第68話 Differences and music
大きな欠伸をしながら教室の扉を開けると、朝の光が窓から差し込んで、机の表面を金色に染めていた。六月の爽やかな風が頬を撫でて、新しい一日の始まりを告げている。
昨日のことが頭の中で繰り返し再生される。羽田空港でのピアノ演奏——あの時の手応えは確かなものだった。指先から紡ぎ出された音が、聴いてくれた人たちの心に届いた瞬間の空気感。そして何より、拓哉があんなに喜んでくれたこと。
まるで自分のことのように手を叩いて、「すげーよ優斗!マジで感動した!」なんて言ってくれて。演奏している間中、夢中になってシャッターを切ってくれていたあの真剣な横顔も印象的だった。
演奏が終わった後、俺が「今度は渋谷のピアノも行ってみようかな」なんて呟いたら、拓哉の目がパッと輝いて——
「マジで?俺もまた一緒に行っていいっか?また演奏シーン撮りたい!」
あの時の拓哉の笑顔を思い出すと、自然と口元が緩んでしまう。今日も放課後に渋谷マークシティで待ち合わせることになっている。正直、また誰かと一緒に演奏に行けるなんて思っていなかった。
鞄を机に置きながら教室を見回すと、いつもより早めに登校している生徒たちがぽつぽつと席についている。その中で、真珠の席に目が留まった。
彼女はいつものように席に座っているけれど、なんだか様子がおかしい。頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めている。いつもの明るい雰囲気が影を潜めて、どこか遠くを見つめているような——そんな表情だった。
気になって、俺は真珠の席に近づいた。
「おはよう、真珠」
いつものように声をかけてみる。でも、真珠は振り返らない。窓の外の景色に視線を向けたまま、まるで俺の声が聞こえていないみたいだった。
おかしいな。普段だったら、教室に入った瞬間に気がついて「優!おはよー!」なんて元気よく手を振ってくれるのに。
「真珠……?」
もう一度、今度は少し心配そうに名前を呼んでみた。すると——
「わっ!」
真珠が慌てたように振り返って、椅子から立ち上がりそうになる。その拍子に筆箱が机から滑り落ちそうになって、慌てて手で押さえていた。
「ゆ、優!?いつから……ご、ごめん、全然気がつかなくて……」
真珠の頬に薄っすらと赤みが差している。きっと、ぼーっとしていたのを見られて恥ずかしいんだろう。でも、それだけじゃない何かが、彼女の表情に影を落としているような気がした。
「随分ぼーっとしてたみたいだけど……何か考え事でもしてたの?」
俺が心配そうに聞くと、真珠は慌てたように首を振った。
「え?あ、いや……うーん、大丈夫、何でもないよ……」
でも、その答え方が曖昧で、目も俺の方をまっすぐ見ていない。
また、だ。
最近の真珠によく見る表情。何かを言いたそうなのに言えないでいるような、大切な話があるのに踏み出せないでいるような——そんな複雑な顔。
前にも何度か、こんなことがあった。話しかけようとして、でも結局何も言わずに終わってしまう。真珠が何を考えているのか、俺には全然わからない。
でも、今日こそは聞いてみようか。もしかしたら、何か手伝えることがあるかもしれない。
「あ、そうだ」
俺は思い切って口を開いた。
「真珠、今日の放課後……空いてる?」
その瞬間、真珠の表情がパッと変わった。なんだか困ったような、申し訳なさそうな顔になって——
「あ……ご、ごめん。今日もちょっと、用事があって……」
今日も、という言葉が胸に刺さった。昨日も真珠は放課後に用事があると言っていた。
「昨日も用事があるって言ってたけど……どんな用事?」
思い切って聞いてみると、真珠の視線がさらに泳いだ。
「え、えーっと……それは、その……」
言葉を濁して、明らかに困っている。なんで素直に教えてくれないんだろう。そんなに言えないような用事なのか。
なんだか真珠らしくない。隠し事何て彼女自身、嫌いなはずなのに……。
俺の中で、少しだけ苛立ちが湧いてきた。いつも俺には何でも話してくれるのに、今回だけは違う。何か特別な理由があるのかもしれないけれど——
「そんなに秘密にするようなこと?」
つい、そんな言葉が口から出てしまった。真珠の顔が一瞬強張る。
「べ、別に秘密にしてるわけじゃ……」
そこで真珠が急に顔を上げて、俺を見つめた。
