第69話 不確かなハート
玄関の扉を閉めた瞬間、私は深く息を吐いた。今日も結局、優と気まずいまま一日が終わってしまった。
鞄を肩から下ろしながら、二階の自分の部屋に向かう。階段を上る足音が妙に響いて聞こえるのは、家の中がいつもより静かだからかもしれない。お母さんはまだ買い物から帰ってきていないようだった。
部屋に入ると、午後の陽射しが窓から差し込んで、机の上のぬいぐるみたちを優しく照らしている。私は制服のブレザーを脱いでハンガーにかけると、ベッドに腰を下ろした。
時計を見ると、三時半を少し回ったところ。いつもなら優と一緒に帰ってくる時間なのに、今日もそれぞれ別々に帰ってきてしまった。
スマホを取り出して、何気なくメッセージアプリを開く。優からの連絡は、今日一日を通してゼロ。私からも、結局何も送れなかった。
昨日の放課後、「また明日話そう」なんて言い合ったのに、結局今日も二人とも何となく話しづらくて、本当に大切な話は何もできないまま。授業中も、休み時間も、なんだかぎこちない空気が続いてしまった。
私は思い切って、北斗に電話をかけることにした。こういう時は、いつも北斗が相談に乗ってくれる。スマホの画面で北斗の名前を見つけて、通話ボタンを押した。
コール音が三回ほど響いて——
『よう、真珠。どうした?』
いつもの北斗の声が聞こえて、少しほっとした。
「あ、北斗。お疲れ。今、大丈夫?」
『ああ、少しなら大丈夫。つーか、お前の声なんか元気ねえな。何かあったのか?』
さすが北斗、すぐに気がついてくれる。私は少し迷ったけど、正直に話すことにした。
「あの……実は、優とちょっと……」
『ああ、やっぱりな。なんとなく予想ついてたわ』
「え?」
『昨日の夜タイアップの件で優と少しだけビデオ通話したら、なんか浮かない顔してたからさ。もしかして真珠と何かあったのかなって思って』
そうか、優も……。ていうか北斗とは連絡とってるんだ……。
それを聞いて、私は少し胸がキュッとなった。
『で、どうしたんだよ?優と喧嘩でもしたのか?』
「け、喧嘩ってわけじゃなくて……」
私は言葉に詰まった。喧嘩とは違う。でも、確実に距離ができてしまっている。
『お前らがそんな風にぎくしゃくするなんて、それ十分喧嘩だろ』
北斗の言葉に、私は小さくうなだれた。確かに、優とこんなに話しづらくなったのは本当に久しぶりかもしれない。
「そうなのかな……でも、お互いに意地張ってるっていうか……」
『意地張ってるって、何についてだよ?』
その質問に、私の喉がきゅっと詰まった。
「その……優に話があるって言われてたんだけど、私が用事続きだったからなかなか話ができなくって……」
『用事?その用事ってなんなんだよ?』
あ……。
私は慌てて髪をくるくると指に巻きつけながら答えた。
「え?あ、うん……実は、この前からカルマ君が家に来てて……」
『はぁ?い、今何つった?』
北斗の声が一気に高くなった。私はスマホを少し耳から離す。
「カルマ君が家に来てるって言ったの。今日も来る予定なんだけど……」
『いや、意味が分かんねえよ!なんでそんな……って、もしかしてこの前ファミレスで言ってたやつか?あの家に連れて来いってやつ?』
「うん……」
私は膝を抱えるようにして座り直した。
「パパの帰国が予定より遅れちゃったの。それで急遽私とママでカルマ君と会ったんだけど、ママがカルマ君のこと結構気に入っちゃって……」
『なるほどな……響さんも休業中とはいえプロの歌手だし、メジャー同士で気が合ったってことか。でもよ、それにしても連日ってのはどうなんだよ』
北斗の声に、明らかに不満が込められている。
「カルマ君、今お仕事でうちの近くに滞在してるんだって。それでママが『遠慮しないで遊びに来て』って言っちゃったもんだから……」
