第74話 アルタイル
最後の音が空に溶けていくと同時に、オクトーレの一階フロアが静寂に包まれた。その静寂を破るように、まるで堰を切ったかのような拍手と歓声が響き渡る。
「すげー……!」
「あんな演奏初めて聞いた……!」
「あの二人ヤバくない……!?」
興奮した観客たちの声が次々と耳に飛び込んでくる。俺は美紗と顔を見合わせて、思わず安堵の笑みを浮かべた。
さっきまであれだけ心を押し潰していた重苦しさが、まるで嘘みたいに軽やかになっている。胸の奥から湧き上がってくる充実感……これこそが、俺が求めていた感覚だった。
ふと、北斗の言葉が頭をよぎる。
『お前はさ、変なとこで実力発揮したりもするけど、精神的に安定しねえのが問題なんだよ。いいチャンスだと思って、誰の力も借りずに一人でやってみろ』
そうか……北斗が俺に言いたかったのは、まさにこういうことだったんだ。
技術だけじゃない。誰かに頼るんじゃなく、自分の力で状況を切り開いていく強さ。それが今の俺には足りなかったんだ。でも今日、美紗との連弾を通して、その答えの一端を掴めた気がする。
「あ、あの……」
小さな声に我に返ると、隣に座っていた美紗が俺の方を向いていた。彼女の頬はほんのりと紅潮していて、その瞳は俺を見つめながらもどこか泳いでいる。
美紗の手が、おずおずと俺の方に差し出された。その仕草がとても初々しくて、思わず見とれてしまう。
「あ、ありがとう……ございました」
彼女がぽつりと呟いた声は、館内の雑音にかき消されそうなほど小さかった。でも、その言葉には確かな温かさがあった。
俺は思わず立ち上がりそうになる。この成長は、間違いなく彼女のおかげでもある。一人じゃ絶対に辿り着けなかった場所に、彼女と一緒に音を重ねることで到達できたんだ。
「いや、こちらこそ……!」
気がつくと、俺は美紗の差し出された手を勢い余って両手で包み込んでいた。
「君のおかげだよ!俺、また自分の進むべき道が見えた気がする……本当に、ありがとう」
心の底からの感謝を込めて、俺は満面の笑みを向ける。すると美紗の顔が、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「べ、べべべべべ別に……!」
美紗が慌てたように頭をブンブンと横に振る。その拍子にミディアムボブの髪が揺れて、クールな印象とは正反対の可愛らしさを醸し出している。
「私、何もしてない……でしゅ」
語尾が少し舌足らずになった瞬間、美紗は自分の口元を両手で覆い隠した。その仕草があまりにも愛らしくて、思わず微笑んでしまう。
「え?あ、うん。でも君にお礼を言いたくて……」
「そそそ、それよりその……これ!」
美紗が顔を赤らめながら、握られたままの手を少しだけ上に持ち上げる。その視線を追って俺もハッと我に返った。
しまった……!
「ご、ごごご、ごめん……!」
慌てて手を離しながら、俺は内心で頭を抱えた。真珠の癖が移ったのだろうか……何やってんだ俺は。
「お~お~、なんやなんや、えらいお熱いこっちゃ」
突然、俺たちの間に割って入ってきた声に振り返ると、八重がにやけた笑みを浮かべて俺たちを見ていた。
「なっ!?」
美紗が恨めしそうに呟く。
「熱々だね……目玉焼きが焼けそうなくらい……じゅるり」
今度は、ふんわりとしたロングヘアの長身美女がぼそりと言った。表情は無表情だけど、どこか面白がっているような雰囲気が漂っている。
な、なんか美弥と通ずるものがある気がする。
「はあっ?何言ってんの八重もちぃも……!」
美紗が慌てたように立ち上がる。
「熱くないし……!寒いくらいだし……!あー寒い!!こ、ここ冷房効きすぎじゃん……!」
六月の終わりで、確かに館内は涼しいけど……そこまで寒くはないだろう。むしろ演奏終ったばかりで暑い。
美紗がそんな訳の分からないことを口走りながら、両腕を抱えて身を縮めている姿が何ともコミカルで、思わず笑いそうになる。
「おい、優斗」
拓哉が俺の耳元で小声で話しかけてきた。同時に、周囲に視線を送る目配せをする。
それに気づいて俺も辺りを見回すと……そこには興味津々の視線を向ける大勢の観客たちの姿があった。
「あ……」
思わず声が漏れる。薄々気づいてはいたけど、これはかなりのギャラリーが出来上がっている。スマホを構えている人も多いし、中には動画を撮影している人もいるようだ。
「ピン子、うちらもそろそろスタジオ戻らんと、雷落ちてまうで」
八重と呼ばれていた女の子が、美紗に向かって言った。ピン子……美紗のあだ名だろうか。
「あ、やばっ……」
美紗が慌てて腕時計を確認する。その表情が一気に青ざめた。
「もうこんな時間……マネージャーに怒られる……!」
