第73.2話 play a duet
六月の夕暮れ時。オクトーレの一階フロアは、平日にも関わらず多くの人で賑わっていた。エアコンの効いた館内に、ショッピングを楽しむ人々の足音や話し声が心地よく響いている。天井から吊り下げられた大型スクリーンには、館内テナントの情報が流れ、時折セール情報のアナウンスが館内に響いた。
そんな中、中央に設置されたストリートピアノの周りには、先ほどよりもさらに多くの人が集まり始めていた。
「今度は二人で弾くのかな?」
「あの女の子、すごく綺麗だよね」
「さっきの演奏、鳥肌立っちゃった」
買い物帰りの家族連れや、仕事帰りのサラリーマン、制服姿の学生たち……様々な人たちが興味深そうにこちらの様子を見守っている。スマートフォンを構える人も多く、どうやら動画を撮影する準備をしているようだった。
私はピアノの前に立ちながら、心臓が喉元まで上がってきそうな感覚に襲われていた。
あばばばばばば……!な、な、なんでこんなことになってるの……!?
頭の中が真っ白になりそうだった。いや、もうなってる。完全にショート寸前。パソコンでいうところのブルースクリーン状態だ。
だって、だって……連弾なんて言い出したのは私なのに……!
やばい、やばいやばいやばい……!め、めっちゃ緊張するんだけど……!?
息が上手く吸えない。手のひらがじんわりと汗ばんできて、ピンで留めた前髪の下で額にも汗が滲んでいるのがわかる。普段のクールな私はどこ行った!?。
だめだ……これ、完全にあかんやつ。
そんな私の隣で、優斗君はいたって自然にピアノの椅子に腰を下ろしていた。さっきまでの演奏の余韻が残っているのか、その表情は穏やかで、どこか音楽に浸っているような雰囲気を醸し出している。
私も慌てて椅子に座ろうとして……
「あっ……」
きょどりすぎて足がもつれそうになった私は、慌てて体勢を立て直そうとして、思わず左肘が優斗君の腕にぶつかってしまった。
「ひゃうっ!」
やばっ……変な声漏れた……!
声が漏れた瞬間、優斗君がハッと振り返る。その澄んだ瞳と目が合った瞬間、私の顔が一気に熱くなった。
「コホン……」
慌てて目を逸らしながら、思わず口元を押さえる。やばい……聴かれた?今聞かれたよね!?。
落ち着け私……落ち着くんだ……。普段のクールな私を思い出せ……。
そんな時、ピアノの脇からクスクスという笑い声が聞こえてきた。視線を向けると、八重がニヤニヤした笑みを浮かべながら、必死に笑いを押し殺している。
「くくっ……!」
八重のその表情を見た瞬間、私の中で何かがプツンと切れた。
あいつ……後で絶対殴る……!
八重は私の殺気を感じ取ったのか、慌てて口元を手で覆いながら後ずさりした。
「あ、あはは……が、頑張れぇ~……」
その時、優斗君が静かに口を開いた。
「じゃあ……最初は俺がプリモを担当させてもらいますね」
優斗君がちらりと私の方を見ながら、穏やかな声で言う。プリモ……連弾の主旋律パート。華やかで目立つ部分だ。
「あ……うん……じゃあ私はセコンドで……」
私がぎこちなく答えると、優斗君が安心したように頷いてくれた。セコンド……伴奏やハーモニーを担当する、いわば縁の下の力持ち的なパート。
……って、やっぱちょっと待って!
