第85話 変化への一歩
放課後のホームルームが終わると、教室に響いていた担任の先生の声が止み、生徒たちがざわめき始めた。椅子を引く音、教科書をまとめる音、友達同士の明日の約束を交わす声……いつもと変わらない風景。でも、私の心臓だけは、太鼓のように激しく鳴り続けていた。
私は自分の席に座ったまま、膝の上で握りしめた手のひらに汗がにじむのを感じていた。
今日は朝からずっと、優と話せていない。いつもなら朝の挨拶だけでも交わすのに、今日は顔すら合わせてもらえなかった。廊下ですれ違う時も、優は違う方向を見ていた。そうだよね……でも仕方ない。私は、それだけのことをしてしまったから……。
でも、もう昨日までの私とは違う。
パパとママと話せて、自分がずっと何に悩んでいたのか、その意味をちゃんと理解できた今、頭の中がこんなにもスッキリしている。モヤモヤしていた霧が晴れたみたいに、自分が何をすべきか、考えなくても今すぐ動けそうな気がする。だからこそ、今こうして授業が終わるこの時を待っていたのだ。
チラリと優の方を見ると、彼もカバンに教科書をしまって帰り支度を始めている。背中越しでも、なんだか元気がないのが分かる。肩が少し落ちていて、動作もいつもより遅い。
私のせい……。
胸がキューッと痛くなったけれど、今度は逃げない。今度こそ、ちゃんと向き合うんだ。
チャンスは一度きり……よし、今だ!
私は勢いよく席を立ち上がると、優の元へと駆け出した。まだ片付けをしている生徒たちの間を縫って、一直線に優の席へ向かう。
優の机の前で止まると、私は両手を机の上に勢いよく置いた。
バンッ!
その音に、優がビクッと肩を震わせて振り返る。
「えっ……?」
優の目が見開かれる。困ったような、驚いたような、でもどこか安堵したような……複雑な表情。
「優!」
私は力強く彼の名前を呼んだ。この一声に、私の全ての想いを込めて。
「なっ……!何……?」
優はびっくりした後、またすぐに気落ちした顔になる。私の顔を見て、何かを思い出したような、苦しそうな表情。
でも、私はもう迷わない。
優の手を、ぎゅっと握った。
「えっ?ちょっと……」
優がたじろぐ。手を引こうとするけれど、私は離さない。この手の温もりを、もう一度ちゃんと感じたかった。
「ごめん!ちょっとこっち来て!」
私はそう言いながら、優の手を引いて教室を飛び出した。
「うわぁっ!」
廊下に出ると、私たちの突然の登場に他の生徒たちがざわつき始める。
「あ、スピカだ……」
「なんか慌ててない?」
「何かあったの?」
廊下を歩いている生徒たちが、私たちを見て道を開けてくれる。
「みんなごめん!ちょっと道開けて!」
私は声をかけながら、優を引っ張って走り続けた。
「力強っ!ちょ、ちょっと真珠!」
優が叫んでいるけれど、今は止まれない。人気のない場所まで行かないと、ちゃんと話せない。
校舎の端っこの、普段あまり人が来ない階段の踊り場まで来て、私はようやく立ち止まった。そして勢いよく振り返って、優に向き直る。
「優!」
私は彼の名前を呼ぶと、そのままジャンプして……
ドゲザーッ!
完璧な土下座を決めた。
「えっ!えぇぇぇぇっ!ちょっ!何やってんの真珠!?」
優が大慌てで慌てている。その声だけで、どれだけびっくりしているかが分かる。
「何って、土下座!Japanese DO・GE・ZA!」
私は土下座したまま、力強く宣言した。
「いや知ってるよ!見れば分かるよ!ていうか英語なまりで言わなくても分かるよ!そうじゃなくて……」
優が混乱している。でも、もうちょっと待って!
「ごめんなさい優!」
私は頭を床にこすりつけるようにして、心の底から謝った。
「なっ……!だ、だから、一体なんで……」
優の声が困惑している。
私は顔だけを上げて、必死に訴えた。
「これじゃダメか……あ、裸か!裸で土下座した方がいい!?」
「ぶっ!どこ情報だよ!そんな習わし日本にないから!」
優が慌てて否定する。
「へ?北斗が土下座ならこれだって前に……」
「あ、あいつ……」
優が頭を抱えてうなだれる。あれ……?違った?
