第63話 プレリュード
六月の夕暮れが窓ガラス越しに差し込み、ファミレスの店内を柔らかく照らしていた。エアコンの心地よい風と、他の客の穏やかな話し声が混じり合って、なんとも言えない安らぎを感じさせる。
久しぶりに、ステラノートのメンバー四人が一つのテーブルに揃っていた。
俺の向かい側には、つい先日コロナから復帰したばかりの美弥が座っている。相変わらずの無表情だけど、なんとなく顔色が良くなったような気がして安心した。その隣で頬杖をついているのは北斗だ。いつものパンク系の装いで、金髪が店内の照明に映えている。
そして俺の隣には――
「はい、あ~ん」
真珠が小さなスプーンでバニラアイスをすくい、俺の口元へとゆっくりと運んでくる。その仕草があまりにも自然で、まるで恋人同士みたいに見えるだろうな……と思いながらも、俺は素直に口を開けた。
甘いバニラの味が口の中に広がって、思わず「美味しい」と小さく呟く。真珠は満足そうに微笑んで、今度は自分の分をすくい始めた。
向かい側から、なんとも言えない視線を感じる。
「なあ……俺ら一体何を見せられてんだ?」
北斗が呆れたような、でもどこか面白がっているような表情で俺たちを見つめていた。片肘をテーブルに突いて、完全に観客モードに入っている。
「え?何って……」
真珠がきょとんとした顔で北斗を見返す。
「別に友達同士でこれくらい普通でしょ?お母さんと一緒にアイス食べる時だってあ~んするし」
あっけらかんとした様子で答える真珠に、俺は思わず苦笑いした。確かに真珠にとっては、これも日常の延長なのかもしれない。でも周りから見たら……。
「友達ね~……」
北斗が乾いた笑いを浮かべる。
「お前ら、だいぶバグってんなあ」
「バグって……何がよ~!」
真珠が頬を膨らませて抗議する。その様子がまた可愛くて、俺は思わず見とれてしまった。
美弥がコーヒーカップを手に取りながら、ぽつりと呟く。
「これくらいで私は動じない……」
相変わらずの無表情で、まるで何事もなかったかのような口調だった。
「ほお、余裕じゃねえか」
北斗がニヤリと笑いながら美弥を見る。その表情には明らかに何か企みがありそうで、俺は嫌な予感がした。
「私は夫の浮気の一つくらい我慢できる。正妻の余裕」
美弥がコーヒーに角砂糖を入れながら、淡々とした口調で言い放つ。
「お前も大概バグってんな……」
北斗がため息をつきながら言いかけて、ふと美弥の手元を見て表情を変えた。
「って、おい美弥。お前今入れてたの砂糖じゃなくて塩だぞ」
美弥がコーヒーカップを口に運んだ瞬間――
「ゴフッ!?ケホッケホッ!」
盛大にむせ返る美弥。その慌てっぷりに、俺たちは思わず笑ってしまった。
「だ、大丈夫?」
真珠が慌ててティッシュを差し出す。美弥は涙目になりながらも、相変わらず無表情を保とうとしていて、そのギャップがなんとも言えない。
「はは……そ、それより美弥、本当に元気になって良かったよ」
俺は安心したような気持ちでそう言った。
「見舞いに行けなくてごめんね。でも、こうしてまた四人で集まれて嬉しいよ」
「そりゃあ、うつったりしたらやべえだろ」
北斗が肩をすくめる。
「だ、大丈夫!、その時は私に移していいよ優!」
真珠が突然俺の腕を掴んで言った。
「人に移した方が治り早いって言うし!一緒に寝込んじゃえば看病もできるし一石二鳥だもん」
「そうくるか……はぁ~……」
北斗が深いため息をつく。
「こりゃ重症だな……」
「優Pがコロナになったら私が毎日看病してあげる」
美弥がコーヒーの塩味に顔をしかめながらも、真剣な表情で言う。
「じゃ、じゃあ私は毎日隣で歌歌ってあげるもん!」
真珠が美弥に張り合うように身を乗り出す。
「じゃあ私も横でギター弾く」
美弥が即答する。二人の間に火花が散っているような気がして、俺は慌てて手を振った。
「う、うん、ありがとう二人とも。でも普通に迷惑だからそれだけは……やめて」
苦笑いしながら答えると、北斗がにやりと笑った。
「ほお、じゃあ俺の時は二人とも頼むわ」
「北斗は大丈夫」
美弥が無表情のまま続ける。
「バカは風邪引かないって言うし」
「おい!喧嘩売ってんのはその口か?」
北斗が立ち上がって、美弥の両頬をぐにぐにと摘まみ始めた。
「いひゃいいひゃい……」
美弥が抗議するも、相変わらず表情は変わらない。その光景がシュールすぎて、俺と真珠は顔を見合わせて笑った。
そんな和やかな空気の中、真珠が突然何かを思い出したように声を上げた。
「あっ!そうだ北斗!」
急にスマホを取り出して、指を北斗に向ける真珠。その表情が一変して、なんだか鋭くなったような気がした。
「な、何だよ急に?」
北斗が美弥の頬から手を離して、警戒するように真珠を見る。
