第71話 星の別れ道
暗い部屋の片隅で、私は毛布を頭からすっぽりとかぶって、壁際で体育座りをしていた。カーテンを閉め切った部屋には、夕方だというのに薄暗い影がべったりと張り付いている。時折聞こえる車の音や、遠くから響く子供たちの声が、なんだかとても遠い世界のもののように感じられた。
瞼が腫れぼったくて重い。さっきまで泣いていたのが自分でもよく分かる。鼻も詰まって、息をするのもなんだか苦しい。でも、もう涙は出ない。枯れてしまったみたいに、ただぽっかりと空っぽな感覚だけが胸の奥に広がっている。
ふと、さっきの出来事が頭の中で蘇ってきた。
優の顔。あんなに悲しそうで、それでいて怒りと失望に満ちた表情を、私は見たことがなかった。
「真珠……君は、僕の音の……邪魔だ」
その言葉が、何度も何度も頭の中でリピートされる。まるで呪いの言葉みたいに、私の心に深く刻み込まれて離れない。
「待って優!お願い、誤解だから……!優、優ってば!」
私はあの時、必死に声を上げて優を呼んだ。でも、優は振り返ってくれなかった。真っ直ぐ前を向いたまま、あの場を去っていった。その後ろ姿があまりにも冷たくて、私はその場に座り込んでしまった。
膝がガクガクと震えて、立ち上がることができなかった。ショッピングモールの冷たい床に座り込んで、通り過ぎる人たちの視線を感じながら、私はただ呆然とそこにいた。
そこに駆けつけてきたのが、ママとカルマ君だった。
「真珠!大丈夫?何があったの?」
ママの心配そうな声が聞こえたけど、私はうまく答えることができなかった。ただ「優が……優が……」って繰り返すばかりで。
カルマ君は黙って私の隣にしゃがみ込んで、そっと肩に手を置いてくれた。その温かさが、なぜかとても申し訳なくて、また涙が溢れてきた。
今日は本当は、ママとお買い物をする約束だった。以前お願いしていた新しいステージ衣装を見に行こうって、昨日の夜に話していたのに。
でも、待ち合わせ場所に現れたのはママじゃなくて、カルマ君だった。
「え?カルマ君?どうして…?」
慌てて携帯でママに電話をかけた時の、あの時の会話を思い出す。
『あ、真珠?ごめん、びっくりしちゃった?実は最初から、あなたとカルマ君を二人きりにしようと思って』
『え……?』
『あの子、あなたのことをとても大切に思ってるのが分かるし、真珠だって……』
『ちょっと待ってよママ!そんなの勝手すぎるじゃない!』
電話越しのママの声は、いつもより小さくて申し訳なさそうだった。でも、もう取り返しがつかない。カルマ君は私の隣でいつものように笑顔を浮かべているし、私はどうしていいか分からなくて。
それからのことは、正直あまりよく覚えていない。一階にいるらしいママを探しに、カルマ君と話をしながらエスカレーターに乗った。
彼はいつも通り優しくて、私の話を丁寧に聞いてくれた。でも、心のどこかで優のことばかり考えていた。
そして、あの場面に遭遇してしまった。優がショッピングモールにいるなんて、想像もしていなくて。
家に帰った後、私はママに散々文句を言った。
「なんで勝手にそんなことするの!私には私の気持ちがあるのに!」
「お母さんのバカ!」
「もう知らない!」
言いたくないことまで口に出してしまって、ママを泣かせてしまった。でも、その時の私は怒りと悲しみでいっぱいで、止めることができなかった。
そして部屋に駆け込んで、扉にカギをかけて、一人きりになった。
どうして……どうしてこんなことになったの……。
私は千秋ちゃんに、あんな偉そうなことを言った。『私は優を幸せにしてあげたい』って。
でも結局、何をやってるんだろう。
優を幸せにできていないのは、私の方だった。これまでずっと傷ついてきた優を、今度は私がたくさん傷つけてしまった。
もう嫌だ……泡になって消えてしまいたい……。
「うぅっ……」