「と、ともかく!私、優に謝りたいの!」
「あ、謝りたいって、何を……?」
優が困ったような顔で聞いてくる。
「うん……」
私はうつむいて、ゆっくりと口を開いた。
「あのね……私、最近ずっと空回りしちゃってて……その、優のこと、たくさん傷つけちゃって……」
言葉にしようとするけれど、うまくまとまらない。頭の中では分かっているつもりなのに、いざ声に出そうとすると、どこから話せばいいのか分からなくなってしまう。
「落ち着いて……とりあえず立ちなよ」
優が手を差し伸べてくれた。その手を見て、また胸がキューッとなる。
うぅ……優の優しさが痛い……。
私はその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがと」
膝をぽんぽんと払いながら、私は優に向き直った。
「えーとあのね……私、昨日パパとママと色々話したの……その、私に何が足りなかったのか」
昨夜のことを思い返す。パパとの電話で全てを打ち明けたこと、そして私が優との事でちゃんとしなければいけなかったこと……。
「私、こういうの本当に初めてで、ほんとちゃんとできてなかったんだなって、今さらながらに分かったんだ……」
私は苦笑いを浮かべながら続けた。
「こんなことなら、もっと恋愛とかもっとちゃんとしてれば良かった……普通の女の子みたいに、色々なこと経験してれば……そしたらもっと気遣いだってできたと思う。今まで、モデルと歌うことしか考えてこなかったから……」
「恋愛って……いや……それはちょっと困るというか……」
優が困った顔をした。
「ん?」
私は小首を傾げた。
「あ、な、なんでもない……」
優が慌てて手を振る。顔が少し赤くなっているような……?
「そっか……と、とにかくね、私もっといろいろ考えて行動しなきゃなって思って。今まで思ったままに動いてたから、それだけじゃダメだって思ったんだ」
私は小さく息を吐いてから、優の目をまっすぐ見つめた。
「こほん……私、カルマ君とは何もないから!」
ハッキリと、言うべきはずだった言葉を口にした。
「えっ!そ、それは……でも、真珠はカルマ君と……」
優が言い淀む。やっぱり……。
「うん……私、色々誤解させちゃうようなことしてたよね……」
私はうつむきながら続けた。
「私ね、実は最近すごくショックなことがあって、そのことがずっと頭から離れなかったの……そのことばかり考えて、どうすればいいのか悩んで苦しんで……ずっと空回りしてた。ほんとバカ……その前にしなきゃいけないことがあったのに」
「ショックなことって……?」
優が心配そうに聞いてくる。
「うん……それはもうちょっと待って欲しい……でも、ちゃんと言う、ちゃんと伝える。声に、言葉に、想いにするって決めたから。だからもう少しだけ時間が欲しい」
私は真剣な目で優を見つめた。
「それって、今まで俺に言えなかった理由のこと?」
「うん。でもちゃんと伝えるから。だからその前にしなきゃいけないこと、ちゃんとする。だからまずは謝りたいの……優が千秋ちゃんとのことで苦しんできたのを、そばでずっと見てきたのに、私が同じように優を傷つけちゃったんだから」
「それは、真珠のせいじゃないよ……確かに真珠のことで苦しかったし、悲しかったけど……それは俺が勝手に思ってただけで、真珠がわざと俺を傷つけたわけじゃないってことは、俺がよく知ってるから……」
優の優しい言葉が、胸に染みる。でも、だからこそ……。
「それでもだよ……本当にごめんなさい」
私は深く頭を下げた。
「わ、分かったから……」
優が慌てて手を振る。
「とにかくカルマ君とは何もないから!誤解させるようなことして本当にごめん!もし私がまた同じようなことしようとしたら叱ってもいいから!」
「そ、そんなこと……でも、真珠は何でそこまで俺に……」
優が聞きにくそうに言う。その問いかけに、私の心臓がドキドキと音を立てた。
「それはもちろん優のことがす……」
そこまで言って、私はピタリと止まった。
ダメ、ダメダメダメ!まだ心の準備が……!
「す?」
優が首を傾げる。
「す……すすすす――」
「すし!」
私は勢いで叫んでしまった。
「寿司……?え、何?」
優がぽかんとしながら聞いてくる。
「ちょちょちょちょっと待って!すぅ~、はぁ~……」
私は手で制しながら深呼吸した。落ち着け、私!
