第78話 G線上のアリア
目の前に垂れ下がった深紅のビロードの緞帳が、俺の視界を遮っている。その向こう側では、新郎新婦を囲んだ披露宴が和やかに進行中らしく、時折響いてくる笑い声や乾杯の音が、まるで別世界の出来事のように聞こえていた。
まさか……こんなことになるなんて……。
俺は深く息を吸いながら、改めて状況を整理しようとした。つい一時間前まで、俺はただホテルのロビーでピアノを弾いていただけだった。
それがどうして今、結婚披露宴のステージ裏で、世界的に有名な歌手と演奏をすることになっているんだ……。
振り返ってみても、事の展開があまりにも急すぎて、まだ実感が湧いてこない。でも、一度引き受けたからには最後まできちんとやり遂げないといけない……。新郎新婦にとって、これは一生に一度の特別な日なんだから。
「優斗君、大丈夫? 顔色ヤバいけど……?」
舞台袖から心配そうな声が聞こえて、俺は振り返った。美紗が眉をひそめながら、俺の様子を見つめている。その隣では拓哉がカメラを首からぶら下げて、にこやかに手を振ってくれていた。
「緊張してるのが丸わかりだな!」
八重がけらけらと笑いながら、俺の方に近づいてくる。
「でも大丈夫やで。優斗君の演奏、めっちゃ素敵やもん。きっとお客さんたちも感動してくれるって」
「うん……問題ない」
ちぃが相変わらずマイペースな調子で、何かのお菓子をもぐもぐと食べながら頷いてくれた。
「そうそう! 俺たちもこっちで応援してるからよ」
拓哉が俺の肩をぽんと叩いて、いつもの人懐っこい笑顔を見せてくれる。
みんなの励ましの言葉に、俺の胸は少しずつ温かくなっていく。でも……それでも完全には拭えない不安があった。
今回の演奏環境は、今まで経験してきたどの場所とも違う。ストリートピアノやイベント会場、……確かにいろんなところで弾いてきたけれど、結婚披露宴なんて流石に特殊すぎる。失敗は絶対に許されない。新郎新婦の大切な思い出に傷をつけるわけにはいかない。
それに……。
俺はちらりと、舞台の奥の方に視線を向けた。そこには、ドレスに身を包んだHIBIKIさんの姿があった。スタッフの人たちと最終確認をしているところらしく、真剣な表情で話し込んでいる。
その横顔を見るたびに、俺の胸がざわめいてしまう。
どうして……どうしてこんなにも真珠を思い出してしまうんだろう。
先ほどスタッフルームで打ち合わせをした時も、HIBIKIさんが微笑む瞬間や、髪を耳にかける仕草、背筋を伸ばして立つ姿勢……そのすべてに真珠の面影が重なって見えてしまう。
距離を置こうと決めたのに。あれだけ自分の気持ちに整理をつけようとしたのに。
「優斗……?」
美紗の声で、俺ははっと我に返った。いつの間にか、俺の表情が曇っていたらしい。
「あ、ごめん。ちょっと考え事を……」
「まだ緊張してる?」
美紗が少し心配そうに眉を寄せる。その優しい表情に、俺は慌てて首を振った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと頭の中で演奏のイメージを整理してただけだから」
「そっか……」
美紗はまだ何か言いたげな表情を浮かべていたけれど、それ以上は追求してこなかった。
「じゃあ、そろそろ俺たちは舞台袖に移動するな」
拓哉が時計を確認しながら言った。
「頑張れよ優斗。俺たち側にいるからさ」
「演奏……楽しみにしてる」
美紗がそう言って、少し頬を赤らめながら俺の方を見つめてくれた。
「優斗君、ファイトやで!」
八重が両手でグーサインを作って応援してくれる。
「期待してる……」
ちぃがもぐもぐしながら、短く言葉を添えてくれた。
みんなが舞台袖の方へ移動していく後ろ姿を見送りながら、俺は改めてグランドピアノの前に座り直した。この楽器も、今まで弾いてきたピアノとは格が違う。響きの深さ、タッチの繊細さ……すべてが一流のものだった。
「天川さん……」
小さな声で名前を呼ばれて、俺は振り返った。女性スタッフの人が、緊張した面持ちで俺に近づいてくる。
「もうすぐ司会の方から合図があります。照明が一度落ちたら、HIBIKIさんが動き始めますので……」
彼女の声も、わずかに震えているのがわかった。きっと彼女にとっても、今回のサプライズは相当なプレッシャーなんだろう。
