第72話 CANARY
平日の午後三時半過ぎ。八王子オクトーレの一階フードコートは、いつもより少し人が少なくて、どこか静かな雰囲気が漂っていた。天井から差し込む自然光が、テーブルやイスに穏やかな影を落とし、時折聞こえる食器の音や話し声も、なんだかゆったりとしている。
私、東雲美紗は、ギターケースを肩に掛けたまま、窓際の席に座って、オレンジジュースのストローを口にくわえていた。でも、全然飲み物の味なんて頭に入ってこない。視線は、フードコートの向こう側、ショッピングモールの中央あたりにずっと向けられていた。
そこには……あの場所には、私がずっと楽しみにしていた人がいるはずだった。
けれど今、そこで起きているのは、私が期待していたような穏やかな光景ではなかった。床に座り込んで泣いている女の子と、その場から足早に立ち去ろうとしている男の子の姿が見えた。
え、何あれ……まさか恋人同士の喧嘩?それとも告白が失敗したとか?
「えっ……なにこれ、修羅場ってやつ?」
思わずストローから口を離して、呆然と呟いてしまった。
男の子は振り返ることもなく、そのまま人混みの中に消えていく。残された女の子は、まだその場に座り込んだまま。周りの人たちも気づいているのに、誰も声をかけようとしない。
可哀想に……でも私も何もできないし……。
「あっ……行っちゃう……」
私は残念そうな顔で、その場から去っていく男の子の後ろ姿を寂しそうに見つめた。少し猫背気味で、歩き方にどこか独特のリズムがある。髪の色は……茶色っぽくて……。
まさか、あの人?
心臓がどきんと跳ねた。間違いない、あの人だ。私がずっと会いたいと思っていた、あの子だ。
「はぁ……今日も聴けると思って楽しみにしてたのに……」
がっくりと肩を落として、テーブルに突っ伏してしまった。
どうして今日に限って、こんなことになっちゃうの……くそっ。せっかく勇気を出してここまで来たのに。
そう、私が今日ここに来た目的は、あの男の子……彼の演奏を聴くのが目的だった。今日この日を楽しみにしていたのに。
初めて彼の演奏を聴いたのは、羽田空港のストリートピアノだった。あの時のことは、今でもはっきりと覚えている。急いで飛行機の時間を確認しようと空港内を歩いていた時、ふと聞こえてきたピアノの音に足が止まったのだ。
最初は「あ、誰かピアノ弾いてるんだ」程度にしか思わなかった。空港にはよくストリートピアノがあるし、旅行客が弾いているのを見かけることもある。でも、そのメロディーが耳に入った瞬間、私の世界が変わった。
なにこれ……なんなのこの音……。
それは、確かにクラシックの名曲だった。ショパンの「別れの曲」。でも、楽譜通りの演奏じゃない。彼独自の解釈で、音と音の間に込められた感情が、まるで言葉のように私の心に響いてきた。
悲しみ、喜び、希望、そして少しの寂しさ……全部が混ざり合って、一つの物語になっていた。まるで彼が自分の人生を音楽に託して語りかけているような、そんな錯覚さえ覚えた。
私も音楽やってるから分かる。技術的にも申し分ないけど、それ以上に、この人の音楽には魂がある。心がある。
気がついた時には、私はピアノの前で立ち止まって、彼の演奏にすっかり魅入られていた。空港という騒がしい場所にいるのに、彼の音楽が作り出す空間だけが、別世界みたいに静寂で美しかった。
時間が止まったみたいだった。周りの人の声も、アナウンスも、何もかもが遠くに感じられて、ただ彼の音楽だけがそこに存在していた。
演奏が終わった後、彼は静かに立ち上がって、周りにいた人たちの拍手に軽く頭を下げていた。その時の彼の横顔が、なんとも言えないくらい美しくて……少し憂いを含んだような表情で、でもどこか優しくて……私はすっかり見とれてしまった。
あ、この人……すごく良い人だ……。
声をかけたかった。「素晴らしい演奏でした」って言いたかった。でも、そんな勇気は私にはなくて、結局何も言えずに彼が去っていくのを見送るしかなかった。
どうして声をかけられなかったんだろう……今思い返しても、すごく後悔してる。もしかしたら、話しができたかもしれないのに。
その後も、彼の演奏のことが頭から離れなかった。もう一度聴きたい、でもどこで会えるかなんて分からない……そんな風に思っていた時、奇跡が起きた。
たまたま立ち寄った渋谷モールで、またあの音を偶然にも耳にしてしまったのだ。間違いない、あの独特の音色、あの感情豊かな演奏……今度はドビュッシーの「月の光」を弾いていた。
やっぱりこの人だ!間違いない!
