第75話 Giving the finger
六月の終わりにしては珍しく爽やかな朝だった。梅雨の合間の晴れ間が校舎の窓ガラスを優しく照らし、廊下には薄っすらと木漏れ日が踊っている。登校時間帯の賑やかな足音が遠くから聞こえてくる中、俺は教室の扉の前で立ち尽くしていた。
はあ……また今日も一日が始まる……。
昨日のことが、まだ胸の奥で重く沈んでいる。真珠と決別してから一晩経ったが、教室に向かう足取りが重い。
意を決して扉に手をかけようとした瞬間、胸の奥でズキリと痛みが走った。
昨日のことが、またフラッシュバックのように蘇ってくる。真珠とカルマ君が一緒にいた光景。そして俺が吐いた言葉……『真珠……君は、僕の音の……邪魔だ』。
今思い返しても、あんなひどいことを言うべきじゃなかった。でも、あの時の俺は冷静でいられなかった。信じていた人に裏切られたような気持ちで、胸が張り裂けそうだった。
でも、いつまでもこうして躊躇していても仕方がない。深呼吸をひとつして、俺は扉を開けた。
教室に足を踏み入れると、意外なことに朝の光がたっぷりと差し込んでいて、いつもより明るく感じられた。数人の早めに登校したクラスメートが談笑していて、普段通りの平和な朝の風景が広がっている。
そして……真珠の席を確認する。
空いている。まだ来てないのか?
少しだけ安堵の息を吐きながら、俺は自分の席に向かって歩き始めた。その時――
「おはよう……天川君」
突然声をかけられて、俺は振り返った。そこに立っていたのは、矢野景子だった。肩ほどの長さの茶髪を軽く巻いて、いつものように人懐っこい笑顔を浮かべている。
矢野……確か千秋の件を最初にクラスに広めた張本人だ。
「あ……おはよう、矢野さん」
俺は少し戸惑いながらも、一応挨拶を返した。正直なところ、彼女とはあまり深く関わりたくない。千秋のプライベートな話をあんな風に面白半分で言いふらすような人だし……。
「なんか今日は元気ないね〜」
矢野が俺の隣まで歩いてきて、親しげに話しかけてくる。その距離感が妙に近くて、思わず半歩後ずさりしてしまった。
「そ、そうかな……」
曖昧に答えながら、俺は早めに自分の席に着こうとした。でも矢野は俺の前に回り込むように立ち、話を続けようとする。
「ねえ、天川君……」
彼女の声が急に小さくなった。周りに聞かれないようにという感じで、俺に顔を近づけてくる。
「知ってる?」
「え……?何が?」
俺は困惑しながら聞き返した。矢野の目には、何か面白いことを知っているという光が宿っている。この表情は、千秋の件を話していた時と同じだ。また誰かのプライベートな話でもするつもりなのだろうか。
「浅間先輩のこと……」
矢野がニヤリと笑みを浮かべながら口を開いた。
「浅間……?」
その名前を聞いて、俺の眉がひそめられた。浅間というのは、千秋の元彼のことだ。確か三年生で……千秋とは色々あった末に別れたという話だった。
「浅間先輩……今、学校休んでるらしいの」
矢野の言葉に、俺は驚いて目を見開いた。
「浅間が……?」
「そうそう。これ三年の先輩に聞いた話なんだけどね……」
矢野が周りを見回してから、さらに声を落とした。
「なんでも、浅間先輩の実家に警察が来てたんだって」
「警察……?」
俺の声が思わず大きくなってしまった。警察って……一体何があったというんだ。
「そうなの。なんか、やらかしたみたい」
矢野が楽しそうに話を続ける。その表情には、他人の不幸を面白がっているような色が浮かんでいて、見ていて気分が悪くなった。
「まあ、あの人けっこう黒い噂もあったからね。飲酒や煙草とか、お金のことでトラブル起こしてたって話もあったし」
