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第58話 優しい特等席

 まるで見下ろされているみたいだった。


 広場のど真ん中に据えられたグランドピアノ。その漆黒のボディは光を反射して、周囲の喧騒を静かに拒んでいるように見えた。


 その前に立つ俺の手のひらは、さっきからずっと湿ってる。指先は冷たく、胸の奥だけがやたらと熱い。


 ――やめとけばよかったんじゃないか。


 そんな声が、喉元まで何度も上がってくる。


 でも、真珠があの時……見てるって、言ってくれた。


 それだけを支えに、俺は鍵盤に指を落とす。


 「……ふぅ……」


 少しだけ深呼吸をして、無理やり心を落ち着かせようとした。


 隣にいるカルマさんは、相変わらず穏やかな顔で俺を見ていた。


「大丈夫ですか?」


 丁寧な口調に、一瞬で肩の力が抜けそうになる。でも、逆にそれが怖くて――俺は無理に笑った。


「……はい、多分……大丈夫だと思います」


「そうですか。では、お好きな曲を。優Pの楽曲は、全部聴かせていただいてますから」


 軽く微笑むカルマさん。その笑みに、どこか底知れないものを感じてしまう。


 全部、見られてる。


 それが分かった瞬間、逃げ場なんてないんだって実感した。


 俺は、鍵盤の上にそっと指を置いた。


 ――Triple Tune。


 初めて、路上で弾いたあの曲。


 音が鳴った瞬間、俺の心臓が跳ねた。


 ……音が、半音だけずれた。


 「っ……」


 指が止まりかける。けど、止めるわけにはいかなくて、無理やり繋いだ。


 繋ぎ目のガタついた旋律。誤魔化すようにコードをずらして、なんとか進めていく。


 けれど、体の中で何かがバラバラになっていく感覚は止められなかった。


 一音一音が重たく、思い通りに流れてくれない。


 思考が指先を追い越していく。焦りばかりが先行して、旋律が歪んでいく。


 「この曲、聞いたことある」


「……優Pの……?」


「うーん、でも……なんか……ねえ?」


 周囲のざわめきが、まるで実体を持った何かのように胸を圧迫する。


 違う、こんなんじゃない。


 本当は、こんなふうに聴かせたいわけじゃない。


 けど、頭では分かっていても、体がついてこなかった。


 正確さばかりを気にして、肝心の“想い”がどこかへいってしまっている。


 それでも、演奏は止められない。


 情けないと思いながら、それでも……なんとか最後のフレーズを弾き終えた。


 終わった。


 息を吐く間もなく、カルマさんの手が鍵盤に触れた。


 まるで一切の迷いがなかった。


 同じTriple Tuneなのに、違っていた。


 音が、こんなにも清らかに、こんなにも自然に流れるものかと、ただ呆然とする。


 会場の空気が変わるのを肌で感じた。


 「……やば……」


「カルマ様すごっ……!」


「やっぱり凄い!優Pの曲完全再現じゃん!」


 歓声が一斉に上がる。


 カルマさんの指が踊る。


 旋律が空を縫い、観客の心を震わせる。


 あれはもう、演奏というより、感情そのものだった。


 そのまま、連弾が始まった。


 俺は遅れて加わる。


 でも最初の一音から、分かった。


 完全に“主導権”を握られてる。


 俺の旋律を完全に理解したうえで、それを支配している。


 こっちは譜面を追いかけるのに精一杯で、彼はその先を自在に遊んでいる。


 悔しい。惨めで、逃げ出したくなる。


 ……だけど、それでも弾き続けた。


 苦しくても、ここで逃げたら……全部が終わってしまいそうで。


 ――そのときだった。


 真珠の姿が目に入った。


 人混みのなか、まっすぐに。


 俺の視界の中心に、そっと立つ。


 表情は見えなかったけど、分かった。


 “私はここだよ”。


 その一言だけが、すべてを解いた。


 俺は、音を変えた。


 手が軽くなる。


 心が、まっすぐ鍵盤へと向かっていく。


 旋律が、自分の中から自然と湧き上がってきた。


 カルマさんが驚いたように目を細め、すぐに微笑んで応じてきた。


 今度は、対等だった。


 旋律と旋律が、手を取り合う。


 火花のように弾け、波紋のように響き合う。


 広場に集まるすべての視線が、ただ音に引き寄せられていた。


「なにこれ……すご……」


「これ、さっきと同じ曲……?」


 「え?何が起きてんの……?」


ざわめきが、熱に変わる。


 最後のフレーズ、指先が鍵盤を駆け抜けていく。


 音の粒が舞い、空へと消えていく。


 そして――


 音が、静かに消えた。


