第70話 Shutout
梅雨特有の湿気が校舎に重くのしかかり、廊下の窓から見える空は今にも雨を降らせそうな鈍色に染まっていた。六月も終わりに近づいて、夏の足音が聞こえてくる季節なのに、俺の心はまるで梅雨明けを待ちわびる空のように、どんよりと晴れない日々が続いている。
渋谷マークシティでのあの日から、もう一週間が過ぎようとしていた。
あの時、真珠に「話がある」と言われて、結局何も話せずに終わってしまった。それからというもの、俺たちの間には見えない壁ができてしまったような気がする。授業中に振り返っても、真珠は俺の視線に気づかないふりをして、ノートに向かっている。休み時間に話しかけようとしても、なぜかタイミングが合わなくて、気がつくと彼女の姿は教室から消えている。
そして今日もまた、放課後のチャイムが鳴ると同時に、真珠は素早く荷物をまとめ始めた。
十日後には、いよいよ生放送ライブが控えている。メジャーとしては一番大きなステージだ。本来なら真珠と一緒に準備を進めて、お互いに励まし合いながら本番に向けて気持ちを高めていきたいところなのに……。
このままでいいのだろうか。
流石に意地を張りすぎているような気もするし、何より真珠のあの困ったような顔を見ているのが辛い。俺だって、本当は彼女と普通に話したいんだ。
よし、今日こそちゃんと話してみよう。
そう心に決めて、俺は真珠の様子を窺った。彼女は相変わらず慌ただしく荷物をまとめているけれど、いつもより少しゆっくりとした動作に見える。もしかして、俺の視線に気づいているのかもしれない。
教室内の生徒たちが三々五々と帰り支度を始める中、俺は机の上に置いていた筆記用具をゆっくりと筆箱にしまった。焦ってはいけない。自然に、でも確実に真珠に声をかけるタイミングを計る必要がある。
真珠が席を立って教室の出口に向かう。今だ。
「し、真珠!」
俺の声が教室に響いた瞬間、真珠の足がピタリと止まった。ゆっくりと振り返る彼女の表情は、まるで何かに怯えているような、それでいて申し訳なさそうな顔だった。
「ゆ、優……」
彼女の声は小さくて、聞き取るのがやっとだった。真珠は俯いて、自分の足元を見つめている。その様子を見ていると、胸がチクリと痛んだ。
やっぱり今日も、あの用事があるんだろうな……。
ここ最近の真珠の行動パターンを思い返すと、大体の予想はついてしまう。でも、それでも聞かずにはいられなかった。
「あの……今日も……用事があるの?」
できるだけ自然に聞いたつもりだったけど、自分の声が少し震えているのがわかった。真珠の反応が怖い。また適当にごまかされて、結局何も話せずに終わってしまうのではないかという不安が頭をよぎる。
すると真珠は、まるで何かに取り憑かれたように激しく首を横に振り始めた。
「う、ううん!違う、違うの!今日はママと買い物に行く予定なの!ほ、本当に!嘘じゃないから!」
その必死さに、逆に俺は戸惑ってしまった。なぜそこまで強く否定する必要があるんだろう。普通に「今日は買い物」と言えばいいのに、まるで何か後ろめたいことでもあるかのような反応だった。
真珠の白金色の髪が、慌てて首を振る度に揺れている。その髪に夕日が差し込んで、まるで光の粒子が舞っているように見えた。でも、その美しい光景とは裏腹に、俺の心の中にはもやもやとした疑問が渦巻いている。
「なあ……その……」
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「真珠の用事って、いったい何なの?」
改まって聞いた俺の問いに、真珠は完全に黙り込んでしまった。いつかの放課後と全く同じ状況だ。話しにくそうに唇を噛んで、言葉を濁している。
なんでそこまで……俺に話せないことって、一体何なんだ?
「そ、それは……」
真珠の声が震えている。何かを言いたそうなのに、言葉が出てこない様子だった。見ていて辛くなってくる。
「そんなに俺には話せないこと……なの?」
俺の声も、自然と寂しそうな調子になってしまった。本当は責めるつもりなんてないのに、なぜか責めているような口調になってしまう。
その瞬間、真珠がハッとして顔を上げた。
その表情は、まるで深く傷ついた小動物のような、悲痛なものだった。そして、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
え……まさか、泣いてる?