また涙が溢れてきて、毛布の中で小さく嗚咽が漏れた。
その時、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「真珠……さん?」
カルマ君の声だった。ママが呼んだのかもしれない。
私は慌てて涙を拭った。でも、声がまだ震えていて、うまく話せそうにない。
「……な、何……?」
やっとの思いで返事をする。
「少しは落ち着きましたか……?」
扉越しに聞こえるカルマ君の声は、いつも通り穏やかで優しかった。そんな優しさが、今の私には逆に辛い。
「う、うん……少しだけ」
嘘だった。全然落ち着いていない。頭の中がグチャグチャで、何が何だか分からない状態だった。
「しかし……優斗君も、あそこまで言う必要はなかったと思うんですが……あれでは真珠さんがあまりにも可哀想です」
カルマ君の言葉に、私は思わず身を起こした。
「そ、そんなことない!悪いのは私よ!私が優を傷つけたんだから……」
そう、悪いのは私だ。あれだけ優に約束したのに、結局私は優を裏切るようなことをしてしまった。
「そうでしょうか?僕なら、好きな相手のことはもっと信じる自信がありますよ。少なくとも、落ち着いて最後まで話を聞く姿勢くらいは持ちます……そういう意味では、彼は真珠さんのことを信用していなかったのでは?」
その言葉に、私の胸がドキリと痛んだ。
信用していなかった……?優が、私のことを……?
「そ、そんなことは……」
言葉が詰まってしまう。確かに優は、私の話を最後まで聞こうとしなかった。『誤解だから』って言おうとしたのに。最後まで、聞いてほしかった……。
「真珠さん……自分ばかりを責めるのは簡単です。全てを自分のせいにして終わらせてしまえば、この話はそれで終わりですから。でも、それで本当にいいんでしょうか?」
「いいって……何が?」
「優斗君のためにならない、ということですよ」
優のため……?
「彼が傷つくたびに、そうやって真珠さんが自分を犠牲にするつもりですか?それでは優斗君はいつまで経っても成長できません。真珠さんは彼のことを想っているつもりでも、実際は縛り付け、依存させているようにしか、僕には見えませんが……」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
私が……優を縛り付けている……?
「優を縛りたいなんて思ってない……今まで縛り付けられてきたからこそ、優には誰よりも自由でいて欲しいもん……」
私の声が震えている。本心だった。優には自由になって欲しい。誰にも束縛されないで、自分の好きなように生きて欲しい。
「それなら……今だからこそ、真珠さんの気持ちを彼に押し付けるべきではないと思うんです。誤解を解きたいという気持ちは分かりますが、それは真珠さんの気持ちですよね?本当に彼のことを思うなら、彼が自分で道を切り開けるよう見守ることも大切です。本当の自由を与えたいのであれば……ね」
カルマ君の声は相変わらず穏やかで、まるで一つ一つの絡まった糸を丁寧にほどいていくように、私の混乱した心に響いてきた。
何が正しくて、何をすればいいのか分からない。全てが空回りしているようで、自分でも冷静になれない。でも、カルマ君の言葉だけが、なぜかとてもクリアに聞こえてきた。いや、そう錯覚したのか、それとも、自分からそう錯覚したいのか……。
「私が……優を縛っていた……」
その言葉が、自然と口から漏れた瞬間だった。
「おい真珠!出てきやがれ!」
突然、外から怒鳴るような声が聞こえてきた。北斗の声だ。
私は慌てて毛布から抜け出して、窓際に駆け寄った。カーテンをそっと開けて外を覗くと、門の向こうに私服姿の北斗が立っているのが見えた。
「北斗……」
私は振り返って、慌てて部屋を出ようとした。扉の前に立っていたカルマ君に軽く頭を下げて、階段を駆け下りていく。
