第66話 茜空の出会い
最後のチャイムが響き渡ると、教室は一気に慌ただしくなった。椅子を机にしまう音、鞄をガサガサと漁る音、友達同士の明日の約束を交わす声——いつもの放課後の光景だ。
俺は自分の席で、ゆっくりと教科書をしまいながら、ふと真珠の席に目をやった。彼女はいつもより慌てた様子で荷物をまとめている。シャープペンシルを落としそうになったり、ノートを逆さまに鞄に突っ込みそうになったり——普段の真珠らしくない、せかせかとした動きだった。
「あ、もうこんな時間……」
真珠が小さく呟きながら、急いで立ち上がる。その時、俺と目が合った。
「あ、優!えっと……今日はちょっと急いでるから、また明日ね!」
いつもの明るい笑顔を浮かべてはいるけど、どこか上の空で、視線も落ち着かない。昨日の事や用事の件といい、やっぱり何か隠し事をしているような気がする。
「うん、気をつけて帰れよ」
俺がそう声をかけた時には、真珠はもう教室の扉に向かって小走りで向かっていた。その後ろ姿を見送りながら、俺は複雑な気持ちでため息をついた。
真珠が廊下に消えていくと、教室にはまだ残っている数人のクラスメートの雑談が聞こえてくる。ふと、昨夜の北斗との電話のことが頭の中に過る。
ストリートピアノ行脚——一人でやってこい、あの課題の事だ。
俺はスマホを取り出して、北斗から送られてきたPDFファイルを開いた。都内の色々な場所に設置されたストリートピアノの一覧表。新宿、渋谷、上野、東京駅……そして羽田空港。
「まずはここから行ってみるか……」
羽田空港のピアノが一番アクセスしやすそうだった。それに、空港なら人の流れも自然だし、観光客も多いから、少しは気が楽かもしれない。
教科書を全部鞄にしまい込んで、俺は席を立った。教室にはもう数人しか残っていない。夕方の斜めの光が窓から差し込んで、机の表面に長い影を作っている。
学校から最寄りの駅まで歩く間、俺の心臓はずっとバクバクと鳴り続けていた。本当に一人でストリートピアノなんて弾けるんだろうか。知らない人たちに囲まれて、注目を浴びながら——想像しただけで手のひらに汗が滲んでくる。
でも、北斗の言葉を思い出す。『毎回俺たちがお前の側にいるわけじゃねえんだぞ』
確かにその通りだった。これまで何度も、仲間がいるから頑張れた場面があった。でも、本当の意味で成長するためには、一人で立ち向かわなければいけない時が来る。
地下鉄の改札をくぐると、平日の夕方らしい適度な混雑だった。サラリーマンや学生、買い物帰りの主婦たち——色々な人が行き交っている。羽田空港行きのホームに向かいながら、俺は深呼吸を繰り返した。
ホームに到着すると、ちょうど電車が滑り込んできたところだった。ブレーキの音が響いて、やがて静かに停止する。
「次は羽田空港第一・第二ターミナル、羽田空港第一・第二ターミナルです」
車内アナウンスが響く中、扉がシューッと開いた。
俺は電車から降りてくる乗客の流れを避けながら、扉の前で待っていた。心の中で、今日こそは一歩踏み出すんだ、と自分に言い聞かせる。
その時だった。
俺のすぐ隣で待っていた、同年代くらいの男子が、急いで降りてきたスーツ姿のサラリーマンと肩がぶつかった。
「あっ!」
男子が持っていた大きなショルダーバッグのファスナーが開いていたらしく、中身がバラバラとホームに散らばってしまった。ペンケースやノート、そして——何か大切そうな機械も転がっている。
スーツの男性は振り返りもせず、足早に階段に向かって消えていく。
「あ~やべえ……」
男子が慌てて膝をついて、散らばった荷物を拾い始めた。でも乗客たちは続々と電車に乗り込んでいて、足元の荷物を避けながら歩いている状況だ。
俺は迷わず彼の隣にしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
