第76話 絶望の音色
ホテルカデンツァ東京の一階ロビーに、重苦しい沈黙が横たわっていた。空調の低い唸り声だけが空間を支配し、まるで嵐の前の静寂のような緊張感が漂っている。シャンデリアの煌めきも、大理石の床に反射する午後の光も、この瞬間ばかりは色を失ったかのようだった。
そんな張り詰めた空気を破るように、僕は声を上げて笑った。
「あはははっ、いや~随分と嫌われてしまいましたね。参ったな」
右手で顔を覆いながら、指の隙間から目の前の少女を見下ろす。美紗――確かそう呼ばれていた彼女の瞳には、一片の迷いもない拒絶の光が宿っている。興味深い……これほど明確に敵意を向けられたのは久しぶりのことだ。
「別に……さっきのあんたの話し方見てて、キモいって思っただけ」
彼女はそう言い放つと、実に潔くそっぽを向いてしまった。ガムを噛む音だけが、僕への最後通告のように響く。
「そういうこっちゃ、イケメンさん。諦め~や」
金髪の少女――、関西弁でけらけらと笑い声を立てる。その明るさには悪意がない。むしろ、からかいを楽しんでいるような無邪気さすら感じられる。
僕は内心で冷静に状況を分析していた。この手の女性には正攻法では太刀打ちできない。真珠さんのように、根源的な心の隙間を見つけ出し、そこに楔を打ち込むような繊細な戦略が必要になる。
まったく、優斗君の周りに集まる少女たちは、どれもこれも手強い相手ばかりだ。そう考えると、真珠さんの件は実に絶妙なタイミングだったのだろう。今回は潔く撤退するのが賢明な判断だ……。
「そのようですね。どうも分が悪いようです」
僕は表情を崩すことなく、穏やかな微笑みを浮かべてそう答えた。負けを認めることに何の躊躇もない。勝負とは、勝てる時に勝つものだ。
そして、ゆっくりと優斗君の方へ向き直る。彼は先ほどから俯いたまま、一言も口を利こうとしない。その視線には、明らかな困惑と疲労が刻まれている。
「それでは優斗君……真珠さんへ何か伝言はありませんか? よろしければ僕の方からお伝えしておきますが」
僕の言葉に、優斗君の肩がわずかに震えた。しかし、彼は顔を上げることなく答える。
「いえ……何も……」
それ以上の言葉は続かない。ただ、より深く頭を垂れるだけだった。
ふふ……まあ、これくらいで充分だろう。彼の心に新たな波紋を投げかけることはできた。真珠さんのことを思い出させ、罪悪感と後悔を呼び覚ます。それだけで今回の目的は果たしたと言える。
「はぁ~……うっざいなぁ。さっさとどっか行ってくんない? 私、優斗君のピアノ聴きたくて来てんの。日本語通じてる?」
美紗が露骨に嫌悪感を込めた視線を僕に向けてくる。その瞳の奥には、優斗君を守ろうとする意志が燃えている。実に興味深い……彼女にとって優斗君は既に特別な存在になっているようだ。ある意味真珠さんに近しいものを感じるな。
「およびでないってことやね~」
八重が手をひらひらと振りながら、愉快そうに笑い声を上げる。
「ばいばーい……」
その背後で長身の女性――同じように手を振ってきた。何かを食べながら、無表情でこちらを見つめている。
やれやれ、この三人は本当に手強そうだ。特に美紗は、僕の本質を直感的に見抜いているような節がある。あの鋭い眼光は、表面的な演技を簡単に見破ってしまうだろう。
「では、失礼いたします」
僕は丁寧に頭を下げ、その場から立ち去ることにした。負け戦を続ける愚を犯すつもりはない。
ロビーを横切り、エレベーターホールへ向かう。金属的な輝きを放つエレベーターの扉が開き、僕はその中に足を踏み入れた。10階のボタンを押すと、扉が静かに閉まり、機械がゆっくりと上昇を始める。
彼女たちの詳しい情報は、また梢さんたちに調査してもらうことにしよう。どのように料理するかは、それからじっくりと考えればいい……。
「ふふ……」
小さく笑みを漏らしながら、僕は上昇していく数字を眺めていた。扉が開くと、深いカーペットが敷かれた長い廊下が現れる。高級ホテルらしい落ち着いた照明が、壁の絵画を優しく照らし出している。
廊下の奥まった一室の前まで歩いていくと、予想通り倉田さんの姿が見えてきた。梢さんの有能な部下である彼は、いつものように完璧なスーツ姿で、微動だにせずに立っている。