『だからって、あの野郎に毎日お前が付き合う必要ねえだろ?』
「そ、そうだけど……」
私は少し困った。確かに北斗の言うことは分かるけど。
「以前はイベントでしか絡んだことなかったから分からなかったけど、話してみるとカルマ君って、普通に面白い人だし、結構いい人だよ?思ってたより全然気さくで……」
『あのな、真珠……』
北斗が深いため息をついた。
『はあ〜、そのせいで優と仲悪くなってるんだろ?本末転倒じゃねえか』
「そ、それとこれとは話が別じゃん……」
私は不服そうに言い返したけど、北斗の次の言葉にぐうの音も出なくなった。
『そもそもお前が優にこのこと話してないのが原因だろ?だったら別問題じゃねえよ』
「うっ……」
言い返せない。確かに、私が優に隠していることが、今のぎくしゃくした関係の原因だった。
『もう思い切って優に話しちまえよ。そうすりゃ万事解決すると思うぜ?』
「それは……ちょっと……」
私は言葉を濁した。なぜか、優にだけはこのことを話したくない。
『んだよ、もしかしてあれか?好きな人に初恋の相手の話ししたくないとか?だったらそんなくだらない——』
「ち、違うもん!そんなんじゃ……ない……」
私は慌てて北斗の言葉を遮った。でも、違うと言いながらも、自分でもよく分からない気持ちがもやもやしている。
『違うって……じゃあなんなんだよ?』
「ん〜分かんない……」
本当に分からない。なぜ優にだけは言いたくないのか、その理由が自分でも掴めないでいる。
『分かんないって……なんだよそれ』
北斗の呆れた声が聞こえる。
「分かんないの!ただ……自分でもよく分からないけど、優にだけは言いたくない……」
そう口にしながら、私は自分の胸の奥にある、名前のつけられない感情に困惑していた。
『はあ〜……』
北斗の長いため息が聞こえる。
『俺はさ、お前のその予測不可能なところ、結構気に入ってるけど、今回だけはお前の味方できねえわ……意味分からなすぎだ』
「うう……」
いじけそうになったけど、ふと思い出して北斗に聞いてみた。
「あ、そうだ!北斗は優がここ最近何してるか知ってる?」
『ここ最近って?』
「何か優、ここのところ私に隠れて何かしてるみたいなの……聞いても教えてくれなくて……」
私の声は、自分でも情けないくらい寂しそうに聞こえた。
『そりゃそうだろ。優からしてみればお前の方が先に隠し事してるんだから、話したくても話しづらいに決まってんじゃん』
北斗の言葉が、意地悪そうに響く。
「そ、そうかもだけど……北斗は知らないの?」
『さあな。流石に今回はお前の味方はできねえって言ったろ。知りたかったら自分で聞きな』
冷たく突き放すような口調に、私の心がちくりと痛んだ。
「うう、酷い!いつもは私の味方してくれるのに……」
『酷いで結構』
北斗がばっさりと言い切る。
「ふんだ!北斗なんて意地悪だし、口悪いし、目つき悪いし、髪ぼさぼさだし、べ〜だ!」
私は頬を膨らませながら、思いつく限りの文句を並べ立てた。
『おい!目つき悪いとか髪ぼさぼさは関係ねえだろ!つーか、たまには美容院行ってるっつーの!たっく、用事あるから切るぞ!』
「あ!ちょっと、北斗?まだ話が——」
プツリ、という音と共に通話が切れた。
「……終わってない」
私は呆然とスマホの画面を見つめた後、大きくため息をついてスマホを枕元に放り投げた。そのままベッドに身体を預けて、天井を見上げる。
夕方の光が部屋に斜めに差し込んで、壁に窓枠の影を作っている。静寂の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
優のことも、カルマ君のことも、自分の気持ちも、何もかもがごちゃごちゃになってしまっている。
どうして、こんなに複雑になってしまったんだろう——。