「優斗こそ、昨日から私に何か用事があったんじゃないの?今日も、声かけてくれたし……」
俺は言葉に詰まった。確かに用事はあったけど……。
でも、自分のことは教えてくれないのに、俺にだけ聞いてくるのかよ——
「べ、別に……何でもないよ……」
思わずそう答えて、俺は真珠から目を逸らした。なんだか急に気まずくなってしまって、自分の席に戻ろうと足を向ける。
「あ、優……」
真珠が席を立って、俺を呼び止めようとした。その時——
キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイムが教室に響いた。
「あ……」
真珠が小さく呟いて、慌てて自分の席に戻っていく。俺も仕方なく自分の席に座った。
何だったんだろう、今の会話。お互いに言いたいことがあるのに、結局何も伝わらなかった。むしろ、前よりも距離ができてしまったような気がする。
授業中も、真珠の後ろ姿が気になって仕方がなかった。彼女は相変わらず真面目に授業を受けているけれど、時々ぼんやりとした表情を見せる。
一体、何を考えているんだろう。
そんなもやもやとした気持ちを抱えたまま、一日が過ぎていく。昼休みも、真珠とはなんとなく話しづらい空気が続いて、結局大した会話もできなかった。
そして、放課後——
最後のチャイムが鳴り終わると、俺は慌てて鞄をまとめ始めた。拓哉との約束があるから、あまり遅くなるわけにはいかない。
スマホを取り出して、拓哉からのメッセージを確認する。
『優斗、今日も楽しみにしてる!俺、新しいレンズも持ってくから、昨日よりもっといい写真撮れると思う!』
その文面を見ていると、少しだけ気持ちが軽くなった。拓哉と一緒にいると、余計なことを考えなくて済む。音楽に集中できる。
席を立って教室を出ようとした時——
「優……」
聞き慣れた声に振り返ると、真珠が不安そうな顔でこちらを見ていた。
「今から……どこか行くの?」
その問いかけに、俺の足が止まった。真珠の表情は、朝よりもさらに複雑で、何かを言いたそうなのに言えないでいる様子が手に取るようにわかった。
でも、朝のやり取りのことがまだ頭に残っている。素直になれない気持ちが邪魔をして——
「別に……」
俺は頭を掻きながら答えた。
「真珠だって、今から用事があるんでしょ?」
その言葉に、真珠の表情がさらに曇った。
「あ……うん。そうだね。ごめん……また明日、話そうか」
真珠はそう言うと、困ったような笑顔を浮かべて背中を向けた。教室の出口に向かって、少し急ぎ足で歩いていく。
その背中を見ていると、無性に手を伸ばしたくなった。待ってよ、と声をかけたくなった。でも——
俺の手は空を切るだけで、真珠の姿は廊下の向こうに消えていった。
「はあ……」
深いため息が口から漏れる。何をやってるんだろう、俺は。
真珠とこんなにギクシャクするなんて、今まであまりなかった。お互いに意地を張っているみたいで、すごく嫌な感じだ。
でも、今は拓哉が待っている。せっかく楽しみにしてくれているんだから、このまま落ち込んでいるわけにはいかない。
重い足取りで教室を出て、とぼとぼと廊下を歩く。靴音が妙に響いて、一人でいることを改めて実感させられた。
電車の中でも、真珠との朝の会話が頭から離れなかった。窓の外に流れる景色を眺めながら、俺は小さく首を振る。
今日は音楽に集中しよう。拓哉と一緒に、楽しい時間を過ごそう。真珠のことは——また明日、考えればいい。
そう自分に言い聞かせながら、電車は渋谷駅へと向かっていった。
渋谷駅の改札を抜けると、午後の陽射しが頬を包んだ。平日とは思えないほどの人波が行き交い、街全体が生き生きとした活気に満ちている。サラリーマンや学生、観光客らしきグループ——様々な人たちがそれぞれの目的地に向かって足早に歩いていく。
俺も人波に混じって歩きながら、渋谷マークシティの方向を目指した。高いビルに囲まれた空間で、時々風が吹き抜けていく。その風に混じって、遠くから音楽の断片が聞こえてくることもある。街角で演奏している人がいるのかもしれない。
真珠とのことを考えそうになって、俺は慌てて首を振った。拓哉との約束がある。せっかく楽しみにしてくれているんだから、余計なことは考えないようにしよう。
マークシティの入り口に到着すると、すぐにエレベーターホールが見えた。4階のアベニュー広場——そこにストリートピアノが設置されているはずだ。