「よし……!私は優のことがすすすすす……」
また顔が真っ赤になってきた。
「すじ!」
思いっきり叫んでしまった。
「筋……牛筋……?真珠、お腹すいたの?」
優がぽかんとしながら聞いてくる。
「ち、違ーう!」
私は顔を真っ赤にしながら否定した。
「うぅ……私のバカ、あほ、意気地なし……」
もう最悪だ……告白しようとしてるのに、寿司だの筋だの……。
そんな時だった。
「優斗」
聞き慣れた声がして、私たちは振り返った。
そこには梢さんの姿があった。いつものように完璧に整えられた髪、上品な制服の着こなし。でも、どこか急いでいるような雰囲気。
「梢……」
優が彼女の名前を呼ぶ。
「あら、お取り込み中だったみたいね」
梢さんが私たちを見て、微妙な表情を浮かべた。
「ねえ優斗、千秋がこの後また話せないかって連絡来てて」
「え……千秋が?」
優が戸惑った様子で梢さんを見る。
私の心に、チクリと小さな痛みが走った。千秋ちゃん……やっぱりまだ優のこと……。
「あ、私邪魔かな……じゃあ私、他にも行かなきゃいけないところがあるから行くね」
私は努めて明るく言った。
「あら、ごめんなさいね早乙女さん。優斗はこれから千秋と話があるから」
梢さんが微笑みながら言う。でも、その笑顔は少し作り物っぽい。
「ちょっと梢!」
優が梢さんに向かって言う。
「ううん、大丈夫だよ優」
私は本当に明るく答えた。これは演技じゃない。パパとの話で分かったんだ。私には、私にしかできないことがある。
「……?」
梢さんが不満そうな顔をした。
「大丈夫って……真珠、俺も千秋とは別に……」
優が言い淀む。
「うん。分かってるよ。優の事は信じてるから。何か理由があるんだよね。今ならよく分かる……だから、優が話せる時でいいよ。私はいつでも待ってるから……ね」
私は優に微笑みかけた。
「真珠……」
優が安堵した顔をした。
「あら、随分聞き分けがいいじゃない」
梢さんが微笑みながら言う。
「ん?そうかな?梢さんこそ、何をそんなに焦ってるの?」
私はキョトンとしながら言った。なんとなく、梢さんから焦りのようなものを感じたから。
「はぁ?何で私が焦る必要があるのかしら?」
梢さんの口調が急に強くなった。
「んー、なんと……なく?」
私は素直に答えた。
「な、なんとなくって……何よそれ」
梢さんの顔から笑みが消えた。
「ごめん、ただそう思っただけ。あはは、ごめんね」
私は頭をかきながらあっけらかんと言った。そして優に向き直る。
「じゃあ優、またね!」
私は笑顔で優に手を振った。
「真珠……うん、分かった。またね……」
優が微かに微笑んだ。その顔を見て、私の心がパァッと明るくなった。
やっぱり、優の笑顔は素敵だ。
「ちょっと優!」
梢さんが優に向かって怒鳴った。
「えへへ、優の笑顔、やっぱり好き。バイバイ」
私は再度手を振った。
「なっ……」
優が慌てふためいて顔を赤らめる。
その可愛い反応を見て、私はその場を後にした。足取りは軽やか。まだ謝り足りないし全部は伝えられなかったけれど、第一歩は踏み出せた気がする。
下駄箱で外履きに履き替えながら、私は今さっきの優とのやり取りを思い返していた。
寿司に筋って……我ながらひどすぎる。でも、優の困った顔も可愛かったし、最後に見せてくれた微笑みで全部帳消しになった気がする。
ってだめだめ、調子に乗らない!今はまだちゃんと伝えきれてないんだから。
校舎の外に出ると、夕方の風が頬を撫でていく。七月の空は高く青くて、雲がゆっくりと流れている。放課後の開放感と、優との関係が少し前進した嬉しさで、自然と足取りも軽やかになった。
校庭を横切って校門へと向かう途中、遠くからざわめきが聞こえてきた。昨日と同じような……いや、昨日よりももっと大きな人だかりが校門の前にできている。
「え……また?」