「あとは……HIBIKIさんと息を合わせてください。演奏のタイミングは、彼女にお任せして……」
「はい、わかりました」
俺は力強く頷いた。
「精一杯やらせていただきます」
「ありがとうございます……よろしくお願いします!」
女性スタッフがほっと安堵の表情を浮かべて、小さくガッツポーズを作って見せてくれた。その仕草がなんだか微笑ましくて、俺の緊張も少しだけ和らいだ。
彼女が立ち去った後、俺は一人でピアノの前に座っていた。鍵盤に軽く指を置いて、感触を確かめる。この楽器の音色は、きっとHIBIKIさんの歌声を美しく支えてくれるはずだ。
「緊張してる……?」
突然かけられた声に、俺はびくりと肩を震わせた。振り返ると、いつの間にかHIBIKIさんが俺のすぐ後ろに立っていた。
……うわあ、近い……。
HIBIKIさんの美しい顔が間近にあって、俺は思わずドキリとしてしまった。上品な香水の香りが微かに漂ってきて、心臓がバクバクと音を立てる。
「は、はい……少しだけ……」
俺は慌てて視線を逸らしながら答えた。でも、視界の端でHIBIKIさんがくすりと笑うのが見えて、ますます緊張してしまう。
「そうね……でも、あなたの表情を見ていると……」
HIBIKIさんがピアノの横に回り込んで、俺の正面に立った。その瞳が、じっと俺を見つめている。
「緊張というより、なにか別のことで躊躇しているように見えるのだけれど……?」
その言葉に、俺ははっとした。
「あ……それは、その……」
俺は言葉に詰まってしまった。まさか、真珠のことを考えていたなんて言えるわけがない。でも、HIBIKIさんの鋭い視線からは逃れられそうにもなかった。
「舞台での緊張や恐怖は、仕方のないことよ」
HIBIKIさんが優しい声で言った。
「誰だってそうだもの。私だって、今でもステージに立つ前は緊張するの」
その言葉に、俺は少し驚いた。あれほど堂々として見えるHIBIKIさんでも、緊張することがあるなんて。
「でもね……躊躇することは、ダメ」
HIBIKIさんの声が、少しだけ厳しくなった。
「下がっちゃダメ。逃げちゃダメなの。どんなに怖くても、不安でも……無理やりにでも、ぶつけなさい。あなたの音を」
「俺の……音……?」
俺は思わず繰り返した。HIBIKIさんが微笑んで、優しく頷いてくれる。
「そう。私が受け止めてあげるから……あなたの全部を、ぶつけてみなさい」
そう言って見せてくれた笑顔に、またしても真珠の面影が重なって見えた。
……ダメだ、また……。
HIBIKIさんを見るたびに、真珠のことが頭から離れなくなる。さっきまでは何とか平静を保っていられたのに……。
きっと俺は、まだ……。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。目の前には、世界レベルの歌手が立っている。俺はその歌声を支える責任がある。新郎新婦の大切な思い出を作る手伝いをしなければならない。
真珠のことは……後で考えよう。今は音楽に集中するんだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は深く息を吸い込んだ。緞帳の向こうから聞こえてくる笑い声が、だんだんと静かになっていく。
いよいよ、始まる……。
スピーカーから響く司会者の声が、俺の鼓動と重なって聞こえてくる。
「ではここで、本日は急遽ではございますが……新郎新婦様へのお祝いということで、大変特別なゲストの方がお越しくださいました」
会場の向こう側で、参列者たちがざわめき始めるのが聞こえる。きっと誰もが何が始まるのか、困惑しているんだろう。
「皆様、どうぞ温かい拍手と共に……心を込めてお迎えください」
司会者の声が途切れた瞬間、俺の隣でHIBIKIさんが静かに息を吐いた。その横顔は、もう完全にプロの表情に変わっている。
いよいよ……始まる……。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。喉の奥が乾いて、心臓の音が耳に響く。
その時だった。
披露宴会場の明かりが、ふっと消えた。
