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第77話 HIBIKI

 エレベーターの扉が静かに閉まる音を聞きながら、俺は長く、深いため息をついた。


 カルマ君の後ろ姿が完全に消えてから、どれくらい経っただろう。ロビーには再び静寂が戻り、まばゆいシャンデリアの光だけが変わらず降り注いでいる。でも、俺の胸の中はまだ重たいままだった。


 あの言葉が、頭の中で何度も響いている。


 『真珠さんへ何か伝言はありませんか?』


 俺は何も答えられなかった。いや……答えたくなかった。カルマ君に真珠のことを任せるなんて、そんなこと絶対にしたくない。でも、それなら俺は真珠に何を伝えればいいんだ? あの時の俺の言葉で、真珠がどれだけ傷ついたのかを思うと……。


 「ねえ……」


 小さな声に、俺ははっと顔を上げた。振り返ると、美紗が俺の袖をそっとつまんで、軽く引っ張っている。心配そうな瞳が、俺をじっと見つめていた。


 「……大丈夫?」


 その優しい声音に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。美紗は俺のことを心配してくれている。カルマのあの威圧的な態度を見て、きっと俺が動揺しているのを察してくれているんだ。


 「え? あ……うん。もう大丈夫。心配してくれてありがとう」


 俺は慌てて笑顔を作りながら答えた。本当はまだ心の中がごちゃごちゃしているけれど、美紗にこれ以上心配をかけるわけにはいかない。


 「そう……ならいいけど」


 美紗はそう呟くと、プイッと袖で口元を隠しながらそっぽを向いてしまった。でも、その仕草にはどこか安堵したような空気も感じられて、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 「うっし! 切り替えていこうぜ優斗!」


 突然、背中に思いっきり手のひらが叩きつけられた。


 「痛っ!? 気合入れ過ぎだって」


 俺は思わず背中をさすりながら振り返ると、拓哉がにかっと笑いながら俺を見下ろしていた。


 「悪い悪い。でもほら、いつまでも落ち込んでても仕方ないだろ? ピアノ弾きに来たんだから、思いっきり弾こうぜ」


 拓哉の言葉に、俺は苦笑いを浮かべた。確かにその通りだ。ここでうじうじしていても、真珠との関係が良くなるわけじゃない。今は音楽に集中しよう。


 「そうだな……ありがとう、拓哉」


 俺は立ち上がると、ゆっくりとピアノの方へ向かった。黒く輝くピアノが、まるで俺を待っているかのように静かに佇んでいる。


 椅子に腰を下ろし、鍵盤の前に手を構える。その瞬間——指先が象牙の感触を捉えた途端、頭の中の雑音がすうっと消えていくのがわかった。


 不思議だ。あれだけ落ち込んでいたのに、ピアノに触れた途端、気分がまるで違う。今までなら、嫌なことがあると何日も引きずって塞ぎ込んでいたのに……こうやってピアノを前にするだけで、心が軽くなっていく。


 これも、成長なのかもしれない。


 音楽と向き合うことで、俺は少しずつ強くなっているのかもしれない。真珠や他のみんなと出会って、一緒に音楽を作ってきたことで……。


 よし……いける。


 俺は深く息を吸い込むと、鍵盤にそっと指を置いた。


 その瞬間、ロビーの空気が一変した。


 天井まで吹き抜けた大理石の空間には、煌びやかなシャンデリアが優雅な光を落としている。その光がまるで水面のように揺らめいて見えるけれど、今この空間に満ちようとしているのは、光ではなく——音だった。


 最初の和音を静かに響かせる。


 重く、そして柔らかな響きが、ホテルのロビーを静かに満たしていく。曲はパッヘルベルの『カノン』。誰もがどこかで聴いたことのある、あの穏やかで美しい旋律。


 でも、今日はいつもと少し違う気持ちで弾いている。


 左手の低音部が、淡々と、そして確実に進行していく。まるで時間そのもののように、規則正しく、迷いなく——それに寄り添うように、右手の旋律が優しく重なっていく。


 ヨハン・パッヘルベルは、この曲で永遠に続くような時間の流れを表現した。何百年もの間、永遠を誓う人々の手によって演奏され続けてきた音楽。結婚式で、記念日で、大切な人との時間を彩る音楽として。


