第84話 言霊
夕日が窓のカーテンを薄いオレンジ色に染めている。部屋の中は暖色系の灯りに包まれて、いつもより少しだけ温かく感じられた。私はベッドの端に腰掛けて、スマートフォンを握りしめていた。画面に表示されているのはパパの名前。通話中の文字が小さく光っている。
「それで……その後はどうなったの?」
受話器の向こうから聞こえてくるパパの声は、いつものように穏やかで優しかった。フランス語訛りの日本語が、なんだか子守歌みたいに心地よくて、さっきまで胸の奥で重く沈んでいた気持ちが、少しずつほぐれていくのを感じる。
「それが……」
私は膝の上で指を絡めながら、ゆっくりと言葉を探した。どこから話せばいいのか、まだ整理できていない。でも、パパになら全部話せる気がした。
「大好きな人に嫌われちゃったの……」
その言葉を口にした瞬間、また胸がきゅっと締め付けられた。でも今度は一人じゃない。パパが聞いてくれている。それだけで、なんだか勇気が湧いてくる。
『それは……辛いね……』
パパの声に、心配そうな響きが混じった。
『最初から聞かせてくれるかい?君とその、大好きな子と出会った時から事を』
「うん……」
私は深く息を吸って、ゆっくりと話し始めた。初めて優の演奏を聞いた時のこと。あの時感じた、胸の奥がじんわりと温かくなるような感覚。それから転校して初めて優と出会った時の驚き。一緒に音楽をするようになって、どんどんと仲良くなっていったこと。
「優の音楽を聞いてると……なんだか、心が軽くなるの。悲しい時も、辛い時も、優が隣でピアノを弾いてくれると、大丈夫って思える」
話しているうちに、優と過ごした時間の一つ一つが、まるで映画のシーンみたいに頭の中に浮かんでくる。屋上で一緒にお弁当を食べた時。皆で練習した時。ゲリラライブやステージで一緒に歌った時。
そういえば……あの時初めて優への気持ちに気が付いたんだ……。
それからはステラノートとして一緒に活動するようになった。でも、そこからカルマ君と出会って……。
「でも……今は……」
声が少し震えた。カルマ君のことを話すのは、まだ勇気がいる。でも、パパになら……。
私はゆっくりと、カルマ君のことを話した。魔法使いとの再会から、家に招待することになったこと、今日まであった全ての事を……。
そこから全てが狂いだしてしまった……。全部、全部私のせいだ……。
「優は……多分、誤解してると思うの。私とカルマ君が特別な関係だって」
『なるほど……』
パパの声が、少し考え込むような調子になった。
『それで、君はその誤解を解こうとしたんだね?』
「うん……でも」
私の声が小さくなった。
「でも、うまく説明できなくて……優に、なんで説明できないのか聞かれても、答えられなくて……」
その時、廊下からかすかに足音が聞こえた。ママの足音だ。私は反射的に声を潜めた。でも足音は私の部屋の前で一度止まって、それからゆっくりと遠ざかっていく。きっと、私がパパと話してるのに気付いてくれたみたいだ。
『真珠』
パパの声が、さらに優しくなった。
『全部話してくれて、ありがとう。きっと辛かっただろうね』
「パパ……」
その一言で、今まで必死に堪えていたものが一気にあふれそうになった。
『頑張ったね、真珠。一人でこんなに抱え込んで……』
「うぅ……」
声が詰まった。パパの優しい言葉が胸に染みて、涙がじわっと滲んでくる。
「パパ……えへへ、聴いてくれてありがとう」
鼻をすすりながら、でも笑顔で答えた。パパと話してると、どんなに重たい気持ちも軽くなる気がする。
『それで、真珠』
パパの声が、少し真剣な調子になった。
『君が彼に打ち明けられないことを悩んでいるんだよね……?何か、言えない理由があるのかい?』
「うん……」
私は唇を噛んだ。ここからが一番難しい。
「言いたくないの……優にだけは言いたくない……」
その言葉を口にするだけで、胸がずきんと痛んだ。
「でも、そのせいで……私は優を傷つけてる。頭の中ではそれが原因だって分かってるのに……言ってしまえばいいのに、でもなぜか言えないの。それが苦しくて……」