「いひゃい……」
美弥がぼそりと呟きながら、ほんの少し頬を擦っていた。
真珠の表情が急に変わったのを見て、俺の胸に嫌な予感が走った。彼女がスマホの画面を操作する指が、いつもより鋭く見える。
「これっ!」
真珠がピシャリと言いながら、スマホの画面を北斗に突きつけた。
その瞬間――
「げっ!」
「あっ……もしかして!」
北斗と俺が同時に声を上げてしまった。画面に映っているのは、間違いなくあの時の……北斗が送ってきた、あのきわどい写真だった。
頭の中が真っ白になる。っていうかなんで真珠があれを持ってるんだ?いつの間に……。
「な、何でお前がそれ持ってんだ!?」
北斗が慌てて真珠からスマホを奪おうと手を伸ばすが、真珠はひらりとそれを交わした。まるで猫のような素早さで、スマホを胸元にしっかりと抱え込む。
「説明が先でしょ!」
真珠の目が据わっている。普段の天真爛漫な彼女からは想像もつかないような、威嚇するような表情だった。まるで、番犬のように唸ってる。正直ちょっと怖い……。
「痴女……」
美弥がコーヒーカップを置きながら、ぼそりと呟いた。
「う、うるせぇ!」
北斗が顔を真っ赤にして、今度は美弥の頬を再び摘まみ始めた。
「優だって男なんだからスッキリさせてやろうと思って、親切心で送ってやったんだよ!悪気はなかったんだ!」
「いひゃいいひゃい……」
美弥が涙目になりながらも、相変わらず抗議している。
「むぅ~!」
真珠が頬を膨らませて、明らかに不満そうな表情を見せる。その怒った顔も可愛いんだけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺は恥ずかしさで死にそうになりながら、片手で額を押さえた。
でも仕方ないじゃないか、俺だって男なんだし……うん、そういう事にしておこう。
すると、突然真珠が立ち上り、鼻を鳴らして「ふん!」と声を出した。
「だったら私だって!」
次の瞬間、真珠は自分の制服のシャツの襟元を少し引っ張ると、そこに向けて自分のスマホのカメラを向けた。
「ちょ、ちょっと真珠!?」
俺が慌てて止めようとした時には、もうシャッター音が響いていた。
パシャリ。
そのまま真珠は素早くスマホを操作し始める。指が画面の上を踊るように動いて、何かを送信しているのがわかった。
「よし、送った!」
真珠が満足げに言った直後、俺のスマホから通知音が響いた。ポロンという軽やかな音が、今の俺には死刑宣告のように聞こえる。
「え……マジで送ったの?」
恐る恐るスマホを確認しようとすると、北斗が呆れたような顔で言った。
「別にいいけどよ……それ、絶対見えてんぞ」
その言葉に、真珠の顔が一気に真っ赤になった。
「え……え?……だ、ダメ!」
真珠が急に慌て始めて、俺の肩をペシペシと叩き始める。地味に痛い。
「い、今のなし!優、消して!すぐ消して!」
「わ、分かったから!落ち着いて!」
俺は慌てて真珠を宥めようとしたけど、彼女のパニックっぷりは止まらない。顔を両手で覆って、テーブルに突っ伏してしまった。
「うわああああ……何やってるんだろう私……」
真珠の嘆きの声が、ファミレスの静かな空間に響く。他の客がこちらを見始めているのに気づいて、俺はますます居心地が悪くなった。
「大丈夫、大丈夫だから。すぐ削除するし」
え?本当に削除しちゃう?いやしかし、これはさすがに……。
俺が慌ててフォローしようとすると、美弥がぽつりと呟いた。
「それぐらいで……スピカもまだまだ甘い」
その一言で、北斗が再び吹き出した。
「お前何目線だよそれ」
真珠は顔を上げて美弥を睨みつけたけど、その顔がまだ真っ赤なので全然怖くない。
俺はため息をついた。これ以上この話題が続くと、本当に心臓が持たない。
しばらくの間、テーブルに気まずい沈黙が流れた。真珠はまだ恥ずかしさから立ち直れずにいるし、俺も顔が熱いままだった。美弥は新しいコーヒーを注文して、今度は慎重に砂糖を入れている。
そんな空気を破ったのは、北斗だった。
「あ~……いちゃついてるとこ悪いんだけどよ」
「いちゃついてない!」
疲れたような表情で、大きくため息をつく。
「はいはい分かった分かった。で、そろそろ本題、言っていいか?」
「本題……?」
真珠がようやく顔を上げて、頭をぽりぽりと掻いた。
「あ、そっか!大事な話があるって言うから集まったんだった。ごめん、すっかり忘れてた」
そう、今日俺たちがここに集まったのは、昼休みに北斗から緊急で連絡があったからだった。「大事な話がある」という一言で、放課後にファミレスで集合することになったんだ。
俺は気持ちを切り替えるように深呼吸して、北斗の方を向いた。
「それで、大事な話って何?」