 そんな想いを込めながら、俺は一音一音を丁寧に奏でていく。


 淡く、揺れるように、けれど芯のある強さを秘めたメロディ。指先が次第に熱を帯びていくのがわかる。呼吸が浅くなり、胸の奥がじんわりと熱くなる。


 周囲の視線がこちらに集中していくのを、皮膚の感覚で感じ取る。ホテルの利用客たちが足を止め、ロビーのソファに腰を下ろし、思わず耳を傾けている——そんな気配が伝わってきた。


 「すごい……」


 誰かの小さなつぶやきが聞こえる。でも、今はそれすらも気にならない。


 空間全体が、音に包まれている。俺の奏でる音が、誰かの心に触れている。それだけで、充分だった。


 曲が中盤に差し掛かると、リズムがわずかに躍動感を増し、メロディが重層的に展開していく。二重奏、三重奏と、次第に音の層が重なり、まるで音そのものが生き物のように息づき始める。


 高音部の旋律が天井に向かって突き抜けていく。低音がそれをしっかりと支え、空間に立体的な広がりを与える。


 ——音が、満ちていく。


 自分の存在が、音楽と一体になって溶けていく感覚。指先の震え、胸の高鳴り、頬を伝うわずかな汗さえも、すべてがこの瞬間のために存在しているようだった。


 美紗や拓哉、八重、ちぃの顔が目に浮かぶ。そして……真珠の顔も。


 俺の音楽を、みんながどんな気持ちで聴いてくれているんだろう。真珠だったら、今この演奏をどう思うだろう。


 終盤、曲の構造がクライマックスへと向かっていく。どこか懐かしく、胸に迫る旋律が、繰り返されるごとに輝きを増していく。感情が、音に宿る。言葉よりも真っすぐに、心へ届く。


 そして——最後の和音を弾いた瞬間、ロビー全体がしんと静まり返った。


 一秒、二秒……。


 そして、ロビー全体から自然と拍手が湧き上がった。


 俺はただ、手を膝の上に落とし、静かに目を閉じた。


 弾けた——あれだけ心を揺さぶられていても、思い描いた音だけを奏でることができた。音が人の心に触れ、見えない何かで繋がっている。その確かな手ごたえを、俺は感じていた。


 「おお……」


 「素晴らしい……」


 「あのお兄ちゃん上手だね~」


 大人から子供まで、周囲からそんな声が聞こえてくる。俺がそっと顔を上げると、いつの間にかピアノの周りに人だかりができていた。


 みんなが心の底から音楽を楽しんでくれている……その様子に、思わず胸が熱くなる。


 俺の音楽は……ちゃんと届いている……嬉しいな。


 拍手の余韻が静かに消えていく中、俺は立ち上がってピアノの椅子から離れようとした。演奏の興奮がまだ胸に残っていて、心地よい疲労感が全身を包んでいる。


 「あの、すみませんお客さま!」


 突然の声に、俺は驚いて振り返った。息を切らしながら、ホテルのスタッフらしき女性が慌てた様子でこちらに向かってくる。その後ろには、同じくホテルの制服を着た男性スタッフの姿も見えた。


 二人とも、なんだかとても焦っているようだった。女性スタッフは頬を赤らめて、額にうっすらと汗を浮かべている。男性スタッフも眉間に深いしわを寄せて、明らかに困った顔をしていた。