声が震えた。涙を堪えようとしたけれど、もうだめだった。
「全部私が悪いのに……私、最低だよね……」
『そんなことないよ、真珠』
パパの声は、まったく迷いがなかった。
『君は悪くない』
「違うもん!」
私は思わず声を上げた。
「私が……私が素直に話せていれば、こんなことには……」
『落ち着いて、真珠』
パパの声が、私の興奮を静めるように響いた。
『そうだね、一つずつ話そうか。まず、家にカルマ君を招待したのは、僕たち両親だ。君が望んだわけじゃない』
「でも……」
『君が苦しんでいた時、僕たちは何もできなかった。医者も、薬も、何をしても君の心を軽くしてあげることができなかった。そんな時に現れて、君を救ってくれたカルマ君に、僕たちはどうしてもお礼が言いたかった』
パパの声に、当時の苦しさが滲んでいた。
『響も、本当に感謝していたからね。真珠は、そんな僕たちの気持ちを汲んでくれただけなんだよ』
「……」
私は何も言えなくなった。確かに、本当は家に呼びたくなかった。優に誤解されるのは嫌だったし、初めて男の子を家に呼ぶ相手が優じゃないっていうのも嫌だった。でも、ママとパパの願いを叶えてあげたいと思ったのも本当だ。私が苦しい時、いつもそばにいてくれたのは家族だったから。
『でも、それが君と優斗君の間に亀裂を生んでしまった』
パパの声が、申し訳なさそうになった。
『次に……そうだね』
パパが少し間を置いた。
『僕たちの育て方が、真珠にとって複雑な状況を作ってしまったことかな』
「そんなことないよ!」
私は慌てて否定した。
「ママとパパはたくさん私を大切にしてくれてるもん!」
『もちろんさ。僕たちにとって君は大切な宝物だ』
パパの声が、愛情に満ちていた。
『でも、問題はそこじゃない。真珠、君は本当に優しくて素直な子に育ってくれた。曲がったことが大嫌いで、嘘がつけない……まあ、そこは響の教えが強かったからだけど』
「あ……」
私は何かを思い出すように息を呑んだ。
「言霊……だよね?」
『ふふ……響らしいよね』
パパの声が、懐かしそうに笑った。
『歌を聴いてくれる人々に想いを伝える。言葉には魂が宿る。だから、本当に伝えたい相手には嘘をついちゃダメ……だったかな』
「うん……」
私は小さく頷いた。ママに子供の頃からずっと言われてきた。言葉には不思議な力が宿るのよって。声に出すことで、それが現実に影響を与える。良い言葉は良い結果を、悪い言葉は悪い結果を招くんだって。
『だからだろうね……人一倍素直な君だからこそ……』
パパの声が、さらに優しくなった。
『君は優斗君に言えないんじゃない……言いたくないんだよ。優斗君は魔法使いじゃないって……違うかい?』
「あ……」
その瞬間、胸の奥で何かがはじけたような感覚があった。まるで、ずっと絡まっていた糸がほどけるように、今まで自分でも分からなかった気持ちがはっきりと見えてきた。
そうだ……そうなんだ。私は認めたくないんだ。魔法使いはカルマ君で、優じゃないなんて……信じたくなかったんだ。
それを優に言ってしまえば……言葉にすれば、今度こそそれが事実になってしまう気がして……。
『認めたくないんだね、真珠は』
パパの声が、私の心を見透かすように響いた。
『魔法使いはカルマ君だって。そして、それを優斗君にだけは言いたくないんだ……言ってしまえば、そこに魂が宿ってしまうから』
「うん……うん……」
私は涙声で答えた。
「言いたくない……優にだけは言いたくない……!本当は認めたくないの、嫌なの!優じゃなきゃ……!」
今まで必死に押し込めていた気持ちが、ダムが決壊するようにあふれ出した。
「だって優は……優は私の魔法使いだもん!!」
声が震えた。泣きながら、でも胸を張って叫んだ。ずっと言いたかった言葉。ずっと優に言いたかった言葉。何度も言いかけて飲み込んだ。でも、本当は胸を張って大きな声で叫びたかった言葉だ。
電話の向こうで、パパが静かに息を吐く音が聞こえた。深く、考え込むような溜息だった。
