第67話 TAKE OFF
羽田空港のコンコースは、夕方の斜陽に照らされて、行き交う人々の影が長く伸びていた。出発ロビーの高い天井から差し込む光が、まるで舞台照明のように空間全体を包んでいる。俺と拓哉は並んで歩きながら、それぞれ違う理由でここに来た偶然を改めて面白がっていた。
「でもさ、マジで変な出会いだよな?」
拓哉がカメラバッグを肩にかけ直しながら、俺を振り返る。その人懐っこい笑顔は、さっき電車で会ったばかりとは思えないほど自然だった。
「そうだね……さっき会ったばかりなのに、確かに変かも」
俺も苦笑いしながら答える。こんなに話しやすい男子と出会ったのは久しぶりだった。なんというか、一緒にいて肩の力が抜けるというか。
「あ、そうそう!さっき聞き忘れたんだけど」
拓哉が急に立ち止まって、俺の方を向く。
「優斗って何年?俺、二年なんだけど」
「俺も二年だよ」
「マジで!?どこの学校?」
「桜丘高校」
「げっ、近いじゃん!俺、青葉台だよ」
拓哉が驚いたような顔をする。確かに、電車で数駅の距離だ。
「なんか本当に縁があるんだな、俺たち」
拓哉がにやりと笑いながら歩き始める。その時、遠くから音楽が聞こえてきた。ピアノの音色だ。
「おっ、あれがそうか?」
拓哉が音のする方向を指差す。コンコースの奥、大きな窓際にピアノが設置されているのが見えた。そして、その周りには結構な人だかりができている。
「うわあ、人多いな……」
俺の足取りが、無意識のうちに重くなる。頭では分かってるんだ。ストリートピアノなんだから、人に聞かれるのは当然だって。でも実際に人だかりを見ると、心臓がドキドキしてくる。
「おお、行こうぜ!どんな奴が弾いてるか見てみよう」
拓哉は俺とは対照的に、興味深そうに足を速めた。俺は慌ててその後を追いかける。
近づくにつれて、演奏している人の姿が見えてきた。二十代前半くらいの男性で、髪型も服装もとてもオシャレだった。指先が軽やかに鍵盤を踊り、馴染みのあるポップスのメロディーが空港の喧騒に溶け込んでいく。
「うめえな……」
拓哉が感心したように呟く。演奏者の周りには、スーツケースを引いた旅行者や、搭乗待ちの乗客たちが自然と集まって、みんな笑顔で聞き入っていた。
「おお〜すげえな、これ!」
拓哉が興奮したような声を上げながら、カメラを取り出した。
「いい画になりそうだ……」
液晶画面を覗き込みながら、拓哉は演奏風景にレンズを向ける。シャッター音が小気味よく響いて、何枚も写真を撮り続けている。その集中した横顔を見ていると、本当に写真が好きなんだなって分かる。
演奏が一区切りついたとき、周囲から自然と拍手が巻き起こった。パチパチと温かい音が空間に響いて、演奏者も嬉しそうに立ち上がる。
「ありがとうございました!」
男性が爽やかに頭を下げると、待っていた友人らしき人たちが駆け寄ってきて、次々とハイタッチを交わしている。
「やったね!」
「めっちゃかっこよかった!」
友人たちの声援に、男性も照れたような、でも満足そうな表情を浮かべていた。みんなで肩を組んで写真を撮ったり、本当に楽しそうだ。
その光景を見ていると、俺の胸に何とも言えない感情が湧いてきた。羨ましいような、でも同時に場違いな気持ちというか……。あの人はきっと、友達に背中を押されてここに来たんだろう。みんなで盛り上がって、きっとこの後も楽しい時間を過ごすんだろう。
それに比べて俺は……北斗の課題をこなすために、一人でここに来た。友達に応援されたわけでもなく、ただ自分の弱さと向き合うために。
「優斗」
拓哉が俺の肩を軽く叩く。気がつくと、演奏者とその友人たちは既に立ち去っていて、ピアノの前は空いていた。
「席、空いたぞ?行かねえのか?」
拓哉の問いかけに、俺は慌てたように笑ってみせた。
「あ、ああ、そうだね……でも、なんか……」
言い訳を探そうとして、でも適当な理由が見つからない。人が多いから?でも今はそれほどでもない。準備ができてないから?でも別に楽譜を持ってきたわけじゃない。