なんで……なんで連弾したいなんて言っちゃったんだ私……。
冷静になって考えてみれば、初対面の人といきなり連弾なんて、めちゃくちゃハードルが高いじゃない。しかも相手は、さっきあんなに素晴らしい演奏をした人で……。
そんな私の動揺をよそに、優斗君は軽く指を鍵盤に這わせて音の確認をしている。その仕草がとても自然で、まるでピアノと会話をしているかのようだった。
と、その時だった。
優斗君の指が鍵盤に触れた瞬間に響いた音色を聞いて、私の心の奥で何かがざわめいた。
あ……この音……
羽田で初めて聞いた時の感覚が、鮮明に蘇ってきた。ただ技術的に上手いだけじゃない。心の深いところに直接語りかけてくるような、不思議な響き。
そして同時に、封印していたはずの記憶も一緒に浮かび上がってきた。
小さい頃から大好きだったピアノ。毎日のようにレッスンに通って、いつかはピアニストになりたいって本気で思っていた頃のこと。でも、高校に入った頃、両親の工場が経営難に陥って……レッスン代が払えなくなって……。
あの時は本当に辛かった。でも八重やちぃと出会い、安いギター一本でバンドを始めて……気がついたらメジャーデビューしていて。確かに音楽の世界で生きていくという夢は叶ったけれど、ピアニストになりたいという想いは、ずっと心の奥に仕舞い込んだままだった。
それなのに……優斗君の音を聞いていると、深い水底に沈めたはずのその想いが、泡を立てながら浮かび上がってくるような感覚になる。
彼の音色は、ただ綺麗なだけじゃない。心の奥底に直接ノックされているような……どんなに扉を閉ざしていても、透き通るように染み渡ってくる。本当に不思議な音だった。
だからもっと聞きたい。もっと知りたい。もっと感じたいと思った。
そして……できることなら、一緒に音を奏でてみたいと思った。
私は深く息を吸い込んで、ゆっくりと鍵盤に手を置いた。周囲のざわめきが次第に静まり返っていく。
まるでコンサートホールの舞台のように、二つの人影がピアノを前に向かい合って座っている。天井からの柔らかな照明が、黒いピアノの蓋を鏡のように照らし出していた。
静寂の中で、私たちの呼吸音だけが微かに響いている。
そして――音が、生まれようとしていた。
一瞬の静寂。私と優斗君の間に、張り詰めた空気が流れた。
そして――
ポロン……
最初の音が、まるで雫が水面に落ちるように響いた。
優斗君の演奏が始まった。
思わず、その指先に視線が釘付けになる。なめらかで無駄のない手の動き。長くて綺麗な指が、まるで鍵盤と会話をしているかのように踊っている。見ているだけで吸い込まれそうになる光景だった。
こんなに近くで見ると、彼の演奏の繊細さがよくわかる。一つ一つの音に込められた感情、微妙なタッチの違い……。羽田で聞いた時以上に、彼の音楽に対する真摯さが伝わってくる。
ふと、優斗君の視線が私の目に止まった。
あ……私の番……?
ソロのワンフレーズが終わろうとしている。プリモは楽曲の顔とも言える主旋律を担当し、華やかさを演出する役割。そして私のセコンドは……。
プリモを引き立たせるため、ハーモニーやリズムを支えて楽曲に厚みを持たせるのが仕事。縁の下の力持ち的な存在だけど、連弾においてはとても重要なパート。
深く息を吸い込んで、私の左手が低音域で静かにアルペジオを描いた。
指先から生まれる音は、まるで深い海の底からゆっくりと立ち上がる泡のよう。重々しく、それでいてどこか祈るように澄んだ響きが、オクトーレの空間をそっと包み込んでいく。
そこに重なるように、今度は右手で中音域の旋律を爪弾いた。
儚くて細い……でも確かに存在する光のような音色。
あ……これって……
そのテーマは、まさに私たちCANARYが作った楽曲「Luminous」に通じるものがあった。暗闇の中でも消えない小さな光……希望を歌ったあの曲。
やがて、私たちの指が鍵盤の上で本格的に踊り始める。
優斗君は旋律をしなやかに織り上げ、私はそれを下から優しく支えるように和声を重ねていく。サスティンペダルが深く踏まれて、音の余韻が天井へと吸い込まれていく。
右手と左手。プリモとセコンド。
別々の役割を持ちながら、私たちの息づかいはもはや一つの息吹のように感じられた。
楽しい……。
超楽しい……!!
ちょっ、マ!?……!?ピアノってこんなに楽しかったんだ……!
バンドでギターを弾いている時とは、全然違う感覚。一人じゃ絶対に作れない、三人や四人とも違う。二人だからこそ生まれる音楽の世界がここにある。優斗君の音に合わせて、自分の音を重ねていく喜び……。
その時だった。
周囲から再び大きな歓声と拍手が沸き上がった。私たちの連弾に感動してくれているんだと思って、嬉しくなってちらりと辺りを見回そうとして――
あれ……?
左側に座っていたはずの優斗君の姿がない。
「え……?ええっ……?」
思わず戸惑いの声が漏れた。一体どこに……?