 「え、俺ですか?」


 俺は戸惑いながら、周りを見回した。まさか演奏に何か問題があったのだろうか。音が大きすぎたとか、他のお客さんの迷惑になったとか……。


 「はい……あの、よろしければ少しだけ、あちらでお話させてもらえませんでしょうか……?」


 女性スタッフが懇願するような表情で、俺の方を見つめている。その瞳には切羽詰まったような光が宿っていて、ただ事ではない雰囲気が伝わってきた。


 「あの、急ぎの件でして、ぜひ……」


 男性スタッフがそう言いながら、ホテルのカフェテラスの方へ視線を送る。そちらの方向を見ると、確かに落ち着いて話ができそうな席が見えた。


 「な、何かあったのか優斗?」


 拓哉が慌てたように俺の側に駆け寄ってきた。カメラを首からぶら下げたまま、心配そうな顔で俺とスタッフを交互に見ている。


 「なになに? どないしたん?」


 八重も興味深そうに近づいてきて、人懐っこい笑顔でスタッフたちを見上げた。


 「何かトラブル……?」


 ちぃも何かを食べながら、いつものマイペースな調子で呟いている。でも、その表情にはわずかに警戒心が浮かんでいるのがわかった。


 「何かやらかしたの?」


 美紗が俺の袖を軽く引っ張りながら、眉をひそめて言った。その口調には心配と、ちょっとした呆れが混じっている。


 「さ、さあ……俺も全然わからないよ。ちょっと話したいことがあるって……」


 俺は困ったように首を振ると、男性スタッフの方に向き直った。


 「あの、他のみんなも一緒にいてもいいですか? 何かあったら、一人だと不安で……」


 「ええ、もちろん構いません。むしろ、皆さんにもお聞きいただいた方がいいかもしれません」


 男性スタッフが安堵したような表情で頷いた。


 「では、こちらへどうぞ」


 女性スタッフが先導しながら、俺たちをカフェテラスの方へと案内していく。その足取りには、まだどこか慌ただしさが残っていた。


 テラスに設置された円形のテーブルに着くと、スタッフの二人は向かい側の席に腰を下ろした。俺の隣には美紗、その隣に拓哉、向かい側に八重とちぃが座る。


 「実は……お話したいことがございまして……」


 女性スタッフがそう切り出すと、一度深く息を吸った。その表情には、どう説明すればいいのかわからないという困惑が浮かんでいる。


 「今、ホテル内の式場で披露宴が行われておりまして……」


 そう言いながら、女性スタッフは申し訳なさそうに俯いてしまった。


 「披露宴……ああ、ここって結婚式場もあったもんな」


 拓哉が納得したように呟いた。確かに、ホテルカデンツァは結婚式場としても有名だった。


 「はい……それで、その……」


 女性スタッフが言いよどんでいると、男性スタッフが代わりに口を開いた。


 「新婦のご友人として、有名歌手のHIBIKI様がご出席される予定になっているんです」


 その瞬間、美紗たちの表情が一変した。


 「HIBIKI!? 元ヴァイオリニストでオペラ歌手だったあのHIBIKI!?」


 美紗が目を見開いて、信じられないという顔をしている。


 「まじかいな……あのHIBIKIさんが!?」


 八重も驚きの声を上げて、身を乗り出した。


 「嘘でしょ……ドッキリ……じゃないよね?」


 ちぃまで普段の無表情を崩して、困惑したような顔をしている。


 俺はそのHIBIKIという人のことを知らなかったけれど、みんなの反応を見る限り、相当有名な人らしい。美紗なんて、顔を真っ赤にして興奮している。


 「HIBIKI様は……サプライズゲストとして、曲お披露目してくださる予定になっていたんです」


 女性スタッフが続けると、また俯いてしまった。


 「それで、グランドピアノの演奏をお願いしていた方がいらっしゃったんですけど……どうやら飛行機のトラブルで、到着が間に合いそうになくて……」


 そこまで言うと、女性スタッフの声がか細くなってしまった。本当に困り果てているのが伝わってくる。


 見かねたように、男性スタッフが身を乗り出した。


 「あの! 先ほどの演奏、聴かせていただきました!」


 その声は、今までよりもずっと力強かった。


 「不躾なお願いではありますが……どうか、披露宴での演奏をお手伝いいただけませんでしょうか!?」


 「え……俺が!?」


 俺は思わず声を上げてしまった。


 「じょ、冗談ですよね!? 俺なんて、ただの高校生ですよ!?」


 「いいえ、冗談なんかじゃありません!」


 男性スタッフがきっぱりと言い切った。


 「私どもも、時々楽団の方々とお仕事をご一緒させていただくことがあるんです。でも、先ほどの演奏を聴いて……プロの方に引けを取らないと確信いたしました!」


