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第81話 初夏の憂鬱

 七月の土曜日の昼下がり、俺は自分の部屋でPC画面を見つめながら、深い深いため息をついていた。


「はあ……」


 昨日の結婚式での出来事が、まるで走馬灯のように頭の中をぐるぐると駆け巡っている。HIBIKIさんと美紗の修羅場……あの時の空気の重さといったら、今思い出しただけでも背筋が寒くなる。


 それにしても美紗は、本当にHIBIKIさんのことが大好きなんだな……。


 俺がHIBIKIさんと仲良くしているのを見て、あんなに怒るなんて。まあ、確かに俺がもしHIBIKIさんの大ファンだったとして、HIBIKIさんが他の男と親しそうにしているのを見たら……そう考えると美紗の気持ちも分からなくはない。


 でも、あの場にいた俺としては、本当に生きた心地がしなかった。


「まったく……」


 頭を振って気持ちを切り替えると、俺は再びPC画面に向き直った。モニターには音楽制作ソフトのDAWが表示されていて、無数のトラックが縦に並んでいる。ピアノ、ストリングス、ドラム、ベース……それぞれの波形が、まるで心電図のように画面上に描かれていた。


 タイアップまで、残り六日。


 この楽曲は恋愛をテーマにしたポップサウンドで、サビの部分はもうほぼ完成している。Aメロからサビにかけての展開も、コード進行的には申し分ない。ただ、ブリッジ部分のアレンジがまだ決まりきっていない。ここをもう少し盛り上げるべきか、それとも抑えめにして次のサビを際立たせるべきか……。


 俺はヘッドフォンを装着して、再生ボタンをクリックした。


 静かなピアノの音色から始まって、やがてストリングスが重なり、サビで一気に盛り上がっていく。メロディーラインは、真珠とのデートの時に感じた気持ちを音に込めて作ったものだった。あの時の彼女の笑顔、手をつないだ時の温もり、一緒に歩いた夕暮れの街並み……。


 でも、今この曲を聴いていると、胸が複雑な気持ちで締め付けられる。


 真珠との関係は、あの後どうなってしまったんだろう……。カルマ君のことで、俺たちの間には深い溝ができてしまった。もしかしたら、この曲を聴いた真珠は何を思うんだろうか。それとも、もう俺のことなんてどうでもいいと思っているのだろうか……。


 そんなことを考えながら、俺は細かな音の調整を続けていた。EQで高音域を少し持ち上げて、リバーブの深度を調整して……。作業に没頭していると、時間が経つのも忘れてしまう。


 その時だった。


 ブルルルル……。


 突然、机の上に置いていたスマホが震え始めた。着信音が静かな部屋に響いて、俺は慌ててヘッドフォンを外す。


「えっ……?」


 画面を見ると、そこには見慣れた名前が表示されていた。


 『真珠』


 俺の心臓が、一瞬止まったような気がした。真珠から電話……?なんで今になって……?


 スマホを手に取りながら、俺の頭の中は混乱していた。真珠とは、いつかちゃんと話し合わないといけないと思っている。でも、まだ心の整理がついていない。何を話せばいいのか、どう向き合えばいいのか、全然分からないんだ。