今度こそ声をかけようと思ったけれど、やっぱり人だかりの後ろから見ているだけで終わってしまった。でも、その時偶然にも、彼がカメラを持った男の子と話をしているのが聞こえた。
「優斗、明日は八王子のオクトーレでやろうぜ!」って。
その瞬間、私の心臓は飛び跳ねた。チャンスだ!今度こそ、今度こそ絶対に声をかけるんだ!優斗……優斗君って名前ね……よしっ!
だから今日、私はここにいる。ギターの練習の帰りということにして、わざわざここまで来たのだ。八重子と千絵には「ちょっと用事がある」としか言ってないけど。
でも、こんなことになるなんて……。
私は再びテーブルに突っ伏した。なんで今日に限って……。
「ピン子、どないしたん?そない落ち込んで」
突然背後から声がかかって、私は慌てて顔を上げた。振り向くと、そこには友人の藤乃宮八重子が、アイスコーヒーを持って立っていた。金色のボブカットが午後の光に照らされて、いつものように人懐っこい笑顔を浮かべている。
あ、そうか。八重子たちがいるんだった。一人で落ち込んでる場合じゃない。
「八重……っていうかそのピン子ってやめてよ……私には東雲美紗って名前がちゃんとあるんだから」
私は不服そうに八重に言った。八重はすぐ人にあだ名をつける癖がある。私なんか、高校に入学した頃からよく前髪にヘアピンを使っているからって理由で、勝手にピン子なんていう芸名みたいなあだ名を付けられてしまった。
最初は本当に嫌だったんだけど、今ではもう慣れてしまって、抗議するのも半分習慣みたいなものだ。でも、やっぱり自分の本名で呼ばれたい気持ちもある。
「ええやんピン子。うちはかわええと思うけどなぁ。なんかアイドルみたいやし」
八重子がけらけらと笑いながら答える。チャームポイントである八重歯がキラリと光って、にやりと笑いながら振り返った。
「アイドルって……勘弁してよ」
「ちぃもそう思うやろ?」
八重子が後ろを振り返ると、少し離れたところから「もぐもぐ……」という咀嚼音が聞こえてきた。見ると、肉まんとクレープを両手に持った雨宮千絵が、クレープを頬張りながらこちらに歩いてくるところだった。
ふんわりとしたロングヘアが歩くたびに揺れて、スタイルの良さが際立っている。クールな美人なのに、食べてる時だけは無防備というか……ギャップがすごい。
「ちぃ……あんたまた夕飯前にそんなに食べて……しっかしそんだけ食ってその細さ、あんたの胃袋どないなっとんねん」
八重が呆れながら肩を竦める。確かに千絵は見た目の細さに反して、とんでもない大食いだ。どこにそんなに入るのか、いつも不思議に思う。
昨日なんて、ファミレスで私たちの分まで食べ尽くして、最後はデザートを三つも頼んでたし……。
「もぐもぐ……だって美味しいもん、仕方ないじゃん……もぐもぐ」
千絵はそんな八重を完全に無視して、クレープを食べながら席に着いた。相変わらずクールというか、マイペースというか……でも、食べてる時は幸せそうな顔してる。
「仕方ないって……まあその割には胸はちっぱいのまんまやけどな、ふひひ」
八重がからかうように千絵の胸を指さした。
あー、また始まった……。八重子、それ言っちゃダメなやつ……。
千絵は長身でメンバーの中でも飛びぬけて美人だけど、確かに胸のサイズは……まあ、そこは女の子として気にしてるところなのに。
「誰がまな板だゴルァッ!!」
突然、千絵の乱暴な声が響いた。クレープを慌てて置くと、八重のこめかみを思いっきりぐりぐりし始める。
