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第65話 躊躇いweek

 湯気がまだ立ち上る浴室から出て、俺はタオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら自分の部屋へ向かった。今日は一日中色々なことがあって、頭の中がまだ整理できていない。


 真珠の父親の話、カルマとPRISMとの三つ巴のオーディション、そして何より——真珠からあの写真。


 部屋のドアを開けると、机の上に置いたスマホが明滅している。着信だ。画面を見ると「北斗」の文字が踊っていた。


「はいはい、出ますよ……と、もしもし?」


 俺は濡れた髪にタオルを巻いたまま、通話ボタンをタップした。


「よう、優。今いいか?」


 スピーカーから聞こえる北斗の声は、いつもの軽やかなトーンだった。でも何となく、普段より少しからかうような響きが混じっている気がする。


「ああ、うん。今風呂上がったところ。どうしたの?」


 時計を見ると、もう九時を回っている。北斗からこの時間に電話がかかってくるのは珍しい。


「いやあ、今日は色々盛り上がったなあ〜。特に君と真珠ちゃんのイチャイチャっぷりがさあ」


 電話口から聞こえる北斗の声に、明らかにニヤけている気配が感じられる。俺は思わずベッドに腰を下ろした。


「べ、別にイチャイチャなんてしてないだろ!」


「ほほう?でも手つないで帰ってたじゃん。しかも恋人繋ぎで……」


「はあっ!?な、なんでそれ知ってんの!?あっ!いや、もしかして跡を……」


「しかもほっぺに……いや~途中から美弥が鉄パイプ持ち出したから、止めるの大変だったぜこっちは」


「て、鉄パイプ!?ていうかそこも観てたの!?あ、あ、あれはその……」


 言い訳をしようとしたけど、確かに真珠と手を繋いで帰ったのは事実だった。しかも、頬にキスまでされて——思い出すだけで、また顔が熱くなってくる。


「ふふん、照れてるじゃねえか。で、どうだった?真珠ちゃんの唇の感触は」


「ちょ、そんなこと聞くなって!」


 俺は慌てて声を上げた。北斗のからかい方が、だんだんエスカレートしてきている。


「まあまあ、そんなに慌てるなって。でもよ、優」


 北斗の声が、急に少し真剣なトーンに変わった。


「真珠から送られてきた写真、ちゃんと堪能したか?」


 その瞬間、俺の血の気が引いた。


「え……え?何の話?」


「とぼけるなって。ほら、真珠が対抗して撮ったやつ。あの写真だよ。どさくさに紛れて消してねえだろお前」


 心臓がバクバクと鳴り始める。確かに俺は、あの写真を——消そうと思いながらも、結局まだスマホに残したままだった。


「べ、別に保存なんて……」


「はあ?嘘つけ。お前の反応見てりゃ一発でわかるわ」


 北斗の声に、呆れたような笑いが混じる。


「まあ、男なら当然っちゃ当然だけどな。でも真珠にバレたら大変なことになるぞ?」


「わ、分かってるよ……」


 俺はタオルで顔を覆いたくなった。北斗には何もかもお見通しなんだろうか。


「しっかし……」


 北斗が深いため息をついた。


「前々から思ってたけどよ、お前のそのすぐビビり散らかすところ、いい加減どうにかしねえとな」


「え?なに突然……?」


 突然話題が変わって、俺は戸惑った。


「真珠から聞いたぞ。カルマとセッションした時のこと」


 カルマ——その名前を聞いた瞬間、俺の胸がぎゅっと締め付けられた。


「お前、かなり調子悪かったらしいじゃねえか。真珠が心配してたぞ?『いつもの優じゃなかった』って」


 北斗の言葉が、俺の心に重くのしかかる。確かにあの時は、カルマの圧倒的な存在感に完全に呑まれてしまった。普段なら弾けるはずの曲も、指が思うように動かなくて——


「うっ……それは、その……色々理由があって」


「どうせあれだろ?カルマと比べられたりなんかして、それで動揺したとかそんなとこじゃねえの?」


 北斗が鼻で笑う。その通りすぎて、俺は反論する言葉を失った。


 確かにカルマの才能を目の当たりにして、自分がちっぽけに思えた。真珠に告白したという事実や、あの時の二人の会話、色々なものが胸に刺さっていた。そして何より——真珠がカルマの音楽に心を奪われている様子を見て、嫉妬というか、諦めというか、複雑な感情が渦巻いていた。


「……」


 俺は押し黙った。ぐうの音も出ない。


「にしてもよ、毎回俺たちがお前の側にいるわけじゃねえんだぞ?何かあるたんびに実力出せねえってのは、やべえだろ。違うか?」


 北斗の声が、少し厳しくなった。


「これからオーディションもあるし、もしタイアップが決まったら、もっと色んな場面で一人で戦わなきゃいけない時が来る。そん時にビビって実力出せませんでしたじゃ、話にならねえよ」