まるで世界そのものが息を止めたかのような、完全な静寂。緞帳の向こうで起こった変化に、俺の背筋にも冷たいものが走る。この暗闇の向こうで、今まさに何百人もの人々が困惑している。
機械音と共に、俺たちの前にあった重い緞帳がゆっくりと上がり始めた。厚いビロードの布が天井へと消えていくにつれて、暗闇に包まれた披露宴会場の様子が少しずつ見えてくる。
本当に……真っ暗だ……。
目を凝らしても、客席の向こうは深い闇に包まれている。ステージの照明も完全に落とされていて、俺の座っているグランドピアノも、HIBIKIさんの立っている場所も、何も見えない状態だった。
そんな中、参列者たちの戸惑いの声が聞こえ始める。
「えっ……何が始まるの?」
「これって何の演出……?」
「急に暗くなったけど……」
「トラブル?」
ざわめきが波のように会場に広がっていく。きっと新郎新婦も、何が起こっているのかわからずに驚いているだろう。でも、それがこのサプライズの狙いでもある。
俺は暗闇の中で、ピアノの鍵盤に指を置いた。この楽器の感触だけが、今の俺にとって確かなものだった。
その時、舞台の奥で微かな光が灯った。
最初は本当に小さな明かりだった。でも、その光に照らされて、白い布に包まれた何かが、ステージ上にゆっくりとせり上がってくるのが見える。まるで神秘的な祭壇のような、幻想的な光景だった。
参列者たちの間に、さらなる困惑の声が広がる。
「あれ……何?」
「何か上がってきた……」
「舞台装置……?」
俺も固唾を飲んで、その光景を見つめていた。計画では聞いていたけれど、実際に目の当たりにすると、想像以上に幻想的で美しい演出だった。
そして——
永遠にも感じられた数秒の沈黙の後、白い布が一気に引き払われた。
そこに現れたのは、一人の女性。
天井から降り注ぐ一筋のスポットライトが、HIBIKIさんの姿を神々しく照らし出している。深紅のドレスに身を包み、背筋を美しく伸ばしたその姿は、まるで天から舞い降りた女神のようだった。
光に包まれたHIBIKIさんは、ただそこに立っているだけで、会場全体の空気を完全に支配していた。その佇まいには、圧倒的な存在感と威厳があった。完璧に整えられた髪、上品に微笑む唇、凛とした瞳……すべてが一流のアーティストとしての風格を物語っている。
会場がしんと静まり返った。
そして、次の瞬間——
「え……まさか……」
「嘘でしょ……?」
「あれって……歌手のHIBIKI……?」
参列者たちの間から、驚愕の声が次々と上がり始めた。
「本物……? 本物なの!?」
「え?なんでここにいるの!?……どうしてここに……」
最前列に座っていた年配の女性が、思わず小さな悲鳴を上げた。その声を皮切りに、会場全体がどよめきの渦に包まれる。
そりゃそうだろう。テレビの中でしか見たことのない世界的な歌手が、まさか自分たちの結婚式に現れるなんて、誰が想像できただろうか。日本を代表する歌手であり、オペラ界でも名を馳せる大物が、今この瞬間、目の前のステージに立っている。
HIBIKIさんは、会場の騒然とした雰囲気にも動じることなく、優雅にマイクを手に取った。その所作一つ一つが、まるで舞台芸術のように美しい。
そして、俺はようやく気づいた。
会場の視線は、すべてHIBIKIさんに注がれている。光も、注目も、期待も……すべてが彼女に集中していて、グランドピアノの前に座っている俺の存在には、まだ誰も気づいていない。
それは当然のことだった。世界的なスターが目の前にいるのに、その後ろにいる高校生なんて、視界に入るはずがない。
俺の指が、かすかに震えた。
息をするたびに、喉の奥が詰まる。手のひらがじっとりと汗ばんできて、ピアノの鍵盤がやけに冷たく感じる。
この期に及んで……やばい、逃げたい……。
そんな弱音が、頭の片隅をよぎった。HIBIKIさんの圧倒的な存在感の前で、俺なんかがピアノを弾いても意味があるんだろうか。足を引っ張るだけなんじゃないだろうか。
でも……もうそれは許されない。
今この場所で、HIBIKIさんの歌声に応えられるのは、俺の音だけなんだ。俺が逃げたら、この演奏は成り立たない。新郎新婦の大切な思い出が台無しになってしまう。
覚悟を決めろ……。
俺は心の中で自分に言い聞かせた。
奏でるんだ……俺の音を……!
