第60話 シナスタジア
午後の光が斜めに差し込む高級ホテルのロビーは、いつもながら静けさに包まれていた。ふうっと息を吐きながら、私は金色の縁取りがされたティーカップに口をつける。上質な茶葉の香りが鼻孔をくすぐり、ほんのりとした渋みが舌の上で広がる。
「梢様、次回の八坂グループ第二事業部の会議は水曜日の午後二時からとなっております。また、その前に海外取引先とのテレビ会議が入っておりますので、お気をつけください」
横に立つ秘書の倉田が、手帳を開きながら告げてくる。スーツに身を包んだ彼の姿勢は常に真っ直ぐで、そのきっちりとした仕草にはいつも安心感がある。私たち八坂家に代々仕えてきた倉田家の血筋は確かなもの。彼は、私にとって家族と言ってもいいほどの存在だった。
「分かったわ。ありがとう、倉田さん」
私は紅茶をソーサーに置き、落ち着いた声で答える。彼の存在は、この先の会話に相応しくない。軽く手のひらを上げて、「もう大丈夫よ」と合図を送る。
「では失礼いたします」
倉田は丁寧に一礼すると、背筋を伸ばしたまま静かに立ち去った。彼の足音が聞こえなくなると同時に、香木の香りが漂ってきたのを感じた。
私は、ゆっくりと視線を上げる。
私の目の前のソファに腰掛けたのは、一人の男性。黒い髪は耳にかかるほど伸び、切れ長の目には何とも言えない冷たさが宿っている。彫刻のように完璧に整えられた顔立ちは、多くの女性を虜にしてきたことだろう。しかし彼の本当の魅力は、その容姿ではなく、指先から生み出される音色にある。
カルマ。
ボカロ界隈では神と称される存在。そのピアノの腕前は、プロの音楽家の間でも一目置かれる存在だ。しかし今、彼の顔には、舞台上の華やかさはなく、どこか計算高い知性が光っていた。
「カルマ君。さっきはお疲れ様。貴方のおかげでイベントは大成功よ」
私はにやりと笑みを浮かべる。この笑顔がどれほど相手を不安にさせるか、私はよく知っている。だからこそ、意図的に浮かべているのだ。
「お疲れ様です、梢さん」
カルマは静かに答えた。上品な口調と穏やかな微笑みの裏に、何かを隠しているような気配がある。
「まあ僕はこれが仕事ですからね。当たり前のことをしただけですよ。色々と援助もしていただいてますからね。それよりも、成功というのはイベントの事ですか?それとも……」
彼の言葉には含みがあった。私たちの間に流れる空気が変わる。表向きは単なるイベントの打ち合わせ。しかし実際は、かなり複雑な思惑が絡み合っている。
「ふふ……もちろん両方よ」
私は紅茶を一口啜り、心地よい温かさを感じながら言葉を紡ぐ。「まさかあんなところでこんなことになるとは思っても見なかったけどね。まっ、遅かれ早かれって奴よ」
ホテルのロビーにあるシャンデリアが、私たちの間に淡い光を投げかけていた。この柔らかな光の中で、私の計画は着々と進んでいる。そう思うと、胸の奥が熱くなる。
「あなたのおかげで、うまくいけばあの子を優斗から引き離せるわ……」
優斗。私の唇からその名前が漏れる時、いつもなら感じる苦さがあった。でも今は違う。甘い勝利の予感が、その苦さを打ち消しているから。
「怖い人ですね……そんなにあの優斗君がお気に入りなんですか?」
カルマはソファに深く腰掛け、足を組んだ。彼の仕草には、どこか優雅さがにじむ。それでいて、親しみやすさは微塵も感じられない。私にとって、それは心地よいことだった。表面的な親しさに疲れていたから。
「私が唯一手に入らなかったものよ……」
私の胸の内に、懐かしい感情が湧き上がる。小学生の頃の、優斗との思い出。私がピアノを教え、彼を導いていたあの日々。彼の瞳に浮かぶ純粋な憧れを独り占めしていたあの頃。
千秋はただそれを横で見ていただけだった。何かと優斗の周りに着いていただけ。
でも、彼は千秋を選んだ。
私ではなく千秋を。才能あるピアニストとして脚光を浴びるようになっても、彼の目に映っていたのは千秋だけだった。そして、トゥレット症候群を患い、舞台に立てなくなった時、私は彼に興味を失った。華やかさを失った彼に、何の魅力も感じなくなったのだ。
今思えば、なんて浅はかな自分だったのだろう。
彼の本質は変わっていなかったのに。いや、むしろ困難を乗り越え、さらに輝きを増していたのに。
「輝いていた頃の優斗はね……」
私は吐息まじりに言葉を紡いだ。
「今の優斗なら、その願いをかなえられる」
そう、今の優斗こそ、私にふさわしい。決して手に入らないと思っていたものが、再び手の届くところに現れたのだ。それを逃すわけにはいかない。
「僕も、才能という面では負けていないと思いますけどね?」
カルマの言葉に、私は軽く鼻で笑った。
