第62話 ふわふわ日和
結局、真珠に手を引かれたまま教室にたどり着いた俺は、ようやく解放されてほっと息をついた。
「じゃあ優、また後でね!」
真珠はそう言うと、振り返りながら自分の席へとスキップするように向かっていく。その後ろ姿を見送りながら、俺も重い足取りで自分の席に向かった。
しかし、教室に入った瞬間から感じていた視線は、席に着いても一向に和らぐ気配がなかった。あちこちから聞こえてくるひそひそ話が、やけに耳について仕方がない。
「マジであの二人手繋いでたよね……」
「スピカがなんで天川と……」
「え、付き合ってるの?」
鞄から教科書を取り出しながら、俺は肩身の狭い思いでいた。みんなが俺たちのことを話題にしているのがよくわかる。真珠は全然気にしていない様子だったけど、俺はどうしても周りの目が気になってしまう。
ノートを机の上に並べ、ペンケースを開きながら、なんとか普通を装おうとしていたその時だった。
「天川」
不意に声をかけられて、俺は顔を上げた。
そこには三人のクラスメートが立っていた。三好、村上、片桐。名前は知っているけれど、これまでほとんど話したことがない三人だ。いや、むしろ避けられていたと言った方が正確かもしれない。
特に三好は千秋と仲が良くて、以前俺の悪口を言っているのを聞いたことがある。三人とも微妙な表情で、なんだか言いにくそうにしている。
もしかして真珠のことで何か言われるのかな……そう思って身構えていると、三好が口を開いた。
「な、何?」
俺の声は思った以上に緊張していた。
「あー……いや、実は天川に聞きたいことがあってさ……」
三好が頭を掻きながら、なんとも歯切れの悪い調子で言う。村上と片桐も、なんだか気まずそうに視線を泳がせている。
何だろう、この空気。嫌な予感がしてきた。
「あの、天川君って……中学の頃に千秋と付き合ってたって本当?」
村上が恐る恐る、といった感じで口にした瞬間、俺の頭の中が真っ白になった。
「え?何でそれを……!」
思わず声が裏返る。まさか、千秋との関係がバレているなんて。
「え?その反応って、景子の言ってたことマジだったんだ……」
片桐が目を丸くして言った。景子?
「あ、いや、その……」
俺は慌てて否定しようとしたけど、言葉が出てこない。あまりにも突然のことで、頭が整理できずにいた。
「マジかよ……矢野の話、本当だったんだな……」
三好が深いため息をつく。その顔には明らかに困惑の色が浮かんでいた。
「矢野さん……?」
俺はその名前を聞き返した。矢野景子。確か俺たちと同じ中学で、千秋と仲の良い友達だった子だ。まさか彼女が……。
「矢野さんがね、千秋が中学の頃から天川君と付き合ってたって教えてくれたの。だから、もしかして今まで天川君の噂って……」
片桐が申し訳なさそうに俯きながら言った。
「教えてくれたっていうか、矢野の奴、いろんな奴に言いふらしてたぞ?」
三好が眉をひそめる。そんな彼に、村上が不満げに続けた。
「でもさ、千秋って浅間先輩と付き合ってるんでしょ?だとしたら本当にヤバいよね。浅間先輩が怒鳴り込んできた件も、あれって言いがかりだったってことでしょ?」
その言葉に、俺の胸がちくりと痛んだ。あの日のこと、浅間に突き飛ばされて、千秋が何も言わなかったこと。そのせいで俺はストーカー扱いされて……。
「二人とも、今はそこじゃないでしょ!もし間違ってたら謝ろうって約束したじゃない!」
片桐が三好と村上を窘めるように言った。その言葉に、俺は眉をひそめる。
「謝る……?」
「あー……その……天川、すまん」
三好がバツの悪そうな顔をしながら、頭を掻いて俺に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
