第79話 約束の指切り
深紅のビロードの緞帳がゆっくりと降り、視界から会場がフェードアウトしていった時、俺はまるで重いレースが終わったランナーのような気分だった。
「皆様、本日は新郎新婦のお二人への最高のお祝いとして……」
司会者の華やかな声が緞帳の向こうから響いてくる。HIBIKIさんが会場に向かって手を振りながら、マイクを受け取るのが見えた。その優雅な仕草には一片の疲れも見せず、まさにプロフェッショナルそのものだった。
「実は今回、新郎様から新婦様がHIBIKIの大ファンでいらっしゃると伺いまして……このようなサプライズをご用意させていただきました」
HIBIKIさんの声が響くと、会場から再び大きな拍手が巻き起こった。新郎新婦の驚きと感動の声も聞こえてくる。
なんとか……やり切った。
そんな実感が、じわじわと胸の奥から湧き上がってきた。
「つ、疲れたぁ……」
ピアノの椅子に座ったまま、俺は深くため息をついて項垂れた。背中の筋肉がこわばっているのがわかる。手のひらには汗がびっしりとかいていて、シャツの背中も湿っているのを感じた。
こんなに疲れた演奏は初めてだった。特に精神的に。
HIBIKIさんの圧倒的な歌声に押し潰されそうになりながらも、必死についていこうとした時間。会場にいる何百人もの視線を感じながら、震える指で鍵盤を叩き続けた緊張感。そして何より……演奏の最中、何度も頭をよぎってしまった真珠の面影。
でも……普段なら心が折れていたかもしれないような状況の中で、俺は最後まで自分の力を出し切ることができた。HIBIKIさんの歌声と俺の演奏が一つになって、会場全体を包み込んだ瞬間があった。あの感覚は確かに手応えがあった。
ただ……それと同時に気づいてしまったことがある。
演奏している最中、何度も真珠への想いが溢れそうになった。HIBIKIさんの歌声を聞くたび、その美しい横顔を見るたび、胸の奥で疼くような気持ちが湧き上がってきて……結局、俺はまだ真珠への想いを断ち切れていないんだ。
情けないな、俺……。
自分の手のひらを見つめながら、俺は小さく苦笑いを浮かべた。距離を置こうと決めたのに、こんな大切な場面でも真珠のことを考えてしまうなんて。
その時だった。
「うおおおおお!!」
突然、背後から勢いよく両肩を叩かれて、俺は前のめりになりそうになった。
「うわっ!?」
慌てて振り返ると、そこには目を輝かせた拓哉の顔があった。興奮で頬が赤くなっているのがよくわかる。
「すげえよ優斗!マジでお前、今のヤバかったって!あのプロのHIBIKIと一緒に演奏してたんだぞ!?しかも全然負けてなかったじゃないか!」
拓哉の声は興奮で上ずっていて、まるで自分のことのように喜んでくれているのが伝わってきた。その純粋な表情を見ていると、俺の胸も少しずつ温かくなってくる。
「た、拓哉……ありがとう。拓哉たちが側にいるって思うだけで、すごく心強かったよ」
俺が素直にそう言うと、拓哉の顔がパッと明るくなった。でもすぐに慌てたような表情になって、後頭部をガシガシと掻き始める。
「おま……相変わらずそんな照れくさいこと、よく平気で言えるよな……俺の方が恥ずかしくなっちまうだろうが」
拓哉の困ったような笑顔を見ていると、なんだか可笑しくなってきた。こいつは本当に素直で良い奴だ。
「ほんま凄かったで!こんなん生で聴けるとか、マジであり得へんって!」
今度は八重の声が響いた。振り返ると、彼女が満面の笑みでこちらに向かって駆け寄ってくる。そしていきなり俺の背中を容赦なくバンバンと叩き始めた。
「痛っ!痛いって八重!」
八重の手は思っていた以上に力強くて、叩かれる度に体が前に押し出される。でも、その無邪気な笑顔を見ていると、文句を言う気にもなれなかった。
「上手かった……」
いつの間にか俺の前に立っていたちぃが、いつもの無表情でそう呟いた。そして何かを俺に向かって差し出してくる。
「あ……これも美味いから食べて」
見ると、湯気の立つたこ焼きが串に刺さったまま俺の目の前にあった。
「え、ちょっと待っ――」
俺が制止する間もなく、ちぃは熱々のたこ焼きを俺の口の中に押し込んできた。
「あふっ!あちちちち!」
熱さで思わず悶絶する俺。舌が火傷しそうになって、俺は慌てて地面にしゃがみ込んだ。
「何やってんのよバカ!」
