第82話 不旋律な調べ
七月の月曜日の朝。いつもと変わらない玄関で、いつもとは全く違う空気が流れていた。
私は制服のローファーの紐を丁寧に結びながら、背後から聞こえてくる鼻歌に内心で苦笑いを浮かべていた。
「ららら~、らら~」
振り返ると、エプロン姿のママが洗い物をしながら、まるで春の小鳥のように軽やかなステップを踏んでいる。普段の朝のママは、まだ眠そうに台所仕事をこなしているというのに……今日は明らかに様子が違っていた。
「ママ……」
私がそっと声をかけると、ママがくるりと振り返った。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「あら真珠!おはよう。 今日はとってもいい天気ね!」
まるで子供のように目を輝かせているママを見て、私の胸の奥で小さな嫉妬の炎がちろちろと燃え上がった。
そうよね……今日の夕方、優が我が家にやってくるのだから……。
「ママ、あのね……」
私は靴紐を結ぶ手を止めて、振り返った。
「優は……私の優だからね?」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど真剣な声になっていた。ママは一瞬きょとんとした表情を見せて、それから楽しそうに笑い声を上げる。
「あらあら、そんなに警戒しなくても大丈夫よ。でもね真珠……」
ママの目がキラキラと輝いた。
「やっぱり男の子もいいわね~!娘も可愛いけれど、息子がいるってどんな感じなのかしら。きっと優斗君なら、ママにも優しくしてくれるのよね……ふふふ」
その有頂天ぶりを見て、私は思わず深いため息をついた。
「はあ……もう、ママったら……」
でも、その一方で少しだけ嬉しい気持ちもあった。ママが優を気に入ってくれているということは、私にとっても嬉しい。
「行ってきます」
私は鞄を肩にかけて、玄関のドアに手をかけた。
「いってらっしゃい!優斗君によろしく言っておいてね」
背後からママの弾んだ声が聞こえてきて、私は小さく手を振りながら家を出た。
七月の朝の空気は、まだ涼しくて心地よかった。頬を撫でていく風が、制服のリボンを軽やかに揺らしている。歩きながら、私は昨夜のママとの会話を思い出していた。
『真珠、信じられないわ!』
ママの声が、まるで昨夜のことのように耳の奥で蘇ってくる。
『真珠が、あんな素敵な子と知り合いだなんて……!』
あの時のママの驚きようったら、本当にすごかった。私が優との関係を話した時よりも、ずっと興奮していたのだから。
『あのね真珠、ママね、彼とお話ししたのよ。彼の音楽に対する想い、それから人柄……本当に素晴らしい子だったわ!私がパパと出会う前だったら、絶対放っておかなかったもの!』
そして、ママが語ってくれた優との出会いの話……。
『偶然オクトーレで出会ったの。そしたら彼ったら、ストリートピアノで演奏していて……』
その時の私の驚きを、今でも鮮明に覚えている。まさか、ママが優と知り合っていたなんて……。
『彼の演奏を聴いた瞬間、鳥肌が立ったの。技術はもちろんだけれど、それ以上に心を揺さぶる何かがあった。プロの私が言うのだから間違いないわ。彼ならパパも絶対気にいるはずよ!よくやったわ真珠!』
歩きながら、私の胸が温かくなってくる。
やっぱり優はすごいんだ……!
あのママが認めるほどの実力を持っているなんて……。私が感じていた優の音楽の魅力は、決して恋する乙女の贔屓目ではなかったのだ。
優の音は、本当に魔法みたい……。聴く人の心を優しく包み込んで、まるで別世界に連れて行ってくれるような……。
やっぱりすごいよ、優!
優は私の……私の……
そこまで考えて、私の足がぴたりと止まった。
私の……何?
恋人?でも、今の私たちは恋人なんかじゃない。友達?それも微妙な関係になってしまっている。
それじゃあ、優は私にとって一体何なのだろう……。
答えの出ない問いが、胸の奥でぐるぐると回り続ける。
なんで……なんで優が私の魔法使いじゃないんだろう……。
歩道の脇に咲いている朝顔を見つめながら、私は小さくため息をついた。きっと私は、ずっと優に魔法をかけてもらいたかったんだ。優しい音で、私だけの特別な世界に連れて行ってもらいたかった。
でも現実は……。
いけない!
私は慌てて頭を振った。
今日は久しぶりに優とちゃんとお話しできるんだもん!こんなことで落ち込んでいる場合じゃない!