しばらくそのまま天井を見つめていると、階段を上がる足音が聞こえてきた。ママが帰ってきたようだ。
「真珠〜、おかえり〜」
下から響いてくるママの明るい声に、私は慌ててベッドから起き上がった。
「あ、ママお帰り、今降りる!」
私は急いで髪を整えて、一階のリビングに向かった。
リビングに足を踏み入れると、ママがキッチンで買い物袋から荷物を取り出している最中だった。テーブルには既に、いつの間にか用意された紅茶セットが並んでいる。
「お疲れさま。今日は早かったね」
「ええ、思ったより早く買い物が終わったのよ。あ、そうそう、カルマ君からメッセージが来てて、四時半頃に来るって」
時計を見ると、もう四時を回っている。あと三十分もしないうちに、カルマ君がやってくるということだ。
「そっか……分かった」
私は少し複雑な気持ちでソファに腰を下ろした。正直なところ、北斗との電話の後で、まだ気持ちの整理がついていない。
「真珠、今日はどうだった?友達とは仲直りできた?」
何気ない質問に、私の胸がきゅっと縮んだ。
「あ……うん、まあ……」
曖昧に答えながら、私はクッションを抱きしめた。ママには最近友達と上手くいっていないと相談したばかりだ。
「あら、ダメだったの?」
ママがキッチンから顔を覗かせて、心配そうに私を見る。
「うん……なんか、お互いに意地張っちゃってて」
「そう……まあ、時には喧嘩も必要よ。それで絆が深まることだってあるしね」
その優しい言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。
そうこうしているうちに、玄関のチャイムが響いた。
「あ、カルマ君ね。私、手が離せないから真珠お願い」
「うん、分かった」
私は玄関に向かって、扉を開けた。
「こんにちは、真珠さん。今日もお邪魔します」
いつものように爽やかな笑顔を浮かべたカルマ君が立っていた。白いシャツにデニムのジャケットという、シンプルだけど洗練されたコーディネートが、彼の整った顔立ちによく似合っている。
「こんにちは、カルマ君。どうぞ、上がって」
私は彼を リビングに案内した。カルマ君は慣れた様子で靴を脱いで、お母さんに挨拶をする。
「響さん、今日もお邪魔させていただきます」
「いらっしゃい、カルマ君。今、紅茶を淹れるわね」
ママが手際よく紅茶の準備をしている間、私とカルマ君はリビングのソファに座った。私は窓際のソファに、カルマ君は向かい側のソファに腰を下ろす。
午後の陽射しがレースのカーテン越しに差し込んで、テーブルの上の花瓶を照らしている。今日ママが買ってきたのか、薄いピンクのガーベラが数本、優しく揺れていた。
「お時間大丈夫でしたか?」
カルマ君が気遣うように聞いてくる。
「あ、うん……カルマ君こそ、お仕事大変でしょ?」
「まあ、慣れてますから。それより……」
カルマ君が少し申し訳なさそうな表情になった。
「すみません、毎日お邪魔しちゃって、迷惑になってないでしょうか?もしそうなら遠慮なく言ってくださいね。ここ凄く居心地よくて、つい……」
彼が紅茶カップをそっとテーブルに置きながら言った言葉に、私はちょっと驚いた。いつも堂々としているカルマ君が、こんなに気を遣ってくれるなんて。
「あら、本当に気にしなくていいのよ」
キッチンから戻って来たママが、明るい声で答え私の隣に座った。
「私も最近の音楽業界の話が聞けて嬉しいの。それに真珠だって喜んでるし、ねえ?」
私の方を向いて、にっこりと笑う。
「ちょっとお母さん、私は別に……」
私は慌てて否定しようとしたけど、ママは意味深な笑みを浮かべている。
「あら?照れなくていいじゃない。だって、カルマ君は真珠の初恋の相手なんでしょう?」
「ちょ、ちょっと!」
急な爆弾発言に、私は顔から火が出そうになった。何でそんなことを、本人の前で言うの!