俺は慌てて身を乗り出そうとしたけれど、真珠の次の言葉に固まってしまった。
「ごめん……なさい。優にだけは……言えない」
震える声でそう言った真珠の表情は、本当に申し訳なさそうで、それでいて何かを必死に堪えているようにも見えた。
「お、俺にだけって……なんだよそれ!」
思わず声が大きくなってしまった。教室にいた数人の生徒が、こちらを振り向く。
「意味分かんないよ!なんで俺にだけ話せないんだ?」
俺の声に、真珠がびくりと肩を震わせた。その様子を見て、俺は自分が声を荒げてしまったことを後悔した。
「あ!ご、ごめん……」
慌てて謝る俺に、真珠は小さく首を振った。
「私にも分からないの……」
その声は、さっきよりもさらに小さくなっていた。
「でも、優にだけは言いたくない……言っちゃダメなの。本当に、ごめんなさい」
思いつめたような表情で、真珠がそう言った。その顔を見ていると、これ以上問い詰めるのは酷だという気がしてきた。
でも、ますます意味が分からない。俺にだけ話せない理由なんて、一体何があるんだろう。もやもやした気持ちが胸の中で渦巻いているけれど、真珠のあの落ち込んだ姿を見ていると、それ以上追求する気力が失せてしまった。
「分かった……もう聞かないよ……」
俺は諦めたように呟いて、真珠に背を向けた。このまま立ち去ろう。きっと真珠も、俺がいなくなった方が楽になるだろう。
足を向けかけたその時——
「待って!」
背後から真珠の声が響いた。同時に、温かな感触が俺の右手を包んだ。
真珠が、俺の手を握っている。
「え?な、なに?」
久しぶりに感じる真珠の手の温もりに、俺の心臓が跳ね上がった。反射的に手を引っ込めようとしたけれど、真珠はその手をしっかりと握って離そうとしない。
それどころか、真珠は俺の手をまじまじと見つめ始めた。まるで何かを確かめるように、じっと見つめている。
何をしているんだろう?
「やっぱり……」
真珠が独り言のように呟いた。その声には、何か複雑な感情が込められているようだった。
「え……?やっぱりって、何が?」
俺が聞き返すと、真珠は慌てたように俺の手を離した。
「あ、ご、ごめん!」
顔を真っ赤にしながら、真珠が手をひらひらと振る。
「じゃ、じゃあ私もう行くね!ママ待たせてるから……」
そう言うと、真珠は俺に軽く手を振って、そのまま走り去っていってしまった。教室の出口を抜けて、廊下の向こうに消えていく彼女の後ろ姿を、俺はただ呆然と見送るしかなかった。
静かになった教室で、俺は自分の右手をじっと見つめた。さっきまで真珠が握っていた手のひらには、まだ彼女の体温が残っている気がする。
「やっぱり」って、一体何だったんだろう。
真珠の最後の表情を思い返してみても、やっぱり意味がわからない。でも、なぜかあの時の彼女の目には、悲しみとは違う、もっと複雑な感情が宿っていたような気がした。
俺は深くため息をついて、ゆっくりと教室を後にした。廊下の窓から見える空は、さっきよりもさらに暗くなっている。もうすぐ雨が降り出しそうだった。
八王子オクトーレの一階は、いつものように多くの人で賑わっていた。平日の夕方だというのに、学生やサラリーマン、家族連れなど様々な人たちが行き交っている。ショッピングモールの中央に設置されたストリートピアノの周りには、今日も小さな人だかりができていた。
現在そのピアノを弾いているのは、大学生らしきカップルだった。男性が主旋律を、女性が連弾でハーモニーを奏でている。選曲はポピュラーな映画音楽で、聞き覚えのあるメロディーが空間に響いている。二人の息もぴったりで、見ている方も微笑ましくなるような演奏だった。
俺と拓哉は、そのピアノから少し離れたベンチに腰を下ろして、順番を待っていた。拓哉は相変わらずカメラを抱えていて、時々レンズのキャップを外しては角度を確認している。その集中した横顔を見ていると、本当に撮影が好きなんだなということが伝わってくる。
空調の効いた館内は心地よく、外の蒸し暑さを忘れさせてくれた。天井から吊り下げられた大きなモニターには、オクトーレ内のテナント情報が流れている。平日ということもあって、どこか落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「なあ、優斗?」
横に座っていた拓哉が、急に俺の方を向いて声をかけてきた。カメラから視線を外して、真剣な表情で俺を見ている。
