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第83話 温かい音

 教室の扉を開けた瞬間、いつもの賑やかな昼休みの空気が私を迎えた。でも、その温かさが今の私にはとても遠く感じられた。


 私は自分の席にそっと腰を下ろして、机の上に置かれたままのお弁当を見つめた。もう昼休みも半分以上過ぎているというのに、食欲なんて全く湧いてこない。


 ちらりと優の方を見ると、彼も同じようにお弁当を前にして、でも箸が進んでいない様子だった。窓の外を見つめているその横顔は、いつものように穏やかで……でも、私にはもう素直にその顔を見ることができなかった。


 あの写真が頭から離れない。優が千秋ちゃんを抱きしめている姿……二人の間に流れていた親密な空気……。


 私は小さく首を振って、お弁当箱の蓋を閉じた。とてもじゃないけれど、今は何も喉を通りそうにない。


 キーンコーンカーンコーン……


 昼休み終了のチャイムが響いて、教室がざわめき始めた。友達たちが慌ててお弁当を片付ける音、教科書をめくる音、椅子を引く音……いつもなら心地よく感じるはずの日常の音が、今は全て雑音のように聞こえてしまう。


 午後の授業が始まった。


 五時間目の理科、六時間目の社会……。先生の声も、黒板に書かれる文字も、全てがぼんやりとして焦点が合わない。私の頭の中では、梢さんの言葉がぐるぐると回り続けていた。


『こうなるまで優斗を繋ぎ止められなかった貴女にも問題があると思うけど……』


 時計の針がゆっくりと進んでいく。いつもなら早く感じる午後の時間が、今日はとても長く感じられた。窓の外では、夕方の陽射しが校庭の向こうに傾き始めている。


 やがて終業のチャイムが鳴った。


「はい、今日の授業はここまで。課題忘れるなよ~」


 先生の声に合わせて、教室のあちこちで椅子を引く音が響いた。


「お疲れ~」


「ねえねえコンビニ寄って行こ~」


 友達たちが笑いながら片付けをして、次々と教室を出て行く。いつものような放課後の賑やかさに包まれているのに、私だけが別の世界にいるような気分だった。


 私もゆっくりと席を立って、鞄に教科書を詰め込んだ。そして……意を決して、優の席の方へと足を向けた。


 優も同じように片付けをしていて、私が近づいてくるのに気がついて顔を上げた。


「あ、真珠」


 優の顔に、いつものような安堵の表情が浮かんだ。


「じゃあ行こう――」


 そこまで言いかけた優の言葉を、私は慌てて遮った。


「ごめん、優……」


 私の声は震えていた。


「やっぱり今日……無理かも……」


「えっ?」


 優の表情が一瞬で困惑に変わった。


「な、なんで急に」


 優の驚いた声を聞いて、私の胸がさらに締め付けられた。そうよね……急に約束を断られて、優が驚くのは当然だ。怒られても仕方ない。


 でも……でも、今の私にはとても落ち着いて話せるような気持ちになれない。それに、どうしても優に確かめたいことがある。梢さんの言葉が、頭の中で何度も響いていた。


『本人に聞いてみるのが手っ取り早いわよ』


『沈黙が答えってとこかしら』


「真珠?」


 沈黙を打ち破るように、優の声が心配そうに響いた。


「黙ってちゃ分からないよ……一体何があったの?」


 その優しい口調を聞いて、私の心がさらに複雑になった。こういう優の優しさが好きだった。でも今は……その優しさが、かえって苦しい。


 それでも、私は重い扉を開けるように、ゆっくりと口を開いた。


「優……」


 私の声は、自分でも驚くぐらいとても静かだった。


「……千秋ちゃんと、ベンチで抱き合ってたって……本当……?」


 その瞬間、優の表情が凍りついた。


「えっ!そ、それって……」


 優が慌てたように言い淀む。その反応を見ただけで、私の胸に鋭い痛みが走った。


 本当だったんだ……。


「そっか……」


 私は力なく俯いた。心のどこかで、きっと誤解だと信じたかった。でも、優の反応が全てを物語っていた。


「そ、それは事情があって……!」


 優が思わず声を荒げた。その必死さが、更に私の心を抉るようだった。


「事情って……何……?」


 私はもう一度静かに尋ねた。きっと優には、それなりの理由があるのだろう。でも……。


「そ、それは……」


 優が狼狽えるように口を閉じてしまった。


「私に言えないこと……?」


 私は顔を上げて、優の目を見つめた。


「……」


 優が苦しそうに黙り込んでしまう。


 梢さんの言葉が、再び頭の中で響いた。


『沈黙が答えってとこかしら』


 私は思わず胸を押さえた。心臓が激しく鼓動して、まるで壊れてしまいそうだった。喉の奥で、ごくりという音がした。


「分かった……」


 私は小さく笑おうとした。でも、上手くいかなかった。


「ごめんね……変なこと聞いて」


 そこまで言って、涙が溢れそうになった。


 だめ……泣いちゃだめ!