やっぱり!キレた時の千絵は本当に怖い。普段はクールで大人っぽいのに……。
「痛い痛い!堪忍やって!ってかまな板とか言ってへんやろ!うちが言ったんはちっぱいや!」
八重が泣き叫ぶように抗議する。でも、それってもっと悪いような……。
「どっちも同じじゃボケェ!!」
千絵の怒声がフードコートに響いて、周りの人たちがこちらを見始めた。恥ずかしい……。
「あ~もううっさいなぁ……はぁ……」
私は二人にため息をつきながら、再びストローに口をつけた。この二人といると、いつもこんな感じだ。でも、嫌いじゃない。
むしろ、こういう他愛のない時間が、私には必要なのかもしれない。バンド活動も大事だけど、普通に友達と過ごす時間も大切だから。
「……んで、お目当ての子はおったん?」
八重がこめかみをさすりながら私に尋ねてきた。さっき電話で「オクトーレにちょっと用事がある」って言った時に、なぜか八重と千絵も一緒についてくることになったのだ。
まあ、一人で来る勇気がなかったから、結果的には良かったんだけど……。
「いたけど、どっか行っちゃった……」
私は不満げに呟いた。せっかく来たのに、演奏どころか、あんな修羅場を目撃することになるなんて。
もういなくなっちゃったみたいだけど、あの女の子、大丈夫かな……かんりショック受けてたみたいだけど。でも、私が声をかけるのも変だよね……。
「ありゃ……ピン子あんだけ楽しみにしとったのに、そりゃ残念やったな」
八重がそう言った時だった。
「ねえ、君たち」
突然、背後から男の声がかかった。私たち三人は一斉に声の方に振り向く。
そこには、紺色のスーツを着た見慣れない三十代くらいの男性が立っていた。整った髪型に、少し緊張したような表情。でも笑顔を作ろうとしているのが分かる。
なにこの人……?ナンパ?それとも変な宗教の勧誘?最近物騒だし、気をつけないと……。でも、スーツ着てるし、見た目はまともそうだけど……。
「怪しい者じゃないんです、すみません急に声をかけて」
男性が慌てたように胸ポケットから一枚の名刺を取り出して、私たちに見せてきた。
「あ、ごめんなさい。僕はこういった者でして……」
苦笑いを浮かべながら、名刺を差し出してくる。手が少し震えているのが見えた。
あれ?この人、緊張してる?私たちの方が警戒してるのに、なんで向こうが緊張してるの?変なの。
「なんや知らんけど、とりあえず見せて。怪しかったら通報したるからな」
八重が半分冗談、半分本気の口調で男性から名刺を受け取って、じっくりと眺める。その間も八重の目は鋭く、まるで査定でもしているみたい。
「マーメイド芸能プロダクション……代表取締役、田中一郎……」
八重が名刺を読み上げながら、眉をひそめた。
「なんや、おっちゃん、芸能事務所の人なん?うちら、まだ未成年やで?大丈夫なん、そんなんで?」
「お、おっちゃん……僕、まだ三十三歳なんですけど……」
男性が少しショックを受けたような顔をする。確かに見た目は若いけど、私たちから見れば十分大人だもんね。
「三十三って、もうおっちゃんやん。うちのおとんとたいして変わらへんがな」
八重がけらけら笑いながら言う。男性の顔がさらに曇った。可哀想……でも、ちょっと面白い。
「あ、いや、そうです、芸能事務所をやってまして……君たちバンドか何かやってるの?」
男性の目がキラキラと輝いた。まるで宝物を見つけたような表情だ。でも、なんで私たちがバンドやってるって分かるんだろう?