しっかりしろ、真珠!
私は自分を鼓舞するように、両手で頬をぺちんと叩いた。
「よしっ!」
声に出して気合いを入れて、再び歩き始める。
「うっ……痛い……」
ちょっと強く叩きすぎたかも……。
頬がじんじんと痛んで、思わず手で押さえてしまう。
でも、これくらいの痛み、優に会えるなら何てことない!
私は痛む頬をそっと撫でながら、学校に向かって歩き続けた。今日という日が、きっと私たちにとって大切な一日になるような……そんな予感を胸に抱きながら。
教室の扉を開けた瞬間、いつもと気分が違うからか、温かい空気が私を包み込んだ。朝の陽光が窓から差し込んで、机やホワイトボードを柔らかく照らしている。
「おはよ~!」
私が元気よく声をかけると、教室にいた友達たちが一斉に振り返った。
「あ、スピカちゃんおはよう!」
「真珠ちゃん、今日も可愛い~」
「早乙女さん、おはようございます!」
クラスのみんなが笑顔で挨拶を返してくれる。いつものことなのに、今日はなんだかその温かさが特別に感じられた。きっと今夜のことを思うと、自然と気持ちが弾んでしまうのかもしれない。
そして……私の視線は、いつものように教室の後ろの方へと向かった。
いた。
優が、いつもの席に座って窓の外を眺めている。その横顔を朝の光が頬を柔らかく照らしていた。彼が無事に学校に来てくれたという、それだけのことで胸の奥が温かくなる。
私は思わず足が向いてしまった。まるで磁石に引き寄せられるように、優の席へと歩いていく。
「おはよう!優!」
私は目をキラキラさせながら、精一杯明るい声で挨拶した。
優がハッとして私の方を振り返る。その瞬間、彼の瞳に少しだけ驚きの色が浮かんだ。
「お……おはよう……」
優の声は少しぎこちなくて、以前のような自然さはない。でも……でも、ちゃんと返事をしてくれた。それだけで、私の心は躍り上がった。
「うん!」
思わず元気よく返事をしてしまう。
「えへへ」
嬉しくて、自然と笑顔がこぼれてしまった。
だめだ……顔が自然とにやけちゃう……。
すると優が、私を一瞬見て頬を少し赤らめたように見えた。そして慌てたように視線を逸らして、再び窓の外へと目を向けてしまう。
ああ……もう……。
その仕草を見ていると、胸がきゅんと締め付けられた。きっと優は複雑な気持ちでいるのだろう。でも、それでも挨拶を返してくれる優が、私にはとても愛おしく感じられた。
「それじゃあ……」
私は名残惜しそうに優を見つめてから、自分の席へと戻った。
「早乙女さん」
席に着くと、隣に座っている友達が声をかけてきた。田中さんだったかな。
「今日、なんだかすごく嬉しそうね。何か朝からいいことでもあったの?」
田中さんが興味深そうに聞いてくる。その言葉に、私は思わずにんまりと笑ってしまった。
「えへへ~、ナイショ!」
私は人差し指を唇に当てて、満面の笑みを浮かべた。
すると、教室の前の方から突然声が上がった。
「くっ……可愛すぎるだろ……!」
「スピカ、マジ天使……!」
「あの笑顔、反則……」
男子生徒たちが、なぜか苦しそうに胸を押さえながらもだえている。私はその様子を見て、きょとんとしてしまった。
「みんな、どうしたの?」
私が首を傾げながら聞くと、田中さんが呆れたような表情でため息をついた。
「あ~……ほっといていいと思うよ。発作みたいなもんだから」
「発作?」
私はさらに首を傾げた。男子生徒たちの反応が、どうにも理解できなかった。
キーンコーンカーンコーン……
始業のチャイムが教室に響いて、騒がしかった空気が一気に静まった。教室の扉が開いて、担任の先生が入ってくる。
「はい、おはよう~」
先生の声に合わせて、私たちは「おはようございます」と挨拶を返した。
授業が始まる。先生が黒板に板書をする音、ページをめくる音、時折聞こえる鉛筆の音……いつものような教室の音が響いている。
でも私は、どうしても集中できなかった。
視線がちらちらと優の方に向いてしまう。彼は真面目に授業を受けているようで、ノートにペンを走らせている姿が見えた。
今夜……今夜、優が我が家にやってくる……。
そのことを思うと、胸がドキドキして授業どころではなかった。
二時間目の数学、三時間目の英語……時間はゆっくりと過ぎていく。窓の外では、夏らしい強い陽射しが校庭の緑を照らしていた。
そしてようやく四時間目が終わって、ついに昼休みがやってきた。
「ふあ~」