 そう言うと、女性スタッフが俺の手をぎゅっと握りしめてきた。


 「お願いします! このままでは、せっかくのサプライズ企画が……新郎新婦のお二人にも、ご迷惑をおかけしてしまいます!」


 その切実な表情に、俺は言葉を失ってしまった。でも……。


 「ま、まあいいんじゃない」


 美紗がコホンと咳払いをしながら、俺の腕を引っ張って女性スタッフとの間に割って入ってきた。


 「そんなに困ってるなら……曲ぐらい弾いてあげたら?」


 美紗がそっぽを向きながら、ぶっきらぼうに言った。でも、その言葉には俺への信頼が込められているのがわかる。


 俺は押し黙って考え込んだ。


 飛び入りとはいえ、結婚式の披露宴……。人生で一番大切な日の一つに、俺なんかがお邪魔してもいいんだろうか。もし失敗したら、新郎新婦の思い出を台無しにしてしまうかもしれない。


 でも、この人たちは本当に困っている。俺の演奏を信頼してくれている。


 「優斗、自信持てよ」


 拓哉が俺の肩をポンと叩いて励ますように言った。


 「さっきだって、みんながお前の演奏を聴きたくて耳を澄ませてただろ? お前なら絶対大丈夫だって!」


 「そうそう! 優斗くんの演奏、めっちゃ素敵やったもん!」


 八重も元気よく頷いた。


 「問題ない……優斗の音楽は、聴いてて気持ちいい」


 ちぃがいつもの淡々とした口調で、でも確信を込めて言った。


 みんなの言葉に背中を押されて、俺は決心した。


 「わ、わかりました……」


 俺は深く息を吸うと、スタッフの二人を見つめた。


 「一応、打ち合わせをしたいので……よろしければ、そのHIBIKIさんという方にお会いできますか?」


 「本当ですか!?」


 女性スタッフの顔がパッと明るくなった。


 「もちろんです! では、こちらについてきてください!」


 男性スタッフも安堵の表情を浮かべながら立ち上がった。


 俺たちは互いに顔を見合わせて、小さく頷き合った。拓哉がにかっと笑い、美紗がそっぽを向きながらも口元に微笑みを浮かべている。八重は相変わらず元気で、ちぃは何かを食べながらマイペースについてきている。


 さて……どんな人なんだろう、そのHIBIKIさんって……。


 スタッフルームの扉が静かに開かれると、俺たちは少し緊張しながら中に足を踏み入れた。


 部屋は思っていたよりも広く、落ち着いた雰囲気だった。壁には上品な絵画が飾られ、柔らかな間接照明が室内を優しく照らしている。奥の方にはソファセットがあり、そこで待つように案内された。


 「HIBIKI様は、もうすぐこちらにいらっしゃると思います」


 女性スタッフがそう言うと、俺たちに温かいお茶を用意してくれた。


 「緊張するなあ……」


 拓哉が小さくつぶやきながら、カメラを膝の上に置いた。


 「せやなあ。実際に会うとなると、ドキドキするわ」


 八重も珍しく落ち着かない様子で、足をそわそわと動かしている。


 「テレビでしか見たことない……」


 ちぃがぽつりと呟いた。彼女にしては珍しく、お菓子に手をつけずにいる。


 美紗だけは、なぜかムスッとした表情で腕を組んでいた。


 「どうしたの美紗? 機嫌悪い?」


 俺が心配になって聞くと、美紗はプイッとそっぽを向いてしまった。


 「別に……」


 なんだろう、さっきから美紗の様子がおかしい。もしかして、俺が披露宴で演奏することを心配してくれているのかな。


 そんなことを考えていると、部屋の奥の方から足音が聞こえてきた。


 「お待たせいたしました」


 女性スタッフの声と共に、一人の女性が姿を現した。


 その瞬間、俺は思わず息を呑んだ。


 腰まで流れる美しい黒髪。切れ長の瞳には知性と優しさが宿り、整った顔立ちは上品で洗練されている。年齢は……二十代後半くらいだろうか。とても美しい女性だった。


 でも、それ以上に俺を驚かせたのは……。


 どこか見覚えがあるような気がしたのだ。特に、以前真珠が黒髪に染めていた時の印象と重なる部分があって……。


 「うわあ……本物や……」


 八重が小さく感嘆の声を漏らした。その時、彼女がこっそりと俺の耳元に近づいてきた。


 「あれでも一児の母親やで。妙なこと考えんようにな」


 そう言いながら、八重がにやりと笑う。


 「え、そうなの!?」


 俺は驚いて、改めてその女性を見つめた。とてもそんな風には見えない若々しさと美しさだった。


 「あら、貴方がスタッフの方たちが言っていた方かしら?」


 HIBIKIさんが俺の方を向くと、にこりと微笑みかけてくれた。その笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かくて、思わずドキリとしてしまう。