「なんか、緊張するなあ……」
結局、素直な気持ちを口にした。拓哉は俺の表情を見て、理解したような顔をする。
「ああ、そりゃそうだよな。俺も初めてだったら、きっと同じ感じだと思う」
その優しい言葉に、俺は少しほっとした。馬鹿にされるかと思ったけど、拓哉は案外理解してくれる。
「でもさ、せっかくここまで来たんだし……」
拓哉が俺を励ますように言いかけた、その時だった。
「ん〜っ」
思わず、喉の奥から小さな音が漏れてしまった。いつものチック症状だ。
しまった。
俺は慌てて口元を手で押さえた。心臓がバクバクと鳴り始める。拓哉に聞かれてしまっただろうか。
「あ、いや、今のは……」
慌てて言い訳しようとしたとき、拓哉がハッとしたような顔をした。その表情を見て、俺の心は沈む。やっぱり聞かれてた……。
でも、次の瞬間。
「お前、もしかしてチック症なのか?」
拓哉の顔がパッと輝いた。興奮したような、でも嬉しそうな表情で俺を見つめている。
「え……?」
俺は戸惑った。普通だったら、変な顔をされるか、気まずい空気になるかのどちらかだ。でも拓哉の反応は、俺が予想していたものとは全然違っていた。
「あ、わりい!」
拓哉が慌てたように手をひらひらと振る。
「なんかすげえ興奮しちゃって……いや、実はさ……」
拓哉がちょっと躊躇うような表情を見せて、それから俺をまっすぐ見つめた。
「うちの母さんもそうなんだ」
「え……拓哉のお母さんが?」
俺は驚いた。まさか、そんな偶然があるなんて。
「うん」
拓哉が頷いて、それから少し複雑な表情を浮かべた。
「だから、なんか……嬉しくなっちゃったんだよ。同じような人に会えて」
拓哉の言葉に、俺の胸の奥が温かくなった。同じような……そうか。
「でもさ」
拓哉が空港の椅子を指差す。
「ちょっと座って話さないか?立ちっぱなしも疲れるし」
「うん」
俺たちは近くのベンチに腰を下ろした。拓哉はカメラを膝の上に置いて、少し遠くを見つめるような表情をしている。
「俺の母さんのチック症って、けっこう目立つんだよ」
拓哉がぽつりと話し始めた。
「時々、急に大きな声を出しちゃうときがあるんだ。独り言みたいに、『あ、そうそう!』とか『危ない!』とか……周りの人がびっくりするくらいの声で」
俺は黙って聞いていた。拓哉の話し方が、いつもより少し静かで、真剣だった。
「小さい時の俺は……正直、そんな母さんが嫌だった」
拓哉が俯きながら続ける。
「人前で急に変なこと言い出すの見てると、一緒にいるのが恥ずかしいって思ったりしてたんだよ……まあ、俺がガキだったってのもあるんだけど」
拓哉が頭を掻きながら苦笑いする。その表情には、今でも当時のことを申し訳なく思っている気持ちが滲み出ていた。
「でもさ、母さんって全然辛そうな顔しないんだよ」
拓哉が顔を上げて、俺の方を見る。
「それどころか、全然気にしないって感じで……いつもニコニコ笑ってて。だから余計に、俺はイライラしちゃうっていうか……なんで平気なんだろうって」
「……うん」
俺にはその気持ちがよく分からなかった。俺だったら、もっと落ち込んでしまうと思う。人前で症状が出たら、きっと恥ずかしくて仕方ないだろう。
「だから、ある日思い切って聞いたんだ」
拓哉の目が、少し遠くを見つめている。
「周りから変な目で見られたり、馬鹿にされたりして、辛くないのかって……そしたら母さんが教えてくれたんだ」
拓哉が俺の方を向いて、今度は屈託のない笑顔を見せた。
「なんて?」
「『誰かの気持ちや考えを変えるのって、すごく難しいことなのよ』って」
拓哉がゆっくりと話し始める。
「『どんなに頑張っても、変えることができない場合だってある。でも、自分自身を変えることは、いくらでもできるんだ』って」
「自分自身を……変える……」
俺は拓哉の言葉を反復するように呟いた。その言葉が、胸の奥で静かに響いている。
「そう。母さんは、自分自身を変えていくことにしたんだって」