美紗の怒った声が響いて、次の瞬間、冷たいペットボトルが俺の手に押し付けられた。俺は藁にも縋る思いで水を口に含む。
「た、助かった……ありがとう美紗……」
ようやく落ち着いた俺が顔を上げると、美紗が少し頬を赤らめながらそっぽを向いているのが見えた。
「別に……その……凄くかっこよかった」
そんな美紗の様子を見て、八重がクスクスと笑い始めた。
「あはははっ!ちぃが人に食べもんあげるとか、余程のことやで。さすがやな、優斗はん」
八重がしゃがみ込んでいる俺を見下ろしながら、ニヤニヤした笑顔を向けてくる。
「そうなの……?」
俺がちぃの方を見ると、彼女は相変わらずの無表情で小さく頷いた。
「優斗君頑張ったからご褒美」
その単純明快な答えに、俺は思わず笑ってしまった。ちぃなりの好意の表現だったんだろう。
「なあピン子」
八重が立ち上がって、美紗の方を見上げながら口を開いた。
「あの話、やっぱ優斗君にしてもええんちゃう?」
その言葉に、美紗の表情がぱっと青ざめた。
「えっ!い、今その話するの!?」
「話……?」
俺は口を拭いながら、二人の会話に首を傾げた。なんだか重要そうな話みたいだけど……。
「あ……実はさ……」
美紗が俺の方を向いて、もじもじしながら言葉を探している。その様子がいつものクールな美紗とは全然違って見えた。
「今日ここに来たのには理由があって……も、もちろん!優斗君のピアノをまた聴きたいっていうのもあったんだけど……」
美紗が要領を得ずに言い淀んでいると、八重がまどろっこしそうに手をひらひらと振った。
「あ~もう、まどろっこしい!」
そして美紗を押しのけるようにして、俺の前に立った。
「お願いがあるんや!」
八重の真剣な表情に、俺は思わず身を引いた。
「うわっ!な、何?」
「ちょっと近いってば!」
美紗が慌てて八重の襟首を掴んで引っ張る。
「うげっ!」
八重が引きずられるようにして後ろに下がった。代わりに美紗が俺の前に立って、今度は彼女が俺の顔に近づいてくる。
「あ、あのさ!」
美紗の顔が間近にあって、俺は緊張で喉が詰まった。彼女の瞳が真剣に俺を見つめている。
「こ、今度……うちらのライブに飛び入りで出てくれない……?」
美紗が意を決したように、一気にそう言った。
「ラ、ライブ?美紗たちってバンドやってたの?」
俺はびっくりして聞き返した。そういえば昨日、美紗がギターケースを背負っていたのを思い出す。
「おお!何それ、面白そうじゃん!」
拓哉が興味深そうに身を乗り出してきた。
「まあ、そんな大したハコやないから安心しいや。ちょちょっと出て、ぱぱ~っと弾いたら終わりや。な?簡単やろ?」
八重が適当に手をひらひらと振りながら、まるで大したことじゃないみたいに言う。
「でも……ライブだよね?そんな簡単に――」
俺が言いかけた時、美紗が俺の顔にさらに近づいてきた。その瞳に、どこか挑戦的な光が宿っている。
「何……?美人のサプライズには出るけど、うちらのライブは出られないって言いたいの……?」
美紗の鋭い視線に、俺は思わずたじろいだ。この距離だと、美紗の整った顔立ちがよく見える。でも、その表情はどこか不機嫌そうで……。
「で、出ます!出させてください!」
俺は慌てて何度も頷いた。美紗に睨まれると、なんだか逆らえない気分になってしまう。
「よっしゃあ!ほな決まりやな!」
八重がパンパンと手を叩いて喜んだ。
「日にちとか詳しいことは、拓やんにメールしとくわ」
そう言って、八重は拓哉の肩をポンと叩いた。
「拓やんって……まあいいけどさ」
拓哉が苦笑いを浮かべながら答える。でも、まんざらでもなさそうな表情だった。
その時、後ろから遠慮がちな声がかかった。
「あの……すみません」
俺が振り返ると、先ほど演奏の準備を手伝ってくれた女性スタッフが立っていた。彼女はまだ緊張した面持ちで、俺たちの輪の外側で控えめに立っている。
「あ、はい。なんでしょうか?」
俺が立ち上がって彼女の方を向くと、彼女はほっとしたような表情を浮かべた。
「先ほどは本当にありがとうございました……あの、実はHIBIKIさんからお願いがございまして……」
女性スタッフが言いづらそうに口ごもる。
「HIBIKIさんから?」
「はい……天川さんを、ご自分の楽屋にお呼びしたいと……どうしても二人きりでお話がしたいとおっしゃられているのですが……」
その言葉に、美紗の表情がぱっと変わった。
「はあっ?」