私は足を止めて、その光景を眺めた。制服姿の女子生徒たちが、まるで何かのイベント会場のように校門の周りに群がっている。スマートフォンを構えている子もいれば、友達と興奮気味に話している子もいる。
その人だかりの中心に目を向けると……やっぱり、カルマ君の姿があった。
昨日と同じように、白いシャツにスラックス姿で、まるでモデルのような立ち姿。女子生徒たちに囲まれながらも、一人一人に丁寧に応対している。その様子は、まさにアイドルそのもの。
「カルマP、超かっこいい……」
「本物だよね?本物だよね?」
「写真撮ってもらっちゃった……」
女子生徒たちの黄色い声が聞こえてくる。
私がそっと近づいていると、カルマ君がこちらに気がついた。人垣の向こうから手を上げて、にこやかに笑いかけてくる。
「真珠さん、お待ちしてましたよ」
その瞬間、周りの生徒たちの視線が一斉に私に向いた。
「あ、早乙女さんだ……」
「ねえねえ、スピカとカルマPが付き合ってるって本当?」
「何でも昨日は修羅場ってたらしいよ?」
「え?マジで?詳しく聞かせて!」
ひそひそ話が飛び交い始める。私の顔が自然と苦笑いになった。やっぱり昨日のことが広まってる……。
私は人垣をかき分けて、カルマ君のそばまで歩いて行った。近くで見ると、彼はいつものように完璧な笑顔を浮かべている。
「今日は元気そうですね、安心しました」
カルマ君が優しい声で言う。
「自宅までお送りしますよ」
その言葉に、周りから再び黄色い声が飛び交った。
「きゃー、やっぱり!」
「お送りするって……!」
「羨ましすぎる……」
でも、私はもう迷わない。昨日パパたちと話して、自分がすべきことがはっきり見えたから。
「カルマ君。ごめんね」
私はにっこりと笑いながら、ハッキリと答えた。
「誤解されちゃうから、一緒に帰れないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、カルマ君の表情が一瞬だけ変わったような気がした。笑顔は崩れていないのに、目の奥で何かが揺れたような……。
「ん?どうしたのカルマ君?」
その微細な変化を感じて、私は首を傾げながら聞いた。
「……いえ……」
カルマ君は笑顔を崩さずに答える。
「ちょっと意外な反応だったもので……誤解とは、どのような?」
その表情は、今まで私が見たことのないカルマ君の一面だった。いつもの穏やかで優しい笑顔なのに、なぜか少し違和感がある。まるで仮面を被っているような……。
「あれ?カルマ君……そっか……」
私は彼をじっと見つめながら呟いた。
「カルマ君って……」
「はい」
カルマ君が首を傾げて聞いてくる。でも、その返事にも、なんだか作り物っぽい響きがあった。
「カルマ君って、何をそんなに我慢してるの?」
私はキョトンとしながら、素直に疑問を口にした。
「我慢……?」
カルマ君がその言葉を繰り返した瞬間、また表情が微かに変わったような気がした。今度は、少し戸惑ったような……。
「うん……気持ちを押し殺してるっていうか……心が見えないっていうか……」
私は自分の感じたことを、そのまま言葉にした。
「あ、ごめん!私また変なこと言ってた!ごめんねカルマ君!」
慌てて頭を抱える。昨日あれだけ、ちゃんと考えて言いなさいってママに言われたのに……。
「うー、私ってほんと思ったこと口に出しちゃうクセがあるんだよね……」
周りの生徒たちも、この微妙な空気を察したのか、ざわつき始めた。
「え?今の何?」
「何かあったのあの二人……?」
「付き合ってる風には見えないけど……?」
「なんか雰囲気変じゃない?」
その声を聞いて、カルマ君が苦笑いを浮かべた。
「すみません、真珠さん……今日はちょっと、体調がすぐれないようです……」
彼の声には、いつもの余裕がなかった。
「また改めて……」
「そっか、無理しないようにね」
私は満面の笑みで答えて、手を振った。
「体調悪い時は、ちゃんと休まなきゃダメだよ。お大事に!」