「俺たちも退散しようか、拓哉ごめん……流石に注目され過ぎちゃった……」
俺は申し訳なさそうに拓哉に向き直る。
「だな。撮れるもん撮ったし、俺らもそろそろ撤収しようぜ」
拓哉がカメラを肩にかけ直しながら答える。
俺が椅子から立ち上がると、周囲から「もう終わりですか?」「もっと聞きたい……」といった名残惜しそうな声が聞こえてくる。
本当にやり過ぎちゃったみたいだ……申し訳ない。
「あ……あのさ……」
美紗の声に振り返ると、彼女がツンとした表情でメモ用紙を俺に差し出していた。
「これ……私のSNSのID……」
その表情は、さっきまでの恥ずかしがっている様子とは打って変わって、いつものクールな印象に戻っている。でも、よく見ると耳の先端がほんのりと赤くなっているのが見えた。
「え、ええと、これ……」
俺は狼狽えながらメモ用紙を見つめる。SNSのIDを交換……?
「何……交換するの嫌なの?」
美紗が俺をじっと睨みつける。その瞳には、どこか不安そうな色が宿っていた。
ひっ……!
思わずビビりながらも、俺は慌ててメモ用紙を受け取る。
「あ、いや……!ありがとうございます……」
「フン……」
美紗がそっぽを向きながら、ガムを膨らませる。その仕草がどこか拗ねているようで、なんだか可愛らしく見えてしまう。
「おっ、ツンツン警報発令やな」
八重が口元を押さえながら、意地悪そうに笑う。
「ツンツンツンだね……」
ちぃと呼ばれていた女の子も、無表情ながら面白そうに呟く。
「ちょっと……!」
美紗が振り返ると同時に、八重のお尻に向かって蹴りを繰り出そうとする。
「へへ~ん、何度も食らう八重ちゃんやないで~」
八重が軽やかに蹴りを避けながら逃げていく。
「待てこら……!逃げんなっ……!」
美紗が慌てて追いかける。
「あ……たこ焼き美味しそう……」
ちぃが二人の後を追いながら、フードコートの方を見て呟いた。
「ちぃ、時間ないって言うたやろ……!」
八重が振り返りながら注意する。
そうして三人はバタバタと、嵐のように俺たちの前から去っていく。その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく笑った。
「なんか……嵐みたいな子たちだったな」
拓哉が呆れたように呟く。
「だ、だね……」
俺も苦笑いを浮かべながら答える。そしてクスリと笑いながら口を開く。
「俺たちも帰ろうか」
「おう……!」
拓哉がにこやかに返事を返してくれる。
手の中のメモ用紙を見下ろしながら、俺は静かに歩き始めた。今日は本当に、色々なことがあった一日だった。
駅で拓哉と別れると、もうすっかり陽が落ちていた。
街灯がぽつりぽつりと灯り始めた夜道を、俺は一人ゆっくりと歩いている。昼間の暑さが嘘のように、夜風が頬を優しく撫でていく。遠くからは車の走る音や、家路を急ぐ人たちの足音が微かに聞こえてくる。
ふと、さっきのオクトーレでの出来事が頭をよぎった。
美紗との連弾……あの時の感覚は、今でも指先に残っている。一人では絶対に辿り着けない場所に、二人で音を重ねることで到達できた喜び。観客たちの温かい拍手。そして何より、自分の力で状況を切り開けたという手応え。
楽しかったな……。
口元に自然と笑みが浮かぶ。胸の奥から湧き上がってくる充実感が、まだ体の中に残っている。
今の俺なら、きっとどんなに苦しい状況に陥っても大丈夫だ。自分を見失わず、本当に弾きたい音を奏でることができる。どんな状況でも……どんな……
ふと、足が止まった。
街灯の下で立ち尽くす俺の頭に、不意にあの光景が蘇る。
真珠とカルマ君が一緒にいた時の……あの場面が。
いや……だめだ。考えるな……。
俺は激しく首を横に振る。せっかく晴れやかになった気持ちを、また暗闇に引きずり込まれたくない。あの時の気持ちに戻りたくない。
でも……頭では分かっていても、心は言うことを聞いてくれない。
俺に気づいた時の、真珠の青ざめた顔。よほど二人の事を知られたくなかったんだろうか、まるで世界が終わったかのような、絶望に染まった瞳。そして何より忘れられないのは……ショックを受けて立ち尽くす俺を、まるで嘲笑うかのように見下ろしていたカルマ君の表情。
あの時のカルマ君の目には、確かに勝利の色が宿っていた。まるで「ほら見ろ、これが現実だ」と言っているかのような……。
真珠が頑なに口にしなかった秘密。俺だけには絶対に言えなかった、あの秘密の正体が……まさか、カルマ君との……。
ぎゅっと拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで、鈍い痛みが走った。
だめだ……だめだ……!