「何でバンドって分かるん?」
八重が疑り深そうに聞く。
「あー、その……直感というか、雰囲気というか……長年この仕事やってると分かるんですよ」
男性が曖昧に答える。怪しい……でも、確かに私はギターケース持ってるし、そこから推測したのかな。
「いや~、本当に可愛い子たちだったから、つい目が行っちゃってね。スカウトマンの職業病かな、ハハハ……失礼ですけど、三人とも本当に美人さんで……特に君」
男性が私の方を見て言う。
えっ?私かよ……。
「君の雰囲気、すごくいいですね。クールで知的で、でもどこか影がある感じが孤高みたいな……」
男性が私を見つめながら言う。その視線が少し重い。
うっ、なんかキモイんだけど……褒められてるのは分かるけど、見知らぬおじさんにじっと見つめられるのって、すごく嫌な感じ。
「君たち、ミュージシャンとか芸能界とか興味ない?きっと人気出ると思うんだけどなあ。特に君たち三人でアイドルグループとか組んだら、絶対売れるよ」
男性が熱っぽく語る。でも、アイドルって……勘弁してよ。
「でも僕たちの事務所、新人発掘には定評があるんです。最近も何組かデビューさせて、みんな順調に……」
男性がまくし立てるように話し始める。でも……。
「もぐもぐ……この肉まん、中の具が少ない……もぐもぐ……でも皮は美味しい」
千絵は完全に無視して、肉まんを黙々と頬張りながら文句を言っている。この状況でも食べ物のことしか考えてない。ある意味すごい。
私も男性の方は見ずに、爪に塗ったピンクのマニキュアをじっと眺めていた。この色、思ったより可愛く仕上がったかも。でも、もう少し薄い色の方が良かったかな……。
「あの、聞いてます?本当にいい話だと思うんですけど……」
男性が不安そうに私たちの反応を伺う。でも、私たちの態度を見て、だんだん自信がなくなってきているのが分かる。
「あ~、はいはい。ありがとうございます~。お気持ちだけいただいときます」
八重がのんびりとした口調で答える。その声のトーンが、明らかに「興味ありません」って言ってる。
「じゃあ後で連絡しま~す。忙しいんで、今日はこれで」
「え?本当ですか?あ、うん。ぜひぜひ前向きに検討してもらって……連絡先はその名刺に書いて……」
男性が喜んだように言いかけた時、八重がさっと手のひらを男性の前に突き出した。
「後で、言うてますやん。今は友達と大事な話してるんで、お邪魔せんといてもらえます?」
八重の関西弁が、いつもより少しキツい感じに聞こえる。普段の八重は人懐っこいけど、嫌なことははっきり断るタイプだから。
「あ、そうですね。でも本当に良い話だと思うんで、ぜひ検討を……」
男性がまだ諦めきれない様子で食い下がろうとする。しつこいな、この人。
「だから、後で言うてるやろ?日本語分からへんのん?」
八重の声が一段と厳しくなる。さすがに男性も諦めたのか、肩を落とした。
「ほなね~。お疲れさん」
八重が男性に向かって手をひらひらと振って見せる。明らかに帰れという合図だった。
「あ、ああ……そうですね、すみません。お邪魔してしまって……また機会があれば……」
男性がしょんぼりとした表情で席を立ち、とぼとぼとその場を去っていく。後ろ姿がなんだか可哀想に見えた。でも、しつこかったから仕方ないよね。
八重は男性の姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、手に持っていた名刺をくしゃくしゃと丸めて、近くのゴミ箱に向かって投げた。
ポイッ。
見事にゴミ箱の中に入る。
「ナイッシュ~っ!八重ちゃん天才や!」
八重が自分で自分を褒めながら、ガッツポーズでどや顔を決める。その表情がおかしくて、思わず笑いそうになった。
「はいはい、天才天才。でも、あんな風に断って大丈夫?一応、業界の人かもしれないし……」
私は少し心配になって聞いてみた。音楽業界って狭いから、変な噂とか立ったりしないかな。
「大丈夫大丈夫。あんなん、どうせ怪しい事務所やって。まともな事務所やったら、もっとちゃんとしたアプローチしてくるし」
八重が手をひらひら振りながら答える。