私は大きく背伸びをして、凝った肩をほぐした。午前中の授業は、いつもより長く感じられた。
お弁当を取り出しながら、私はちらりと優の方を見た。彼も同じようにお弁当の準備をしている。
誘おうかな……。
その思いが頭をよぎって、私は少し迷った。久しぶりに優と一緒にお昼ご飯を食べたい。でも、今の微妙な関係で誘ってもいいのだろうか……。
う~ん……でも一緒に食べたいし……。
私は頬を膨らませながら、本気で悩んでしまった。優のことを見つめたり、お弁当を見つめたり、また優の方を見たり……。
「早乙女さん」
そんな時、声をかけられて私は振り返った。
「あ、矢野さん」
そう、確か矢野景子さんだった。普段はあまり話さないけれど、同じクラスの子だ。
「どうしたの?」
「あのね、早乙女さん」
矢野さんが教室の入り口の方を指差した。
「あの子が早乙女さんのこと呼んでるよ?」
私は矢野さんが指差す方向を見た。そこには、見覚えのある女子生徒が立っている。
あ……。
優が「梢」と呼んでいた、彼の幼馴染の人だ。上品な雰囲気で、いつも落ち着いているイメージがある。
私に?何の用だろう……。
少し驚きながらも、私は席から立ち上がった。
「うん……分かった。ありがとう、矢野さん」
私は矢野さんにお礼を言って、教室を出た。
「ごめんなさいね、お昼休み中に呼び出してしまって」
梢さんが上品な微笑みを浮かべながら、丁寧に頭を下げてきた。
「あ、ううん、大丈夫!気にしないで」
私は明るく答えたけれど、心の中では少し残念な気持ちがあった。
う~!優とお昼ご飯、食べたかったよ~!
でも、そんな気持ちを表に出すわけにはいかない。
「少しだけお付き合いいただけるかしら?どうしても貴女にお話ししたいことがあるの」
梢さんの声には、どこか含みがあるように感じられた。いつもの上品な調子なのに、なぜか少し緊張してしまう。
「私に……?」
私は首を傾げながら聞き返した。梢さんと私の間に、一体どんな話があるというのだろう。
「ええ。でも、ここじゃ人目につくから……」
梢さんはそう言うと、私を一瞥してから歩き始めた。
「あ……」
私は思わず教室の方を振り返った。まだお弁当も食べていない優の姿が見える。今日こそは一緒にお昼を食べたかったのに……。
でも、梢さんがわざわざ呼びに来たということは、きっと大切な話があるのかもしれない。
私は小さくため息をついて、梢さんの後について歩き始めた。廊下に響く二人の足音が、なんだかとても不安に感じられる。
梢さんに連れられて歩いた先は、校舎の三階にある音楽室だった。
扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でていく。昼下がりの西日が大きな窓から差し込んで、室内に置かれたグランドピアノの黒い表面をきらきらと照らしていた。誰もいない静寂の中で、かすかに楽器の匂いが漂っている。
「ここなら、誰にも邪魔されないでしょうね」
梢さんがそう言いながら、ゆっくりとピアノに近づいていく。その指先が、まるで愛おしいもの触れるように鍵盤の蓋を優しく撫でた。
私は扉の近くに立ったまま、なんとなく落ち着かない気持ちでその様子を見ていた。音楽室の独特な雰囲気と、梢さんの何か含みのある態度が、私をどことなく不安にさせる。
「それで……私に用事って何?」
私は意を決して口を開いた。
梢さんがゆっくりと振り返る。その表情には、いつものような上品な微笑みが浮かんでいるけれど、どこか探るような光が瞳に宿っていた。
「貴女……最近、優斗とあまり上手くいっていないそうね」
その言葉に、私の背筋がぴんと張った。梢さんがクスリと笑いながら、私の表情を観察するように見つめている。
「それが何?」
私は動じないように努めて、真っ直ぐに梢さんを見返した。確かに優との関係は上手くいってないけど、それを他人にとやかく言われる筋合いはない。
「あら」
梢さんが少し驚いたような表情を見せた。
「そんなに睨まないで。別に貴女に喧嘩を売ろうっていうわけじゃないのよ。気を悪くしたのなら、ごめんなさい」
そう言って、梢さんが丁寧に頭を下げる。でも、その謝罪には心が通ってないような気がした。
「いえ……別に」
私は少し冷静さを取り戻して答えた。
「それで、お話って言うのは?」
すると、梢さんは微笑みながら口を開いた。
「……これを見てくれる?」