矢野の言葉を聞きながら、俺の心は複雑に揺れていた。
確かに、千秋とは色々なことがあった。彼女に裏切られたような気持ちにもなったし、正直今でも完全に整理がついているとは言えない。でも……それでも、千秋は俺の幼馴染だった。小さい頃から一緒に過ごしてきた、大切な存在だったことに変わりはない。
そしてその千秋が好きになった相手が、こんなことになっているなんて……。
「千秋も、あんな奴に引っかかって……ほんと、男を見る目ないよね」
矢野が愉快そうに言った瞬間、俺の胸の奥で何かがざわついた。
確かに浅間のことは好きじゃない。千秋を傷つけたかもしれないし、今回の件だって本当なら許せることじゃない。でも……千秋のことをそんな風に言われるのは、やっぱり腹が立つ。
「矢野さん……」
俺が口を開きかけた時、矢野が急に俺の方に身を乗り出してきた。
「ねえねえ、天川君。私、実は前から天川君に興味があってさ――」
キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイムが教室に響いた。
矢野の言葉が途中で遮られて、俺はほっと胸をなでおろした。正直なところ、この話の続きを聞きたくなかった。千秋の件もそうだし、俺に対する「興味」という言葉も、何だか重く感じられる。
「あ、ごめん矢野さん。授業始まるから……」
俺は慌てたように言って、矢野との会話を打ち切った。そのまま自分の席に向かって足早に歩いていく。
「あ、ちょっと天川君……」
後ろから矢野の声が聞こえたけれど、俺は振り返らずに席に座った。教科書を取り出しながら、ちらりと真珠の席を見る。
やっぱり、まだ空いている。
授業が始まっても、真珠は現れなかった。一時間目、二時間目……時間が経つにつれて、俺の不安は大きくなっていく。
何かあったのかな……。体調でも崩したのだろうか。それとも、俺とのことで悩んでいるのだろうか。
でも、いつまでも真珠のことばかり考えていても仕方がない。俺には俺の生活がある。今日は拓哉との約束もあるし……そうだ、もっと前向きに考えないと……今日は楽しいことを考えよう。
昼休みになっても、真珠は現れなかった。俺は一人で弁当を食べながら、窓の外を眺めていた。校庭では生徒たちが元気よく走り回っている。
千秋は大丈夫だろうか……。矢野の話が本当なら、彼女も今頃辛い思いをしているに違いない。
でも、もう俺には関係のないことだ。千秋は自分で選んだ道を歩んでいる。俺だって、自分の道を見つけたんだ。
午後の授業も、なんとなく上の空で過ごした。真珠の席はずっと空いたままで、担任の先生も特に何も言わなかった。きっと体調不良の連絡でも入っているのだろう。
そして、放課後――
最後の授業が終わると、俺は急いで鞄をまとめ始めた。今日も拓哉との約束がある。最近はこの時が一番の愉しみだ。
スマホを取り出して、拓哉からのメッセージを確認する。
『優斗、今日の場所は練馬区のホテルカデンツァ東京だ!16時過ぎくらいに1階ロビーで待ち合わせでいいかな?』
ホテルカデンツァ東京……聞いたことがないホテルだけど、きっと素敵なピアノが置いてあるんだろう。拓哉はいつも、面白い場所を見つけてくる。
教室を出ながら、俺は今日弾く曲のことを考え始めた。最近は技術的に難しい曲にも挑戦できるようになってきたし、今日は何か新しいことに挑戦してみようかな。
ショパンのエチュードとか……それとも、ラフマニノフの前奏曲なんかもいいかもしれない。ってクラシックにこだわるのもダメだな。色々と視野を広げていかないと……。
駅に向かう道すがら、俺の足取りは自然と軽やかになっていった。真珠のことや千秋のことで色々と考えることはあるけれど、今はピアノのことだけを考えていたい。