美紗の声が一オクターブ上がって、女性スタッフがびくりと肩を震わせた。
「ひっ!あ、あの……HIBIKIさんがどうしても……と……」
美紗の凄む表情にびびりながらも、女性スタッフは必死に説明しようとしている。
俺は見かねて美紗の前に出て、女性スタッフに向き直った。
「わ、わかりました。お会いしますので、案内してください」
「ちっ」
美紗の方から、はっきりと舌打ちの音が聞こえてきた。俺は怖くて振り返ることができない。
「ごめん、ちょっと行ってくるよ」
俺は頭を掻きながら、みんなに向かって言った。
「羨ましいなあ、おい!」
拓哉がにやりと笑いながら冷やかしてくる。その瞬間、美紗がぎろりと拓哉を睨みつけた。
「ひっ……」
拓哉が一瞬で委縮してしまう様子を見て、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「で、では……こちらへ」
女性スタッフが恐る恐る俺を案内し始める。俺は後ろ髪を引かれる思いで、みんなに手を振りながらその場を後にした。
案内されながら、俺は高級ホテルの廊下を歩いていた。足音が柔らかいカーペットに吸い込まれていく。壁には美しい絵画が飾られ、天井から下がるシャンデリアが上品な光を放っている。
こんな豪華な場所に慣れていないせいか、どこか場違いな気分になってしまう。
「あの……」
女性スタッフが振り返って、申し訳なさそうに俺を見た。
「HIBIKIさんは、とても気さくな方ですので……あまり緊張なさらずに」
彼女の優しい言葉に、俺は少しほっとした。
「ありがとうございます」
やがて、「来賓室」と書かれた重厚な扉の前で二人は立ち止まった。女性スタッフが扉を軽くノックする。
「HIBIKIさん、天川さんをお連れしました」
「はーい、どうぞ」
中から明るい声が返ってきた。女性スタッフが扉を開けて、俺を促すように中を指す。
「どうぞ、中へ」
「あ、はい……」
俺が部屋に足を踏み入れると、女性スタッフは丁寧にお辞儀をした。
「では、私はこれで失礼いたします」
扉が静かに閉まる音が響いて、俺は一人で部屋の中に立っていた。
「し、失礼します……」
緊張で声が上ずってしまう。室内はさっきまでいたステージ裏とは別世界のような豪華さだった。深いソファが置かれ、壁には美しい花が活けられている。そして……。
「まあ!」
ソファから立ち上がったHIBIKIさんが、満面の笑顔で俺の方を向いた。その瞬間――。
「わあっ!?」
いきなり俺に向かって駆け寄ってきたHIBIKIさんが、勢いよく俺に抱きついてきた。
「えっ!?うわっ、ちょっと……!」
突然のことで俺は混乱した。HIBIKIさんの柔らかい感触に包まれて、顔が真っ赤になってしまう。心臓が早鐘のように打ち始めた。
「あら、ごめんなさい!」
HIBIKIさんが慌てたように俺から離れて、少し恥ずかしそうに笑った。
「つい嬉しくて……ほら、座って座って」
HIBIKIさんに手を引かれるまま、俺はソファに腰を下ろした。彼女も俺の隣に座って……距離が近い。すごく近い。
「は、はい……」
俺の心臓はまだドキドキしている。HIBIKIさんからは上品な香水の香りが漂ってきて、ますます緊張してしまう。
「今日は本当にありがとうね、天川優斗君」
HIBIKIさんが俺の名前を呼ぶ声がとても嬉しそうで、その笑顔を見ていると胸が温かくなった。
「あ、優斗でいいですよ……僕の方こそ、今日は一緒に演奏させていただいて感激ですし……すごくいい勉強になりました」
俺が照れながらそう言うと、HIBIKIさんの目がキラキラと輝いた。
「きゃあ、可愛い!」
そう言って、HIBIKIさんが俺の手を両手で包み込むように握ってきた。
「ええっ!?あ、あの……!」
俺は慌てて手を引こうとしたけれど、HIBIKIさんの手は思いの外しっかりと俺の手を握っていた。
「やだ、私ったら!」
HIBIKIさんがはっと我に返ったように手を離して、少し舌を出しながら照れ笑いを浮かべる。
「ふふ、ごめんなさいね。まさかこんなところで、優斗君みたいな逸材と出会えるなんて思ってもみなかったから……嬉しくて、つい」
か、可愛い……。
そんなことを思ってしまった俺は、慌てて首を振った。って、一児の母親に何を考えているんだ俺は!なんかこのペース、誰かに似てるんだよな……くっ、つい乱されてしまう……。