 着信音が鳴り続けている。俺の指は通話ボタンの上で宙をさまよっていた。


 出るべきか……出ないべきか……。


 やがて着信が切れて、部屋に静寂が戻ってきた。俺は深く息をついて、スマホを机の上に置いた。申し訳ない気持ちと、少しの安堵感が入り混じっている。


 何を話せばいいか分からない。真珠のことを考えると、どうしてもカルマ君の顔が頭をよぎってしまう。あの時の真珠の態度……俺にだけは話せないという言葉……。


 俺は椅子の背もたれに体重を預けて、天井を見上げた。


「はあ……」


 また、深いため息が漏れる。


 その時、再びスマホが震え始めた。


「えっ……!?」


 慌てて画面を確認すると、またしても『真珠』の文字。


「うっ……」


 今度こそ出るべきなのか……?でも、まだ心の準備ができていない。俺は躊躇しながら、またしても通話を見送ってしまった。


 いったい何の用なんだろう……。もしかして、何か大事な話があるのかもしれない。でも、今の俺には真珠と向き合う勇気がない。


 着信が切れると、しばらくの間静寂が続いた。俺はスマホを見つめながら、何度も指を画面に伸ばしたり引っ込めたりしていた。出るべきなのか、出ないべきなのか……。


「何やってるんだ、俺……」


 自分の優柔不断さに嫌気が差してきた頃、またしてもスマホが鳴り始めた。


 今度も『真珠』からの着信。これで三回目だ。


「うわ……」


 真珠の鬼電に、俺はちょっとビビってしまった。よっぽど大事な用事なのかもしれない。もしかして、何かトラブルでも起きているのか……?


 そんなことを考えていると、反射的に指が通話ボタンを押していた。


「あっ……しまった……」


 慌てながらも、俺はスマホを耳に近づけた。向こうから聞こえてきたのは、慌てたような真珠の声だった。


「もしもし?優?優なの?」


 その声を聞いた瞬間、俺の胸がキュンと締め付けられた。久しぶりに聞く真珠の声は、なんだかとても不安そうで、今にも泣き出しそうな響きがあった。


「……あ、うん。久しぶり……」


 俺は少しぎこちなく答えた。この気まずさ、どうしたらいいんだろう……。


「良かった……出てくれて……本当に良かった……」


 真珠の声が、明らかにホッとした調子に変わった。でも、その声の奥にはまだ不安が残っているのが分かる。


 その一言で、俺の心も少し揺れた。やっぱり真珠も、俺との関係を気にしているんだ……。


「な、何か用……?」


 俺は少し緊張しながら聞いた。いったい何の話をしたいんだろう。


「うん……あ、あのね、その……」


 真珠が言い淀んでいる。電話の向こうで、彼女が何かを言おうとして、でも言葉が出てこない様子が手に取るように分かった。


 気まずい沈黙が流れる。俺も何と言っていいか分からなくて、ただスマホを握りしめているだけだった。


「真珠……?」


 思わず彼女の名前を呼んでしまった。


「月曜日……学校が終わった後で……もしよかったら、家に来てくれないかな……?」


 真珠が一気にそう言った。その声は、まるで勇気を振り絞って告白でもするかのような、震えた調子だった。


「家に……えぇぇっ!?」


 俺は驚いて、思わず大きな声を上げてしまった。真珠の家に……?なんで急にそんな話に……?


「あのね……優に、どうしても話したいことがあって……」


 真珠が続ける。その声は、さっきよりも真剣な響きを帯びていた。


「いや、だからってなんで家に……」


 俺は戸惑った。真珠とは色々あって、正直顔を合わせるのがつらい。今だって、電話で話すだけでもこんなに気まずいのに、実際に会うなんて……。何を話せばいいのかも分からないし、正直言って、まだ真珠に対して許せない気持ちもある。