一階に降りて、玄関で慌てて靴を履く。心臓がバクバクと鳴っている。北斗が来てくれた。きっと優から連絡があったんだ。
扉を開けると、夕方の涼しい風が頬を撫でていった。私は北斗のもとへ、小走りで駆け出していた。
「北斗!」
私は期待を込めて名前を呼びながら、門のところまで駆けていった。きっと優のことで何か分かったことがあるんだ。もしかしたら、誤解を解く方法を教えてくれるかもしれない。
でも、北斗の表情を見た瞬間、私の期待は音を立てて崩れ落ちた。
いつもの北斗なら、軽い調子で返事をしてくれるはずなのに、今日の北斗はどこか不機嫌そうで、眉間にしわを寄せていた。金髪の前髪が夕風に揺れて、その奥の瞳が普段より鋭く光っている。
「ほ、北斗……?」
私はもう一度、今度は不安を込めて名前を呼んだ。
「お前、スマホの充電切れてんぞ……」
北斗は苦々しそうに言うと、ジーンズのポケットから自分のスマホを取り出して画面を見せた。
「それと、優から電話があった……」
その言葉に、私の心臓がドキンと跳ねた。
「優から?」
思わず身を乗り出す。優が……優が北斗に電話をかけてきた?何て言ったんだろう。私のこと、何か言ってた?
「ああ……泣きながらな」
北斗の表情がさらに険しくなる。ジャケットの胸元で腕を組んで、まるで私を見定めるような目つきで続けた。
「お前とショッピングモールで会ったって、それしか言わねえから……いったい何のことかさっぱり分かんなくてよ。一体何があったって――」
そこまで言いかけて、北斗の言葉がぴたりと止まった。私ではなく、私の背後の方に視線を向けている。その瞬間、北斗の顔つきが明らかに変わった。
私は慌てて振り返った。
そこには、私の家から出てきたカルマ君の姿があった。白いシャツにデニムのジャケット、いつものように整った身なりで、穏やかな表情を浮かべている。でも、今この状況でカルマ君が家から出てくるのを見られるのは……。
「ああ〜……」
北斗の声が、低く重いものに変わった。
「オッケーオッケー……そういうことかよ……くそったれ!」
その瞬間、北斗は私を突き放すように手で押しのけて、カルマ君の方へ向かって歩き始めた。その歩き方が、いつもの北斗とは全然違う。肩を怒らせて、拳を握りしめて、明らかに喧嘩を売りに行く時の歩き方だった。
「北斗、ちょっと待って!」
私は慌てて二人の間に駆け込んだ。これはまずい。北斗の性格は知っている。一度火がついたら、本当に手が出る。
「落ち着いて!カルマ君は関係ないから!」
「関係ないだと?」
北斗が私を見下ろす。その目が、今まで見たことがないくらい冷たい。
「じゃあ……誰が優を泣かせた……?」
「それは……」
言葉に詰まる。確かに状況だけ見れば、誤解されても仕方がない。でも、本当に何もないのに……。
その時だった。北斗が無言のまま右腕を振りかぶっていた。
「やめて!」
私は無我夢中で北斗の腕にしがみついた。北斗の拳がカルマ君の顔のすれすれで止まる。あと数センチ……もう少し反応が遅れていたら、本当に殴っていたかもしれない。
カルマ君は表情一つ変えることなく、静かに北斗を見つめていた。微動だにしない。まるで、この状況に慣れているかのように、冷静そのものだった。
北斗がゆっくりと私の方を振り返る。
「ああん……?何でこんな奴庇ってんだ……?」
その声は、いつもの北斗とは全く違っていた。今まで見たことがないくらい冷たくて、怒りに満ちていて……怖かった。北斗がこんな表情をするなんて。
「ち、違うの……私が全部悪くて……!」
私は必死に言葉を探した。でも、何と言っていいか分からない。今日起きたこと全部を説明するには、あまりにも複雑すぎて。
「真珠さん……」
その時、カルマ君が静かに私の名前を呼んだ。振り返ると、彼はゆっくりと首を横に振っている。
その瞬間、さっきカルマ君が部屋の前で言った言葉が頭の中で蘇った。