 北斗の言葉が、胸にずしりと響く。確かにその通りだった。今まで何度も、心が乱されて本来の力を発揮できないことがあった。そのたびに、真珠や北斗、美弥がそばにいてくれて、支えてくれていた。


 でも、これから先——もし本当にプロの世界で戦うことになったら、一人で立ち向かわなければいけない場面が必ず来る。


 いや、むしろ本来なら、ピアニストの姿はそうでなくてはいけなかった。孤独なステージで、ピアノと向き合い、己の全てをぶつける場所。それが今の自分にできているかというと、確かに北斗の言う通り疑問だ。


「……うん」


 俺は小さく頷いた。


「北斗の言う通りだ……」


 認めるのは悔しかったけど、これは俺にとって今後を左右する大きな課題なのかもしれない。メンタル面の弱さ——それが俺の最大の弱点だった。


「そこでだ……」


 北斗の声が、急にニヤリとした響きに変わった。


「ふふふ、優よ。お前に特別任務を与えようぞ」


 突然大げさな口調になった北斗に、俺は眉をひそめた。


「な、何だよ急に。気味悪いぞ……」


「まあ聞けって。今からお前にデータ送るからよ」


 北斗の声に、不敵な笑みが混じっている。


「お前、ストリート行脚してこい」


「え……あんぎゃって?」


 聞き慣れない言葉に、俺は戸惑った。


「行脚だよ、行脚。あちこち回って修行することだ」


「ストリート……って、まさか」


 嫌な予感が胸をよぎる。


「お前、色んなとこにあるストリートピアノで演奏してこい。ああ、ちゃんと動画も撮ってこいよ?後で見せてもらうからな」


 北斗の口調が、すでに決定事項のように聞こえる。


「いやいやいや、ちょっと待てよ北斗!いくらなんでも急すぎないか?」


 俺は慌てて抗議した。ストリートピアノで……しかも俺が一人で……


「急でもねえよ。お前の弱点は前から分かってたからな」


 北斗の声が、少し真剣になった。


「お前はさ、変なとこで実力発揮したりもするけど、精神的に安定しねえのが問題なんだよ。いいチャンスだと思って、誰の力も借りずに一人でやってみろ」


「ひ、一人で……」


 俺の声が、情けなく震えた。


「そうだ。いいか?天川優斗として堂々とやるんだぞ?馬の被り物なんてなしだ」


 北斗の声に、からかうような響きが戻ってきた。


「それに、やらなかったらお前が真珠の写真まだ消してないって、真珠にバラしちゃうかもな〜」


「ま、待って!それだけは!」


 俺は思わずスマホに向かって叫んだ。そんな事をバラされたら、真珠に何をされるか分からない。


「お~し、なら決まりだな。気張れよ、優」


 北斗の不敵な笑い声が聞こえた後、通話が切れた。


「おい、北斗!北斗ってば!」


 俺は慌ててもう一度電話をかけようとしたけど、その前にメッセージの通知音が響いた。


 開いてみると、北斗から添付ファイルが送られてきている。PDFを開くと——都内の様々な場所に設置されたストリートピアノの一覧と、それぞれの場所を示したマップが表示された。


「ストリートピアノ行脚……か」


 俺は呟きながら、スマホの画面を見つめた。新宿、渋谷、上野、東京駅——本当に色んな場所にあるんだな。


 でも、一人でこんなところに行って、知らない人たちの前で演奏するなんて……考えただけで手のひらに汗が滲んでくる。


 だが、ふと、頭にカルマの顔が浮かんだ。


 天才ボカロP「カルマ」——真珠に告白した男。そして今回のオーディションでは、真珠のために特別な曲を作ってくるという。


 あの圧倒的な才能と、真珠への想い。それに対抗するには、俺も——


「これって……やっぱり負けるわけにはいかない……よな」


 俺は自然と握りこぶしを作っていた。


 真珠のこと、音楽のこと、そして自分自身のこと。色んな意味で、このオーディションは俺にとって大きな分岐点になる。


 ストリートピアノ行脚——確かに不安だけど、北斗の言う通り、俺には必要な修行なのかもしれない。


 スマホの画面に映るマップを見つめながら、俺は静かに決意を固めた。






 六月の朝は爽やかで、昨夜のもやもやした気持ちも少しは晴れた気がしていた。教室の扉を開けると、いつものように朝の準備をしているクラスメートたちの姿が目に入る。


「よっ、天川」


 前の席の田中が振り返って、軽く手を上げて挨拶してくれた。


「おはよう、田中」


 俺も自然に返事を返しながら、自分の席へ向かう。


「天川君、おはよう」


 隣の席の女子も、本を読みながら小さく声をかけてくれる。


「ああ、おはよう」


 当たり前のような、でも少し前までは当たり前じゃなかった光景。以前の俺なら、教室に入っても誰からも声をかけられることなんてなかった。むしろ、できるだけ目立たないように、ひっそりと席についていた。


