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第57話 過去と未来の天秤

 風がひんやりと頬を撫でる5月末の昼下がり。渋谷の喧騒の中、俺の心臓は今にも飛び出しそうなほど激しく鼓動を打っていた。


 真珠の手をそっと握り、彼女の目をまっすぐに見つめる。藍色の瞳が俺を映し出していた。この気持ちを伝えなければ、一生後悔する気がした。


「真珠、俺は……」


 言葉を探していると、真珠の視線がふと俺から離れ、広場の方へと向いた。広場から歓声が湧き上がり、人々が何かに引き寄せられるように集まり始めている。


「あれ?なんだろう?」


 真珠の顔に好奇心が浮かび上がる。ちらりと広場を見やる俺に気づかず、まるで聞こえない音が聞こえるみたいに耳を澄ませている。完全に気持ちが飛んでいる。


「何か始まるのかな?」


 瞳を輝かせる真珠。真珠の指が俺の手から少しずつ離れていくのを感じた。完璧なタイミングで肩透かしをくらった感覚に、胸の内でため息をついた。告白のチャンスが水の泡と消えていく。


 こうなったら真珠はもう止まらないだろう。俺は思い切り力の入っていた肩をストンと下ろし、諦めの境地でクスリと笑った。


「見に……行ってみる?」


「うん!」


 真珠は大きく頷き、もう俺の手を引っ張ってさえいる。いつもの勢いのある真珠に戻っていた。


 俺たちが広場に向かうと、既に人だかりができていた。撮影用の大きなカメラを持ったスタッフらしき男性たちが忙しそうに動き回っている。周囲は若い女性ばかり。みんな期待に満ちた顔で誰かを待ちわびている様子だった。