拓哉がクスリと笑いながら続ける。
「『言いたい奴には好きなだけ言わせておけばいい。周りの声に振り回される人生なんて、もったいないでしょ?』って」
その言葉に、俺の心がざわめいた。今まで俺は、いつも周りの目を気にして生きてきた。チック症のことも、音楽のことも、全部人にどう思われるかばかり考えて。
「母さんは……」
拓哉の声が、少ししんみりとした調子になる。
「『毎日辛い顔を俺や親父に見せるような暗い毎日より、いつも笑って元気な顔を見せられるような自分になろう』って、俺が生まれた時に思ったんだって」
拓哉がそこまで話したとき、急にハッとした顔になった。
「うわっ!ま、また俺……」
拓哉がグッと口元を拳で押さえて、顔を真っ赤にしている。
「何か、お前の前だと調子狂うんだよな……くそ、こんな話、普段なら絶対しないのに……」
その慌てふためく様子に、俺は思わずクスリと笑ってしまった。
「な、なんだよ、笑うなって!」
拓哉がむすっとした顔をする。でもその表情も、どこか照れているのが分かって、なんだか微笑ましい。
「ごめん」
俺は笑いを収めて、拓哉をまっすぐ見つめた。
「俺のこと、励まそうとして話してくれたんでしょ?ありがとう、拓哉」
「や、やめろって!恥ずいだろうが」
拓哉が慌てたように顔を逸らす。
「別に励ましたりなんて……たまたま母さんとお前の症状が一緒だったから、話しただけだよ……ふん」
その素直じゃない反応に、俺はまた笑いそうになる。でも、拓哉の優しさは十分に伝わってきていた。
「拓哉のご両親、すごく仲がいいんだね」
「うん……」
拓哉の表情が、今度は嬉しそうになった。
「俺の両親って、小さい頃からの幼馴染同士だったらしいんだよ。でも母さん、チック症のせいで子供の頃からいじめられてて……」
拓哉がちょっと悲しそうな顔をして、それからまた明るい表情に戻る。
「でも親父は、そんな母さんをずっと守りたいからって、一緒になったんだって。かっこいいだろ?」
「うん、すごくかっこいいお父さんだね」
「だろ!親父は俺の憧れなんだ」
拓哉が目を輝かせながら言う。本当に、お父さんのことが大好きなんだな。その表情を見ていると、拓哉がどんな家庭で育ったのかが想像できる。
俺は空港の天井を見上げた。高い吹き抜けの向こうで、夕日がオレンジ色に輝いている。
拓哉の話を聞いていて、改めて思った。自分と同じように苦しんでいる人たちがいる。でも、みんながそれで全てを諦めているわけじゃない。拓哉のお母さんみたいに、自分を変えることで前向きに生きている人もいるんだ。
俺は今まで、自分がどう思われるかばかり気にしていた。でも、それって確かに、周りの声に振り回されているだけなのかもしれない。
北斗の言葉も思い出す。『毎回俺たちがお前の側にいるわけじゃねえんだぞ』
そうだ。俺は変わらなければいけない。いつまでも誰かに頼っていちゃダメなんだ。一人でもやれる力を、自分自身の中に見つけなければ。
「なあ、優斗」
拓哉が俺の肩を軽く叩く。
「お前の話も聞かせてくれよ。どんな時に症状が出るのかとか……もしかして、緊張した時?」
俺は拓哉の優しい表情を見て、少し心が軽くなった。同じような境遇の人に話すのは、思ったより楽だった。
「うん……緊張すると出やすいかな。あと、集中してる時とか」
「ピアノ弾いてる時も?」
「そう。でも不思議なことに、演奏に夢中になると、逆に出なくなることもあるんだ」
「へえ……音楽って、そういう力もあるのかな」
拓哉が興味深そうに言う。
「多分、音に意識が集中するからだと思う」
俺がそう答えると、拓哉が立ち上がった。
「だったら尚更だな」
拓哉が俺に手を差し出す。
「今こそ、あのピアノを弾くべきじゃないか?」
拓哉の差し出された手を見つめながら、俺の心の中で何かが変わりつつあった。さっきまで感じていた不安や躊躇が、少しずつ溶けていくような感覚。
「よし……」
俺は深く息を吸い込んで、ゆっくりと立ち上がった。