『そうだね……普通なら、気持ちを押し殺してでも口にしてしまえば楽になれることなんだ。本来なら、誰にでもできる簡単な事さ』
パパの声は相変わらず優しかったけれど、そこに複雑な響きが混じっていた。
『君は小さい頃から、何より自分の想いに正直な子だったからね。たくさんの才能に恵まれた分、感受性の強い子だったから……だからこそ真珠の心はそれを許さなかったのかな……』
「パパ……」
『本能的に口に出せなかったんだろう。これは、ある意味僕たちの育て方の影響でもあるんだよ』
私はスマートフォンを握る手に力を込めた。パパの言葉の意味が、少しずつ理解できてきた。
『君はもっと器用に立ち回ることもできたはずだ。相手の気持ちを考えて、適当な嘘をついて、その場を丸く収めることだって』
パパの声に、わずかな苦笑いが混じった。
『でも僕たちは、そんな風に教え育てたことはなかった。真珠には、いつも正直でいてほしかった。嘘をつくより、素直でいることの方が大切だって』
「そんな……そんな風に悪く言わないで」
私は慌てて声を上げた。胸の奥がキュッと締め付けられる。
「パパたちは悪くないもん。私がもっとしっかりしていれば……」
『はは』
パパが明るく笑った。その笑い声で、私の緊張が少しほぐれる。
『悪いだなんて、僕たちはまったく思っていないよ。むしろ、これでよかったと思っている』
「え……?」
『本当にいい子に育ってくれた。心から感謝しているくらいだよ』
パパの声が、愛情に満ちていた。その温かさが、電話越しでもしっかりと伝わってくる。
「私は……」
私は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「私は、このままでいいの……?」
その質問をするのが怖かった。もしかしたら、パパも私のことを子供だと思っているかもしれない。もっと大人になれって言うかもしれない。
『ああ、もちろんだ』
でも、パパの答えは迷いがなかった。
『真珠は真珠のままでいい』
「でも……」
私の声が小さくなった。
「このままだと、優を傷つけたままだよ……私は自分の気持ちを優先して、優を傷つけてる……それって、わがままなんじゃ……」
『なら』
パパの声が、少し決意を込めたような調子になった。
『彼に言ってしまえばいい。優斗君は私の魔法使いなんだって』
「えっ……」
『それさえ言えてしまえば、その後に誠意を持って謝ればいいさ。混乱させてしまったこと、心配をかけてしまったこと、全部』
「で、でも……」
私は唇を噛んだ。心臓が早く打っている。
「本当の魔法使いは、カルマ君で……」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がズキンと痛んだ。だめだ。やっぱり言いたくない。声に出すだけで、心がバラバラになりそうになる。
『それでもいい』
パパの声が、私の混乱を包み込むように響いた。
『それでも、優斗君に言ってごらん。その声に、君の魂を宿すんだ』
「言霊……」
『僕は、それが間違いだなんて思わない。それこそが、真珠が心から望む言葉なんだから……そうだろ?』
パパの言葉が、胸の深いところに響いた。魂を宿す……ママがいつも言っていた言霊の話。でも、今度は私が、自分の想いを込めて……。
「それで……変われるかな……?」
私の声は震えていた。怖かった。でも、同時に希望も感じていた。
『ああ』
パパの声が、確信に満ちていた。
『今度は真珠が魔法をかける番だよ』
「私が……?」
私は目を見開いた。
「私が……魔法使い……?」
『なれるよ』
パパの声が、さらに優しくなった。
『だって、君はこんなにも愛されているんだから。僕たちに、友達に、そして……優斗君に』
その言葉で、胸の奥が温かくなった。愛されている……そうか、私は一人じゃないんだ。
「でも……どうやって言えば……」
私は戸惑った。いつ?どこで?どうやって伝えればいいんだろう。直接会って話す?メールで送る?電話で?