「そうなんですか?」
カルマ君が少し驚いたような、でも嬉しそうな表情になった。
「いや、嬉しいな……実は僕も、真珠さんが初恋なんです。もしそうなら、なんだか運命みたいで……」
カルマ君がにこりと笑って言った言葉に、ママの目がキラキラと輝いた。
「まあ!本当に?素敵じゃない!私、本当は真珠の他にも男の子が欲しかったのよ。カルマ君みたいな息子がいたら……」
「もうママ!変なこと言わないで!カルマ君も困っちゃうでしょ!」
私は必死に止めようとしたけど、カルマ君は全然困った様子を見せない。
「はは、困ってませんよ。本当に嬉しいんですから。僕でよければ……」
カルマ君の優しい言葉に、ママがますます嬉しそうになる。
「ふふ、あ、そうそう。今クッキーを焼いてるのよ。ちょっと様子を見てくるわね。あなたたち、ゆっくりお話ししてて」
ママはそう言うと、意味ありげな笑顔を私に向けて、キッチンに向かった。
急に二人きりになって、リビングに微妙な空気が流れる。私は手持ち無沙汰になって、紅茶を口に運んだ。でも、なぜかカルマ君の視線を感じて、落ち着かない。
チラッと彼の方を見ると、カルマ君は穏やかな表情で私を見つめていた。この人が、私の魔法使い……
そんなことを考えていると、ふと頭の中に優の顔が浮かんだ。今頃、優は何をしているんだろう。まだ、私との関係を気にしているのかな。
「僕の顔に何かついてますか?」
クスリと笑いながら、カルマ君が声をかけてきた。
「へっ?あ、ううん!な、なんでもない!」
私は慌てて首を振った。ぼーっとしていたのがばれて、恥ずかしい。
「真珠さんは表情がコロコロ変わって、本当に見てて飽きないですね」
カルマ君が優しい笑顔で続ける。
「そういうところも、僕は好きですよ」
さらりと「好き」という言葉を口にするカルマ君に、私は思わず紅茶を飲みそこねそうになった。
「だ、大丈夫ですか?」
カルマ君が心配そうに身を乗り出す。その姿を見ていると、なんだか幼い頃の記憶がよみがえってきた。
あの時も、この人は優しく声をかけてくれたんだ。そしてあの音で、私の心を軽くしてくれた。
私は思い立って、カルマ君の隣に移動した。
「え?」
突然隣に座った私に、カルマ君が少し驚いたような顔をする。私は恥ずかしさを堪えながら、おもむろにカルマ君の手を見つめた。
「あの……カルマ君……?」
「なんですか?」
カルマ君が首を軽く傾げて、私の方を向く。
「その……手、握ってもいいかな……?」
私は顔を赤くしながら、小さな声で呟いた。自分でも何でこんなことを言い出したのか分からないけど、なぜか確かめたい気持ちがあった。
「え?ああ、もちろん」
カルマ君は少し驚いたような顔をした後、優しい笑顔で自分の手をそっと差し出してくれた。
「あ、ありがとう……」
私は照れ笑いを浮かべながら、そっとカルマ君の手を握った。優以外の男の子と手を繋ぐなんて初めてで、心臓がどきどきと鳴っているのが分かる。
カルマ君の手は、優の手よりも少し大きくて、指が長い。ピアニストらしい、綺麗な手をしている。でも……なぜか……。
「あらあら!仲がいいのね。お邪魔だったかしら?」
含み笑いが背後から聞こえて、私は慌ててカルマ君の手を離した。
「ま、ママ!いつの間に……」
振り返ると、ママがクッキーの乗ったお皿を持って、とても嬉しそうな顔で立っていた。
「ちょうど焼き上がったのよ。でも邪魔しちゃったかしら?」
「もう、変な誤解しないで!」
私は真っ赤になった自分の頬を両手で押さえた。ドキドキが止まらない。でも、このドキドキは恥ずかしさからで……
あ〜もう、何やってるんだろう私!
カルマ君の笑い声と、ママの楽しそうな声に包まれながら、私は自分の気持ちの複雑さに、いつまでも困惑するしかなかった。