 カルマ君のことを俺にだけ話せないと言った、あの時の真珠の態度……。あれから、俺の中には複雑な感情がずっと渦巻いている。


「話なら、別に今でも――」


 俺がそこまで言いかけたとき、真珠が割って入った。


「会って話がしたいの!ちゃんと優の顔を見て……話したいの」


 その声には、今までにない強い意志が込められていた。


「でも……」


 それでも俺は悩んだ。会ったところで、本当に真珠は全てを話してくれるんだろうか……。


「そ、それに……ママがどうしても優に会いたいって……!」


 真珠が付け加えた。その言葉に、俺は一瞬耳を疑った。


「え?な、なんで真珠のお母さんが……?」


 全然意味が分からない。俺が真珠のお母さんに会ったことなんてないのに……。


「そ、それはその……会えば分かるから……と、ともかくどうしても会いたいって……!ダメかな……?」


 真珠の声が、だんだんと必死な調子になってきた。そこまで言われると、さすがに断りきれない気持ちになってくる。


 俺は深く息を吸って、ゆっくりと答えた。


「わ、分かったよ……分かったから、落ち着いてくれ」


「ほ、本当に!?本当に来てくれるの!?」


 真珠の声が一気に明るくなった。まるで子供のように興奮している様子が伝わってくる。


「うん……俺も、いつか冷静に話さなきゃって思ってたから……」


 本当のことだった。このままずっと気まずい関係を続けているわけにはいかない。


 というか、つくづく意志が弱いな俺……なんか自分が嫌になる……。


「そっか……ありがとう……本当にありがとう、優……」


 真珠が心の底から嬉しそうに言った。その声を聞いていると、俺の気持ちも少し和らいできた。


「じゃ、じゃあまた月曜日に……」


 俺は話を区切ろうとした。これ以上長く話していると、また気まずくなってしまいそうだった。


「あ、うん……分かった。ごめんね、急に電話して……でも出てくれて、本当にありがとう。優と話せてよかった……また学校でね」


 真珠の声が、最後まで嬉しそうだった。


 俺は通話を切って、スマホを机の上に置いた。


 久しぶりに真珠と話せて、やっぱり嬉しかった。でも同時に、複雑な気持ちも湧いてくる。まだ心の整理がついていない。話したとしても、真珠は本当に全てを俺に話してくれるんだろうか……。またあの時みたいに、何か隠し事をされるんじゃないだろうか……。


 それにしても、真珠の家か……。しかも、真珠のお母さんが俺に会いたいって言ってるなんて……。


 一体なんでだろう……。


 俺は頭を抱えて、深くため息をついた。月曜日まで……それまでに、少しでも心の準備をしておかないと……。


「はぁ……なんか集中できないな……」


 俺は椅子に座り直して、さっきの会話のことを反芻した。月曜日に真珠の家に行く……その約束が、俺の頭の中でぐるぐると回っている。


 やっぱり理解ができない。俺は頭を抱えて、深くため息をついた。


「はあ……考えても仕方ないか……」


 とにかく今は、作業に集中しよう。今考えても答えは出ないし、月曜日になれば自然と分かることなんだから。


 俺は気持ちを切り替えて、再びPC画面に向き直った。DAWソフトの画面には、さっきまで作業していた楽曲データが表示されている。タイアップまで残り六日……時間はそれほどない。


 ヘッドフォンを装着して、再び作業を再開した。


 ブリッジ部分のストリングスアレンジを調整して、ドラムパターンを微調整して……。


 作業に没頭していると、時間があっという間に過ぎていく。気がつくと、もう一時間近く経っていた。


 そろそろ一息つこうかな……。


 俺は椅子の背もたれにもたれかかって、大きく背伸びをした。


「んー……」


 肩と首のコリがほぐれて、少しすっきりした。窓の外を見ると、午後の陽射しがまぶしく部屋に差し込んでいる。もうそろそろ二時になる頃だろうか。


 水でも飲もうかと立ち上がろうとした時だった。


 ブルルルル……。


 またスマホが鳴り始めた。


「え?また……?」


 俺は慌てて画面を確認した。また真珠からかと思ったけれど、そこに表示されていたのは全く予想していなかった名前だった。


 『梢』


「こ、梢……?」


 なんで梢が俺に電話を……?昨日、結婚式で久しぶりに会ったばかりだというのに。俺は首を捻りながら、通話ボタンを押した。


 梢と電話で話すなんて、本当に何年ぶりだろう。小学校の頃以来かもしれない。一体何の用事があるんだろうか……。


「も、もしもし……梢?」


 俺は少し緊張しながら声をかけた。


「あ、優斗……?良かった……つながって……」


 梢の声が聞こえてきたけれど、その調子がいつもと全然違っていた。昨日会った時の梢は、相変わらず落ち着いていて、大人びた印象だったのに……今の声は明らかに動揺している。