涙なんか……流しちゃだめだ……!
男なのに、こんなことで泣くなんて情けない。でも……でも止まらない。胸の奥から込み上げてくる熱いものが、どうしても止められない。
ピアノを弾いていた時のことを思い出せ……!あの時の気持ちを……!
俺は必死に、さっきの連弾のことを思い浮かべようとする。鍵盤に触れる指先の感触。美紗と息を合わせて紡ぎ出した音色。観客たちの温かい拍手……。
頭の中でイメージを組み立てる。雑音をフィルターで遮断して、必要な音だけを残す。心をクリアにして、あの時の純粋な喜びを取り戻すんだ。
そう思った瞬間……。
ふわりと花が咲いたように笑う真珠の顔が、鮮明に浮かんだ。
それは、初めて笑いかけてくれた時の真珠。まだ何も知らなかった頃の、あの無邸な笑顔。俺のピアノを初めて聞いて、心から感動してくれた時の表情。
「みーっけ!」
あの時の真珠の声が、まるで昨日のことのようにはっきりと聞こえてくる。
俺が音楽を続ける理由。ピアノを弾く意味。全ての始まりは、あの笑顔だった。真珠に認められたくて、真珠に喜んでもらいたくて……俺は今まで頑張ってきた。
なのに……なのに……。
頬に冷たいものが伝った。
一粒、また一粒と、止めどなく溢れる涙が夜道に落ちていく。街灯の光が滲んで、周りの景色がぼやけて見える。
胸が痛い。まるで心臓を直接掴まれているような、息ができないほどの痛み。こんなに苦しいのに、それでも真珠のことを考えてしまう自分が情けない。
俺は……俺は本当に……。
真珠のことが……。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
鳴り響くスマホの振動に、俺は慌てて涙を拭う。
画面を見ると、北斗の名前が表示されている。こんな時に……でも、今の俺には誰かの声が必要だった。震える指で通話ボタンを押す。
『おっす、優斗。今日のストリートピアノ行脚はどうだった?』
いつもの北斗の明るい声がスマホから響いてくる。でも俺は、どう答えていいか分からなかった。喉の奥が詰まって、言葉が出てこない。
『ん?優?聞こえてるか?もしもーし?』
北斗の声が再び呼びかけてくる。心配そうなトーンが混じっているのが分かった。
返事をしないと……そう思うのに、涙が止まらない。
千秋の時は、こんなに涙することはなかった。確かに辛かったし、ショックだったけど……でも真珠のことになると、どうしてこんなにも心が痛むんだろう。
『おい、優――』
北斗が言いかけた瞬間、俺の口から声が漏れた。
「北斗……俺……」
自分でも驚くほどかすれた声だった。
『はあ?お、お前……泣いてんのか?』
北斗の声が一変する。いつものふざけた調子が完全に消えて、真剣そのものになっていた。
「真珠と……ショッピングモールで会って……それで……」
そこまで言って、喉が詰まった。声が出ない。これ以上は言葉にしたくない。認めたくない現実が、心を押し潰してくる。
でも……これが現実なんだ。
真珠が頑なに口を閉ざして、俺にだけは絶対に話してくれなかった秘密。あの苦しそうな表情の裏に隠されていた真実が、全ての答えだったんだ。
「ごめん……北斗……ごめん……」
嗚咽を漏らしながら謝る俺の声は、もはや声になっていなかった。情けない。男なのに、友達の前でこんなに泣くなんて。
『……お前を泣かせたのは、真珠か?』
北斗の声が、思いがけないほど冷たく響いた。普段の軽やかな調子とは正反対の、氷のような冷たさ。