音楽だけは、どんな時でも、俺の心を満たしてくれる。
電車に揺られながら、俺は今日の演奏に思いを馳せていた。
ホテルカデンツァ東京は、想像していたよりもずっと立派な建物だった。エントランスの大きなガラス扉から差し込む陽光が、白い大理石の床に美しいパターンを描いている。天井は高く、シャンデリアが優雅に光を放っていた。
俺は思わず立ち止まって、辺りを見回した。
こんな高級そうなホテルに、制服姿で入っていいものだろうか……。周りを歩いているのは、スーツを着たビジネスマンや上品な服装の女性ばかりだ。明らかに場違いな気分になって、俺は小さく肩をすくめた。
広いロビーを見回しながら拓哉の姿を探していると――
「優斗」
背後から声をかけられて、反射的に俺は振り返った。
そこに立っていたのは……。
「え……?」
俺の目は、一瞬自分が見ているものを信じることができなかった。
ダークグレーのスーツに身を包み、髪を上品にまとめ上げた女性が立っている。
でも、その整った顔立ちと、口元に浮かんだ微かな笑みを、俺は良く知っている。
「こ、梢……?」
俺は思わず目を見開いた。八坂梢――俺の幼馴染が、大人びた姿で目の前に立っている。
「やっと気づいてくれたのね。意外と鈍いのは昔から変わらないみたい」
梢がクスリと笑いながら言った。その仕草には、いつもの彼女らしい知性的な雰囲気があったけれど、どこか普段とは違う柔らかさも感じられる。
「な、なんでここに……?」
俺がまだ困惑している間に、梢の後ろから人影が現れた。
「よっ、優斗!」
明るい声と共に手を上げて挨拶してきたのは、陽介だった。いつものカジュアルな私服姿で、人懐っこい笑顔を向けてくる。その隣には――
「あ……優君、久しぶり……だね」
翔子が小さくお辞儀をしながら、おどおどとした様子で挨拶してきた。彼女もいつものように控えめな雰囲気で、俺の方をちらちらと見ている。
「梢……陽介……それに翔子も……」
三人の姿を見た瞬間、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じた。
これまでのことが、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。子供の頃は本当に仲が良かった。一緒に遊んで、一緒に音楽を楽しんで……でも、高校に入ってから全てが変わってしまった。俺が才能を失って、みんなが俺から離れていって……。
前に話しかけられた時のことも思い出す。あの時の彼らは、どこか言い訳がましくて、本当に向き合おうとしているようには見えなかった。
「というか……なんで三人がここに?」
俺は警戒するような口調で尋ねた。まさか、また何か用があるとでも……?
「あら、うちのリサーチ部は優秀なのよ?」
梢がいたずらっぽく笑みを浮かべながら答えた。
え……?
俺は思わず目を丸くした。梢のこんな表情を見るのは久しぶりだった。いつもの計算高くて、どこか距離を置いたような笑顔とは全然違う。まるで子供の頃に戻ったような、無邪気さが混じっている。
「なんてね……冗談よ」
梢が苦笑いを浮かべながら続けた。
「優斗、最近色んなストリートピアノで演奏してるでしょう?私たち、動画で見てたのよ」
「え……?なんでそれを……」
俺は驚いて声を上げた。拓哉が撮影してアップロードしている動画のことは知っていたけれど、まさか梢たちが見ているなんて思いもしなかった。
「そりゃあ、あれだけ話題になってたら嫌でも目に入るわよ」
梢が優しく微笑みながら言う。その表情には、どこか誇らしげな色が混じっているようだった。
「すげえな、優斗!」