「梢……どうかしたの?声が……」


 俺は心配になって尋ねた。梢がこんなに取り乱している声を聞くのは、本当に久しぶりだった。


「突然電話してごめんなさい……でも、どうしても優斗に話さなきゃいけないことがあって……」


 梢の声は震えていた。電話の向こうで、彼女が何かに怯えているような雰囲気が伝わってくる。


「俺に?何かあったの?昨日は普通だったのに……」


 俺は身を乗り出すように聞いた。梢に何かトラブルでも起きたんだろうか。


「……実は、千秋のことなんだけど……」


 梢が沈んだ声でそう言った瞬間、俺の心臓がドキンと跳ねた。


 千秋……。


 その名前を聞いただけで、俺の胸に複雑な感情が湧き上がってくる。元彼女の名前を、今更梢から聞くことになるなんて……。


「ち、千秋が……どうかしたの?」


 俺は慎重に言葉を選びながら聞いた。千秋とは、もう関係は終わったはずなのに……。


「ええ……本当は話そうかどうか、すごく迷ったのよ……でも、千秋があなたになら話してもいいって……そう言うから……」


 梢の声に、明らかな迷いが含まれていた。


「俺に?何の話を……?」


 俺は困惑した。千秋が俺に話したいことって、一体何だろう。


「実は……千秋が事件に巻き込まれたみたいなの……」


 梢がぽつりとそう言った。その言葉に、俺は思わず椅子から立ち上がりそうになった。


「事件……?どういうこと?」


 俺の声が上ずった。事件って、一体何があったんだ……?


「優斗は……浅間先輩が逮捕された話、知ってる?」


 梢が重い口調で尋ねた。その瞬間、俺の頭の中で、以前矢野景子が言っていた話がフラッシュバックした。


「あ……浅間が!?」


 そういえば景子が言っていた……浅間の家に警察が来ていたという話。まさか、本当に逮捕されていたのか……。


「ええ……詳しくは私もまだよく知らないんだけど……浅間先輩が起こした事件と、千秋がどうも関係しているみたいなの……彼女も警察から取り調べを受けたらしいのよ……」


 梢の説明を聞きながら、俺の頭は混乱していた。


「千秋が事件に……」


 俺は愕然とした。最近千秋を見かけないから、どうしているのかなとは思っていたけれど……まさかそんなことになっていたなんて……。


「それでね……千秋がどうしても優斗と話したいと言っているの……」


 梢が続けた。


「お、俺と……?何でまた……」


 俺には理解できなかった。千秋と俺はもう完全に終わったはずなのに……。


「優斗と千秋の間にあったことは、あの子から聞いて知っているわ……確かに、今は気まずい関係になってしまったかもしれない……でも、それでも私たちは幼馴染だった関係でしょう?それに、あの子にとっては初めての恋人でもあった……」