僕が静かに頭を下げると、倉田さんもそれに合わせるように丁寧にお辞儀を返した。そして扉に手をかけ、静かに室内へと入っていく。
数十秒の静寂の後、再び扉が開かれた。倉田さんが恭しく部屋への案内の手を差し伸べる。僕は軽く微笑みを浮かべながら、その招待を受け入れた。
扉が静かに閉まると、僕の目の前には別世界が広がっていた。
ホテルカデンツァ東京の最上階に位置するスイートルーム。床から天井まで届く大きな窓からは、東京の街並みが一望でき、夕陽がビル群の向こうに沈みかけている。室内は上品なベージュとゴールドを基調とした調度品で統一され、重厚なペルシャ絨毯が足音を吸い込んでいく。
リビングの中央に配置された白いレザーソファに、梢さんが優雅に腰掛けていた。骨董品のティーカップを手に、湯気の立つ紅茶を嗜んでいる。その仕草の一つ一つが、まるで絵画の中から抜け出してきたような完璧さを醸し出していた。
「あら、もうお済みになったのかしら?」
梢さんが僕の方を見上げると、唇の端に微かな笑みを浮かべた。その表情には、すべてを見透かしているような余裕が込められている。
「ええ、必要最小限の会話は済ませることができました」
僕は丁寧に答えながら、室内の空気を肌で感じ取っていた。高級な香水の残り香と、わずかに漂う紅茶の芳醇な香り。すべてが計算し尽くされた空間だった。
「そう……どうぞ、おかけになって」
梢さんが向かい側のソファを手で示す。僕はその言葉に従い、彼女と対面する位置に腰を下ろした。ソファの座り心地は申し分なく、身体を包み込むような上質な革の感触が心地良い。
「優斗の反応はいかがだったかしら?」
梢さんが紅茶のカップをソーサーに置きながら、興味深そうに尋ねてくる。その瞳には、獲物を狩る猛禽類のような鋭さが宿っていた。
「予想通りの反応でしたよ。彼は実に分かりやすい青年で……僕としても扱いやすく助かります」
僕は冷静に答えながら、梢さんの表情の変化を細かく観察していた。彼女の頬に浮かんだ満足そうな色を見逃すことはない。
「ふふふ……そうでしょうね。あなたが用意してくださった謝罪の台本にも、まさに思った通りの反応を示してくれたわ。まさかあなたに脚本家としての才能まであったとはね……」
梢さんが楽しそうに笑い声を立てる。その笑い方には、他人の感情を玩具のように弄んでいる快楽が滲み出ていた。
「ということは、彼への謝罪工作は成功したということですね?」
僕は確認するように問いかける。
「ええ、まずまずの成果ね。ただ、陽介や翔子に演技を仕込むのには、それなりに骨が折れましたけど」
梢さんがため息混じりに答える。
「ああ、あのご友人の方々ですか」
「友人だなんて呼ぶのはよしてもらえる? あの二人は単なる古い付き合いに過ぎまないわ」
梢さんの声音が急に冷たくなった。彼女の口元が嫌悪感を込めて歪む。
「陽介は昔から私に心酔しているから、犬のように従順に言うことを聞いてくれる。翔子なんて、海外ブランドの化粧品を何点か渡しただけで、まるで飼い犬のように尻尾を振って喜んでいたわ」
その言葉を聞きながら、僕は梢さんという人間の本質を改めて分析していた。彼女は生来の支配欲と、他者を操ることへの病的なまでの執着を持っている。おそらく幼少期から、周囲の人間を自分の思い通りに動かすことで自己肯定感を得てきたのだろう。そして今や、それは彼女の存在意義そのものになっている。人を操り、支配し、思い通りに動かすこと――それが梢さんにとっての生きる理由なのだ。
だからこそ、余計な感情や道徳的な配慮に邪魔されることなく、彼女との取引は実にスムーズに進む。お互いの利害が一致している限り、これほど頼もしい協力者はいない。
「そういえば、早乙女真珠の件はどのような状況かしら?」
梢さんが足を組み直しながら尋ねてくる。その動作にも、どこか計算された優雅さがあった。
「そちらも順調に進んでますよ。もはや時間の問題でしょう」
僕は自信を込めて答えた。
その時、部屋の隅から倉田さんが静かに現れた。銀のトレイに載せたコーヒーカップを手に、音もなく僕の前まで歩いてくる。
「どうぞ、カルマ様」
倉田さんが恭しくコーヒーをテーブルに置く。立ち上る湯気からは、上質なアラビカ豆の芳醇な香りが漂ってきた。