手の届く範囲にあったペンケースとノートを拾い上げながら、俺は声をかけた。
「あ、す、すまん!」
顔を上げた男子は、確かに俺と同じくらいの年齢に見えた。少し茶色がかった髪に、人懐っこそうな目をしている。今は慌てているけど、普段は明るい性格なんだろうな、という印象を受けた。
どこか北斗を思い出させるような、親しみやすい雰囲気がある。
「いえいえ、それより——」
俺が机に転がっている黒い物体に手を伸ばそうとした時、電車の車掌さんの声が響いた。
「扉が閉まります。ご注意ください」
「あ、やばい!」
男子が慌てて荷物をかき集める。俺も急いで手近にあった物を拾った。
「それより扉閉まっちゃうから、早く乗りましょう」
「あ、ああ!」
俺たちは慌てて電車に飛び乗った。荷物を抱えたまま、なんとか車内に滑り込む。扉が閉まる音が背後で響いた時、俺たちは顔を見合わせて、ほっと息をついた。
電車のモーター音が響き、窓の外に街の風景がゆっくりと流れ始める。
「はあ……やべぇ、本当に危なかった」
彼は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、心底ほっとしたような表情を浮かべている。車窓の外を流れる景色を一瞬見つめてから、俺の方を振り返った。
「間に合って良かったよ、マジで」
そう言いながら、彼は少し恥ずかしそうに笑う。その時、俺は自分の手にまだ何かを握りしめていることに気づいた。さっき慌てて拾った荷物の一つだ。
「あ、これ……」
俺が手を開くと、そこには黒い厚手のクッション材で覆われた、ずっしりと重い物があった。形からして、きっと精密機械の類いだろう。
「はい、これ」
俺がそれを彼に差し出すと、彼の顔がパッと明るくなった。
「あ、」
受け取った瞬間、彼がクッション材の隙間から中身を確認する。ちらりと見えたのは、明らかにプロ仕様の一眼レフカメラだった。俺が知ってるような安いデジカメとは全然違う、本格的な代物だ。
「いやー、マジで助かったわ!お前のおかげだよ」
彼が俺に向かって深く頭を下げる。その真摯な態度に、俺は少し照れくさくなった。
「あんなに人いたのに、手伝ってくれたのお前だけだったしさ。お前、めちゃくちゃ良い奴だな!」
そんな風に言われると、なんだか面映い。別に特別なことをしたつもりはないんだけど。
「いや、電車来てたしね。仕方ないよ」
俺は曖昧に答えながら、でも気になることがあった。さっき地面に落ちた時、結構な音がしていたような気がする。
「それより……そのカメラ、大丈夫?」
俺が心配そうに聞くと、彼は少し驚いたような顔をした。
「さっき結構強く当たってたみたいだけど、壊れたりしてない?」
彼はカメラを大事そうに抱え直しながら、苦笑いを浮かべた。
「ああ、これな。一応、衝撃吸収の専用ケースに入れてるから大丈夫だと思うんだけどさ……」
そう言いながら、彼はカメラのケースを少しめくって中身を確認し始める。その真剣な表情を見ていると、本当にこのカメラを大切にしているのが伝わってきた。
「……でもさ」
突然、彼がくすりと笑い声を漏らした。
「お前って面白い奴だな」
「え?」
俺は戸惑った。何が面白いんだろう。
「そ、そうかな?」
「だってさ、荷物拾ってくれただけでも十分親切なのに、今度はカメラの心配まで……」
彼の笑顔がさらに大きくなる。
「普通、赤の他人の物をそこまで気にしないだろ?お人よしって言うかさ……でも、そういうの、良いよな」
言われてみれば……でも、俺にとってはごく自然なことだった。音楽をやってるからかもしれないけど、楽器が壊れるかもしれないという不安は痛いほど分かる。
「あ、そうだ」
彼が急に右手を差し出してきた。