 梢の声が、だんだんと懇願するような調子になってきた。


「少しだけでもいいから……千秋の話を聞いてもらえないかしら……?」


「でも、俺は……」


 俺は言い淀んだ。千秋のことは、正直もう関わりたくない。あの時のことを思い出すのも辛いし、今は別のことで頭がいっぱいなんだ。


「気持ちは分かるわ……でも、あの子本当に追い詰められているのよ……死にたいとか、そんな物騒なことまで言い出していて……お願い、優斗……!」


 梢の声が、今度は完全にすがるような調子になった。その必死さに、俺は胸を打たれた。


 いつも冷静で、取り乱すことなんて滅多になかった梢が、こんなに必死になっている……。千秋の状況は、相当深刻なんだろう。


「はぁ……うん、分かった、分ったよ……」


 俺は重い口調で答えた。やっぱり、完全に無視するわけにはいかない。


「本当に……?良かった……本当にありがとう……」


 梢の声が、明らかにホッとした調子に変わった。


「優斗の家の近くに公園があったでしょう?あそこなら人目もないし……私から千秋に連絡しておくから、今からそこに向かってもらえるかしら?」


「公園……?電話じゃダメなの?」


 俺は尋ねた。わざわざ会わなくても、電話で話せばいいんじゃないだろうか。


「ごめんなさい……千秋が、直接会って話したいって……きっと電話では話しにくいことなのよ……」


 梢が申し訳なさそうに言った。


「そっか……うん、分かった。今から行くよ」


 俺は諦めて答えた。ここまで言われたら、もう断るわけにはいかない。


「ありがとう、優斗……本当に助かるわ……じゃあ、私はすぐに千秋に連絡するわね」


 梢がそう言って、通話が切れた。


 俺はスマホを机の上に置いて、深くため息をついた。


 状況がよく飲み込めない。浅間が逮捕されて、千秋が事件に巻き込まれて……一体何が起きているんだろう。そして、なんで千秋が俺と話したがっているんだろうか。


 でも、梢があんなに必死になっているということは、本当に深刻な状況なんだろう。千秋が「死にたい」なんて言っているなら、さすがに放っておけない。


 俺は立ち上がって、部屋を出る準備を始めた。少し話すだけなら、きっと大丈夫だろう……。


 でも、正直言って不安だった。千秋と二人きりで話すなんて、あの別れ以来初めてのことになる。一体、何を話されるんだろうか……。


 俺は上着を羽織りながら、公園に向かう決意を固めた。


 俺は家を出て、急ぎ足で公園に向かった。


 七月の午後の陽射しが容赦なく照りつけて、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。蝉の鳴き声が空気を震わせ、夏休み前の静かな住宅街に響いている。普段なら心地よく感じるはずの初夏の風景が、今日はなぜかとても重く感じられた。


 梢は「事件に巻き込まれた」と言っていた……。


 いったい千秋に何があったんだろう。浅間が逮捕されて、千秋がその事件に関係している……。俺には想像もつかない状況だった。


 確かに、千秋と俺の関係は完全に終わってしまった。あの時のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。でも、それでもやっぱり……幼い頃を一緒に過ごした仲なんだ。完全に無関心でいることなんて、できるわけがない。


 それに、梢が言っていた「死にたい」という言葉が、俺の頭から離れない。


 公園までの道のりを、俺は小走りに向かった。汗が額を流れ落ちて、Tシャツが背中に張り付いている。でも、そんなことはどうでもよかった。


 やがて、見慣れた公園の入り口が見えてきた。


 小さな児童公園で、ブランコと滑り台、それに砂場がある程度の場所だった。平日の昼間ということもあって、子供たちの姿はない。静寂に包まれた公園は、なんだかとても寂しげに見えた。


 俺は公園の中に足を踏み入れて、辺りを見回した。千秋はどこにいるんだろう……。


 その時、公園の奥にあるベンチに、小さな人影を見つけた。


 茶色い髪を肩まで伸ばした、見覚えのあるシルエット……。


 千秋だ。


 俺は一瞬、どんな顔をして近づけばいいのか分からなくなった。何て声をかければいいんだろう。何を話せばいいんだろう。


 でも、近づいてみて、俺は愕然とした。


 ベンチに座っている千秋の姿は、俺が記憶している彼女とは別人のようだった。頬がこけて、目の下には深いクマができている。以前よりもかなり痩せ細っていて、まるで病気にでもかかったかのような……そんな憔悴しきった様子だった。