「私、一人娘がいるんだけれど……こうしてみると、やっぱり男の子も欲しかったなあ」
HIBIKIさんが俺をじっと見つめながら、ウインクをした。
「優斗君、私の息子になってみない?」
「な、何言ってるんですか!?」
俺は思わず大きな声で驚いてしまった。HIBIKIさんがクスクスと笑い声を立てる。
「あははは、照れてる顔も可愛いわね。冗談よ、冗談。でも、優斗君の演奏がとても素晴らしかったから……ついね」
「俺の……演奏が、ですか?」
俺がHIBIKIさんの言葉を聞き返すと、彼女は自信に満ちた表情で頷いた。
「ふふ、さっきも言ったでしょう?逸材だって。私、音楽に関しては絶対に嘘は言わないの。これでも、けっこうこだわりを持ったプロの歌手なんだから」
HIBIKIさんが堂々とした姿勢で胸を張る姿を見ていると……また真珠の面影が重なって見えた。あの自信に満ちた笑顔、背筋を伸ばした美しい立ち姿……。
「あ、でもそれ以外はポンコツなんだけどね」
HIBIKIさんが急に茶目っ気たっぷりの表情を見せて、俺の緊張が少しほぐれた。
「ポ、ポンコツって……HIBIKIさんがそんな風に見えませんよ。何でも完璧にこなしそうだし……」
俺が慌ててフォローすると、HIBIKIさんの表情がふっと曇った。
「残念ながら本当よ……最近も娘のことを理解してあげられなくて……嫌われたばかりなの」
HIBIKIさんの声が急に小さくなって、俺は胸がチクリと痛んだ。
「娘さんに……?」
「やだ……私ったら……ふふ、学生相手に何を言ってるのかしらね」
HIBIKIさんが自分の頬に手を当てて、困ったように笑った。
「ふ~、優斗君って、話しやすいって良く言われない?」
「あ……」
そういえば拓哉にも、似たようなことを言われたことがある。
「たまに……でも、俺なんかでも……話を聞くくらいはできるというか……話すと楽になるって言ってもらえることもあって……えっと、その……だからもし良ければ聞きますし」
俺があたふたしていると、HIBIKIさんが優しい笑顔で俺の頭を撫でてくれた。
「あらあら、こんなおばさんを励ましてくれるの?ありがとう、優斗君」
「い、いえ……!それでその、娘さんと何かあったんですか?」
俺が話題を逸らすように聞くと、HIBIKIさんは深いため息をついた。
「実はね……最近、娘に好きな人ができたみたいなんだけれど……私がその相手を完全に勘違いしてしまって」
HIBIKIさんが肩を落としながら続ける。
「勝手に違う人との仲を取り持とうと余計な事しちゃったの。それで娘に怒られてしまって……」
「違う人と……?」
「ええ……その勘違いしちゃった人は娘の初恋の相手だって、前に聞いたことがあったから……てっきりその人が今も娘の好きな人なんだって思い込んでしまって」
HIBIKIさんが悔やむように手を額に当てる。
「本当に親として失格よね……ずっと歌うことだけに捧げてきた人生だったから……でも娘のことは愛しているの。だから歌手活動も休業して、なるべく娘に寄り添おうとしているんだけれど……」
HIBIKIさんの声がだんだんと細くなっていく。
「HIBIKIさんは……どうしたいんですか?」
俺が言葉を選びながら尋ねると、HIBIKIさんは力なく微笑んだ。
「私?そうね……娘には嫌われてしまったし……どう接していけばいいのか……ちょっと臆病になっているかもね」
それを聞いて、俺は何となく他人事じゃない気がした。きっとHIBIKIさんの娘さんも、本気で母親を嫌っているわけでも、心から怒っているわけでもないんじゃないだろうか。ちょっとしたすれ違いが絡み合って、それが重なり合ってほどけにくくなっただけで……。
まるで今の俺と真珠のように。
いや、俺の場合は勘違いじゃない。あれは現実で……。
そこまで考えて、俺はふと思った。
本当に?あれが全ての答えだったんだろうか?俺は真珠から、まだ本当のことを聞けていない。そして、それを拒んだのは俺自身だった……。そう考えると、俺と真珠も結局、すれ違ったままなのかもしれない。それが複雑に絡み合い、ほどけにくくなってしまっているのは、俺もなのか……。
「優斗君?」
HIBIKIさんに名前を呼ばれて、俺ははっと我に返った。
「あ、すみません……ぼうっとしてしまって。なんだか、僕と似ているなって思ってしまって……」
「似ている?私と優斗君が?」
