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第61話 恥ずかしさの基準

 六月の朝陽が頬を撫でていく。空気はまだひんやりとしていて、でも確実に夏へと向かう季節の匂いが混じっていた。


 俺は大きく背伸びをしながら、いつもの通学路を歩いていた。昨日のことを思い出すと、自然と口元が緩んでしまう。真珠とのデート……いや、あれをデートと呼んでいいのかまだ確信が持てないけれど、とにかく二人で過ごした時間は最高だった。


 あのカルマさんとの演奏は正直緊張で死にそうだったけど、最後まで真珠が見ていてくれた。それだけで十分だった。そして、その後の公園での出来事……。


 思い出すだけで顔が熱くなる。真珠の膝枕なんて、夢みたいな話だ。あの時の彼女の優しい手つき、髪を撫でてくれた感触、そして……額にされたあれは……。


「うへへ……」


 思わず変な笑い声が漏れて、慌てて口を押さえた。人に見られたら完全に変人扱いされる。でも、どうしても笑いが止まらない。昨日まで告白する勇気もなかった俺が、今はこんなに幸せな気持ちでいるなんて。


 真珠のことを考えていると、胸の奥がじんわりと暖かくなってくる。彼女の笑顔、無邪気な仕草、時々見せる少し恥ずかしそうな表情……全部が愛おしくて仕方がない。


 今日学校で会ったら、何て声をかけよう。昨日のお礼を言うべきかな。それとも、また今度一緒に出かけないかって誘ってみようか。いやいや、それはさすがに図々しいかもしれない。


 色々と考えを巡らせながら歩いていると――


「優!」


 突然、手を握られた。


「うわっ!?」


 思わず変な声が出て、驚きで体がビクッと跳ねる。慌てて振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた真珠が立っていた。


「おはよう優!」


 朝の陽射しを背負った彼女は、まるで妖精みたいに見えた。白金の髪が風に揺れて、藍色の瞳がきらきらと輝いている。


「お、おはよう……」


 まだ心臓がバクバクしている中、なんとか挨拶を返す。でも頭の中は混乱でいっぱいだった。


 真珠の家は確か俺の学校とは反対方向のはず。なのにどうして……?


「真珠、どうしてここに?君の学校、反対方向だよね?」


 疑問を口にすると、真珠は急に頬を染めて、もじもじと体を揺らし始めた。


「あ、えっと……その……実は昨日の夜、色々考えちゃって……」


 普段の堂々とした真珠とは違って、なんだかとても恥ずかしそうだ。俯きながら、指を絡め合わせて続ける。


「優の声、聞きたいなって思ったら……なんだか急に会いたくなっちゃって……」


「声って……電話でも良かったのに」


「それがね……電話しようと思って、何回もスマホ手に取ったんだけど……」


 真珠は頬を染めながら、小さな声で続けた。


「なんか、夜中に急に電話するのって、その……重いかなって思っちゃって……」


「重いって、そんなことないよ。俺だって真珠の声聞けるなら嬉しいし」


「ほ、本当?」


 真珠がぱっと顔を上げる。その瞬間の表情があまりにも輝いていて、俺はまた心臓の鼓動が早くなった。


「うん、本当。でも……朝からこんなに早く家を出たの?大変だったでしょ?」


「ううん、全然!だって……」


 そこで真珠は急に照れ笑いを浮かべて、握った俺の手をぎゅっと強く握った。


「優に会えるなら、ちょっとくらい早起きしても平気だもん」


 その言葉に、俺の胸は感動で熱くなった。誰かのために早起きしてくれるなんて、今まで経験したことがない。こんなに大切にされている実感が、じわじわと体全体に広がっていく。