「俺、やってみるよ」
その言葉を口にした瞬間、何かが吹っ切れたような気がした。拓哉の笑顔が、さっきよりもずっと輝いて見える。
「おっ、そうこなくちゃ!」
拓哉が俺の肩を力強く叩いた。その手のひらの温かさが、背中を押してくれているみたいだった。
「よっしゃ、かっこよく撮ってやるから、思い切っていけよ優斗!」
拓哉がカメラを構えながら、興奮したような声で言う。その表情には、俺を心から応援してくれる気持ちが溢れていた。
「うん!」
俺は拓哉に向かって力強く頷いた。不思議と、胸の奥から勇気が湧いてくる。
ピアノに向かって歩き始めると、周りの景色がゆっくりと変わっていく。さっきまであんなに気になっていた人々の視線も、今はそれほど重く感じない。むしろ、この空間全体が俺を迎え入れてくれているような気さえしてくる。
「頑張れ!優斗」
拓哉の声が背中を押してくれた。
椅子に座ると、さっきの人だかりはいつの間にか散らばっていた。まるで俺が座るのを待っていたかのように、人々は思い思いの方向へと歩いていく。
そう、ここは空港なんだ。みんな、それぞれの目的地に向かっている。出張の途中のサラリーマン、旅行を楽しみにしている家族、大切な人に会いに行く恋人たち……。
俺の前を通り過ぎていく人たちは、まるで俺なんて存在しないかのように、自然に歩いていく。でも、それが今は心地よかった。変に注目されるより、この自然な空気の方がずっといい。
窓の向こうでは、大きな飛行機が滑走路をゆっくりと移動している。エンジンの音が、ガラス越しに微かに聞こえてくる。やがて、その機体は滑走路の端で向きを変えて、離陸の準備に入った。
俺も、ここから飛び立つんだ。
自分の足で立って、自分の足で前に進む。それは、ピアノも一緒だ。いつまでも誰かの声に振り回されていちゃダメなんだ。そのために、俺自身が変わらなければいけない。
鍵盤に指を置いて、目を閉じる。心に、まるでフィルターをかけるような感覚。雑音を遮断して、音だけを意識する。こうありたいという自分を、心の中で思い描く。
最初の一音を弾いた瞬間、世界が変わった。
指先が鍵盤を跳ねて、美しい音色が空間に広がっていく。一音、また一音。魂を込めるように、指先から音を紡いでいく。
ここには、評価する人も、批判する人もいない。ただ、俺と音楽だけがある。
メロディーが形作られていく。脳裏に響くのは、自分が奏でる音だけ。音の細部まで、指先を伝って全身に感じられる。まるで音と一体になっていくような、不思議な感覚。
真珠の笑顔が浮かんだ。北斗の励ましの言葉が聞こえる。美弥の真剣な表情も。そして、拓哉の温かい応援も。
でも今は、俺一人だ。俺が選んだ音楽を、俺の気持ちで奏でている。
指が鍵盤の上を滑っていく。メロディーが重なり合って、ハーモニーを作り出していく。音が積み重なって、一つの物語を紡ぎ出している。
ふと、目を開けた。
いつの間にか、俺の周りには再び人だかりができていた。でも今度は、さっきとは全く違って見える。みんな、本当に音楽を楽しんでくれているような、そんな表情をしている。
子供連れの家族、出張途中のサラリーマン、旅行中の若いカップル……色々な人たちが、それぞれの想いを胸に、俺の音楽に耳を傾けてくれている。
そして、少し離れた場所で、拓哉が夢中になってシャッターを切っている姿が見えた。カメラを構えた彼の表情は、本当に楽しそうで、集中していて……俺の音楽を、一生懸命に写真に収めようとしてくれている。
俺は、ふっと微笑んだ。
そしてさらに、心地よい音色に心を委ねていく。今度は、聞いてくれている人たちのことも思いながら。この場にいる全ての人が、少しでも幸せな気持ちになってくれたらいいな、そんな想いを込めて。
音楽が、俺と世界を繋いでくれている。
窓の外では、さっきの飛行機が勢いよく空に舞い上がっていく。その機体が青空に溶けていくのを横目で見ながら、俺も心の中で、大きく羽ばたいていた。