陽介が興奮したように声を上げた。
「お前、本当に前みたいに弾けるようになったんだな!いや、前よりもすごいかもしれない。昨日の動画の演奏とか、マジで鳥肌立ったぜ」
「う、うん……」
翔子も小さく頷きながら言った。
「子供の頃の優君に戻ったみたいで……私も見てて、すごく安心したの。優君がまた笑顔で演奏してる姿を見られて……本当に嬉しかった」
動画……そうか、拓哉が撮影してくれた動画のことか。確かに再生回数がかなり伸びてるって聞いていたけれど、まさか梢たちの目にも止まるほどだったとは。
でも、それで俺に何の用があるというんだろう。
「それで……俺に何の用?」
俺は少し身構えながら尋ねた。正直なところ、また何か面倒なことに巻き込まれるのは勘弁してほしい。今の俺には、そんな余裕はない。
「そんなに警戒しないで、優斗」
梢が少し悲しそうな表情を浮かべながら言った。
「私たち……今日は優斗に、本当の意味で謝罪したくて来たの」
「謝罪……?」
俺は眉をひそめて聞き返した。
あの時の続き……また同じような話をするつもりなのだろうか。
「ええ……」
梢が深く息を吸って、まっすぐ俺の目を見つめた。
「私たち……優斗に本当にひどいことをしてきたと思う。あなたが一番辛い時に、支えるどころか見捨てるようなことをして……しかも、その後も自分たちの行いから目を逸らして、醜い言い訳ばかりしてきた」
梢の声には、これまでに聞いたことのない切実さが込められていた。
「でもね……私たちも、もうそういうのをやめようって、三人で話し合ったの。ちゃんと向き合って、ちゃんと謝って……そして、自分たちを見つめ直そうって」
今まで見たことのない梢の姿に、俺は素直に驚いた。いつもの彼女なら、もっと理論的に、計算された言葉で話すはずなのに……今の梢からは、本当に心からの言葉が聞こえてくる。
「ごめんな、優斗……」
陽介が俯きながら口を開いた。その声は、いつもの明るさとは正反対に、深い後悔に満ちていた。
「俺、あの時……『優斗のことは俺が守る』とか、偉そうなこと言ってたのに……結局、お前が一番必要としてる時に何もしてやれなかった。それどころか……」
陽介が拳を握りしめながら続ける。
「お前が才能を失った時、心のどこかでホッとしてる自分がいたんだ。ずっと優斗に憧れてて、同時に嫉妬もしてて……そんな最低な気持ちを抱えてたくせに、友達面してたんだ」
「私も……私も同じ……」
翔子が震える声で言った。涙ぐんだ瞳で俺を見上げながら、深々と頭を下げる。
「周りの目ばかり気にして、優君の気持ちを考えようともしなかった……優君が苦しんでる時に、一緒にいるのが恥ずかしいなんて思ってた……本当に、本当にごめんなさい……」
「ちょ、ちょっと……みんな……」
俺は慌てて手を振った。三人がこんなに深刻に謝罪してくる姿を見ていると、逆にこちらが戸惑ってしまう。
「頭を上げてよ……そんな風に謝られても……」
「でもね、優斗」
梢が静かに口を開いた。
「私たちは気づいたの。あの頃、あなたはとても輝いていた……ピアノに向かう姿、音楽を奏でる時の表情……本当に美しくて、眩しくて」
梢の目に、懐かしそうな光が宿る。
「でも、私たちはあなたと比べて、ただの幼い子供だった。だから……高校に入って、あなたが全てを失った時……心のどこかで優越感を感じてしまった」
梢が自嘲するように笑った。
「本当に最低よね。一番支えてあげるべき時に、そんなことを考えてたなんて……」
三人の心境の変化に、俺は正直驚いていた。これまでの言い訳じみた謝罪とは全く違う。本当に自分たちの行いを振り返って、反省しているように聞こえた。
「許してもらおうなんて、図々しいことは言わない」