「ありがとう、真珠……」


「えへへ、どういたしまして!それより優、昨日のお疲れ様!カルマ君との演奏、本当にかっこよかった!」


 真珠が急に明るい声になって、握ったままの手をぶんぶんと振りながら話し始めた。


「あ、そうそう!昨日のパスタ屋さんも良かったよね!優ってばあんなに物欲しそうにするんだもん!」


「え?そ、そんなに?」


 ってあれは食べたかったわけじゃないんだけどな……。


「うん!最初は遠慮してたのに、私がちょっと分けてあげたら、すごく嬉しそうな顔してたもん」


 真珠がくすくす笑いながら言う。その笑顔を見ていると、昨日の「あ~ん」の場面を思い出してしまう。


「あ、あれは……」


「あ……」

 真珠も同じことを思い出したのか、急に顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。


「あの時の優の顔、すっごく可愛かったなぁ……」


 小さな声で呟く真珠。その言葉に、俺の顔も一気に熱くなる。


「か、可愛いって……男に対してその表現は……」


「でも本当だもん。びっくりした顔して、でも嬉しそうで……また見たいなって思っちゃった」


「ま、また……?」


「あ……う、うん」


 真珠が慌てたように手で口を押さえる。


「え、えっと……つまり、その……また一緒に行きたいなって……」


「……本当に?」


「うん……だめ、かな?」


 上目遣いで見つめてくる真珠。その表情があまりにも可愛くて、俺は思わず頷いてしまった。


「だめじゃない。俺も……また一緒に行きたい」


「やったぁ!」


 真珠が嬉しそうに跳ね上がる。その時、繋いだ手も一緒に上がって、俺は思わずバランスを崩しそうになった。


「わわっ!」


「あ、ごめん!大丈夫?」


「う、うん……大丈夫」


 そんなやり取りをしている間に、ふと周囲の様子が変わったことに気づいた。いつの間にか学校が近づいてきて、周りに制服姿の生徒たちの姿がちらほら見え始めている。


 そして、みんながこちらを見ている。特に、俺たちが手を繋いでいることに視線が集中しているのがよくわかった。


「し、真珠……」


 俺は慌てて真珠の耳元に口を寄せる。


「見られちゃうよ……みんな、こっち見てる……」


「ん?」


 真珠がきょとんとした顔で周りを見回す。確かに何人もの生徒が、こちらを見ながらひそひそ話をしている。


「あ、本当だ。でも別にいいじゃん」


 真珠はあっけらかんとした声で答えた。その反応に、俺は混乱した。


「いいって……でも、みんな僕たちが手繋いでるの見て、変に思われるよ?」


「変って何が?手繋ぐのっておかしいの?北斗とはよく繋いでるよ?」


「いや、おかしくは……ない?けど、こんなに注目されてると……」


 ていうか北斗とは女同士でしょ……。


「優って心配しすぎだよ。それに……」


 真珠は一度立ち止まって、俺の方を向いた。


「私、優と一緒にいるのが恥ずかしいなんて思ったことないもん」


 その反応に、俺は混乱した。さっきまであんなに恥ずかしがっていたのに、手を繋ぐのは平気なのか?真珠が恥ずかしがる基準が、もはや俺には理解できない。


 でも、この反応に俺は別の感情も覚えていた。胸の奥が熱くなるような、嬉しい気持ちだ。


 こんな事、千秋の時はなかった。千秋は他の生徒たちに俺と一緒にいるところを見られるのを、極端に嫌がっていた。人前で手を繋ぐなんて絶対にしなかったし、誰かが近づいてきたらすぐに手を離していた。まるで俺と一緒にいることが恥ずかしいみたいに。


 けれど……今は違う。真珠は俺の手を離そうとしない。たとえどんな視線があっても、どんな噂を立てられても、俺の手をしっかりと握り続けてくれている。


 この事実だけで、俺の胸は感動で熱くなった。真珠は俺のことを恥ずかしいなんて思っていない。堂々と俺と一緒にいてくれる。


 でも、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。周りからの視線が痛いほど感じられる。


「え?なんであの二人手繋いでるの?」


「うそでしょ……?付き合ってんの?」


「おいマジかよ……あれスピカだよな……?」


「なんであんなのと……」


 案の定、ひそひそ話が聞こえてくる。特に最後の言葉は、直接的ではないものの明らかに俺のことを指している。胸が痛くなるような、でも今はそれよりも真珠に迷惑をかけてしまうことの方が心配だった。


 真珠だけは、そんな周囲の反応を全く気にしていない様子で、相変わらず俺の手を握ったまま歩き続けている。


「し、真珠?流石にこのままじゃ君の評判に関わるよ……」


 心配になって提案すると、真珠の表情が急に変わった。頬を膨らませて、なんだかムキになったような顔。


「むぅ~絶対やだ!離さない!」


「え?」


「絶対やだ!せっかく優に会えたのに、なんで離さなきゃいけないの?一日我慢したんだよ?」


 い、一日って……。


 真珠は握った手をさらに強く握ってきた。その力があまりにも強くて、俺は思わず悲鳴を上げる。


「いたたっ!痛いって真珠!」


「知らない!優が離そうとするからいけないの!」


「でも、みんな見てるし……」


「見てるだけでしょ?別に何かされるわけじゃないし」


「そうだけど……」


「それに、優は私と手を繋ぐのが嫌なの?」


 真珠が急に不安そうな顔になって、俺を見上げてくる。その表情に、俺は慌てて首を振った。


「嫌じゃない!全然嫌じゃないよ!むしろ……」


「むしろ?」


「む、むしろ嬉しい……」


 小さな声で呟くと、真珠の顔がぱっと明るくなった。


「だったらいいじゃん!私も優と手繋いでるの嬉しいもん」


「で、でも……」


「でもでもうるさーい!」


 真珠がぷんぷんと怒りながら、俺の手を引っ張って歩き始める。


「ちょ、ちょっと真珠!」


「ふんだ!優のくせに生意気言わないの!」


 結局、俺は真珠に引きずられるようにして学校へと向かうことになった。これじゃ手を繋ぐって言うより連行だよ……。


 それでも、心の片隅では嬉しさも感じていた。真珠が俺の手を離したくないと言ってくれたこと。それがどんな意味であっても、俺にとっては大切な気持ちだった。


 朝の陽射しが二人の影を長く伸ばしていく中、俺たちは繋いだ手を離すことなく、新しい一日へと足を踏み出していた。周囲の視線など気にせずに、ただ真珠の温もりを感じながら。

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