「僕も……なんというか、喧嘩別れしている相手がいるんです」
俺がそう言うと、HIBIKIさんが心配そうに眉を寄せた。
「喧嘩別れ?」
「はい……素直になれなくて、意地を張ってしまって……それっきりで。情けないですよね、偉そうなことを言っておいて、自分がこんな状況なんですから」
俺が頭を掻きながら苦笑いを浮かべると、HIBIKIさんが優しく首を振った。
「そんなことないわ。それでも私を励まそうとしてくれているんだから」
「その……俺、もう少し話してみようと思うんです」
俺がゆっくりと口を開くと、HIBIKIさんが真剣な表情で俺を見つめた。
「今すぐにはできないかもしれませんけれど……気持ちの整理がついたら、話してみようかなって。だから……HIBIKIさんも、諦めず、娘さんと話してみませんか?」
「娘と……?でも、娘があんなに怒っている姿、初めて見たの……とても許してもらえるとは……」
HIBIKIさんがうつむきながら言うと、俺は穏やかに首を振った。
「許してもらうとか、許してもらえないとかじゃなくて……今、伝えたい言葉を伝えてみてはどうでしょうか?」
俺が照れ笑いを浮かべながら続ける。
「何でもいいんです。『元気?』とか『お腹空いてない?』とか……本当になんでもいいんです。当たり前のこと、今まで話せていた当たり前のことを話すだけで……」
「でも、聞いてくれるかどうか……」
HIBIKIさんがそう言いかけた時、俺は彼女の言葉を遮った。
「当たり前のことが話せる今だからこそ、だと思うんです。当たり前に言えていたことさえ話せなくなってしまう前に……伝えてあげてください。後悔する前に」
俺が笑顔でそう言うと、HIBIKIさんは一度目を閉じ、ふっと軽く笑ってから俺を見つめてきた。
「優斗君……」
当たり前のように挨拶を交わし、当たり前のように手を繋いだ日々が、どんなに消そうとしても消せないでいた。
当たり前と思っていた日常が……どんなものにも代えがたいものだった事に、改めて気づかされる……。
「俺も……もう少し整理がついたら、もう一度話してみます。だから……約束しませんか?」
俺がそう言って笑いながら、小指を差し出した。
「指切りげんまん、とかしますか?」
HIBIKIさんが驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。俺たちの小指が絡み合う。
「あ……」
そこまでやっておいて、俺は固まってしまった。
しまった!国民的歌手に俺は何をやっているんだ……!
その時、突然HIBIKIさんが俺に激しく抱きついてきた。
「あ~んもう!本当に可愛い子ね、優斗君!やっぱりおばさんの息子にならない?」
「ええっ!いや、無理ですって!」
俺が慌てて答えていると、扉の向こうからノック音が響いた。
「あの……申し訳ありません。天川さんのお連れ様がお見えになっておりまして……お帰りが遅いので心配されているようで……」
女性スタッフの遠慮がちな声が聞こえてくる。
「えっ?み、みんなが?」
俺がHIBIKIさんに抱きつかれたまま、首だけ扉の方に向けて答えた。
「優斗?まだ中にいるのか?」
拓哉の声が聞こえてきた。
「ちょっと入るぞー?」
「あ、お客様、勝手に入っては……」
女性スタッフが止めようとする声が聞こえたけれど、もう遅かった。扉がガチャリと開いて――。
「あ……」
俺とHIBIKIさん、そして扉の向こうにいる美紗、拓哉、八重、ちぃの視線が交差した。
時が止まったような静寂。
「あらあら」
HIBIKIさんが悪戯めいた口調で声を上げた。その視線生い先には美紗が……。
拳をギュッと握りしめて、全身をわなわなと震わせている。
あ……これ、絶体絶命なやつだ……。
俺は思わず泣きそうになった。
「……ふーん、あっそう」
美紗が低い声でそう呟いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走る。
八重が口に手を当てて、必死に笑いを堪えているのが見える。拓哉は目を丸くして状況を理解しようとしている。ちぃは相変わらず無表情だけれど、何かを咀嚼している。
HIBIKIさんが俺から離れて立ち上がり、美紗たちに向かって優雅に手を振った。
「で、優斗……」
美紗がゆっくりと俺に近づいてくる。
「楽しかった?」
その一言に、俺の運命が決まった気がした。