「すごい人!何やってるのかな?」


 真珠はつま先立ちになって前を覗こうとしている。その姿に少し微笑ましさを感じながら、俺も人混みをかき分け、前に出ようとした。


「ちょっと、通してもらえますか」


 何とか人の隙間を縫って前へ進むと、広場の中央に大きなグランドピアノが設置されているのが見えた。スタッフらしき人たちがセッティングを行っている。


「ピアノ?ライブか何かかな」


「ねえねえ、あれって誰が弾くんだろう?」


 俺たちが話していると、不意に背後から声がかけられた。


「優斗?」


 その声に振り向くと、スーツを身につけた女性が立っていた。一瞬誰だか分からなかった。


「あ、この前の優斗のお友達?」


 真珠の言葉に、俺はその女性をもう一度よく見た。きちんとしたスーツに眼鏡をかけ、髪も上品にまとめている。どこか見覚えのある顔立ちだけど、まるで別人みたいだ。


「あら、そんなに見られると恥ずかしいわ。この眼鏡とスーツのせいかしら」


 女性は優雅に眼鏡を外し、髪をかき上げた。その仕草とともに、ようやく記憶がよみがえった。


「こ、梢?」


 信じられない思いで声を絞り出す。八坂梢――俺の幼馴染。いつもは制服姿しか見たことない彼女が、こんな大人びた姿で現れるなんて。


「やっと気づいてくれたのね。幼馴染なんだからもっと早く気がつけないものかしら」


 梢は意地悪そうに笑った。その唇の端が微かに上がる様子は、昔から変わらない。


「ご、ごめん、雰囲気があまりにも違ったから、つい…...」


 言い訳めいた言葉を口にしながら、違和感を拭えずにいた。梢がこんな場所に現れるなんて。


「ふふ、普段より大人びて見えた?」


 そう言って梢は一歩近づいてきた。その仕草には、いつもの梢には見せない色気のようなものがある。昔からの知り合いだというのに、こんな近距離で見られると緊張する。


 視線を梢から逸らすと、真珠の表情が微妙に曇っていることに気が付いた。俺と梢を交互に見る目には、明らかな不満の色が浮かんでいる。


 慌てて梢から距離を取ろうとした時だった。


「おや、お知り合いですか梢さん?」


 低く響く男性の声に振り向くと、人々の歓声が一斉に上がった。陽光を背に立つ長身の男性のシルエットが、一瞬ステージ上のスポットライトのようにきらめいて見えた。


「カルマ様~!」


「カルマP~!」


「キャー!本当に来たの!?」


 周囲の女性たちの声がたちまち熱を帯び、さざ波のように広がっていく。人混みがざわめき、スマホを掲げる手が林立する光景は、まるで小さなライブ会場のようだった。


「カルマ……P?」


 喉が乾いた。その名前を口にするだけで、胸の奥が妙に重くなる。あのカルマP。ボカロ界隈で神と呼ばれる存在。若くしてプロのピアニストへと登りつめ、才能と人気の両方を持ち合わせた天才。今やステージのある所には必ずと言っていいほど引っ張りだこの、憧れの存在。


 そんな彼が、ここにいる?


「嘘だろ……」


 呟きが漏れた瞬間、真珠がくすりと笑った。


「優ってば、そんなに驚くこと?カルマ君も普通の人だよ」


 その言葉に首を振る。普通なわけがない。目の前に現れた彼は、想像をはるかに超える存在感を放っていた。整った顔立ちは雑誌から抜け出してきたような完璧さで、しなやかな指をした長い手は、まさにピアニストのそれだった。黒髪には柔らかな光沢があり、動くたびにさらりと揺れる髪の流れさえ、計算されているかのよう。物腰も緩やかで上品で、まるで別世界の住人のような印象を受けた。


 そういえば、彼から先日フォローされていたことを急に思い出した。「機会があればぜひ食事にでも行きましょう。話したいことがあるんです」というDMの言葉が頭をよぎる。その真意を測りかねていたが、まさかこんな形で対面するとは。


 思いにふけっていると、真珠が突然前に出た。


「カルマ君だ!久しぶり!」


 その声に我に返る。真珠の顔には懐かしさと喜びが混ざり合っていた。


「え?真珠、カルマさんと知り合いなの?」


 思わず声をかけたが、真珠は我を忘れたように前へ進み、答えてくれなかった。


「スピカさん?」


 カルマさんは少し目を見開き、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。彼の瞳が真珠の黒髪から顔へと移り、認識したようだった。


「久しぶりですね。また会えて嬉しいです」


 彼はゆっくりと真珠に向き直り、少し声を落とした。


「確か最後にお会いしたのは半年も前でしたっけ?」


 真珠はこくりと頷いた。沈黙が流れた後、カルマさんが苦笑しながら続けた。


「あの時はフラれちゃって、しばらく立ち直れませんでしたよ」


 彼は軽く笑いながら頭を掻いた。まるでどうでもいい思い出話のように言っているが、俺の胸は奇妙に締め付けられた。


 フラれる?真珠がカルマPを振ったということ?


 胸の奥に不思議な感覚が広がる。ということはカルマさんは真珠のことを……そういう風に見ていたのか。そして真珠は彼をフった。二人はそういう関係だったのか。


 信じられない思いと共に、妙な安堵感も混ざり合う。すぐに自己嫌悪に襲われた。こんなとき、何を考えているんだ俺は。


「二人は知り合いだったんだ……」


 呟きが漏れると、真珠はハッとしたように振り返った。


「あ、うん……業界的に……ね」


 言葉を濁す彼女に、もやもやとした感情が膨らむ。考えてみれば当然か。ボカロ界隈のトップ同士、接点があって当たり前だ。でも、単なる知り合い以上の関係だったなんて。今までそんな話、一度も聞いたことなかった。


 知らないことが、こんなにも胸を塞ぐなんて。


「ていうか、それ今言うことじゃないじゃん!」


 真珠が慌ててカルマさんの腕を叩いた。顔を赤くして周囲を見回す彼女は、とても恥ずかしそうで、その顔が自分以外に対してだと思うと、少し寂しく感じた。


「だって本当のことですよ。あの時のスピカさんはね、きっぱりと—」


「もう言わないでよ!」


 カルマさんの言葉を遮るように、真珠が半分泣きそうな顔で叫んだ。二人の間には、知らない過去があるんだ。二人にしか分からない時間が流れていたんだ。そう思うと、胸の奥がどこか冷たくなる。