「だいたい、もう間に合っとるちゅうねん。なあ、ちぃ?」
八重が千絵の方を向いて言う。千絵はクレープを食べながら、こくこくと頷いた。
「そやそや。ちぃも分かっとるやん」
そう、八重の言う通りだった。文字通り、もう間に合っている。
私たちは全員同じ高校でバンドを組んで、既にCANARYというバンド名でメジャーデビューしている。デビューの頃から顔出しはしていなかったので、今でもそのまま顔見せNGで活動しているため、たまにこういった声がかかることがあるのだ。
でも、今のプロダクションには満足してるし、何より私たちのペースで音楽ができている。今更他の事務所に移る必要なんてない。それに、あの人みたいに「アイドルグループ」とか言っちゃう時点で、私たちの音楽性とはかみ合わない。
「にしても、うちらもそろそろライブやで?こんなとこで油売っとらんで、早くスタジオ行った方がええんちゃう?マネージャーさんにも怒られるし」
八重が腕時計を見ながら言う。確かに、今日は楽曲の最終チェックをする予定だった。ライブも控えてるし、ちゃんと練習しないと。
「うっ……わ、分かってるわよ。でも……もう一度聴きたかったんだから、仕方ないじゃん」
私は拗ねた口調で言い返した。せっかくここまで来たのに、演奏を聴けずに帰るなんて……。今日のために、わざわざスケジュール調整したのに。
「おっ、なんやなんや、初恋少女みたいな顔しおってからに。ピン子、まさか……」
八重がいたずらっぽい顔で私の顔を覗き込んでくる。その距離が近すぎて、思わず後ずさりしてしまった。
「う、うっさいなあ!そんなんじゃないってば!」
私は慌てて否定する。でも、顔が熱くなってるのが自分でも分かる。
「八重たちだってあの音を聴いたら分かるわよ。本当にすごいんだから。音楽に対する愛情というか、情熱というか……とにかく、今まで聴いたことないような演奏なんだから」
「ふ~ん。そんなにすごいんか?でもピン子が言うなら、きっとホンマにすごいんやろうな」
八重が興味深そうに首をかしげる。
「ピン子も昔ピアノやってたんやろ?コンクールで賞取ったこともあるし、そのピン子が言うんやから、間違いはなさ──」
八重がそこまで言いかけた時だった。
――ポロン
単音が一つ、静寂を破って響いた。
ハッとして、私は二階のフードコートの手すりから階下を見下ろした。
いた。あの子だ。戻ってきたんだ。
彼が、再びピアノの前に座っている。さっきの修羅場は何だったんだろう……でも、とにかく戻ってきてくれた。今度こそ、今度こそ演奏を聴ける。
「あ、もしかして、あの子がピン子の言うてた子なん?高校生っぽいな」
八重も私に近づいてきて、一緒にピアノ広場を見下ろす。
「うん……あの子。確か優斗君って」
私は小さく頷いた。胸の鼓動が早くなっている。名前まで知ってるなんて、八重に知られたら絶対からかわれる。
「優斗君~?名前まで知っとるやん。これは完全に恋やな、ピン子」
案の定、八重がにやにやしながら言う。
「違うってば!たまたま聞こえただけ!勘繰んな!」
そして、演奏が始まった。
低音域から響く重厚な和音。深く沈み込むような音色が、建物全体を震わせるように響く。それは私たちの楽曲「Luminous」のイントロだった。
でも、原曲とは全く違うアプローチ。彼は最初から、ゆったりとしたテンポで、まるで祈りを捧げるような神聖さを込めて弾いている。
最初の数小節を聴いた瞬間、私の体が震えた。これは……。
「うそ……これ、もしかしてうちらの……!」
八重が驚きの声を上げる。
「これ……私たちの曲じゃん……」
千絵も慌ててクレープを置いて、手すりのところまで来た。珍しく食べ物より音楽に興味を示してる。
そう、八重が驚くのも無理はない。今、彼が弾いているのは、彼が弾いていたいつものクラシックではなく、私たちの楽曲「Luminous」だった。
でも、このアレンジ……この解釈……。
右手で奏でられるメロディーラインは、原曲よりもはるかに表情豊か。一つ一つの音符に込められた感情が、まるで言葉のように心に響いてくる。
レガートで滑らかに繋がれた旋律が、時には切ないほどに美しく、時には力強く希望に満ちて歌い上げられる。