エレベーターが到着するまでの短い時間、俺の胸の鼓動が少しずつ早くなっていく。昨日の羽田空港では、拓哉がいてくれたおかげで思い切って演奏できた。今日も、きっと——
ピンポン、という電子音と共にエレベーターの扉が開いた。
「何階ですか?」
「4階、お願いします」
先に乗っていた女性に声をかけられ、俺は頭を下げつつ答える。にこやかに頷いて4のボタンを押してくれた。短い時間だったけれど、なんだか温かい気持ちになる。
4階に到着して、アベニュー広場に足を踏み入れた瞬間——
遠くから、ピアノの音色が聞こえてきた。
優雅で軽やかなメロディーが、広場の空間に響いている。誰かが既に演奏しているようだ。足音を忍ばせながら、壁に貼られた案内図を確認する。ピアノの設置場所は、この角を曲がった先らしい。
音に導かれるように歩いていくと、角の向こうから笑い声や拍手が聞こえてきた。
そして——
「いいね、そのアングル!もう少し左から撮ってみて」
聞き慣れた声に、俺の足取りが軽くなった。拓哉だ。
角を曲がると、予想していた通りの光景が広がっていた。ピアノの前には制服姿の女子高生が二人座って、連弾で楽しそうに演奏している。その周りには小さな人だかりができていて、みんな微笑ましそうに演奏を見守っていた。
そして少し離れた場所で、拓哉がカメラを構えて熱心に撮影している。昨日よりも本格的な機材を持ち込んでいるようで、三脚まで使って真剣に取り組んでいる姿が印象的だった。
「拓哉!」
俺は手を上げて声をかけた。
拓哉がその声に気がついて振り返ると、パッと顔が明るくなった。
「よう、優斗!待ってたぜ!」
まるで小学生みたいに無邪気な笑顔で、両手をぶんぶんと振っている。その屈託のない表情を見ていると、俺の心も自然と軽やかになっていく。
「お待たせ、ごめん。彼女たち撮影してたの?」
演奏している女子高生たちを見ながら聞くと、拓哉は得意げに胸を張った。
「おう!でもちゃんと許可もらってるからな?変態扱いすんじゃねえぞ?」
慌てたような口調で言い訳する拓哉に、俺は思わず苦笑いした。
「してないってば。心配しすぎ」
「そうか?でも最近、盗撮とかうるさいからさあ。カメラ持ってるだけで疑われることもあるんだよ」
拓哉がカメラを大事そうに抱えながら言う。確かに、気をつけなければいけないことかもしれない。
その時、拓哉が簡易式の三脚を広げ始めた。手慣れた様子で高さを調整して、カメラを固定していく。
「そういえばさ」
作業をしながら、拓哉があっけらかんとした調子で話し始めた。
「昨日撮った動画、お前が好きにしていいって言ってくれたから、編集して投稿させてもらったんだ」
「え?」
俺の手が止まった。
「ま、マジで?動画サイトに?」
「おう。なんか問題あったか?」
拓哉が不安そうに振り返る。
俺の頭の中で色々な考えが駆け巡った。動画が投稿されたということは、もしかしたら誰かに見つかってしまうかもしれない。でも、優Pとしてではなく、あくまで個人としての演奏だから——大丈夫かな?。
「あ、いや、うん。大丈夫だよ」
俺は慌てて首を振った。
「ありがとう、拓哉。編集とかも大変だったでしょ?」
「全然!めちゃくちゃ楽しかったよ」
拓哉の顔がパッと輝いた。
「それがさー、投稿した途端に再生回数がすごい勢いで伸びてるんだよ。もう8万再生くらいいってるんじゃないかな」
「8万……!?」
俺は思わず声を上げてしまった。昨日の今日で、しかも無名の投稿者の動画が8万再生なんて。
「お前の演奏、マジですげえもん。俺みたいな素人が聞いても鳥肌立つレベルだって」
拓哉が興奮したように手をひらひらと振りながら続ける。
「コメント欄も『この人誰?』『すごすぎる』『感動した』って絶賛の嵐でさ。お前、絶対有名になるよ」
そんなに……?確かに、ステラノートという看板なしで、ここまで反響があるなんて思っていなかった。
「大げさだよ……でも、そんなに見てもらえてるんだ」
「大げさじゃねえって!事実だぜ」
拓哉がカメラの角度を調整しながら言う。
「よし、準備OK。優斗、今日はもっといい映像撮ってやるからな」
その時だった。
「あの……すみません」
恥ずかしそうな声に振り返ると、同じくらいの年齢の女の子が二人、おずおずとこちらに近づいてきた。
「へ?」