『ふふ……君は、もうその力を持ってるじゃないか』
パパの声が、自信に満ちていた。
『それは、真珠自身が一番よく分かっているはずだよ』
「私の力……」
私はハッとした。そうだ。私には……。
「歌……」
その瞬間、頭の中でパズルのピースがカチッと合わさったような感覚があった。私の力は歌。言葉を……声を……想いを伝える歌。
『さて』
パパの声が、満足げになった。
『僕からは以上かな』
「えっ、もう?」
私は思わず声を上げた。まだパパと話していたい。この温かい時間が終わってしまうのが寂しい。
「話し……聞いてくれてありがとう、パパ……」
『どういたしまして、僕のお姫様』
パパがクスッと笑った。
『ああ、そうだ。木曜日にはそっちに行けるから。またその時に話そうか』
「木曜日……」
私は慌てて机の上のカレンダーを見た。木曜日……あ、生放送ライブの前日だ。
私はゆっくりと頷いた。よし……うん、決めた。伝える。声で……いや、歌で。私の想いを優に、今度こそ伝えるんだ。
「ありがとう、パパ……大好き」
私は心を込めて言った。本当に、心の底から感謝している。
『僕もだよ、真珠。愛してる』
パパの最後の言葉が、胸の奥に深く響いた。そして、通話が切れる。
部屋に静寂が戻った。でも、さっきまでの重苦しい静寂とは違う。希望に満ちた、温かい静寂だった。
握ったスマホを見ていると、ふと梢さんが私に見せた画像の事が、一瞬頭の中に過った。
ううん……優にだって私と同じように何か言えない理由があるかもしれない。そうだ。今はそんな事より、この思いを伝えることが先だ。それ以外の事はどうだっていいぐらい。
その時、扉の向こうから控えめなノック音が聞こえた。
「真珠?パパとのお話、終わった……?」
ママの優しい声が、扉の向こうから響いてくる。
「ご飯にしましょ。今日はオムライスにチャレンジしてみたのよ」
その瞬間、私は勢いよく立ち上がった。そしてドアを開けて、目の前に立っているママに思いっきり抱きついた。
「わっ!真珠?」
ママが驚いたような声を上げる。
「あらあら……どうしたの?」
でも、すぐにママの声が穏やかになった。
「ふふ……もう、甘えん坊さんね」
ママが私の髪を優しく撫でてくれる。その手の温もりが、とても心地よかった。
「ママも大好き!」
私は抱きついたまま、そう叫んだ。家族がいる。私を愛してくれる人たちがいる。それだけで、どんなに心強いことか。
「私もよ、真珠……」
ママが私をそっと抱きしめ返してくれる。その腕の中で、私の心はゆっくりと安らいでいく。
「でも……ママの料理は……」
私はふと、いつもの悪戯心が湧いてきて、小さくつぶやいた。
「あら……?」
ママの声が、少し危険な響きを帯びた。
「今、何か言った……?」
ママが私を見下ろす。その顔は笑顔のままだったけれど、なぜか少し怖い。
「い、いえ、何も……」
私が慌てて首を振った瞬間、ママが私の頬をぎゅっと摘まんだ。
「いひゃっ!」
頬が痛い。でも、不思議とその痛みさえ嬉しく思えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
私は必死に謝ったけれど、ママの手は容赦なく私の頬を摘まみ続ける。
「全く、せっかく心を込めて作ったのに……」
ママがクスクス笑いながら言う。
「でも、元気になったみたいね。さっきまでとは別人みたい」
ママがやっと手を離してくれた。私は頬を擦りながら、でも嬉しそうに笑った。
「うん……パパと話したら、すごくスッキリしたの」
「そう……よかった」
ママの表情が、安堵に満ちていた。
「じゃあ、ご飯にしましょう。今日は特別に、デザートもあるのよ」
「本当?」
私の目が輝いた。
「ええ。真珠の好きなシュークリーム」
「やったぁ!」
私は飛び上がって喜んだ。そして、ママと一緒に階段を下りていく。
リビングには、温かい夕食の匂いが漂っていた。オムライスの甘い香りと、シュークリームの甘い匂い。そして何より、家族の愛情が満ちていた。
私は心の中で、もう一度決意を固めた。生放送ライブで、私は歌う。優への想いを込めて、精一杯歌うんだ。