 一瞬の静寂。


「カルマ様ーーーー!!!」


 大歓声が響き渡る。


 でも。


 俺は、笑った。


 真珠が、そっと微笑んでくれていたから。


  それだけで、もう充分だった。


 ……そう思っていたのに。


 広場に漂うざわめきが、じわじわと耳に入り込んでくる。


「やっぱカルマ様すごいよな……」


「あの高校生の子、ちょっと可哀想だったかも。あれじゃカルマ様とくらべられちゃうよね」


「でも最後だけは綺麗だったよね」


「うん。ラストだけ凄かったかも」


 ざくりと、胸の奥を掻きむしられるような感覚。賑やかな賞賛の波に、俺の名前は混じっていない。目の前の景色が、少しだけ遠く感じた。


 ……それでも、演奏はやりきった。最後の一音まで、俺の音で。


「ふふ……良い耳をしてる観客もいたみたいだね」


 横から柔らかな声がして、顔を向けるとカルマさんがいた。相変わらず丁寧な物腰で、でもさっきとは違って、どこか素直な光が表情に差していた。


「えっ……?」


「最後のスパート、君の旋律、しっかり響いてましたよ。あの一瞬だけで分かりました。やっぱり君は本物だ」


 本物……。


 その言葉が、喉の奥にずしりと沈んだ。


「……俺なんて、まだ全然……」


 思わず口をついて出た声に、カルマさんは小さく首を振った。


「才能や技術じゃなくて、あのときの音には君の“心”があった。それが一番大切ですよ」


 そう言って、スッと手を差し出してくる。


「よければ、握手を」


「え?あ……はい。ど、どうも……」


 震える手でその手を取る。思っていたよりも温かかった。


「ありがとう、優斗くん……」


 俺の名前をはっきりと呼んだその声に、胸がじんと熱くなる。


 次の瞬間、カルマさんが一歩前に出て、軽く手を上げた。


「皆さん、今日はありがとうございました!」


 その一言で、広場がふたたび歓声に包まれる。


「カルマP〜!」


「最高!」


 手を振るカルマさんに、ファンたちの悲鳴と拍手が鳴り止まない。


 俺はその後ろで、ぽつんと立ち尽くしていた。


 拍手の渦に混じってるはずなのに、自分だけ音から外れてるみたいで、少し息苦しかった。


 だけど――。


「優!」


 人垣を割って駆けてくる声がした。


 真珠だった。俺の名前を呼んで、駆け寄ってきて、迷いなく目を合わせてくる。


「……頑張ったね!」


 その言葉に、胸が詰まった。


 たったひとことで、張り詰めていたものが一気に崩れていく。


 涙が出そうになるのをごまかすように、俺はうつむいたまま頷いた。


 真珠の目が俺の隣の観客を一瞥して、軽く笑った。


「ちょっと、すごかったよ。ラスト、私……ほんとにドキドキしたもん」


「……ありがと」


 そう返すのがやっとだった。言葉の選び方が分からなかった。


「ね、ちょっとだけ休も?なんか……こっち、うるさいし」


 俺がそう言うと、真珠はすぐに頷いた。


「うん、行こ?」


 俺は人波の向こうへ歩き出し、真珠の手をそっと取った。


 そのときだった。


「優斗」


 背後から、静かに伸びてきた声。


 振り返ると、そこにいたのは梢だった。


 整った顔立ちに品のあるスーツ、周囲の喧騒を物ともしない冷静な雰囲気。


 まっすぐこちらを見ていた。


「また、学校でね――優斗……」


 声の抑揚も、表情も、どこか含みがあった。


 何か知っている。何か握っている。


 そんな目だった。


「……うん。またね」


 できるだけ平然を装ってそう返した。けど、視線だけはそらしてしまった。


 真珠の手が、そっと強くなる。俺はそちらに目をやる。


 彼女は何も言わなかった。ただ、その目がまっすぐだった。


 俺は、もう一度前を向いて歩き出した。


 雑踏の中に紛れながら、遠ざかっていく歓声を背中に受けて。


 それでも、手の中の温もりだけは、確かに残っていた。






 真珠の手を引いて歩くうちに、街のざわめきが少しずつ遠ざかっていく。ビルの合間にある小さな公園に辿り着くと、ようやく足が止まった。


 風が抜ける。どこか湿った初夏の匂いがした。


 俺は木陰にあるベンチに腰を下ろす。思えば、ずっと気が張っていた。ようやく緊張の糸がほどける。


 真珠は、俺の隣に立ったまま何かを言いかけて口をつぐむ。そしてふっと、笑った。


「ちょっと待ってて」


 それだけ言って、スタスタと自販機の方へと向かっていく。


 取り残された俺は、ぼんやりと空を仰いだ。青くて、どこまでも広い空。さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。