続けて村上と片桐も深々と頭を下げる。
「えっと、それは一体……?」
俺は戸惑いながら三人を見た。何が起きているのかよくわからない。
「いや、今まで俺たち、お前のこと色々悪く言ってたからさ……もし矢野の話が本当なら、なんか申し訳ねえなって思っちまって……」
三好がそう言った時、俺の胸にじんわりと温かいものが広がった。
「だからごめんね、天川君!」
片桐も素直に謝ってくれる。
「マジでごめん。他の奴にも、この事は俺たちから説明しとくからさ……」
村上も申し訳なさそうに言った。
俺は少し考えてから、静かに答えた。
「あの……うん……分かった。三人とも、謝ってくれてありがとう」
心から感謝していた。今まで誤解されて、陰で悪く言われているのは辛かった。でも、こうして真実を知って謝ってくれる人がいるなんて。
「そっか……良かった……」
三好がほっとしたような顔をして、ふと千秋の席の方を見る。
「そういえば、肝心の千秋は今日も来てないみたいだな」
「この前から休んでるよね……バレちゃったから学校来にくいんじゃない?」
村上が少し不満げに呟いた。
その時、チャイムが鳴り響いた。
「あ、やべ!じゃあな、天川」
三好が慌てて自分の席に戻り、村上と片桐も俺にもう一度頭を下げてから、急いで席に向かっていった。
一人残された俺は、静かに深呼吸をした。
千秋との関係がこんな形でバレてしまうなんて、思いもしなかった。でも、もう隠す必要もないのかもしれない。俺は千秋ときちんと区切りをつけたし、今は……真珠がいる。
ただ、千秋のことが少し心配だった。学校を休んでいるということは、きっと辛い思いをしているんだろう。浅間先輩のことも含めて、これからどうなってしまうのか……。
そんなことを考えていると、担任の先生が教室に入ってきた。ざわついていた教室が一気に静かになり、みんな慌てて席に着いた。
俺も教科書を開きながら、今日という日がまた新しい始まりになりそうな予感を抱いていた。
一時間目から続いた授業も、気がつけばもう四時間目が終わろうとしていた。
国語、数学、理科……どの授業も上の空で聞いていた。先生の声が遠くから聞こえてくるみたいで、ノートに書いた文字も我ながらひどい有様だった。
頭の中は朝の出来事でいっぱいだった。三好たちの謝罪、千秋のこと、そして……真珠のこと。
時々、真珠の方を盗み見ると、彼女はいつもの調子で真面目に授業を受けている。でも、たまにこちらを振り返って、にっこりと笑いかけてくれる。そのたびに心臓がドキドキして、とても授業に集中できる状態じゃなかった。
四時間目の終了チャイムが鳴ると、俺は大きく背伸びをした。肩がガチガチに凝っている。緊張していたんだな、きっと。
周りのクラスメートたちは、いつものように友達同士で話し始めている。でも、時々俺の方をちらちら見る人もいて、まだ完全に普通の空気に戻ったわけではないみたいだった。
そんな中、いつものように真珠が俺の席にやってきた。
「優!屋上行こう!」
元気いっぱいの声で、いつものお誘い。このやり取りにも、だいぶ慣れてきた。
「今日もお弁当作ってきたの?」
俺が聞くと、真珠は得意げに胸を張った。
「もちろん!今日は特に頑張ったんだから、期待してていいよ!」
そう言いながら、真珠は俺の手を問答無用で掴んで引っ張り始める。
「ちょっと、また引っ張らなくても……」
「だって優、動くの遅いんだもん」
やれやれ、と思いながらも、俺は真珠に引かれるままに教室を出た。
廊下を歩きながら、俺は真珠の横顔を見つめていた。こうして毎日一緒にお昼を食べるようになって、どれくらい経つんだろう。最初は戸惑いもあったけど、今では当たり前のようになっている。
階段を上りながら、真珠がふと振り返る。