 私だって……私だって優に同じことをしちゃったんだ……カルマ君のことを話せなくて、優を傷つけてしまった。だから、優に涙なんか見せちゃだめ!


 止まれ……止まって!


 私は拳をぎゅっと握りしめて、下唇を強く噛んだ。そのまま振り返って、衝動的に教室から走り出していた。


「真珠っ!」


 背後から優の大きな声が響いたけれど、私は振り返らなかった。振り返ったら、きっと泣いてしまう。


 廊下を駆け抜けながら、必死に涙を堪えた。


「ごめん、優……ちょっと時間……頂戴」


 それだけを言うのが精一杯だった。


 階段を駆け下りて、昇降口を抜けて……私は学校の校門まで走り続けた。胸が苦しくて、息が上がって、でも足を止めることができなかった。


 情けない。優を責める資格なんてない。私だって、優に同じことをしてしまったんだから。でも……それでも、やっぱり胸が痛くて仕方なかった。


 校門の前までやってきて、私はようやく立ち止まった。大きく息を吸って、涙を必死に堪える。


 ふと校門の方を見ると、人だかりができているのに気がついた。何だろう……と思って近づいてみると、その中心にいたのは……。


「カルマ君……?」


 カルマ君が、校門の前に立っていた。なんでここに……?


 カルマ君が私に気がついて、いつものような優しい笑みを浮かべて手を振ってくれる。それを見ていた周りの生徒たちが、ざわざわと騒ぎ始めた。


 私はゆっくりとカルマ君に近づいていく。手の甲で、目の端に浮かんだ涙をそっと拭った。


「え?あれスピカじゃん……」


「カルマ君と早乙女さん?」


「うそ、何々?あの二人何かあるの?」


 周りの生徒たちがひそひそと囁き合っている。


「真珠っ!」


 その瞬間、背後から優の声が響いた。


 思わず振り向きたくなったけれど、私は足を止めなかった。今の顔を優に見せたくない。私がたくさん優を傷つけておいて、涙を見せるなんて卑怯だ……。


 私はカルマ君の前を通り過ぎようとした。その時、カルマ君が振り返って優の方を見た。


「優斗君、後は僕に任せてください」


 その言葉を聞いて、私は再び拳を握りしめた。


「なんだよ、あれ……?」


「どういうこと……?」


「優斗って、最近スピカと仲が良い奴だろ……?」


「え?なに?もしかして振られたんじゃない?」


 周りの声がざわめいている。でも、その全てが雑音にしか聞こえなかった。


 私の心はぐちゃぐちゃで、もう何が何だか分からない。


 いつから……いつから私の周りは、こんなに不協和音ばかりになってしまったんだろう……。


 私は茫然としたまま、俯き歩くしかなかった。






 足音だけが静かな石畳に響いて、時折通り過ぎる車のエンジン音が遠くから聞こえてくる。空の色は薄いオレンジ色に染まり始めていて、家々の窓には暖かい光が灯り始めていた。