「えっ……?」
思わず短く返事をしてしまう。北斗がこんな声を出すなんて……。
『心配すんな、優。お前は家に帰って、ゆっくり休め。後のことは……俺に任せろ』
今度は一転して、優しい声に戻っていた。でも、その優しさの奥に、何か決意のようなものを感じ取れた。
「北斗……」
何を言おうとしているのか分からないまま、俺は北斗の名前を呼んだ。
『よく頑張ったな、優……本当に、よく頑張った』
いつもの北斗とは違う、心の底からの優しさが込められた声。それだけで、俺の胸がいっぱいになる。
北斗は分かってくれているんだ。俺の苦しみを……全部、分かってくれている。
「ありがとう……北斗」
素直に感謝の気持ちを伝えると、俺の心が少しずつ落ち着きを取り戻していく。今は一人じゃない。北斗がいてくれる。それだけで、どれだけ救われることか。
『へへ、当然だろ。今度は俺の胸貸してやるよ。好きなだけ泣いていいからさ』
急にからかうような調子に戻る北斗。でも、その優しさが嬉しくて、思わず苦笑いが浮かんだ。
「か、からかうなよ……」
慌てて抗議する俺に、北斗がクスクスと笑い声を返してくる。
『からかってなんかいないって。俺は、いつでも本気だからな。だから元気出せよ……な?』
その言葉に、どれだけの重みが込められているのか、俺にはよく分かった。北斗は本当に、俺のことを大切に思ってくれているんだ。
「うん……北斗?」
『ん?』
「俺……北斗と出会えて、本当によかった」
心の底からの感謝を込めて、そう伝えた。真珠のことで辛いけど、でも北斗という友達がいてくれることが、どれだけありがたいことか。
『奇遇だな……俺も全く同じこと思ってたとこだ……』
クスリと笑いながら、北斗が答えてくれる。その声には、いつもの軽やかさが戻っていた。
ツー、ツー、ツー……
通話が切れる音が夜の静寂に響いた。
俺はスマホをポケットにしまうと、ゆっくりと空を見上げた。
街灯に邪魔されながらも、夜空にはたくさんの星が瞬いている。六月の終わりの空は澄んでいて、普段は見えない細かな星まではっきりと見ることができた。
その中でも特に明るく輝いているのは……夏の大三角形。
織姫と彦星の物語で有名なベガとアルタイル、そして白鳥座のデネブ。三つの星が作り出す大きな三角形が、まるで俺を見守るように空に浮かんでいる。
中でもアルタイルは、ひときわ鮮やかに光を放っていた。彦星として知られるあの星は、一年に一度だけ織姫に会うことを許される……そんな話を思い出す。
遠く離れていても、想い続けることの大切さ。たとえ今は辛くても、いつかきっと……そう、二人は信じ続けていたんだろうな……。
そんなことを考えながら、俺はアルタイルを見つめていた。まるでその光が、俺の進むべき道を照らしてくれているかのように感じられて。
涙は、もう止まっていた。
北斗の言葉が、まだ胸の奥で温かく響いている。一人じゃない。どんなに辛いことがあっても、支えてくれる人がいる。それだけで、明日も頑張れる気がした。
俺は大きく深呼吸をすると、再び歩き始めた。
家路につく足取りは、さっきよりも確かなものになっていた。星明かりに導かれるように、俺は夜道を歩いていく。
今日という一日が終わろうとしている。辛いこともあったけれど、得られたものも大きかった。そして何より……俺には、かけがえのない友達がいることを、改めて実感できた。
今は、それだけで十分だった。
一際輝く一等星が見守る中、俺は静かに家路を急いだ。