 周囲からひそひそ声が聞こえてきた。


「あの女の子誰?」


「めっちゃ美人じゃない?」


「え?スピカに似てない?あの有名な歌い手に」


「そういえば声も似てる気がする…」


 真珠の顔から血の気が引いた。彼女は目を見開き、声を潜めた。


「やばっ……」


 正体を隠していることをすっかり忘れていたようだ。このままじゃバレてしまう。咄嗟に前に半歩出て、真珠を見つめる視線を遮った。


「あの、ま、マリってそんなに有名人に似てるの?」


 わざと大きめの声で言うと、真珠は安堵の表情を浮かべた。そっと俺の袖を引いて「ありがとう」と口だけで言う彼女に、ほんの少し誇らしさを感じた。


 カルマさんは真珠の様子に気づいたようで、さっと話題を変えた。彼女の黒髪に視線を移し、興味深げに眺めている。


「それにしてもその髪、どうしたんですか?」


 彼の視線に気づいた真珠は、反射的に髪に手を伸ばした。


「まあ黒も似合いますけど、イメチェンですか?」


 カルマの質問に、真珠は慌てて人差し指を唇に当てた。


「しーっ!」


 照れながら言う彼女の仕草が、今までにない色っぽさを帯びていた。唇に触れる指、長いまつげの影、頬の朱。思わず見とれてしまう。


 カルマは真珠と俺を交互に見て、意味ありげに微笑んだ。


「ふ~ん、なるほど、お忍びってことですね」


 低く抑えた声で言うと、彼の瞳が少し冷たく光った。


「分かりました。口外はしませんよ」


 その言葉に少し安堵したが、次の瞬間、彼は視線を梢に向けた。


「という事は……梢さん、彼が例の?」


 にやりと笑いながらカルマさんが言う。何か含みのある言葉に首を傾げた。「例の」って何だろう?二人の間には何か共通の話題があるのだろうか。


「ええ、そうよ」


 梢は自然に返事をした。特に強調するわけではなく、淡々とした口調なのに、その視線には何か読み取れない感情が浮かんでいる。


「なるほど……」


 カルマさんが頷き、再び俺たちに顔を向けた。彼の笑顔は完璧だったが、どこか計算され尽くした印象を受けた。考え過ぎかもしれないが、妙な気配を感じる。


「二人は知り合いなの?」


 思わず梢に尋ねると、彼女はサラリと髪をかきあげ、優雅に答えた。


「優斗はうちが化粧品会社やってるの知ってるでしょ?」


 彼女は少し胸を張り、上品な仕草でカルマを指した。


「今、うちの会社、彼を起用してのPR企画やってるの。私もゆくゆくはお父様の会社を引き継いでいかなきゃいけないから、今回はその下積みってとこかしら」


 いつもより大人びた口調で説明する梢。確かに彼女の家は大企業だけど、こんなことは聞いていなかった。彼女の父親のことは小さい頃から知っているが、こんな大物タレントと仕事をしているなんて。


 真珠は不思議そうな表情を浮かべていた。さすがに説明した方がいいだろう。


「梢のお父さんは八坂グループっていう企業の社長なんだ」


「八坂グループって……」


 真珠の瞳が驚きで見開かれた。彼女の唇が小さく「あ」と形を作る。


「あの有名な?テレビCMでよく見る化粧品とか、アパレルとか……すごい!」


 その反応に、梢は満足げな表情を見せた。彼女の目が細くなり、優越感に満ちた微笑みを浮かべる。


「そう、その八坂グループよ。うちの家は代々続く名家だから」


 誇り高く言う梢に、真珠は少し圧倒されたように見えた。


「なんて言うか……お嬢様なんだね、本当に」


 真珠の素直な感想に、梢は小さくクスリと笑った。彼女がこんな風に笑うのを見るのは久しぶりだ。いつもは冷静で、感情をあまり表に出さない。


 周囲では徐々に人が増え、カルマさんを一目見ようと集まってくる女性たちでごった返していた。黒山の人だかりの中、俺たちはなぜか隔絶された空間にいるような錯覚を覚える。