北斗の表情が急に真剣になる。いつものふざけた調子が消えて、何か重要なことを話そうとしているのがわかった。
「アニメタイアップの話だ……」
その言葉に、俺たちの空気が一変した。真珠も美弥も、一気に身を乗り出している。
「タイアップの?」
俺は少し安心したような気持ちになった。
「曲ならだいぶ出来上がってきたし、納期には十分間に合うと思うけど――」
「それがな」
北斗が俺の言葉を遮った。その表情は、先ほどよりもさらに深刻になっている。
「その件でさ……ちょっと厄介なことになってる」
北斗が頭を掻きながら言った瞬間、テーブルの空気が変わった。
「企画、ポシャりそうなんだよ」
「え!?」
真珠が椅子から身を乗り出して、目を見開いた。
「それってちまり……タイアップの話が無かったことになるってこと!?」
「向こうは違約金も払うつもりらしい……」
北斗の言葉に、俺の胸にずしりと重いものが落ちた。せっかく掴んだチャンスが、こんな形で終わってしまうなんて。
「そ、そんな……それはあまりにも……」
言葉が詰まって、思わず俯いてしまう。どうして急にこんなことになったんだろう。俺たちの音楽に何か問題があったのだろうか。
「おっと、話にはまだ続きがあるんだ」
北斗が手を上げて、俺たちの注意を引く。
「実はその件なんだけど、制作サイドからの話じゃないみたいなんだよ。ていうか制作サイドはむしろこっちにノリ気でさ、なんとかして俺たちに頼みたいって言ってる」
美弥がコーヒーカップを口に運びながら、静かに呟く。
「つまり……反対してるのはその上……スポンサー?」
「そういうことだな」
北斗が頷く。
「制作側とスポンサー側で意見が真っ二つに分かれてるってわけだ」
俺はため息をついた。結局、大人の事情に振り回されるということか。
「そんな……じゃあ僕たちはどうすることも……」
無力感が胸を締め付ける。どんなに頑張っても、こういう部分は俺たちにはどうしようもない。それに相手がスポンサーじゃ……。
「でもな」
北斗が急に顔を上げて、にやりと笑った。
「面白い話になってきたんだよ、これが」
「面白い?」
「監督がさ、スポンサーに提案したらしいんだ。『だったら公開オーディションみたいなことやりませんか』って」
俺は眉をひそめた。
「ネット配信で生ライブやって、視聴者投票で決めようってことになったんだよ」
「生ライブ……投票……」
俺はその言葉を繰り返しながら、まだ状況を飲み込めずにいた。
ところが、真珠は違った。
「何それ、めっちゃ面白そうじゃん!」
両手を叩いて、目をキラキラと輝かせている。その反応を見て、北斗が得意げに真珠を指差した。
「だろ?真珠ならそう言ってくれると思ったぜ」
北斗が拳を握って見せる。
「相手は誰なの?」
俺が聞くと、北斗の笑顔が少し曇った。
「それがまだはっきりしなくてな。でも、スポンサー推しってことは、それなりの相手だと思っといた方がいい」
「PRISM……とか?」
美弥がぼそりと呟く。
「あり得るな。あいつらなら確実にスポンサー受けはいいだろうし」
北斗が頷く。PRISMといえば、最近勢いのある男性ボーカルグループだ。確かに、商業的には申し分ない相手だろう。
「音でねじ伏せる……」
美弥がぽつりと呟く。いつもの無表情だけど、その目には確かな熱が宿っているのが見えた。
「シンプルで私向き」
「おっ!」
北斗が立ち上がって、美弥の方に手を差し出す。
「いいじゃん、一発かましてやろうぜ」
美弥も立ち上がって、北斗と軽く手を合わせた。パシンッという小さな音が、俺たちの決意を象徴しているようだった。
とんでもないことになった……。
俺は心の中でそう呟きながら、この新たな挑戦について考えていた。まさか、またライブをすることになるなんて。しかも今度は、オンラインでの投票という形で。
一抹の不安が胸をよぎる。相手がどんな人たちなのかもわからないし、どれくらいの規模になるのかも想像がつかない。
でも――
それ以上に、胸の奥でワクワクする気持ちが湧き上がってくるのを感じていた。
俺たちの音楽を、もっと多くの人に聞いてもらえるチャンス。そしてステラノートとして、正々堂々と勝負できる機会。
美弥も静かに頷いた。いつもの無表情だけど、その目には確かな闘志が宿っている。
俺は三人を見回しながら、胸の奥で何かが熱くなるのを感じていた。
確かに不安はある。相手がどんな人たちなのかもわからないし、ネット配信なんて経験もない。
でも――
それよりも大きな何かが、俺の中で燃え始めていた。
これまで積み重ねてきた全てを、音楽にぶつける時が来たんだ。
窓の外では、夕暮れの空がオレンジ色に染まり始めていた。新しい挑戦への序曲が、静かに始まろうとしている。