「今日、なんか朝からクラスの子たちがざわざわしてたけど、何かあった?」
俺は少し迷ったけど、素直に答えることにした。
「実は……千秋との関係がバレちゃったんだ」
「え?」
真珠が足を止めて、俺を見つめる。
「矢野さんって子が、みんなに話したらしくて……それで三好たちが謝りに来てくれたんだ」
「そうなんだ……」
真珠は少し考え込むような表情をして、それから明るく笑った。
「でも、それで良かったんじゃない?もう隠す必要もないし」
「うん、俺もそう思う」
屋上への扉が見えてきた。真珠が扉の前で立ち止まって、俺を振り返る。
「それに、大事なのは今でしょ?」
その言葉に、俺の胸がじんと温かくなった。
「真珠……」
「さ、お腹空いた!早く屋上行こう!」
真珠が扉を勢いよく開けると、初夏の爽やかな風が頬を撫でていった。青い空が広がって、白い雲がゆっくりと流れている。
こんな風に、時間も穏やかに流れていけばいいのにな……そんなことを思いながら、俺は真珠の後に続いて屋上に足を踏み入れた。
屋上の風が心地よく頬を撫でていく。真珠はベンチに座ると、嬉しそうに保冷バッグからお弁当箱を取り出した。
「じゃーん!今日の力作!」
蓋を開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。綺麗に詰められたお弁当の中には、黄金色に揚がったから揚げ、ふわふわのマッシュポテト、艶やかに焼かれたウインナーが並んでいる。
「うわあ……すごいな、これ」
「でしょでしょ!今朝早起きして頑張ったんだから!」
真珠が胸を張って自慢する姿が可愛くて、思わず笑みがこぼれた。
「から揚げ、上手く揚がってるね。衣がサクサクしてそう」
「えへへ……実は三回くらい失敗しちゃって」
真珠が頬を染めながら照れ笑いを浮かべる。
「三回も?大変だったでしょ」
「う、うん……最初は火が強すぎて焦げちゃって、二回目は中が生だったし……でも四回目でやっと成功したの!」
一生懸命作ってくれたんだな、と思うと胸が温かくなった。
「ありがとう、真珠。俺のために、そんなに頑張ってくれて」
「あ、あたりまえでしょ!優のためなら何だってするもん」
真珠がぷいっと顔を逸らすけど、耳まで赤くなってるのがよくわかる。
一口食べてみると、外はカリッと中はジューシーで、本当に美味しかった。
「美味しい!本当に上手く揚がってる」
「ほ、本当?」
真珠の目がぱっと輝く。
「本当だよ。マッシュポテトも滑らかで美味しいし、ウインナーもちょうどいい焼き加減」
「やったあ!」
真珠が嬉しそうに両手を上げて喜ぶ姿に、俺も自然と笑顔になった。
「でも、よくこんなに上手に作れるようになったね」
「実は……お母さん、料理があんまり得意じゃなくて」
真珠が少し困ったような顔をする。
「え?そうなの?」
「うん。お母さん、歌手だから忙しくて料理する時間もあんまりないし、作っても……その……」
真珠が言いにくそうに口ごもる。
「大変なんだね」
「だから最近、優子さんのこと考えてたの。今度、お料理教えてもらえないかなって」
俺の母の名前が出て、少し驚いた。
「母さんが?」
「だって、優子さんの手料理すごく美味しかったもん。あんな風に作れるようになりたいな」
真珠の目が憧れるように輝いている。その姿を見ていると、なんだか胸がくすぐったくなった。
「母さん、きっと喜ぶよ。また真珠に会いたいって言ってたから」
「本当?」
「本当。今度一緒に家に帰る時にでも、聞いてみようか」
「うん!お願いします!」
真珠が手を合わせてお辞儀をする。そんな可愛い仕草に、俺の心臓がまたドキドキと鳴り始めた。