「なに?どうしたの?」
俺も拓哉の方を向き直した。彼がこんな真面目な顔をするのは珍しい。何か重要な話でもあるのだろうか。
「お前の演奏、本当に上手いと思うんだよ」
拓哉がそう切り出した。
「でもさ、毎回クラシックの曲ばっかり弾いてるじゃん?……確かにすげぇ綺麗で、聞いてると鳥肌立つんだけど」
彼の言葉に、俺は少し首をかしげた。確かに、俺がストリートピアノで演奏する曲は、大抵クラシックの名曲だ。それが何か問題でもあるのだろうか。
「あ、うん。それがどうかしたの?何か変だった?」
「いや、変じゃないよ。むしろ凄すぎるくらいだ」
拓哉が慌てて手を振る。
「でも、この前色んなストリートピアノの動画を見て回ってたんだけどさ、結構メジャーな曲を弾いてる人の方が多いんだよね。アニソンとか、J-POPとか、洋楽とか……そういう曲の方が、聞いてる人たちも反応がいいっていうか」
「……じゃあ、そういう曲も弾いてみた方がいいってこと?」
「そう!優斗もたまにはそういうの弾いてみたらどうかなって思ったんだ。どうせなら、もっと多くの人に優斗の演奏を聞いてもらいたいしさ」
拓哉の提案に、俺は素直に興味を覚えた。言われてみれば、これまで自分が好きな曲ばかり選んでいたような気がする。
「メジャーな曲か……正直あんまり詳しくないんだけど、一度聞けば大体の曲は耳コピできるから、弾けないことはないと思うよ」
「え、マジで?」
拓哉の目が輝いた。
「一度聞いただけで弾けるようになるの?それってめちゃくちゃ凄くない?」
「そうかな?昔からそうだったから、別に普通だと思うけど……」
「いやいや、全然普通じゃないって!」
拓哉が身を乗り出してきた。
「だったら話は早いじゃん!アニソンとかボカロとかも全然いけるってことでしょ?メドレーみたいにして、数曲繋げて弾いたりしたら、絶対バズると思うんだよね。まあ、今でも十分凄いんだけどさ」
そう言って、拓哉は屈託のない笑顔を見せた。彼がこうやって色々と考えてくれていることを知って、俺は素直に嬉しくなった。
確かに、コンクールや発表会ならともかく、ストリートピアノという場所では、一般的に親しまれている曲の方が聞く人にとって楽しいかもしれない。
「なるほど……拓哉の言う通りかもしれない。で、何かお勧めの曲とかある?」
俺がそう聞くと、拓哉は待っていましたと言わんばかりに、ポケットからスマホを取り出した。
「実は昨日の夜、色々リストアップしておいたんだ!」
得意げな表情で画面を俺に見せる拓哉。そのドヤ顔が可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
「さすが拓哉、準備がいいね。ありがとう」
俺は素直に感謝の気持ちを込めて言った。拓哉からイヤホンとスマホを受け取って、早速再生してみる。
最初に流れてきたのは、最近動画サイトで流行している楽曲だった。確かに聞いたことがある。メロディーラインを頭の中で解析しながら、ピアノでの演奏をイメージしてみる。うん、これなら問題なく弾けそうだ。
次に流れてきたのはボカロの楽曲。これも知っている曲だった。独特のメロディーと歌詞が印象的で、ピアノアレンジしたら面白そうだ。
三曲目に入ったところで、俺はびっくりした。なんと、俺たちバンドの楽曲が流れてきたのだ。
「あ、これは……」
慌てて次の曲にスキップする。いくらなんでも、自分たちの曲をストリートピアノで弾くのはまずいだろう。
四曲目に流れてきた楽曲を聞いて、俺は目を輝かせた。
あ、これいいな……この曲を、さっきのボカロの曲と繋げて、アドリブでジャズ風にアレンジしても面白いかもしれない。
音楽を聞いている時の俺は、いつも頭の中で様々な可能性を考えている。メロディーを分解して、和音を変えて、リズムを変化させて……無数の組み合わせが頭の中を駆け巡る。
最近、こうやって音楽に熱中することがとても楽しくなってきた。以前は、真珠のことや学校のこと、将来のことなど、様々な悩みが頭の中を占めていたけれど、音楽に向き合っている時だけは、そうした煩わしいことを全て忘れることができる。
それに、以前よりも音に集中できるようになった気がする。チャンネルを切り替えるような感覚とでも言うのだろうか。以前は、心の状態に音が引っ張られることが多かったけれど、今は逆に、音に心を寄せられるようになった。