カルマ君は複雑な表情で私を見つめていたけれど、やがて小さく頭を下げて、その場を後にした。
人だかりも、なんとなく気まずい空気になって、徐々に散らばっていく。
私は一人、校門の前に立ちながら、今の出来事を振り返っていた。
カルマ君の表情の変化……あれは一体何だったんだろう。いつもの優しい彼とは……あれ?何でそう思ってたんだっけ……。
う~ん、頭がスッキリし過ぎたせいかな……。
でも、今の私には、そのことよりももっと大切なことがある。
優への想いを、ちゃんと伝えること。そして皆にも……。
私は空を見上げた。夕日が校舎の向こうに沈みかけていて、空がオレンジ色に染まり始めている。
「よし……次に行こう!」
校門でカルマ君と別れた後、私は迷うことなく足を向けた先があった。
ライブハウス『VERSUS』。
夕暮れの街を歩きながら、私は胸の奥でくすぶる気持ちと向き合っていた。少しだけ優に謝ることはできた。でも、それだけじゃダメなんだ。私が傷つけてしまったのは、優だけじゃない。
四十分ほど歩いて、見慣れたネオンサインが見えてきた。まだ夕方だから電気は点いていないけれど、『VERSUS』の文字が夕日に照らされて浮かび上がっている。
建物の前に立ち、私は深く息を吸った。
「よし……!」
自分に気合を入れ直して、重いガラスドアを押し開ける。
店内に足を踏み入れると、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。音響機材の電子的な匂いと、微かなタバコの残り香。薄暗い照明の中に、たくさんの楽器とアンプが並んでいる。
以前、美弥の紹介で北斗と一緒に歌の合わせで使わせてもらったことがある。美弥のご両親が経営している、この街では有名なライブハウスだ。
私がキョロキョロと店内を見回していると、カウンターの向こうから声がかかった。
「おっ、真珠ちゃん久しぶりじゃないか!」
振り向くと、そこには美弥のお父さんの智樹さんがいた。いつものように人懐っこい笑顔で、グラスを拭いている。
「美弥たちなら奥のスタジオにいるよ。なんか面白いことになってるかもな」
面白い?
「お久しぶりです!お邪魔します!」
私は深々と頭を下げて、智樹さんに挨拶した。そして、奥のスタジオへと向かって駆け出す。
廊下を進んで、一番奥のドアの前で立ち止まった。中からは、ギターの音が微かに聞こえてくる。美弥の繊細で正確な演奏だ。
私は深呼吸をした。
すー、はー。すー、はー。
よし、心の準備はできた。
ドアノブに手をかけて、勢いよく扉を開く。
「頼もう!」
大きな声で言いながら、スタジオの中に飛び込んだ。
「は?え?」
ベースーを持っていた北斗が、肩をびくりと震わせて振り返る。美弥も演奏の手をピタリと止めて、無表情でこちらを見ている。
そして……もう一人。
長身で、無造作に肩まで伸ばした髪の男性が、アンプにもたれかかってこちらを見ていた。誰だろう、と目を凝らして……
「ああっ!か、カガミ・シン!?」
私はカガミ・シンに向かって指をさして叫んでしまった。
「指をさすな指を、つーか誰だお前……って……」
カガミさんが眉をひそめて私を見る。
「どっかで見たことあるな……」
「はぁ……スピカだよ……」
北斗がため息をつきながら、疲れたような声でカガミさんに説明した。
「スピカ……ああ、そっか、なるほどな」
カガミさんが納得したような顔をする。
「なんだ、話でもあるのか?だったら俺は煙草でも吸ってくるぞ」
そう言って、カガミさんは部屋を出ようとした。
「別に、話なんてねえよ」
北斗が冷たく言い切る。
「うん……話す必要ない」
美弥も無表情のまま、きっぱりと答えた。
二人の態度に、私の胸がズキリと痛んだ。
そうだよね……うん、分ってる。でも、全部受け入れる。
「話ならあります!」
私は大きな声で言って、いきなり走り出した。そして大きく飛び上がると、そのまま北斗たちの前で……
ドゲザーッ!