梢が真剣な表情で続けた。
「でも、私たちもちゃんと区切りをつけたかった。今まで逃げてきたことを認めて、ちゃんと謝って……そして、これからは自分たちを見つめ直していきたいの」
「見つめ直して……か」
俺は梢の言葉を反芻しながら呟いた。
確かに俺も、高校に入ってからずっと自分の殻に閉じこもっていた。才能を失って、音楽から遠ざかって、誰とも深く関わろうとしなかった。でも、今はこうして再びピアノに向き合い、新しい仲間たちと出会い、少しずつ前に進めている。
きっと俺だけじゃない。みんな、それぞれの方法で成長しようとしているんだ。過去の過ちを認めて、そこから学んで、前に進もうとしている。
きっかけは何だっていい。大切なのは、新しく踏み出す勇気を持つことなんだ……。
「……分かった」
俺は三人を見回しながら、静かに言った。
「その言葉、受け取らせてもらうよ。みんな……ありがとう」
俺が微笑みかけると、三人の顔が一斉にパッと明るくなった。
「本当!?」
翔子が飛び跳ねるように喜んで、俺の手を両手で握りしめた。
「良かった……本当に良かった……!ありがとう、優君……!」
その顔には、安堵と喜びに満ちていた。
「ありがとうな、優斗!」
陽介が俺の肩を力強く叩きながら笑った。
「さすが俺の弟分だ!心が広いぜ!」
「もう、お兄ちゃんったら調子に乗りすぎ!」
翔子が頬を膨らませて陽介に抗議する。そのやり取りを見ていると、子供の頃の懐かしい光景が蘇ってきた。あの頃はよく、こうして四人でじゃれ合っていたっけ。
「二人とも……」
胸の奥が、じんわりと温かくなってくる。長い間感じることのなかった感覚だった。
「本当に……ありがとう、優斗」
梢が心から嬉しそうに微笑みながら言った。
「また……いえ、あなたさえ良ければ……また仲良くしてもらえると嬉しいわ」
「うん……」
俺も素直に頷いた。
「すぐには、昔みたいにはいかないかもしれないけれど……俺も、やり直せるなら……もう一度、対等な仲間として付き合いたい」
「ええ……今はそれで十分よ」
梢が安堵したように微笑んだ。
「それじゃあ、私たちはこれで失礼するわね。また……」
そう言って、梢が背を向けて歩き始めた。陽介と翔子も、振り返りながら手を振ってその場を後にしていく。
俺は三人の後ろ姿を見送りながら、深く息を吐いた。
そうか……こんなこともあるんだな……。
長い間、心の奥底に沈殿していた重たいものが、少しずつ溶けていくような感覚だった。恨みとか、怒りとか、失望とか……そういう負の感情が、静かに昇華されていく。
完全に水に流すには、まだ時間がかかるかもしれない。でも、今日という日が、きっと新しいスタートになる。過去に縛られるのではなく、前を向いて歩いていくための……。
俺は小さく微笑みながら、改めてロビーを見回した。拓哉はまだ来ていないようだが、なんだか今日は良い一日になりそうな予感がしていた。
「おっつ!優斗!!」
突然響いた明るい声に振り返ると、拓哉がいつものように人懐っこい笑顔を浮かべて手を振りながら歩いてきた。肩にはお馴染みのカメラバッグを提げて、今日もやる気満々といった様子だ。
「拓哉」
俺も手を上げて応えると、拓哉が俺の前まで来て軽くハイタッチを交わした。
「待たせたか?……って言うか」
拓哉がふと俺の後ろを見やりながら首を傾げた。
「さっきの、お前の知り合いか……?」
「あ……ああ、うん」
梢たちのことかと思い、俺は振り返ってロビーの出口を見た。もう三人の姿は見えない。
「俺の幼馴染なんだ。子供の頃からの付き合いで……」
「へ〜、幼馴染か」
拓哉が梢たちが去っていった方向を見ながら言った。
「綺麗な人だったね……」