俺は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「あの、もしかして……」
女の子の一人が、もじもじと手をいじりながら話し始める。
「昨日の羽田空港でピアノを弾いていた方ですか?」
「あ、俺?」
自分を指差しながら聞き返すと、二人ともコクコクと頷いた。
「動画で拝見したんです!すごく素敵な演奏で……もしかして、今日もどこかで弾かれるのかなって思って」
もう一人の女の子が、顔を真っ赤にしながら続ける。
「どうしても生で聴いてみたくて……」
その時、拓哉が俺の側に寄ってきて、小声で耳打ちした。
「おいおい、モテモテじゃねえか、優斗!」
ニヤニヤしながら言うその顔が、なんだか妙にムカつく。
「や、やめてよ!」
俺も小声で言い返した。
「応援してます!ぜひ、聴かせてください!」
女の子たちが期待に満ちた目で俺を見つめている。その純粋な視線に、俺の心は温かくなった。
「う、うん。ありがとう……じゃあ良ければ、聴いていってください」
照れながら答えると、二人は手を取り合って小さく飛び跳ねた。
「やったー!ありがとうございます!」
その喜びようを見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
「くっ……」
拓哉が悔しそうに唸っている。
「カメラマンはモテるって親父が言ってたのに……今からでもピアニストに転身するか……」
「昨日、あんなにいい感じに夢を熱く語ってたよね……」
俺は呆れた顔で拓哉を見る。
「うるせえ!それとこれとは話が別だ!」
拓哉が慌てて反論する。
その時、俺たちは顔を見合わせて、同時にクスッと笑ってしまった。なんだか妙におかしくて、お腹を抱えて笑いが止まらない。
そうだ。こうやって拓哉と一緒にふざけ合って、笑い合っているのが心地いい。学校では真珠とギクシャクしてしまったけれど、ここでは余計なことを考えずに済む。
俺はピアノに向かって歩いた。先ほどまで演奏していた女子高生たちは、いつの間にか席を離れて観客側に回っている。
黒いグランドピアノの前に座ると、まず軽く指を鍵盤に走らせた。調律は完璧だ。昨日の羽田空港とは違う、また新しい音色がここにはある。
背後から小さな歓声が聞こえてきた。さっきの女の子たちだけでなく、通りがかった人たちも足を止めて、こちらに視線を向けている。遠くからも、何人かの人影がゆっくりとこちらに近づいてくるのが分かった。
そうだ。今は余計なことを考えずに、音楽に集中しよう。ここで聴いてくれる人たち、みんなに届くように——
目を閉じて、深く息を吸う。昨日の羽田空港での演奏を思い返しながら、心をフラットにしていく。波が寄せては返すように、自然に、音に身を委ねるように——
最初の一音が、静寂を破って響いた。
指先から生まれる音が、ピアノの本体を通じて全身に伝わってくる。メロディーが形作られ、和音が重なり合い、やがて一つの物語となって空間に広がっていく。
演奏に夢中になっていると、周りの音が遠のいていく。人々のざわめきも、街の喧騒も、すべてが音楽の向こう側に霞んでいく。
ただ、指先と鍵盤、そして生まれる音だけが存在している。
曲が終わりに近づいた時、俺はそっと目を開けた。
気がつくと、周りには想像していたよりもずっと多くの人たちが集まっていた。みんな真剣な表情で演奏に聞き入ってくれている。
最後の音が消えていくと同時に——
パチパチパチパチ。
温かい拍手が響いた。それは雨のように俺に降り注いで、胸の奥を暖かく満たしていく。
「ブラボー!」
「すごい!」
「感動した!」
歓声が次々と上がって、拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
俺は立ち上がって、深くお辞儀をした。こんなにも多くの人たちに聞いてもらえて、こんなにも喜んでもらえて——胸がいっぱいになった。
拓哉が興奮した様子で駆け寄ってくる。
「優斗!最高だったぞ!」
その声に振り返ると、彼の目が輝いているのが見えた。きっと、素晴らしい映像が撮れたのだろう。
余韻がゆっくりと静寂に包まれていく中で、俺は改めて思った。
音楽って、本当に――
人と人とを繋ぎ、心と心を通わせ、この瞬間を特別なものにしてくれる。
今日という日が、忘れられない一日になるかのように……。