今日二回目の、完璧な土下座を決めた。
「うおっ!な、なんだよいきなり!?」
北斗がビビって飛び上がる。
「おお……見事なジャンピング土下座」
美弥が、まるで芸術作品を鑑賞するような口調で呟いた。
「な、なんなんだ一体……はぁ、まいいや、ちと煙草吸ってくる……」
カガミさんが頭をかきながら、本当に部屋を出て行ってしまった。
「ちっ……なんの真似だてめぇ……」
北斗が苛立ったように言う。
私は顔だけを上げて、まっすぐ北斗を見つめた。
「土下座しに来ました!」
ハッキリと宣言する。
「見りゃ分かる。何の用だって聞いてんだよ」
北斗が私を睨みつけながら言う。その視線は、いつもより何倍も鋭くて冷たい。
「色々と心配かけちゃったから!」
私は大きな声で答えた。
「っ、相変わらずでけぇ声しやがって……」
北斗が眉をひそめる。
「だからなんだ?俺の考えは変わんねぇぞ?お前に歌わせる気はねぇ。失せろ」
その言葉は、まるで氷の刃のように胸に刺さった。でも、私は怯まない。
仕方ないもん。それだけのことを私はしたんだから……。
「うん、分かってる。許してもらおうなんて思ってない」
私はハッキリと答えた。
「でも謝りたい!」
「なんだそりゃ……てめぇが優に何したのか分かってんのか……?」
北斗の声に、怒りがにじんでいる。
「……全部は分かってない……」
私は正直に答えた。でも決して北斗たちから視線を逸らさない。
「分かってねぇだと……?お前ふざけ……」
北斗がそこまで言いかけた時、私は声を上げた。
「でも分かりたい!ちゃんと全部理解したい!」
まっすぐな目で北斗を見つめながら続ける。
「まだ少ししか分かってないけど、もう逃げたくない!私、今まで自分のことばっかり考えてて……優がどれだけ苦しんでたか、真剣に向き合おうとしなかった……」
声が震えそうになったけれど、必死に堪えて続けた。
「たくさん苦しめて、たくさん傷つけた……こんな私に何ができるかなんて、全部分からない……許さなくていいから、でも……」
私は拳を握りしめた。
「全部後悔で終わらせたくないの!前に進みたい!優との関係も、北斗や美弥との関係も、全部ちゃんと向き合いたい!だから……だから今はただ、皆に謝りたいの!」
「ちっ……」
北斗が舌打ちした。そして立ち上がる。
「立て……立って歯食いしばれ」
「うん」
私は返事をして立ち上がった。その瞬間、北斗の手が鋭く振りかぶられ、勢いよく私の顔へと飛んできた。
私は反射的にギュッと目をつぶった。
でも……何も起こらない。
恐る恐る目を開けると、北斗の手は私の顔の寸前で止まっていた。
「あれ……?」
「くそっ……!」
北斗が手を振って元に戻す。その顔は、複雑な表情をしていた。
「北斗……?」
「何なんだよおめぇは……ほんと調子狂うんだよ……」
北斗が困ったような、呆れたような声で呟く。
「うっ……なんか、ごめん」
私が申し訳なさそうに言うと、今度は美弥の声が響いた。
「正座」
「え?」
振り向くと、美弥が私を睨んでいる。いつもの無表情とは明らかに違う、何か恐ろしいオーラを放っている。
「せ・い・ざ」
美弥が一字一字区切って、脅すように言った。
「は、はいっ!」
私は初めて見る美弥のその表情に、慌てて正座した。
「お、お前そんな顔もできるんだな……」
北斗も美弥を見てビビっている。
すると美弥が、部屋の壁際に向かって歩き出した。そして立てかけられていた黒板を手に取って戻ってくる。そしてポケットからイヤホンを取り出して、耳にはめた。
え……?
「まさか……おいやめろ!早まるなっ!!」
北斗が震える声でそう叫んだ瞬間。
「デススクラッチの刑……」
美弥がそう呟いた瞬間……
ギィィィィィィィッ!
黒板を爪で引っかく、あの悪魔のような音が響いた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!」
私は両耳を押さえて、床にのたうち回った。
「やめろバカァ!うぎゃぁぁぁっ!」
北斗も両耳をふさぎながら悶えている。
「優Pが味わった苦しみを思い知るがいい……フフフ」
美弥が今まで見せたことのない不敵な笑みを浮かべながら言う。まるで悪魔だ……。
「な、何やってんだお前ら……」
入口からカガミさんの呆れた声が聞こえてくる中、私は床に突っ伏していた。
耳がキーンと鳴っている。でも、不思議と心は軽かった。
謝ることができた。まだ全部じゃないけれど、第一歩は踏み出せた。
許されなくたっていい。今はただ伝わるまで謝りたい……。。
美弥のこれも、きっと彼女なりの表現なんだと思う。本当に私を嫌いなら、こんな風に構ってくれないはず。
私は耳を押さえ床に伏せたまま、思わず小さく微笑んだ。
とんでもなく痛い愛情だけれど……これも、前に進むための一歩なんだ。