「ああ、うん。梢は昔から大人びてて美人だったから……って、美紗!?」
その声の主を確認しようと振り返った瞬間、俺の目に飛び込んできたのは見慣れた三人組の姿だった。美紗、八重、そして昨日ちぃと呼ばれていた女性がそこに立っている。
「……ちゃん?」
思わず最後まで言いかけて、美紗がじとりとした目で俺を見ているのに気づいた。
「ちゃん付けしなくていい」
美紗がぶっきらぼうに言った。いつものクールな表情で、ガムを噛みながら俺そっぽを向いている。
「そやそや、ピン子でええで〜」
八重が関西弁でのんびりと言いながら手をひらひらと振る。
「ちなみにうちのことは天才八重ちゃんって――」
ドスッ。
「ぐほっ……!」
八重が言いかけた瞬間、美紗の肘が八重の脇腹に見事にヒットした。八重がよろめきながら脇腹を押さえている。
「ちょっ……ピン子、あんた日に日に狂暴化しとらへんか……?最近の肘打ち、前より切れ味増してるで……」
八重が涙目になりながら抗議するが、美紗は知らん顔でガムを膨らませている。
「私は千絵……もぐもぐ……ちぃでいいよ……もぐもぐ」
千絵がたこ焼きを頬張りながら、相変わらずの無表情で自己紹介した。どこでたこ焼きを買ったんだろう……ホテルに売ってないよね……。
「は、はあ……」
俺は呆気にとられながら三人を見回した。
「というか、なんでまた皆が?」
「ああ、実はさ」
拓哉が頭を掻きながら答えた。
「俺、八重ちゃんと連絡先交換してたんだよ。それで今日もストリートピアノやるのかって聞かれて、つい場所教えちゃったんだ」
「なるほど……」
俺は苦笑いを浮かべながら頷いた。拓哉らしいといえばらしい。
「い、いいだろ!」
拓哉が急に俺に詰め寄ってきた。その目は何故か涙ぐんでいる。
「俺だって、スマホのアドレス帳に女の子の名前を登録したいお年頃なんだよ!今まで登録されてるのは家族と男友達だけだったんだぞ!」
「分かった分かった!顔近いってば!」
俺は慌てて両手を振った。
その時、俺たちの間に割って入るように美紗が声をかけてきた。
「今日も……弾くの?」
美紗がまっすぐ俺を見つめながら尋ねた。その瞳には、どこか期待するような光が宿っている。
「え?あ、うん。もちろん――」
俺がそう答えかけた時だった。
「やあ、優斗君」
背後から聞こえてきた声に、俺の言葉が途切れた。この声には聞き覚えがある。振り返ると――
「か、カルマ……君?」
そこには、いつものように上品な笑顔を浮かべたカルマ君が立っていた。高級そうなスーツに身を包み、まるでこのホテルの雰囲気にぴったりと馴染んでいる。
俺は思わず唖然とした。どうして彼がここに……?
「梢さんと打ち合わせがありましてね」
カルマ君が穏やかに微笑みながら説明した。
「僕もちょうどこちらに来ていたんですよ」
「そ、そうなんですか……」
俺は言葉に詰まった。昨日のことがあったばかりで、正直カルマ君と顔を合わせるのは気まずい。
「ところで」
カルマ君が首を少し傾けながら尋ねてきた。
「あの後、真珠さんとは仲直りできました?」
その質問に、俺の胸がズキリと痛んだ。
「あ……いえ……真珠は今日、学校を休んでいたので……」
「そうなんですか」
カルマ君が心配そうな表情を浮かべた。
「体調でも崩したのでしょうか。それなら後で、お見舞いに行ってみようかな」
その言葉に、俺の心臓が嫌な感じに跳ね上がった。
「お見舞い……ですか」
真珠の家に……二人は、もうそんな関係になっているのか……。
「ええ。優斗君の分も一緒に、僕が真珠さんの様子を見てきますよ」
カルマ君がにこりと笑って、まるで何でもないことのように続けた。
「彼女の部屋にもお邪魔してみたいですし」