 一体この数日間で、彼女の身に何があったんだ……。


 俺はもういてもたってもいられなくなって、千秋の元に駆け寄った。


「千秋……!」


 俺が声をかけると、千秋がゆっくりと顔を上げた。


「優斗君、来てくれたんだ……本当に……嬉しい……」


 千秋の目には、大粒の涙が浮かんでいた。その声は掠れていて、まるで何日も泣き続けていたかのような響きがあった。


「千秋……」


 俺は言葉を失った。久しぶりに見る千秋の姿があまりにも変わりすぎていて、どう反応していいのか分からなかった。


 でも、何も言わずに千秋の隣にそっと腰を下ろした。ベンチの木材は、夏の陽射しで温められて、ほんのりと暖かかった。


「梢から聞いたよ……その、何か事件に巻き込まれているって……いったい何があったの?」


 俺はできるだけ優しい声で尋ねた。千秋を刺激しないように、慎重に言葉を選んで……。


「優斗君……」


 千秋が俺の方を向いた。その瞳は真っ赤に腫れ上がっていて、見ているだけで胸が痛くなる。


「私のこと……嫌いにならないでね……これから話すこと……聞いても……」


 千秋が震え声で言った。まるで何かとても重大な秘密を打ち明けようとするかのような、そんな切羽詰まった表情だった。


「千秋……そんな事言うなって……いいから話してみて」


 俺は自然とそう答えていた。確かに、千秋とは複雑な関係になってしまったけれど……それでも、彼女がこんなに苦しんでいるのを見ていられない。


「実はね……私……」


 千秋が言いかけて、また言葉を飲み込んだ。唇を震わせながら、何度も口を開こうとしては閉じている。


「ゆっくりでいいから……」


 俺が励ますように言うと、千秋は深く息を吸い込んで、意を決したように口を開いた。


「私……浅間先輩に襲われたの……」


 その瞬間、俺の頭の中が真っ白になった。


「なっ……!?」


 俺は絶句した。浅間が……千秋を……?


「浅間が……!?」


 俺の中で、怒りがふつふつと燃え上がった。あの野郎……まさかそんなことを……!


 俺は拳をぎゅっと握りしめた。体が怒りで震えている。千秋に何てことを……!


「それだけじゃないの……」


 千秋が続けた。その声は、さらに震えを増していた。


「しかも、それを……ど、動画に……撮られてて……うぅっ……」


 そこまで話したところで、千秋が嗚咽を漏らし始めた。そして、そのまま大きな声で泣き出してしまった。


「うわあああん……!」


 千秋の泣き声が、静かな公園に響いた。その悲痛な声を聞いていると、俺の胸も締め付けられるように痛くなった。


 突然、千秋が俺の方に体を預けてきた。


「ち、千秋……!?」


 俺は驚いたけれど、傷ついている千秋を無下に突き放すことなんてできなかった。そっと千秋の肩に手を置いて、支えるようにした。


「千秋……大丈夫……落ち着いて……」


 俺はできるだけ優しい声で言った。でも、実際のところ、俺自身も動揺していて、何と言っていいのか分からなかった。


「うぅっ……優斗君……優斗君……」


 千秋が俺の名前を呼びながら、一向に泣き止む様子がない。その小さな体が、嗚咽で震えている。


 俺は千秋の背中を優しく撫でた。こうすることしかできない自分がもどかしかったけれど……今は、千秋の気持ちが少しでも落ち着くまで、そばにいてあげることしかできない。


 夏の午後の陽射しが、二人を静かに包んでいた。


 公園の向こうから聞こえてくる車の音や、遠くで響く子供たちの声が、まるで別の世界の出来事のように感じられた。


 千秋の涙は、なかなか止まることがなかった。


 俺は何も言わずに、ただ彼女の背中を撫で続けた。時間がゆっくりと過ぎていく中で、千秋の呼吸が少しずつ落ち着いてくるのを感じていた。


 どれくらいそうしていただろうか。


 やがて、千秋の嗚咽が小さくなって、彼女がそっと俺から離れた。目を真っ赤に腫らした顔で、申し訳なさそうに俺を見上げている。


「ごめんなさい……急に泣いちゃって……」


 千秋が小さな声で謝った。


「気にしないで……」


 俺はそう答えながら、改めて千秋の表情を見つめた。


 まだまだ話さなければならないことがありそうだった。でも今は、千秋が少しでも気持ちを落ち着けることができればいい……。


 俺はそっと千秋の隣に座り直して、静かに次の言葉を待った。


 夏の風が、二人の間を優しく吹き抜けていった。

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― 新着の感想 ―
 自業自得以外の何物にも非ず
盛大な仇返しされた相手に優しくする理由は無いのだがな… その優しさが取り返しのつかない事態になっても知らないよ 優斗の行動が理解出来ん
梢の暗躍がしつこくてちょっとうんざりしてきたな……。 真珠との関係がすっきりしない中で千秋までカムバックしてくるといい加減に鬱陶しくなってくる。ここから千秋との復縁はありえないけど、どうせ梢あたりが…
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