「ありがとうございます、倉田さん」
僕は軽く微笑みながら礼を述べ、カップに口をつける。苦味と酸味の絶妙なバランスが舌を満たしていく。
「ふふ、さすがね。あの真珠には、あなたでも手を焼くのではないかと思っていたけど」
梢さんが感心したような声を上げる。
「真珠さんのように表裏のない純粋で意志の強い方は、確かに手強い相手です。こちらが使える手段も、ある程度限られてしまいますからね。それに加えて、彼女は論理的思考よりも直感……いえ、本能を優先するタイプですから」
僕はコーヒーカップを置きながら答える。
「確かにそうね。あの突拍子もない行動力と予測不可能性は、ある意味で脅威ですもの。特に、私たちのような計算で動く人間にとっては……」
梢さんが僕を見つめながら言う。その視線には、同類を見るような親近感が込められていた。
「ええ……しかし、今回に限っては、その本能が僕の思惑通りに働いてくれているようです」
僕は含みのある微笑みを浮かべながら答える。
「どういう意味?」
梢さんの興味が一気に高まったのが分かる。身を乗り出すような仕草で、続きを促してくる。
「文字通りの意味ですよ。彼女は今、自分自身の本能に振り回されている状態です。正常な彼女であれば相手にさえしてくれなかったでしょうから。そうですね……言い換えれば……自滅の一歩手前まで来ているということですよ。もちろん、これも梢さんがご用意くださった情報があったからこそ可能になったことですが」
僕は梢さんに向けて、感謝を込めた微笑みを送る。
「ふぅん……まあ、あの子が勝手に自滅してくれるなら、こちらとしては願ったり叶ったりね。私は優斗を、あなたは真珠を手に入れることができる。まさにウィンウィンの関係……」
梢さんがそう言って、満足げな笑みを浮かべる。
早乙女真珠を手に入れる――それは僕にとって長年の悲願だった。初めて彼女と出会った時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。音楽イベントの舞台で見せてくれた、一点の曇りもない純真無垢な笑顔。心の底から歌に想いを込める、あの真摯な姿勢。そのすべてが、僕には決して手に入らないものだった。
だからこそ、彼女を僕の手の届く場所に置きたいと切望した。一生僕のためだけに、あの美しい歌声を紡いでもらいたい――そう本気で願っていた。
しかし、そんな僕の前に現れたのが天川優斗だった。
あの青年の才能は、僕の想像をはるかに超えていた。技術的な巧さだけではない。彼が紡ぎ出す音色には、これまで聴いたことのないような不思議な魅力があった。まるで聴く者の魂の奥底に直接語りかけてくるような……そんな神秘的な響きを持っている。
初めて彼の演奏を聴いた時、僕の心は激しく震えた。嫉妬と畏敬、憧憬と絶望――様々な感情が入り混じった、今まで経験したことのない興奮に包まれた。あれほどの才能を前にした時、僕は自分の無力さを思い知らされると同時に、彼への強烈な執着を抱くようになったのだ。
しばらくの間、室内には静寂が漂っていた。梢さんは紅茶のカップを手に、何やら思案にふけっているような表情を浮かべている。僕もコーヒーを味わいながら、彼女の次の言葉を待っていた。
やがて梢さんがゆっくりとカップを置き、僕を見つめた。その瞳には、これまでとは明らかに違う鋭さが宿っている。
「そういえば以前にもお聞きしたけど……あなたは優斗をどうするつもりなのかしら?」
梢さんの声音が急に低くなった。まるで獲物を値踏みするような、冷徹な視線が僕に向けられる。これまでの優雅で上品な仮面が剥がれ落ち、彼女の本質が露わになった瞬間だった。
僕はその変化を興味深く観察しながら、ゆっくりと彼女の目を見つめ返す。
「どう……とは?」
「彼には私の側にいてもらわなければ困るのよ。意味はお分かりでしょう?」
梢さんの口調には、明確な威圧感が込められていた。それは交渉や相談ではない。一方的な通告だった。彼女にとって優斗君は、既に自分の所有物として認識されているのだろう。
僕は内心で苦笑しながら、わざと大げさに肩をすくめてみせる。
「ご安心ください。別に彼を壊そうなどという野蛮な考えは毛頭ありませんので」