そして、その瞬間だった。
俺の指が鍵盤に触れ、グランドピアノの最初の音が静かに響いた。
それは、まるで導火線に火をつけるような、運命的な一音だった。HIBIKIさんによるリクエスト。バッハの「G線上のアリア」の序奏が、会場の静寂を破って流れ始める。
同時に、会場の照明がゆっくりと戻り始めた。柔らかな光が俺の座るピアノを照らし出し、ようやく参列者たちの視線が俺に向けられる。
「あれ……ピアノに誰か座ってる……」
「若くない……?」
「伴奏できるの……?」
でも、そんな声も一瞬で掻き消されてしまった。
なぜなら——
「Porgi, amor, qualche ristoro……」
HIBIKIさんの歌声が響いた瞬間、世界が完全に変わったからだ。
その一声で、俺の脳が揺れ、呼吸が止まった。
これ……なんだ……この声は……。
空気そのものが震えていた。いや、震えているという表現すら生ぬるい。まるで空間の密度が変わったかのような、圧倒的な存在感。HIBIKIさんの声は、ただ音として聞こえるものじゃなかった。全身に浴びるもの、魂に直接響くものだった。
俺は必死にピアノを弾き続けていたけれど、指が止まりそうになる。いや、実際に一瞬止まったかもしれない。それほどまでに、彼女の歌声は圧倒的だった。
バッハの「G線上のアリア」に、HIBIKIさん独自のオペラアレンジ歌詞。イタリア語の響きが、会場の空気を神聖な祈りで満たしていく。
会場の全員が、息を呑んでいるのがわかった。参列者たちは声を失い、ただただその歌声に聞き入っている。新郎新婦も、きっと言葉を失っているんだろう。
これが……プロの歌声……。
俺が今まで聞いてきたどんな音楽とも違う。技術だけじゃない。感情だけでもない。その両方を兼ね備えた上で、さらにその先にある何か……魂を揺さぶる力そのものだった。
一音目が響いた瞬間、会場全体がHIBIKIさんの声に完全に支配された。それは音じゃない、力そのものだった。声だけで人を服従させる力。重厚で、冷たいほどに美しく、澄みきっているのに剣のように鋭い。
だめだ……吞まれる……。
俺は必死に自分を奮い立たせようとした。HIBIKIさんの歌声に圧倒されて、萎縮してしまってはいけない。もっと自由に、もっと緩やかに……幸福な気持ちを音に込めるんだ。これは結婚式なんだから。
俺は鍵盤を見つめて、手を強く握り直した。
音が震えてもいい。技術が足りなくてもいい。でも、俺の音で……HIBIKIさんの歌声に応えたい。
自分の小ささに潰されそうになる。比べ物にならないスケールの彼女の歌声。それでも、俺の音が彼女の声に添える何かになれるなら。少しでも近づけるなら……。
俺は今までのどんなライブよりも、全身の力を込めて鍵盤を叩いた。音が重く響く。でも、それでも……それでも俺は弾き続ける。
「Ah, questo mio tormento……!」
HIBIKIさんの歌声が、さらに高く、力強く響いた。悲しみと苦しみ、そして希望が混ざり合った絶唱。その歌声に、会場のどこかで誰かが小さく嗚咽を漏らすのが聞こえた。
肌がぴりぴりと痺れる。感情まで持っていかれそうになる。
本当に……すごい……。
俺の喉の奥で、言葉にならない声が震えていた。感動なのか、畏怖なのか、もうよくわからない。ただ、HIBIKIさんの歌声と共に、俺も音楽の中に溶けていく感覚があった。
これが本物の……プロの歌声なんだ……。
曲が中盤に差し掛かった時、HIBIKIさんの歌声がさらに深みを増していく。技術的な完璧さだけじゃない、魂そのものを歌に込めているような——そんな圧倒的な表現力に、俺は息を呑んだ。
その時だった。
HIBIKIさんの横顔が、ふとこちらを向いた。
一瞬だけ、俺たちの視線が交差する。
その瞬間——俺の心臓が、止まった。
またあの面影が、鮮明に重なって見えたのだ。
真珠……。
やめてくれ……今は見せないでくれ……。
俺の指が、わずかに震えた。なぜ……なぜこんな大切な時に、真珠のことを思い出してしまうんだ。
あれだけ距離を置こうと決めたのに。自分の気持ちに区切りをつけようとしたのに。
真珠に背を向けた日のことが、鮮明に蘇ってくる。
俺は結局、彼女に何も伝えられなかった。大切なことも、本当の気持ちも、何一つ……。それなのに、どうして……。
どうして、HIBIKIさんはこんなにも……。