「改めて自己紹介しようか。俺、佐伯拓哉って言うんだ」
握手を求めているのが分かって、俺は慌てて彼の手を握り返した。思ったより力強い握手だった。
「俺は天川優斗です。よろしく」
「優斗か……」
拓哉——彼がそう言いながら、満足そうに頷く。その人懐っこい笑顔を見ていると、なんだか安心できる気がした。
「優斗って呼んでも良いか?敬語とかも堅苦しいしさ、普通に話そうぜ」
そのフランクな物言いに、俺は少し驚いた。初対面なのに、こんなに気さくに話しかけてくれるなんて。でも、全然嫌な感じはしない。むしろ、すごく話しやすい雰囲気だった。
なんとなく北斗を思い出した。あの人懐っこさとか、相手との距離感を一気に縮めてくる感じとか、どこか似ている。
「うん、よろしく……拓哉」
俺がそう答えると、拓哉の顔がパッと輝いた。
「よっし!」
拓哉が車内を見回すと、奥の方に二人分の座席が空いているのが見えた。平日の夕方だから、まだそれほど混雑していないのだろう。
「あそこ座ろうぜ、優斗。立ちっぱなしも疲れるしさ」
拓哉が俺の肩を軽く叩きながら言う。その自然な親しみやすさに、俺は思わず苦笑いした。本当に北斗みたいだ。
「そうだね」
俺たちは空いている席に向かって歩いた。車内では数人のサラリーマンがスマホを見ていたり、学生らしき人がイヤホンをつけて音楽を聞いていたり、いつもの夕方の電車の光景が広がっている。
席に座ると、拓哉は早速カメラのケースを開け始めた。中から現れたのは、やっぱり本格的な一眼レフカメラ。ボディは重厚感のある黒で、レンズも立派だった。俺が今まで見たことのあるカメラとは、明らかに格が違う。
拓哉はカメラを膝の上に置くと、電源を入れて液晶画面を確認し始めた。その真剣な表情を見ていると、このカメラに対する愛情が伝わってくる。
「……よし、無事みたいだ」
一通り確認を終えた拓哉が、ほっとした様子でつぶやく。本当に安心したんだろうな。
「すごいカメラだね……本当に本格的って言うか」
俺が素直に感想を言うと、拓哉が少し照れたような笑顔を見せた。でも、その目には確実に誇らしさが宿っている。
「これか?」
拓哉がカメラを少し持ち上げて見せながら、照れたような笑顔を浮かべた。
「バイトで貯めた金で買ったんだよ。半年がかりでようやく手に入れたんだ」
その時の拓哉の表情には、苦労して手に入れた物への愛着が滲み出ていた。
「親父がプロのカメラマンやってるんだけどさ、小さい頃からずっと憧れてて……でも親父のカメラは触らせてもらえなかったから、自分で買うしかなかったんだよな」
拓哉が頭を掻きながら、少し恥ずかしそうに続ける。
「買った瞬間からもう我慢できなくてさ、学校終わったら毎日どこかしら撮影に出歩いてるんだ。今日も朝からウズウズしちゃって、授業中もずっとこのことばっかり考えてた」
その言葉を聞いていると、拓哉の写真への情熱がひしひしと伝わってくる。俺も音楽に対しては同じような気持ちを抱いているから、なんだかすごく共感できた。
「すごい……拓哉は本当にカメラが好きなんだな」
俺が心から感心して言うと、拓哉の顔がさらに明るくなった。
「ああ、もう写真のことになると止まらなくてさ……」
そこで拓哉が急に俺をじっと見つめた。
「ってかお前、なんか話しやすいよな。普通、初めて会った奴にこんなペラペラ喋らないんだけど」
確かに俺も同じことを感じていた。これも真珠たちのおかげだろうか。
「そうそう、」
拓哉がそう言いながら、ふと窓の外を見た。
「今日もさ、羽田空港で飛行機撮りに行こうと思ってたんだ。空港って被写体の宝庫なんだよ。離陸する瞬間とかもう凄くてさ!」
拓哉の目がキラキラと輝いている。本当に写真が好きなんだな。
「優斗は?羽田に何か用があんのか?」