その一言で、俺の心は完全に沈んだ。部屋に……。
「そう……ですか……」
俺はうつむきながら、力なく答えた。
「このイケメン、誰やねん?」
突然、八重のあっけらかんとした声が響いた。彼女は興味深そうにカルマ君を見つめている。
「イケ麺……?何それ、美味しいの……?」
千絵が小首を傾げながら呟いた。相変わらずたこ焼きを頬張っている。
「ちぃ……それ、ボケて言ってるん?」
八重が真顔で千絵に尋ねた。
「ん……?」
千絵が何も分からないような顔で小首を傾げる。
「知り合い……?」
美紗が俺に尋ねてきた。その声には、どこか警戒するような響きがある。
「あ……うん……まあ」
俺は曖昧に答えた。皆はカルマ君のことを知らないんだろう。
「あ、どうも初めまして」
カルマ君が美紗たちの方に向き直り、上品に微笑みかけた。
「カルマと申します。皆さん、とても美しい方たちですね。優斗君のお友達でしょうか?」
その言葉遣いといい、立ち振る舞いといい、完璧すぎて逆に不自然な感じがする。
「あんたも……優斗君の友達なの?」
美紗がどこか警戒した口調で尋ねた。その目つきが、いつもより鋭くなっている。
「ええ、もちろん。僕はそう思っていますよ」
カルマ君がそう言って、俺の方を向いた。
「ね、優斗君?」
「……」
俺は何も答えられずに押し黙った。友達……昨日のことがあった後で、そんな風に言われても……。
「おや、今日は機嫌でも悪いのかな?」
カルマ君がクスリと笑いながら言った。その笑顔には、どこか含むものがあるように見える。
「まあ、仕方ありませんね。今日は僕もこれで失礼させていただきましょう」
カルマ君が俺に軽く頭を下げて、背を向けかけた。
「あ、そうそう……」
数歩歩いたところで、カルマ君が立ち止まって振り返った。そして、ゆっくりと美紗の目の前まで歩いてきて足を止める。
「何?」
美紗が顔を上げてカルマ君を見た。
「帰るんじゃなかったの?」
「いえ、また会う機会もあるかもしれませんので」
カルマ君が右手を差し出しながら、丁寧に言った。
「握手でもいかがかと思いまして」
美紗は一瞬その手を見つめてから、ゆっくりと自分の手を伸ばし始めた。
しかし――
美紗の手が途中で止まり、そのまま元の位置に戻った。
「あのさ……」
美紗がぽつりと呟いた。
「はい?何でしょうか?」
カルマ君が穏やかに聞き返す。
「あんた……」
美紗が一瞬間を置いてから、きっぱりと言った。
「気持ち悪いんだよね」
プクッとガムを膨らませながら、美紗がはっきりと言い放った。
「え……?」
俺は思わず声を漏らした。美紗が……そんなことを……?
「気持ち悪い……ですか?」
カルマ君が笑顔を崩さずに聞き返した。しかし、その目の奥には一瞬、何か暗いものが閃いたような気がした。
「聞こえなかった?」
美紗がそう言いながら、ゆっくりと右腕を上げた。そして――
カルマ君の目の前で、中指を立てて見せた。
「キモイつってんの」
美紗が再びはっきりと言った。
ちょっ……ええええぇぇぇっ!?
俺は心の中で絶叫した。
ホテルの高級感漂うロビーに、美紗の毒舌が響く。周りにいた大人たちが、何事かと振り返る視線を感じながら、俺は立ち尽くすしかなかった。
八重が「おおお〜」と感嘆の声を上げ、千絵が相変わらずたこ焼きを頬張りながら無表情で状況を眺めている。拓哉は完全に呆然としていて、口をぽかんと開けたまま固まっている。
そして美紗は、まるで何でもないことをしたかのように、クールな表情でガムを噛み続けていた。
その瞬間、俺の心の奥で何かがスッキリとした感覚があった。
昨日からずっと胸に突き刺さっていた棘のようなものが、美紗の一言で綺麗に取り除かれたような――そんな気分だった。