瞳の奥に宿る光。誰にも媚びることなく、まっすぐに前を見つめる強さ。背筋を美しく伸ばして立つ、そのしなやかな佇まい……。すべてが真珠と重なって見える。
思い出すな……。引きずるな……。
今、心が揺れたら負けてしまう。HIBIKIさんの歌声に飲み込まれて、演奏が破綻してしまう。
真珠のことを思い出すたびに、胸がぎゅっと締め付けられる。指先に力が入らなくなって、音が迷ってしまう。でも……俺は今、音で応えなければならない。HIBIKIさんの歌声に、俺の演奏で応えなければならないんだ。
「Al desio di vendetta……」
HIBIKIさんの歌声が、さらに強く、鋭く、感情を帯びて駆け上がっていく。その表現力の豊かさに、俺の心は揺さぶられる。技術的な完璧さの向こうに、人間としての深い感情が込められている。
心が……砕けそうだった。
でも——
俺が逃げたら、この音楽は成り立たない。
自分を信じなければ、誰も俺の音に耳を傾けてくれない。
怖さを……受け入れよう。自信のなさも、今のままでいい。完璧じゃなくてもいい。それでも弾き続けるんだ。逃げずに、最後まで……。
俺の音が震えていても、小さくても、浅くても、それが今の俺なんだ。でも、絶対に心だけは揺らがせない。
俺は鍵盤に向き直ると、冷静に、でも熱を込めて、HIBIKIさんの旋律に寄り添った。歌声が上がるときは支えるように、下がるときは包み込むように、和音を紡いでいく。
音符が波となって、二つの流れが重なり合い、一つの大きな海になっていく。
真珠の影に怯えていた俺じゃない。憧れに押し潰されるだけの俺でもない。今、俺は——俺の音で、戦っている。
そして、クライマックスが訪れた。
「La pace almeno…… la pace…… ah……!」
HIBIKIさんの声が、天に向かって突き抜けていく。それはまるで、すべての祈りを込めて空に放たれる、ひときわ強く、長い絶唱だった。
俺は迷いなく、鍵盤に両手を落とした。
全身の力を指先に込めて、最後の和音を、空に放つように力強く打ち込む。
グランドピアノの豊かな響きが会場いっぱいに広がって、HIBIKIさんの歌声と溶け合った。二つの音が重なり合って、一つの美しい調和を生み出している。
そして——最後の音が、ゆっくりと消えていった。
その瞬間、世界が止まったような静寂に包まれた。
本当に、時間が停止したみたいだった。
会場にいる誰もが、言葉を失っている。息を呑む音すら聞こえない。参列者たちは拍手することも忘れて、ただただ荘厳なステージを呆然と見つめるしかなかった。
新郎新婦も、きっと同じような気持ちなんだろう。一生に一度の特別な瞬間に、想像もしていなかった出来事。
俺も、鍵盤から手を離すことができずにいた。まだ指先に、音楽の余韻が残っている。HIBIKIさんと一緒に作り上げた、この美しい時間が終わってしまうのが惜しくて……。
そんな静寂の中、彼女がゆっくりとマイクを唇に近づけた。
「May this day be filled with blessings, and may your love story continue forever……」
英語で紡がれた祝福の言葉が、会場の空気をさらに神聖なものに変えていく。その声は歌声とは違って、温かく、優しく、まるで母親が子供に語りかけるような慈愛に満ちていた。
ステージに降り注いでいた淡い光が、ゆっくりと暗くなっていく。まるで夕日が沈んでいくように、美しいグラデーションを描きながら……。
この瞬間が、永遠に続けばいいのに。
そんなことを思いながら、俺は静かに立ち上がった。
演奏は終わった。でも、この感動は、きっと俺の心の中にずっと残り続けるだろう。HIBIKIさんと一緒に音楽を作れたという奇跡。真珠への複雑な思いと向き合いながらも、最後まで演奏をやり遂げることができたという達成感。
すべてが、俺にとってかけがえのない経験になった。
暗転していく中で、会場のどこからか、ゆっくりと拍手が起こり始めた。最初は小さく、ためらうような音だったけれど、やがてそれは大きなうねりとなって、会場全体を包み込んでいく。
俺はHIBIKIさんの方を見た。彼女も俺の方を向いて、穏やかな微笑みを浮かべてくれている。
「ありがとう……」
HIBIKIさんが小さく口の形を作って、俺にそう言ってくれた。
俺も、深く頭を下げた。
本当に……貴重な経験をさせていただきました……。
拍手の音が会場いっぱいに響く中、俺たちの特別な演奏は静かに幕を閉じた。