「あら、貴方も意外と負けず嫌いだったのね。意外だわ」
私は彼の瞳をまっすぐ見つめる。
「でも無理ね。貴方は私の想い通りになるタイプじゃないでしょ?扱いにくい人はごめんだわ。煩わしいもの」
クスリと笑う私に、カルマは肩をすくめた。
「酷いなあ、ちゃんと梢さんの言ったとおりにしたじゃないですか。真珠ちゃんに『僕が魔法使いだよ』って言うように指示したのは貴女でしょ?」
彼はやれやれといった表情で、右手を軽く振る。演出された仕草だとすぐに分かった。カルマは舞台人だ。こういう所作ひとつまで計算しているのだろう。
「……まさか幼い頃に優斗に聴いていたおもちゃ売り場で出会った少女が……あの早乙女真珠だったとはね……」
私の言葉に、カルマの唇が微かに動いた。興味を引かれたようだ。
あれは、決して偶然ではなかった。私が調査機関に依頼し、早乙女真珠のことを徹底的に調べた結果だった。幼い頃に白血病を患い、長い闘病生活をフランス人である父親のもと、家族と過ごしていたこと。そして日本に戻ってきたこと。その期間が丁度、優斗から聞いた話と一致していた。
しかも、優斗が話していたその少女の特徴が、早乙女真珠にそっくりだった。もしやと思い、当時彼女の掛かりつけだった日本の病院を調べさせ、写真まで入手した。
そう。あの少女こそが、早乙女真珠だったのだ。
「あの子の事を念入りに調べておいて正解だったわ……」
私は満足げににやりと笑う。こんなタイミングでこの事実が判明したのは、まさに幸運だった。さらに言えば、カルマがすでに真珠に興味を持っていたことも、私の計画にとって好都合だった。彼の力を借りれば、真珠の心に揺さぶりをかけることができる。
「でも、貴方だって、これであの女が手に入るなら安い物でしょう?」
私は挑発的に笑いながら言った。カルマが真珠に告白してフラれたことは、業界ではちょっとした話題になっていた。彼の面子を傷つけたことだろう。今回の協力によって、彼も何かしらの恩恵を得たいはずだ。
「まあ、今でも真珠ちゃんの事は好きですけどね」
カルマは瞳を細め、不敵な笑みを浮かべた。
「でも……それよりも僕は、優斗君に興味があるんですよ」
「優斗に?」
思わず聞き返してしまった。カルマの関心が真珠だけでなく優斗にも向いているとは意外だった。彼が何を考えているのか、読み取れない。
「おそらく優斗君は僕と同じ絶対音感の持ち主でしょう。でも……彼はおそらく、共感覚者だ」
カルマの声が、わずかに熱を帯びた。彼の目には異様な光が宿っていた。
「共感覚……一つの感覚の刺激によって別の知覚が不随意的に引き起こされるってやつよね……音楽にもあるの?」
私は眉をひそめながら聞き返した。言葉の意味は知っていたが、音楽との関連性については深く知らなかった。
「ええ。ある有名ピアニストの話ですが、その方は色聴と言われる共感覚の持ち主で、音を聴くと色が見えるなど、音と色が結びついている状態になるそうです」
カルマは熱心に説明する。彼の瞳の奥に、何か異質なものが見えた気がした。
「僕の推測が正しければ、おそらく優斗君は音を僕とは違うものとして見えているはずだ……」
彼の顔に、微かな笑みが浮かんだ。普段の完璧な微笑みとは異なる、どこか狂気じみた笑み。
「カルマ君……?」
私は彼の様子が急に変わったことに、軽い戸惑いを覚えた。
「知りたい……彼がどんな世界で音を紡いでいるのか……そしてその音に触れたい……」
カルマの声は低く、まるで独り言のように聞こえた。しかし、その言葉には強い熱が込められていた。
「優斗君……君は素晴らしい、実に素晴らしいよ君は。ふふ……ははは……」
狂気じみた笑い声を漏らすカルマを見て、私は思わず身を引いた。これまでの彼からは想像もつかない表情だった。完璧に計算された美しさの陰に、こんな暗い情熱を秘めていたとは。
「そ、そう……」
私は少し困惑しながらも、平静を装った。カルマの狂気じみた様子は予想外だったが、今はそれを問題にする時ではない。むしろ、彼のその執着心は、私の計画にとってプラスになるかもしれない。
彼のおかげで、計画は実行できそうな段階にある。あとはアニメタイアップの件……
私は思わず満足げな笑みを浮かべていた。
早乙女真珠、貴方にはもっと、私の掌で踊ってもらうわよ……。そして、私の優斗を返してもらうわ……彼が本当にあるべき場所に……ね。
窓の外では、初夏の柔らかな光が街を染めていた。その輝きの中で、私の計画の糸は確実に張り巡らされていく。優斗と真珠を引き離し、優斗を本来あるべき場所——私の元へと連れ戻す。
ティーカップを再び手に取り、最後の一口を味わう。紅茶の香りが、勝利への確信とともに私の鼻腔を満たした。