 それが今では——音楽活動を始めてから、こうして自然にクラスメートと挨拶を交わせるようになった。別に特別仲良くなったわけじゃない。ただ、お互いを認識し合っているという、ごく普通の関係。


 でも、その「普通」が、俺にはとても嬉しかった。


 ふと、教室の一角に目をやる。千秋の席——いつものように、そこは空いていた。


 彼女がクラスに顔を見せなくなってから、もうずいぶん経つ。最初は体調を崩したのかと思っていたけど、これだけ長期間となると、何か別の理由があるのかもしれない。


 担任の先生も特に何も言わないし、クラスの雰囲気もいつも通りだから、きっと学校側には何らかの連絡が入っているんだろう。でも、同じクラスの一員として、少し気になってしまう。


 そんなことを考えながら鞄を置いていると——


「どーん!」


 突然の掛け声と共に、背後から何かが勢いよく俺の背中にぶつかってきた。


「うわあああ!」


 予想外の衝撃に、俺は思いっきり前につんのめった。机に手をついて何とか支えようとしたけど、勢いが強すぎて床に尻餅をついてしまう。


「隙あり〜!おっはよ〜、優!」


 振り返ると、真珠がいたずらっぽい笑顔を浮かべて立っていた。さっき俺の背中にぶつかってきたのは、どうやら真珠の——考えただけで顔が熱くなる。


「頼むから普通に挨拶してくれよ……」


 俺は情けない声を出しながら、真珠が差し出した手を掴んで立ち上がった。


「えー、つまんない。優が隙だらけだからいけないんだよ〜」


 真珠が頬を膨らませながら、でも楽しそうに笑っている。


「隙だらけって言われても……朝から体当たりされる心構えなんて、普通しないだろ」


 俺は制服についた埃を払いながら、ため息をついた。でも、真珠の屈託ない笑顔を見ていると、どうしても怒る気にはなれない。


「ねえねえ、昨日のファミレスの話だけど」


 真珠が急に声を潜めて、俺の耳元に近づいてきた。桜の香りのするシャンプーの匂いが、ふわっと鼻をくすぐる。


「オーディションの件、やっぱりワクワクしちゃうよね!どんなライブになるんだろう……でもさ、4人揃えばきっと大丈夫だよね、今ならなんだってできそうな気がするもん」


 真珠の言葉に、俺は頷いた。確かに、真珠や北斗、美弥と一緒なら——でも、その時昨夜の北斗の言葉が頭をよぎった。


 『毎回俺たちがお前の側にいるわけじゃねえんだぞ』


 ストリートピアノ行脚の件。一人で戦う力を身につけろという北斗の課題。


「あ、そうだ真珠」


 俺は思い切って口を開いた。


「今日の放課後、時間ある?」


 実は一緒に来てもらおうかと思ったわけじゃない。でも、真珠になら昨夜の北斗の話を相談できるかもしれない。一人でストリートピアノに挑戦するなんて、正直ビビってしまうのは事実だ。


「え?」


 真珠の表情が、一瞬こわばった。


「あ〜……」


 普段ならすぐに「うん!」と答えてくれる真珠が、なぜか言葉を濁している。視線も泳いでいて、どこか落ち着かない様子だった。


「ごめん、ちょっと今日は用事があって……」


 申し訳なさそうに、真珠が小さな声で答えた。


「あ、そ、そっか。うん、分かった……」


 俺は慌てて取り繕うように返事をした。真珠にも都合があるのは当然だ。でも——


 昨日のファミレスでも、真珠の様子が何となくおかしかった。お父さんからの電話の後、どこか上の空だったし、『命の恩人』の話も途中で慌てて誤魔化していた。


 そして今日も、こんな風に歯切れの悪い返事。


 真珠に限って隠し事なんてするはずがない、と思う。でも、最近の彼女は確実に何かを抱えているような気がする。


 それが何なのか、俺には分からない。聞いてみたい気持ちもあるけど、無理に詮索するのも違う気がして——


「キーンコーンカーンコーン」


 始業のチャイムが、モヤモヤとした俺の思考を中断させた。


「あ、始まっちゃう。じゃあ優、また後でね」


 真珠が慌てたように自分の席に向かっていく。その後ろ姿を見送りながら、俺も急いで席に着いた。


 でも、胸の奥にわだかまっている違和感は、チャイムが鳴り終わっても消えることはなかった。


 ストリートピアノの件も気になるけど、それ以上に真珠のことが気になる。彼女が何を抱えているのか、俺に話せない理由があるのか——


 朝の光が差し込む教室で、俺はぼんやりと、躊躇いがちな息を吐いた。

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