」


 俺は拓哉の頼みを快く引き受けた。


「そのホスピタル?撮れるといいね」


「やっぱわざとだなお前!」


 拓哉がにやりと笑いながら、わざとらしく怒ったような声を出す。


「じゃあまた後でな!」


 そう言って、拓哉は手をひらひらと振りながら人混みの中を駆け足で去っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺は一人でピアノの前に立った。


 誰も弾いていない状態のピアノに、そっと近づく。黒と白の鍵盤が、上からの照明を受けて静かに光っていた。


 その時だった。


 ギィィィィィン!


 突然、耳をつんざくような金属音が辺りに響いた。びっくりして音の方向を見ると、天井付近で空調工事をしている作業員が、脚立に乗ってドリルで穴を開けているところだった。


「工事中か……」


 俺はそれを見て苦笑いを零した。こんな騒音の中でピアノを弾くのは、少し気が引ける。でも、せっかく来たんだから……。


 椅子に腰かけて、ペダルの位置や椅子の高さを自分に合わせて調整する。指のストレッチを軽くしてから、鍵盤にそっと指を置いた。


 通り過ぎる人々が、何をするつもりなのかと奇異の目を向けてくる。でも、俺は気にしない。指を滑らせて、まずはハノンの練習曲から始めることにした。


 ハノン・ル・ピアニスト第一番。指の独立性を高めるための基礎練習曲だ。


 右手でアルペジオを奏でながら、左手で安定したベースラインを刻む。指先に込める力の配分、手首の柔軟性、そして何より音の粒立ちを意識しながら、機械的になりがちな練習曲に表情を与えていく。


 ド、ミ、ファ、ソ、ラ、ソ、ファ、ミ……


 単純な音階の組み合わせが、俺の指先から流れ出していく。でも、工事の音のせいでピアノの音は分散されて、道行く人々はほとんど振り返りもしない。


 それでも俺の耳には、雑音は雑音として、ピアノの音はピアノの音として、ちゃんと区別されて聞こえていた。心に直接伝わるような……この能力は、昔から俺が持っていた特技の一つだった。


 十六分音符のパッセージが流れるように指先から紡がれて、機械的な反復練習が次第に音楽的な表現へと昇華されていく。空港という非日常的な空間に、クラシックピアノの音色が静かに響いていた。


 やがて一曲目の演奏が終わりに近づいた頃……。


 ――パチパチパチ。


 突然、俺の背後から拍手が聞こえてきた。


 こんな騒音だらけの環境なのに、聞いている人がいたことに驚いて、俺は振り返った。


 そこには、背の高い三十代くらいの外国人男性が立っていた。


 印象的な青い瞳と、清潔感のあるプラチナの髪。スラリとした姿勢に、上品なネイビーのスーツ。どこか紳士的な雰囲気を漂わせている。


 男性は柔和な笑みを浮かべながら、俺に近づいてきた。


「Magnifique!」


 彼は流暢なフランス語を口にしてから、日本語に切り替えた。


「素晴らしい演奏だね……とても心地よい音色だった」


 その優しそうな笑顔に、俺はどこか懐かしさを覚えた。初対面のはずなのに、なぜかずっと前から知っているような……そんな不思議な感覚。


「あ、ありがとうございます……!」


 俺は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。


 空港の喧騒が遠のいて、まるで時間が止まったような静寂がその瞬間を包んでいた。白金色の髪を持つ男性の青い瞳が、俺を興味深そうにじっと見つめている。


 その瞳の奥に、何か特別な意味が込められているような気がして、俺の心臓は静かに高鳴り始めていた。



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