左手のバスラインは、原曲の単純なコード進行を、複雑で深みのあるハーモニーに変化させている。アルペジオで奏でられる分散和音が、まるで光の粒子が舞い踊るような軽やかさと、同時に深い安定感を与えている。
曲が進むにつれて、テンポが徐々に上がっていく。アッチェレランドの技法で、聴く者の心を自然と高揚させていく。
そしてサビの部分――。
フォルテッシモで響く力強い和音の連続。両手で奏でられる厚いハーモニーが、まるでオーケストラの全楽器が一斉に鳴り響くような迫力を生み出している。
高音域で輝くように響くメロディーラインが、低音域の重厚な伴奏の上を駆け抜けていく。スタッカートとレガートが巧妙に組み合わされ、音楽に立体感と躍動感を与えている。
ショッピングモールの空間全体が、彼の音楽で満たされていく。人々の足音が止まり、話し声が途絶える。
二階のフードコートからも、一階の通路からも、人々が集まり始めている。買い物袋を持った主婦、制服姿の学生、スーツを着たサラリーマン……年齢も性別もバラバラな人たちが、みんな同じように優斗君の演奏に魅入られていた。
クレッシェンドで徐々に音量を上げながら、曲は最高潮へと向かっていく。彼の指が鍵盤の上を縦横無尽に駆け巡り、複雑なパッセージを軽やかに、それでいて確実に奏でていく。
そして、最も盛り上がる部分で――。
全ての音が一つになって響く瞬間。フォルティッシモの圧倒的な音圧が、空間を支配する。でも、それは決して騒々しいものではなく、美しく調和の取れた、感動的な響き。
人々から自然と拍手が起こる。演奏の途中なのに、あまりの素晴らしさに感動を抑えきれなくなったのだ。
「カッコイイ!」
「すごっ、今のLuminousだよね?」
「私CANARY好き~」
観客の声が響く。
そして再び、静寂。誰もが次の展開を待っている。
優斗君は一瞬手を止めると、今度はピアニッシモの繊細なタッチで、まるで夜明けの静寂を表現するような、透明で美しい旋律を奏で始めた。
「す、すごっ……なんやこれ……まるで、うちらが演奏してるみたいやん……いや、それ以上や……」
八重が言葉を失っている。普段は軽口ばかり叩いてる八重が、こんなに真剣な顔をするなんて珍しい。
「これ、本当にうちらの曲?何か、全然違う曲みたいに聞こえるけど……」
千絵が呟く。確かに、メロディーは同じだけど、彼が込めた感情と技術が加わることで、まったく別の楽曲になってる。
いつの間にか、食べることにしか興味がなかった千絵も、クレープを手に持ったまま、じっと彼の演奏に夢中になっていた。その瞳には、いつもの無表情とは違う、何か深い感動が浮かんでいる。
そして私も……。
すごい。やっぱりこの子の演奏は、聴く人の心を魅了してやまない。でも、なんだろう……以前聴いた時よりも激しい気がする。それに、明るい曲のはずなのに、どこかもの悲しさも感じてしまう……不思議だ。
まるで、彼自身の心の叫びが、音楽に込められているような……そんな感じがする。
一番聴き慣れたはずの私でさえ、まるで初めて聴いたような新鮮さを感じている。
この子……一体何者なんだろう。どうしてこんなに深く理解してくれるの?
私の心に、様々な感情が湧いてきた。
知りたい。もっと彼のことを。彼がどんな人で、どんな音楽が好きで、どうして演奏を始めたのか。
聴きたい。もっとこの音を。彼が奏でる音楽を、もっとたくさん。
感じたい。この音楽をもっと近くで。同じ空間で、同じ時間を共有したい。
そして……話したい。この人と。音楽について、たくさん語り合いたい。
彼の演奏を聴いてると、なんだか胸がキュッとする。
その瞬間、私の体が勝手に動いていた。
「ちょっ、ピン子!?どこ行くん!?」
八重の声が背後から聞こえたけれど、私はもうその声を聞いていなかった。
階段に向かって走り出していた。
胸の鼓動が激しくて、息が荒くなっている。でも、止まれない。今度こそ、今度こそ彼と話すんだ。
もう逃がさない。今度こそ、絶対に。
優斗君の演奏が、まだ続いている。その美しい音色が、私の背中を押してくれているような気がした。