すると次の瞬間、私の右側から聞き慣れた音色が響いてきた。
振り返ると、いつの間にか優斗君が私の右隣に座っている。
なっ……!?
もしかして……Switch……!?
連弾の途中でプリモとセコンドを入れ替える高度なテクニック。つまり今、私がプリモで彼がセコンドになってるってこと……?
くやしい……!やられた……!!
いつの間に移動したの……?全然気づかなかった……!
ちらりと優斗君の顔を見ると、彼がまるで子供のようなイタズラっぽい笑顔を見せていた。
ムカつく……!いちいち良い笑顔なんだってば……!
あ~もう……!だったら……ならこれはどうよ……!
私は一気に音色を変化させて、今度はもっとダイナミックに、力強く鍵盤を叩いた。フォルテッシモで、感情をぶつけるような激しさで。
反応してみなさいよ……!
内心でそう叫びながら、私は少しどや顔になった。
でも、次の瞬間――
ズンズンズン……ズンズンズン……
歩くようなリズムの伴奏が聞こえてきた。
うそ……!?ウォーキングベース……!?
まさか……ジャズのアレンジ……?
私がそう気づいたのと同時に、セコンドのコード進行がよりリズミカルに変化していく。そこから一気にテンポアップして、流れるような軽快なリズムに変わった。
ジャズアレンジって……マジ……てかリズム激早っ!?
これは……これはヤバい……!
私も負けずに、プリモでついていこうと必死になる。ジャズピアノの知識はそれなりにあるけど、こんなにアドリブで対応するなんて……!
と、その時、ピアノの向こう側から聞こえてきた声に、思わず演奏中なのに笑いそうになった。
「あ~もう……!こんなん我慢できるかいな!」
八重が悔しそうに唸りながら、背負っていたギターケースに手をかけようとしている。
「後生やから、ちぃ~!離して~!こんな面白そうなセッション見てたら、我慢できるわけないやろ~!」
八重が必死に訴えているけど、いつの間にか現れたちぃに後ろから羽交い絞めにされて動けずにいる。
「ダメよ八重……今は二人の時間なんだから……」
ちぃが八重をがっしりと抱え込みながら、いつもの無表情で淡々と言う。
「でも私だって弾きたい……八重だけズルいじゃない……」
「あ~もうどこにそないな筋肉あんねん!栄養全部筋肉に行っとるんちゃうか!?」
「誰が断崖絶壁だゴルアァッ!」
「言うとらんやんかぁぁぁっ!」
八重とちぃの掛け合いを見て、私は思わず演奏しながら笑ってしまった。
なんだか……すごく楽しい。
確かに技術力では、優斗君に遠く及ばない。才能だって、きっと彼の方がずっと上だと思う。
でも……でも……
私が笑いながら優斗君の方に振り向くと、彼も同じように笑顔で私を見返してくれた。
あ~もう、超やばい……!すっご~く楽しい……!!
もう技術とか才能とか、そんなことどうでもいい。ただ純粋に、一緒に音を作ることの喜びに包まれている。
クライマックスに向けて、私たちの演奏はさらに熱を帯びていく。
ユニゾンで駆け上がるスケール。波のように次々と重なり合う和音。感情の渦をそのまま鍵盤に叩きつけるようなフォルテから、そこから一転して急激に絞られるディミヌエンド。
呼吸が重なる。
鼓動が揃う。
そして――最後の一音。
高音域のCの音が、まるで祈りのように優しく響いて……長い余韻を残しながら、空へと昇っていくように静かに消えていった。
瞬間、オクトーレ全体が静寂に包まれた。
そして次の瞬間――
割れんばかりの歓声と拍手の嵐が巻き起こった。
「すげぇ……!」
「鳥肌立った……!」
「なにあれ、プロなの……?」
観客の人たちが興奮して叫んでいる。スマートフォンを構えた人たちも、まだ余韻に浸っているような表情を浮かべていた。
まばゆい光を放つ何かが、この場に降りてきたかのようだった。
私と優斗君は、そっと目を合わせて小さく微笑み合った。
音は消えてしまったけれど……心は今、色鮮やかに輝いて、まるで風船のように軽やかに飛び跳ねていた。
こんな気持ち……いつぶりだろう。
音楽って……やっぱり素晴らしい……。