 数分後。


 冷たい感触が頬に当たった。


「……冷たっ!?え、何!」


「隙あり」


 真珠がいたずらっぽく笑っていた。手には冷えたお茶のペットボトル。俺に渡す前に、わざと頬に当てたらしい。


「まったく……油断も隙もないな」


「油断大敵~」


 そう言って、真珠は俺の隣に腰を下ろした。


 冷たいお茶を受け取り、喉を潤す。じんわりと体の熱が和らいでいく。


「ありがとう、真珠……」


 思わず俯きながら口にすると、真珠はにこっと笑った。


「お茶ぐらい気にしないでよ」


「お茶もだけど……さっき、俺がくじけそうだった時、応援してくれたでしょ?ごめん、情けない姿見せちゃった……」


 自分の声が少し震えているのが分かった。


「もう気にし過ぎ!誰だって調子の悪い時だってあるよ!」


 真珠の声は、まるで空気の淀みを一掃するように軽やかだった。


「……うん……」


 それでもまだ、胸の奥には重たさが残っていた。


 ふいに真珠がベンチから立ち上がった。


「えいっ!」


「うわっ!」


 無理やり腕を引かれて、俺はバランスを崩し、そのまま真珠の膝の上に倒れ込んだ。


 頬に触れたのは、驚くほど柔らかくて、あたたかくて、心地よい感触。


「えっ?えっ?な、なに!?」


 慌てて起き上がろうとするけど、真珠の手が肩をそっと押さえる。


「ふふ、逃げちゃダメ~。今はここが優の特等席なんだから」


 真珠が嬉しそうに笑っている。


「えへへへ、頑張った優斗へのご褒美だよ!」


 上から覗き込んでくるその笑顔に、胸がドキンと鳴った。


 視線が合って、でもすぐ逸らしてしまう。あまりにも近すぎて、心臓がもたない。


 顔を横に向けた瞬間、視界に飛び込んできたのは……真珠の太もも。


「っ……!」


 慌てて反対を向こうとすると、すかさず真珠が手を伸ばして俺の頬を包む。


「ん? そんなに落ち着かない? じゃあ動かないように、こうしててあげる」


 くすっと笑いながら、真珠が優しく俺の髪を撫で始めた。


 その感触が気持ちよくて、抵抗する気力がどんどん抜けていく。


「真珠……」


「頑張ったね、優……」


 その声は、まるで子守唄みたいに優しくて。


「全然ダメだったよ……周りの人達も笑ってたし……カルマPに比べたら俺なんか……」


「ううん。私は見てたよ。ちゃんと。……優がどんな気持ちで弾いてたか。誰よりもそばで」


 指先が髪をゆっくりとかしながら、そっと頭を包み込む。


「他の人なんか関係ない。私だけは、全部知ってる。よしよし……頑張った。偉いよ、優」


 その言葉が、じわじわと心に染み込んできて。


 気づいたら、ぽろりと涙が零れていた。


 真珠のスカートに、一滴落ちる。


 それでも、真珠は何も言わずに撫で続けてくれる。


 心が、ほぐれていく。


「優……こっち向いて……」


「ごめん……今はちょっと……」


 恥ずかしくて、情けなくて、顔を見せるなんてできなかった。


「いいからこっち向くの」


 真珠がそう言って、両手でそっと俺の頬を挟んでくる。


「わっ!ちょっと!」


 慌てた俺を無視して、真珠の顔が一気に近づいてくる。


 そして――


 額に、柔らかくて温かい感触。


 ほんの一瞬なのに、永遠みたいな間。


 思考が止まって、呼吸も止まって、ただ真珠の温もりだけが心に残った。


 ふわっと離れたその顔は、火がついたみたいに真っ赤で。


「……い、いいいい、今の……って……!」


 俺も飛び起きて叫ぶ。


 真珠は目を逸らして、顔を両手で覆いながら小さく呟いた。


「これで……元気出た……?」


 耳まで真っ赤にしてるのに、どうしてそんな破壊力ある台詞が言えるんだよ。


 俺はもう言葉にならず、ただぽかんと口を開けて頷くしかなかった。


「……うん……元気……出た……」


 思わず呟いたその瞬間、頭がふらっと揺れた。


「……あれ……?」


 視界がゆっくり傾いでいく。


「わっ……」


 身体が力を失って、後ろへ傾いていく。


「ゆ、優!」


 真珠の叫び声が、公園に響いた。


 その声の向こうで、世界がふわりと揺れていく。


 木々の葉が静かに揺れて、どこかで風鈴が鳴っているような気がした。


 背中に柔らかな感触。そして、その隣にはずっと離さずにいてくれる誰かの存在。


 さっきまで渦巻いていた不安も、焦りも、もうどこか遠くにあった。


 真珠が笑ってくれた。


 そのことだけが、胸の奥で静かに光を灯していた。

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