これも、この数週間の修行の成果かもしれない。そして何より、こうやって毎日付き合ってくれる拓哉のおかげだ。
俺はイヤホンを外して、改めて拓哉の方を向いた。
「ん?どうした、優斗?」
拓哉がポカンとした顔で俺を見る。きっと、俺が急に真剣な顔になったので、驚いたのだろう。
「いや……改めて、ありがとう、拓哉」
俺はしみじみとした気持ちで言った。
「君のおかげで、本当に色んなことを学べてる。音楽に対する向き合い方も変わったし……」
「ば、ばか……」
拓哉が急に身じろぎした。顔が少し赤くなっている。
「ま、またお前は、そうやって恥ずかしいことを平気で言いやがって……誰か聞いてたらどう思われるか考えろよ」
「そんなこと言わないでよ」
俺は苦笑いしながら続けた。
「本当にそう思って……」
そこまで言いかけて、俺の声が詰まった。
エスカレーターの方に目をやった瞬間、信じられないものを目にしたのだ。
「えっ……なんで……?」
俺の手から、イヤホンがぽとりと落ちた。それを拓哉が慌てて拾い上げる。
「ど、どうした優斗?急に顔色悪くなったけど……」
拓哉が心配そうに声をかけてくるが、俺には返事をする余裕がなかった。
エスカレーターに乗っている二人の姿に、俺の視線は釘付けになっていた。
帽子を深くかぶり、マスクをつけた女性。その白金色の髪と、優雅な立ち姿は、どんなに隠そうとしても隠し切れない。真珠だ。
そして、その隣に仲良さそうに並んで立っている帽子を被った男性の姿。整った顔立ちと、上品な雰囲気。間違いない……。
「カルマ……君……」
俺の口から、かすれるような声が漏れた。
「おい優斗、いったい何を見てるんだよ?」
拓哉がさらに心配そうに声をかけてくるが、俺の意識は完全にエスカレーターの二人に奪われていた。
その時、真珠と俺の視線が交わった。
真珠の顔が、一瞬で青ざめた。マスクを慌てて外して、何かを叫んでいるようだったが、距離があって俺には聞こえない。
真珠が慌ててエスカレーターを駆け下りようとするが、前に人がいて思うように進めないようだった。完全にパニック状態で、立ち往生している。
その時、カルマ君が俺の方を向いた。
俺に気づいているのは明らかだった。そして、その口元に浮かんだ笑み……それは、どう見ても自然な笑顔ではなかった。まるで何かを企んでいるような、歪んだ笑みだった。
その表情を見た瞬間、俺の背筋にゾクリとした悪寒が走った。
やがて、遠くから真珠の声が聞こえてきた。
「優!」
ようやくエスカレーターから降りてきた真珠が、息を切らせながら俺の前に走り込んできた。肩で息をしながら、何かを言おうとしている。
でも、俺の方が先に口を開いていた。
「ママと買い物って言ってたよね……」
静かに、でもはっきりと俺は言った。
「はぁ、はぁ……え?」
真珠が息を整えながら聞き返す。その表情には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。
「用事って、これだったんだ……」
俺は乾いた笑いを浮かべた。目の奥に、じわりと熱いものがこみ上げてくる。
「そっか……俺、本当にバカみたいだ」
「ち、違うの!これは誤解なの!」
真珠が必死になって弁解しようとする。でも、俺はもう聞く気になれなかった。
片手を上げて、真珠の言葉を遮った。ゆっくりと首を横に振る。
「もういい……聞きたくない」
俺は真珠を見つめて、静かに言った。
「真珠……君は、僕の音の……邪魔だ」
その言葉を口にした瞬間、真珠の顔が真っ青になった。
俺は彼女に背を向けて、歩き出した。
「やだ……なんで、なんでそんなこと言うの!」
背後から真珠の泣きそうな声が響いてくる。
「待って優!お願い、誤解だから……!優、優ってば!」
でも、俺の耳には、もうその声は届かなかった。頭の中で、真珠の声がどんどん遠くなっていく。まるで音量を絞っていくかのように、静寂に包まれていく。
「おい優斗、いったい何があったんだよ?」
拓哉が心配そうに声をかけてくる。俺はゆっくりと彼の横を通り過ぎながら、ぽつりと呟いた。
「行こう、拓哉……」
俺の声は、まるで魂が抜けたように空虚だった。
「あの音は……もういらない」
ショッピングモールの喧騒や足音だけが、やけに大きく響いているような気がする。
――なのに、 真珠の声だけは、もう聞こえなかった……。