『本当の自由を与えたいのであれば……ね』
私の頭の中が、またぐちゃぐちゃになってきた。
私は何をやってるんだろう。優を傷つけて、北斗も怒らせて……みんなを不幸にしているだけ……。
「私……私、分からないの……」
気がつくと、そんな言葉が口から漏れていた。
「何が正しいのか、何をすればいいのか……全部分からなくなっちゃった……」
「わ、私……今頭が回ってなくて……自分でもどうしたらいいのか……だから何て言っていいか分かんないんだけど……」
言葉がうまく出てこない。苦しくて、辛くて、悲しくて……まるで出口のない迷路をずっと彷徨っているような感覚だった。
そして、気がついた時には、こんな言葉が口から漏れていた。
「私……優の側にいない方が……いいの、かな……?」
私はゆっくりと北斗の顔を見上げた。
その瞬間、北斗の表情が唖然としたものに変わった。目を見開いて、まるで信じられないものを見るような顔をしている。
そして次の瞬間、北斗は下唇をぎゅっと噛みしめた。私とカルマ君を交互に見てから、私の腕を乱暴に振りほどいた。
「ほ、北斗……?」
私は呼びかけたけれど、北斗は振り返らない。
「真珠……」
北斗の声が、氷のように冷たかった。
「お前、しばらくステラノートに関わんな……」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「お前がそのつもりなら、優は……俺が守る」
「え……なんで!?なんでそうなるのよ!」
私は慌てて北斗に駆け寄った。でも、北斗は歩きながら言った。
「北斗、待って!」
私は北斗の腕を掴もうとしたけれど、北斗はその手を振り払った。そして立ち止まると、私を睨みつけた。
「だったら今すぐ優に、今回のこと全部説明しろ……」
その言葉に、私の体が固まった。
優に説明する……。
そう思った瞬間、体が硬直するのが分かった。まるで本能がそれを拒むような感覚。
「それは……できない……言いたく……ない」
そう答えた瞬間、私は自分の言葉にハッとした。私、いま何て……。
「あっ……!?」
思わず口元を手で押さえる。北斗を見ると、彼女はもう何も言わずに背中を向けていた。
「北斗!待ってよ!」
私は必死に呼びかけたけれど、北斗は振り返ることなく歩いて行ってしまった。その後ろ姿がどんどん小さくなって、やがて角の向こうに消えていく。
なぜ……なぜ『うん』って、たったその一言がまた言えなかったんだろう。まるで呪いにかかったように、私の心を何かが縛っているような感覚だった。
なんで……なんで、こんな時に私……。
膝から力が抜けて、その場にペタンと座り込んでしまった。また涙が溢れてきて、止まらない。
全部だめになった。優からは『邪魔だ』って言われて、北斗からは『関わるな』って言われて……私、一体何がしたいの……。
その時、背後から温かい手が私の肩にそっと触れた。
「カルマ……君……?」
涙でぼやけた視界を振り返ると、そこには優しく微笑むカルマ君の姿があった。夕暮れの光が彼の後ろから差し込んで、まるで光の中から現れたみたいに見えた。
「響さんが心配していますから……家に戻りましょう、真珠さん……」
カルマ君の声は相変わらず穏やかで、優しかった。私はゆっくりと頷いて、立ち上がろうとした。でも、足に力が入らない。
カルマ君が私の腕をそっと支えてくれて、私は彼に寄りかかるようにして立ち上がった。
家の中へ向かいながら、私はもう一度振り返った。北斗が去っていった角の向こうを見つめる。でも、もう彼女の姿はどこにもなかった。
夕暮れの空が、薄い紫色に染まって、一日の終わりを告げている。でも、私の心の中では、何かがまだ終わらずに、重くのしかかっていた。
カルマ君に促されるまま、私は静かに家の中へと戻っていった。扉が閉まる音が、小さく響いた。