彼女ははそう言いながら、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。画面を何度かタップして、やがて私の方に向けて差し出してくる。
「これは……?」
私は小首を傾げながら、差し出されたスマホの画面を覗き込んだ。
「何です――」
そこまで言いかけて、私の声が喉の奥で詰まった。
画面に映っているものを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。例えようがない衝撃が、全身を駆け抜けていく。
「何……これ……」
私の声が、いつの間にか掠れるように震えていた。
「貴女も知ってるでしょう?優斗の元恋人だった千秋よ」
梢さんの声が、まるで遠くから聞こえてくるように感じられた。
画面には……優が、千秋ちゃんをベンチで抱きしめている写真が映っていた。優の腕が千秋ちゃんの背中を包み込んで、千秋ちゃんは優の胸に顔を埋めるようにして……。
二人の間に流れる親密な空気が、写真からでもはっきりと伝わってくる。
私の足元が、ぐらりと揺れた。まるで床が崩れ落ちていくような感覚に襲われて、思わず壁に手をついてしまう。
「私も正直驚いたのよ」
梢さんが申し訳なさそうな口調で続ける。
「でも、これを見てしまったら……やっぱり二人を応援したくなってしまうの。だって二人は幼馴染で、それに元々恋人同士だったんだもの」
「でも……」
私は必死に声を絞り出した。
「優は、千秋ちゃんとはちゃんとお別れして……」
「あら?」
梢さんが少し意地悪そうに微笑んだ。
「男の人って、傷心している時に他の女性に目移りしてしまうことって、よくあることよ?それに……」
梢さんの視線が、私の心の奥を見透かすように鋭くなった。
「こんな風になってしまうまで、優斗を繋ぎ止めておくことができなかった貴女にも、問題があったのではないかしら?」
その言葉が、まるで針のように胸に刺さった。
そう……なの?私が優ともっとちゃんと向き合っていれば……もっと素直に気持ちを伝えることができていれば……。
「……ゆ、優は何て言ってるんですか?」
私は震え声で尋ねた。優の気持ちを知りたい。でも同時に、聞くのが怖くもあった。
「さあ……本人に聞いてみるのが一番手っ取り早いと思うけれど」
梢さんが肩をすくめる。
「でも、こういう時って男の人は素直に話してくれないものよね。きっと沈黙が答えってところじゃないかしら。本人に確認してみれば?」
その言葉を聞いて、私はもうこの場に立っていられなくなった。
「もう……戻ります」
私は振り返って、扉に向かって歩き出した。このまま、ここにいたら……きっと私は壊れてしまう。
様々な感情が胸の中で渦巻いている。悲しみ、怒り、嫉妬、そして絶望……。居ても立ってもいられなくて、ただその場から逃げ出したかった。
「……カルマ君から、貴女のことを聞いているわ」
背後から聞こえた梢さんの声に、私の足がぴたりと止まった。
カルマ君……。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。
「彼ね、貴女のことを本当に大切に思っているみたい。いつも貴女のことを気にかけているし……」
梢さんの声に、どこか楽しそうな響きが混じっていた。
「ふふ……それに、二人は小さい頃に出会って、奇跡的な再会を果たしたそうじゃない?」
私は思わず振り返った。
「それって、とても運命的だと思わない?まるで見えない糸で繋がれているみたい」
梢さんが羨ましそうに言う。
運命……見えない糸……。
その言葉を聞いて、私の心の中で何かが激しく反発した。
「違う!」
私は思わず声を上げていた。
「私の魔法使いは――」
そこまで言いかけて、私ははっと口を押さえた。
魔法使い……?私、今何を言おうとしたの……?
なんて……なんて言いそうになったの?
私の心が混乱して、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。優への想い、、そしてあの写真……全てが絡み合って、自分でも何を考えているのか分からなくなった。
「何?」
梢さんが興味深そうに聞き返してくる。
「な……何でもない……」
私は慌てて答えて、今度こそ音楽室から逃げ出した。
廊下を走りながら、私の頬を涙が伝って流れ落ちていく。
優……。
私の気持ちは一体どこに向かっているの……。どこに行けばいいの……。