しかし、言葉を一度区切ってから、僕は続けた。
「ただ……」
「ただ……?」
梢さんが身を乗り出すようにして、続きを促す。その表情には警戒心が浮かんでいた。
僕は一瞬の間を置いてから、抑揚のない平坦な声で答える。
「強いて言うなら……彼の絶望の音を聴いてみたいのです」
「絶望?」
梢さんが眉をひそめて聞き返す。その表情には、僕の言葉の真意を測りかねているような困惑が浮かんでいた。
「僕が味わってきた絶望です。あなたのことですから、僕の素性についても既にお調べになっているのでしょう?」
僕は静かに問いかける。梢さんのような人間が、取引相手の身元を調べないはずがない。
「ふふ……あなたのお父様は日本人とロシア人のハーフ、そしてお母様は中国系の方でしたね」
梢さんが試すような口調で答える。その声には、相手の反応を見極めようとする冷静さが込められていた。
「その通りです」
僕は淡々と肯定する。
梢さんが満足したような表情を浮かべ、さらに続けた。
「ご両親ともに不法入国者で、お父様は入国管理施設で病気により死亡。お母様の方は現在に至るまで逃亡を続け、行方不明のまま……あなたは日本で生まれながら十八歳まで在留資格も国籍も持たず、幼い頃から劣悪な環境の施設で育てられた孤児だった……間違いないかしら?」
梢さんが事務的に僕の過去を列挙していく。まるで商品の仕様を読み上げるような、感情のこもらない声だった。
僕は何も答えず、ただ静かにコーヒーを口に運ぶ。苦い液体が喉を通り過ぎていくのを感じながら、遠い記憶の断片が蘇ってくるのを押し殺していた。
「沈黙は肯定と受け取らせていただくわ」
梢さんがクスクスと笑い声を立てる。その笑い方には、他人の痛みを愉しんでいるような残酷さが滲んでいた。
「……地獄のような日々でしたよ」
僕はようやく口を開く。コーヒーカップをソーサーに置きながら、遠くを見つめるような視線で窓の外を眺めた。
「この日本という国で……いえ、この世界のどこにも、僕の居場所は存在しませんでした。何者にもなることができず、存在しないものとして扱われ続けた十数年間……」
「その絶望を優斗にも味わわせたいということ?」
梢さんが興味深そうに問いかけてくる。
「いえ……少し違います」
僕はゆっくりと息を吐き、遠い記憶の扉を開いた。
「僕が初めて音楽と出会ったのは、薄暗くカビ臭い部屋に置かれた、古いオルガンでした……」
そっと目を閉じると、あの忌まわしい施設の光景が鮮明に蘇ってくる。
満足な食事も与えられず、常に空腹に苛まれていた日々。建物のあちこちから聞こえてくる悲鳴と怒声。理不尽な暴力に怯えながら過ごした、終わりの見えない絶望的な毎日。そんな地獄のような環境の中で、僕はあの古びたオルガンと出会ったのだ。
鍵盤の多くは割れ、音程も狂っていた。しかし、それでも僕にとっては唯一の救いだった。指先から生まれる音だけが、あの絶望的な現実から僕を解放してくれたのだ。
「初めて弾いたあのオルガンの音色は、今でも忘れることができません……絶望の淵にいたからこそ奏でることができた、あの何とも言えない甘美で切ない響き……」
僕の声が、わずかに震えていた。あの時の感覚が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
「僕はもう一度、あの音を聴きたいんです。今の僕にはもう奏でることができない……しかし、彼ならばきっと……」
僕は梢さんに向かって微笑みを浮かべた。それは計算された作り笑いではない。僕の心の奥底から湧き上がってくる、純粋な欲望に基づいた笑顔だった。
その瞬間、梢さんの表情が凍り付いた。彼女の瞳に、明らかな恐怖の色が浮かんだのが見える。おそらく僕の本性を垣間見たのだろう。
「優斗君ならば……僕以上に深い絶望の音色を奏でてくれるはずです……」
僕の言葉が静寂の中に響いていく。
窓の向こうでは、夕陽が東京の街並みの彼方にゆっくりと沈もうとしていた。高層ビルのガラス面が茜色に染まり、室内にもオレンジ色の光が差し込んでくる。その光の中で、僕たちの影が長く伸びていった。
やがて陽が完全に沈み、部屋は薄暗がりに包まれていく。僕と梢さんは無言のまま、それぞれの思惑を胸に秘めて、闇の訪れを見つめていた。