 「あ、はい……天川優斗って言います」


 俺は慌てて立ち上がりながら答えた。緊張で声が震えている。


 「不束者ですが、よ、よろしくお願いします」


 「ふふ、可愛いわね」


 HIBIKIさんがくすりと笑いながら、俺の前まで歩いてきた。


 「緊張し過ぎよ。もっとリラックスして」


 そう言いながら、HIBIKIさんが俺の手にそっと手を置いてくれた。その手は驚くほど温かくて、優しい感触だった。


 「は、ははは、はいっ!」


 俺は完全にかみかみになってしまった。なんて情けない……。


 その時、足にわずかな衝撃を感じた。下を見ると、美紗の足が俺の足を踏んでいる。


 「あ、あの、美紗……さん、踏んでるんだけど……あ、グリグリするのやめて」


 俺が小声で言うと、美紗がそっぽを向きながらぶっきらぼうに答えた。


 「あ、ごめん」


 全然悪びれる様子もない。むしろ、なんだか不機嫌そうだった。


 「ふふふ、仲がいいのねあなたたち」


 HIBIKIさんがその様子を見て、楽しそうに笑った。でも、すぐに表情を引き締めると、真剣な顔つきになった。


 「さて、挨拶はここまでにしておきましょう。時間もないから、今回のことを説明させてもらうわね」


 その瞬間、HIBIKIさんの雰囲気が一変した。今まで感じていた優しさや柔らかさの奥に、プロフェッショナルとしての強い意志が見えた。


 まるで、真珠が音楽と真剣に向き合う時の表情みたいだ……。


 俺は思わずそんなことを考えてしまった。二人とも、音楽に対する情熱と責任感を持っている。その共通点が、なんだか不思議な親近感を感じさせる。


 「はい、お願いします」


 俺もその気迫に押されるように、背筋を伸ばして答えた。


 HIBIKIさんがゆっくりと俺たちの前のソファに腰を下ろした。その所作一つ一つが優雅で、まるで舞台の上にいるかのような美しさがある。


 拓哉が小さくカメラのシャッターを切る音が聞こえた。でも、HIBIKIさんは気にする様子もなく、むしろ微笑みかけてくれた。


 「撮影もお好きなのね。いいわよ、遠慮しないで」


 「あ、ありがとうございます……」


 拓哉が恐縮しながら頭を下げた。


 「さて……」


 HIBIKIさんが手を膝の上で組みながら、静かに口を開いた。


 「まず、今日は本当にありがとう。突然のお願いにも関わらず、こうして来てくださって……」


 その声には、心からの感謝が込められていた。


 「いえ、こちらこそ……俺なんかでよろしいんでしょうか」


 「先ほどの演奏、実は私も聴かせていただいたのよ。とても素晴らしかった」


 HIBIKIさんがそう言うと、俺の目をまっすぐ見つめた。


 「音楽に対する真摯な気持ちが、音に表れていた。技術だけじゃない、心のこもった演奏だったわ」


 その言葉に、俺の胸が熱くなった。プロの歌手にそんな風に言ってもらえるなんて……。


 でも、同時に重い責任も感じた。この人の歌声を支える演奏をしなければならない。失敗は許されない。


 不思議な人だな……。


 俺は心の中でそんなことを思った。


 HIBIKIさんには、どこか神秘的な魅力がある。美しいだけじゃない、音楽に対する深い愛情と、それを表現する確かな技術を持った人なんだろう。


 どんな歌を聴かせてくれるんだろう。


 俺の胸に、期待と緊張が入り混じった気持ちが湧き上がってきた。


 窓の外では、夕陽が少しずつ傾き始めている。披露宴の時間が、刻一刻と近づいていた。

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