 夕暮れの住宅街を、私は力なく歩いていた。


 なんで……なんでいつもこうなってしまうんだろう……。


 考えても考えても、答えが見つからない。どこでボタンを掛け違えてしまったのか、いつから歯車が狂い始めたのか……。


 分かっているのは、私が優に全てを話すことができなかったということだけ。言いたくても言えなかった。言うべきだったのに、言えなかった。


 もうやだ……こんなのやだよ……。


 胸の奥から込み上げてくる感情に、再び涙が溢れそうになった。


「真珠さん……」


 背後から、優しい声が聞こえてきた。振り返らなくても、それがカルマ君の声だということは分かった。


 梢さんの言葉が、また頭の中を過ぎていく。


『彼、貴女のことを本当に大切に思ってるみたい。いつも貴女のことを気にかけているし』


『それって運命的じゃない?見えない糸で繋がれているみたい』


 運命……か……。


 私は立ち止まって、ゆっくりと息を吐いた。夕方の冷たい空気が、火照った頬を優しく撫でていく。


「カルマ君……」


 私は振り返らずに、静かに口を開いた。


「はい、なんでしょう?」


 カルマ君の声は、いつものように穏やかで優しかった。でも今の私には、その優しさが重く感じられてしまう。それどころか、別の何かのようにも感じられた。


「ごめん……一人にして……」


 私はそれだけを言った。


「さすがに今の真珠さんを一人にするのは……」


 カルマ君の声に、心配の色が滲んでいた。


「お願い……」


 今は誰とも話したくない。誰の優しさも、受け取る気持ちになれない。


「……分かりました」


 カルマ君が静かにそう答えてくれた。


 その返事を聞いて、私は再び歩き始めた。足音が石畳に響いて、それが妙に大きく聞こえる。街灯が一つ、また一つと灯り始めて、私の影が地面に長く伸びていた。


 道の脇に咲いている紫陽花が、夕暮れの光の中で静かに揺れている。いつもなら綺麗だと思うはずの花も、今は色あせて見えた。


 歩きながら、私は自分の心と向き合おうとした。でも、混乱した感情がぐちゃぐちゃに絡み合っていて、何から整理していいのか分からない。


 優への想い、カルマ君への申し訳なさ、そして自分自身への情けなさ……。全てが重なり合って、胸を締め付けていく。


 自動販売機の明かりが道を照らして、私の影が長く伸びている。歩くたびにその影が揺れて、まるで私の心みたいに不安定だった。


 やがて見慣れた我が家の門が見えてきた。いつものように温かい光が窓から漏れていて、ママが待っていてくれるのだろう。


 でも今日は……今日は優も一緒に迎えてくれるはずだった……。


 私は玄関の前で立ち止まって、大きく息を吸った。涙も、ようやく止まっていた。


 鍵を開けて、扉を押し開く。


「ただいま……」


 小さな声でそう言った瞬間だった。


 パーンッ!


 大きな音が玄関に響いて、私は驚いて顔を上げた。


「いらっしゃい、優……斗……って、え?真珠?」


 そこには、クラッカーを手に持ったまま呆然としているママの姿があった。きっと優を迎えるために用意していたのだろう。その驚いた表情を見て、私の胸がさらに痛くなった。


「ママ……あの……ごめん、優は――」


 そこまで言いかけた瞬間、ママが私を抱きしめてくれた。


「ママ……?」


 突然のことに驚いたけれど、ママの温かい腕に包まれて、なんだかほっとした。


「いいのよ……何も言わなくていいわ……」


 ママが私の頭を優しく撫でながら、そっと囁いてくれた。その優しさに触れて、また涙が溢れそうになる。


「……うん……ありがとう、ママ……」


 私は小さくそう答えた。


 しばらくママに抱きしめられた後、私は二階の自分の部屋へと向かった。電気もつけずに鞄を床に置いて、そのままベッドの上に座り込む。


 薄暗い部屋の中で、私は膝を抱えて蹲った。静寂の中に、小さなすすり泣きの声だけが響いている。


 胸が苦しくて、悲しくて……。それと同時に、こんな思いを優にもさせてしまったんだという罪悪感で胸がいっぱいになった。


 私がカルマ君のことを話せなくて、優を傷つけてしまった。そして今度は、優が千秋ちゃんのことを話してくれなくて、私が傷ついている。


 どうすればいいのか……先が全然見えない……。


 その時だった。


 ブルルル……と、スマートフォンが震えた。


 私は枕元からスマホを取り上げて、画面を見た。その瞬間、暗い穴の底に沈んだはずの心が、火を灯したようにぱっと明るくなった。暗闇に一筋の光が差し込んできたかのように……。


 画面には『パパ』の文字が表示されていた。


 私はいてもたってもいられずに、慌てて通話ボタンを押した。


「パパ!?パパ!」


 私の声は、感情が溢れ出すように震えていた。


『真珠?』


 久しぶりに聞くパパの優しい声に、私はもう涙を堪えることができなくなった。子供のように声を上げて泣き出してしまう。


『真珠……よしよし……何かあったのかい?』


 パパの声が、電話の向こうから私を優しく包み込んでくれた。その声を聞いているだけで、胸がいっぱいになる。


 しばらく泣き続けた後、私はようやく落ち着きを取り戻した。


「ごめん、パパ……急に泣いたりして……」


 私はぐずりながら言った。


『いいんだよ……泣きたい時は我慢せずに泣くことが一番だ……どう?落ち着いたかい?』


 パパの声は、相変わらず優しくて温かかい。


「うん……えへへ、ちょっと落ち着いたよ。ありがとう、パパ……」


 私の心が、少しずつ温かくなっていくのを感じた。


『それは良かった……。さて、僕のお姫様……何があったのか、パパに話してくれるかな?』


 その言葉を聞いて、私は一瞬迷った。でも……やっぱりパパに聞いてもらいたい。パパになら、全部話せるような気がする……。


 私は心を落ち着けて、閉じていた重い口をゆっくり開く。


 窓の外では、もうすっかり夜が始まっていた。街灯の光が部屋にほんのりと差し込んで、私の頬を優しく照らしている。


 今日という一日の終わりに、ようやく私は本当の安らぎを見つけることができた。パパの声という、温かい音に……。

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