その質問に、俺は少し躊躇した。ストリートピアノを弾きに行くなんて、なんだか恥ずかしくて言いづらい。でも、拓哉の素直な笑顔を見ていると、嘘をつくのも申し訳なくなった。
「俺は……えっと……」
俺はもじもじと手をいじりながら答えた。
「実は、ピアノが趣味で……空港にピアノがあるって聞いて、弾きに行ってみようかなって」
まあ、嘘はついてないよね?北斗に課題を出されたとか、一人で修行しろとか言われたとか、そういう細かいことは言わなくても。
「へ~!ストリートピアノってやつ?」
拓哉が興味深そうに身を乗り出してきた。
「いいじゃん、それ!めちゃくちゃ面白そう!人前で演奏するんだろ?すげーな」
拓哉の反応は、俺が予想していたよりもずっと好意的だった。馬鹿にされたりしないんだな。
「そんな大したことじゃ……」
俺が謙遜しようとした時、拓哉が急に身を乗り出してきた
「なあ、優斗!」
「な、なに?」
突然のことに俺は慌てた。拓哉の目が、さっきよりもさらに輝いている。
「それさ、撮影させてもらっていいか?」
拓哉がカメラを持ち上げながら、興奮した様子で言う。
「このカメラ、写真だけじゃなくて動画も撮れるんだよ。めちゃくちゃ高画質で」
え、撮影?俺のピアノを?
「人物写真ってまだ全然やったことなくてさ、でもピアノ弾いてる人なんて最高の被写体じゃん!」
拓哉がぐいぐいと身を乗り出してくる。その勢いに圧倒されそうになった。
「なあ、いいだろ?お願い!いや、お願いします!」
なんだかこの積極的な感じ、北斗にそっくりだ。一度決めたら突き進んでいくタイプなんだろうな。
「わ、分かったから……落ち着いて」
俺は拓哉をなだめるように手をひらひらと振りながら苦笑いした。でも、嫌な気持ちは全然しない。むしろ、拓哉の純粋な熱意に心を動かされつつあった。
「よっしゃ!ありがとうな!」
拓哉が子供のようにはしゃぎながら、カメラの設定をいじり始める。
「どんな風に撮ろうかな……角度とか、ライティングとか……」
液晶画面を覗き込みながら、真剣に考え込んでいる拓哉。その集中した横顔を見ていると、俺も思わずクスリと笑ってしまった。
真珠たちもそうだけど、好きなことに夢中になってる人を見るのは、なんだか微笑ましい。
そんなことを考えていると、車内アナウンスが流れた。
「次は羽田空港第一・第二ターミナル、羽田空港第一・第二ターミナルです。お降りのお客様は、お忘れ物のないようお気をつけください」
拓哉がパッと顔を上げた。
「お、着いたじゃん!」
電車がゆっくりと減速していく。ブレーキの音が響いて、やがて完全に停止した。扉が開く音と共に、乗客がぞろぞろと降り始める。
「よっしゃ、行くぞ優斗!」
拓哉が俺の背中をぽんと押しながら立ち上がった。
「お、押すなって」
俺は慌てて言ったけど、本当は嫌じゃなかった。むしろ、同年代の男子とこんな風に絡むのも悪くない、そんな気さえ感じていた。
今まで学校では、なかなか男子の友達ができなかった。陽介とは中学の頃までは良く絡んでいたけど、今となって思い返せば、あの想い出は全て……でも、裏表のなさそうな拓哉となら、きっと楽しく過ごせそうな気がする。
俺たちは電車を降りて、羽田空港へと向かうエスカレーターに乗った。拓哉は相変わらずカメラの設定をいじりながら、わくわくした様子で呟いている。
「どんな演奏するか楽しみだな……なんかワクワクしてきた!」
俺も、なんだかだんだん楽しみになってきた。一人で行くつもりだったストリートピアノ行脚が、思いがけない出会いによって、全く違うものになりそうだった。
エスカレーターを昇り切ると、ビル群に沈む夕日から、鮮やかな茜色の陽が差し込んできた。思わず手をかざし目を細める。
「よし……」
小さくそう呟き、妙な期待と緊張感を胸に抱きながら、俺たちは駅の改札口を抜けて歩き出した。