そのまま二人で楽しく食事を続けた。真珠の手作りお弁当は本当に美味しくて、気がつけばあっという間に完食してしまった。
「ごちそうさま。本当に美味しかった」
「良かった!頑張って作った甲斐があったよ」
真珠がほっとしたような笑顔を見せる。
「あ~お腹いっぱい。なんか眠くなっちゃうよね」
俺がのんびりと呟くと、真珠がハッとして俺を見つめた。
「……はい、どうぞ」
そう言いながら、真珠が自分の膝をポンポンと叩く仕草をする。
「へっ?あ、いやいいよ!」
真珠の言いたいことに気づいて、俺は慌てて両手を振った。膝枕なんて、恥ずかしすぎる。
「今誰もいないし、いいじゃん。ほら、早く」
真珠が俺の手を掴んで引き寄せようとする。
「ちょっと!」
体勢を崩した俺は、真珠の膝に真正面から突っ伏してしまった。
「きゃっ!もう!優のエッチ……」
真珠が恥ずかしそうに声を上げる。
「し、真珠が引っ張るからだろ!」
俺は慌てて寝返りを打って上を向いた。すぐ上には真珠の顔があって、頬が赤く染まっているのがよくわかる。
「えへへ、ふわふわ」
真珠が俺の髪を優しく撫で始める。その手つきがあまりにも優しくて、思わず目を閉じそうになった。
「こんなことしなくてもいいのに……」
申し訳なくて、つい呟いてしまう。
「いいの、私がしたいんだから。優の髪触るの好きなんだ。ふわふわで気持ちいい」
真珠が微笑みながら言う。その笑顔があまりにも優しくて、胸がじんと熱くなった。
「そ、そうなんだ……だったら……」
恥ずかしさで、真珠の真っ直ぐな瞳から視線を逸らしてしまう。
「あ……そういえば」
真珠が何かを思い出したように言った。
「え?何?」
「スマホチェック!」
真珠がそう言いながら、俺の上着のポケットからスマホを素早く取り上げた。
「ちょ、何で急に!」
俺が慌てても、真珠は俺を無視してスマホの画面を見ている。
「わあ!優Pのフォロワーめっちゃ増えてるじゃん!」
「あ、うん。北斗にも言われてたから、有名な人とはちゃんと相互フォローしてるよ」
俺が説明すると、真珠は「ふーん……」と言いながらスマホをポチポチと操作し始めた。
「真珠?何してるの?」
気になって聞くと、真珠は「ふむふむ、こんな感じかな」と独り言のように呟いている。
もしやと思って、俺は真珠からスマホを取り上げた。
「あっ!まだチェック終わってないのに!」
真珠が抗議するけど、俺は画面を見て愕然とした。
「うわっ!フォロー数めっちゃ減ってる……」
しかも、減っているのは女性のアイコンばかり。これ、前にもあったような……。
「ちょっと真珠、何で勝手に……」
上を見上げて真珠の顔を見ると、彼女の表情が冷たくなっていた。
「何か文句ある?」
真珠の目が全く笑っていない。ゾクッとするような冷たさだった。
「いや……何もありません……」
俺は思わず真珠から目を逸らした。
すると真珠が俺のスマホを再び取り上げて、また画面を見始めた。
「ん……?これ……」
真珠が小さく呟く。その声に何か異変を感じて、俺は真珠の顔を見上げた。
なんだか真珠の肩がプルプルと震えている。様子がおかしい。
突然、真珠が俺の顔にスマホの画面を突きつけてきた。
そこに映っていたのは……以前北斗のいたずらで送られてきた、北斗のきわどい写真だった。俺は全身が凍りついた。
「あ……それは、えーと、ふ、深い理由がありまして……し、真珠?」
俺がしどろもどろに言い訳を始めた瞬間、真珠が俺の両頬を思いっきり鷲掴みにした。
「いたっ!し、真珠痛い痛い痛い!真珠さん!」
「優のエロ助ー!」
真珠の怒りが爆発した。
「違うんだって!これは北斗のいたずらで……!」
「言い訳するなぁっ!!」
俺の断末魔の叫びが、青い空に響き渡った。
平和だった昼休みは、こうして地獄と化したのだった……。