「そうだ……梢さん?」


 カルマさんが唐突に声をかけた。彼の瞳に閃きのようなものが浮かんでいる。


「なに?」


「良ければ彼とセッションしてもいいですか?」


 彼の言葉に、俺と真珠は同時に声を上げた。


「なっ……!?」

「ええっ!?」


 まさか今、セッションと言ったのか?俺と?冗談にしても度が過ぎている。カルマさんと同じステージに立つなんて、考えただけで足が震える。


 真珠の驚いた表情が、俺の不安をさらに掻き立てる。


 梢はわずかに眉を上げ、すぐに微笑んだ。


「あら。別に私は良いわよ」


 彼女は腕時計をちらりと見た。


「面白そうだし、予定より少し遅れるけど、PRにもなるでしょうね」


 梢の言葉は軽やかだったが、どこか意外だった。こんな提案にすぐ乗るなんて。梢が何を考えているのか分からない。単純に面白がっているだけなのか、それとも何か他の考えがあるのか…。もしかして何か特別な理由があるのかもしれない。


「ちょ、ちょっと待ってよ急に!」


 慌てて声を上げる。こんなところで演奏なんて考えてもいなかった。特に準備もしていないし、何より俺なんかが出て行ったら、待っていた観客が失望するだけだ。


「冗談でしょ?僕なんかがカルマさんと一緒に演奏したら、みんながっかりするよ」


 小さく言葉を絞り出すと、カルマさんは少し驚いたような表情を見せた。


「そんなことないですよ。僕、君の演奏、すごく興味あるんです」


 その言葉に真珠がきょとんとした顔をした。


「え?カルマ君、優の演奏知ってるの?」


 彼は穏やかに微笑んだ。


「まあ、ちょっとね……」


 曖昧な返事に首を傾げる真珠。カルマさんは俺の肩に手を置いて、耳元で囁いた。


「大丈夫ですよね?優P……」


 その言葉に全身が凍りついた。優P。俺の活動名。どうして知ってる?バレてる!? 足がすくみ、どうしていいかわからなくなる。


 表情の変化を見逃さなかったのか、カルマさんはさらに顔を近づ小声で言った。


「ステラノートもいい名前ですよね。あなたたちのグループ」


 そこまで知っている……。ステラノートは結成したばかりで、まだほとんど知られていないはずなのに。


 彼は何も言わず、ただニコニコと微笑むだけ。その自信に満ちた笑顔を前に、言葉が出なかった。……首を縦に振らない限り、彼は納得してくれなさそうだ。せっかくの真珠とのデートが……。


 肩を落とし、真珠の方を向いた。


「ごめん、ちょっと行ってくる……」


 力なく言うと、彼女は目を丸くした。瞳に心配の色が浮かぶ。


「え?ゆ、優大丈夫なの?急にこんなことになって……緊張するでしょ?」


 心配そうに腕を掴んでくる彼女。その温もりが少しだけ心強かった。俺は思わず彼女の手を握り返した。


「う、うん……本当にごめん、そういうわけだからちょっと待ってて」


「大丈夫だよ、優なら絶対素敵な演奏するって分かってる」


 真珠は一度深呼吸をして、微笑んだ。その笑顔にどれだけ救われているか、彼女は知らないだろう。


「うん、見ててね。頑張るから」


「うん、絶対見てる。……私、応援してるから」


 その言葉に少しだけ勇気をもらい、ピアノの方へ向かった。


 広場に集まった人々の視線を背中に感じながら、中央に置かれたグランドピアノへと進む。足取りは重く、まるで別の世界に向かっているかのようだった。


 光に照らされたピアノは、まるで生きているかのように見えた。漆黒の表面は鏡のように周囲を映し、まだ誰も触れていない鍵盤は静かに眠っている。


 調律具合を確かめるため、俺は椅子に座り、静かに鍵盤蓋を開けた。重厚な蓋の下から姿を現した象牙色の鍵盤が、午後の陽光を受けて輝いていた。自分の手が震えているのが分かる。


「ねえあの子誰?」


「さあ?知らない人じゃん」


「えっ?カルマ様が弾くんじゃないの?何で?」


 明らかに残念がる声が周囲から聞こえてくる。確かに。カルマPの演奏が聴けると思ったのに、知らない高校生が出てきたら誰だって肩透かしを食らうだろう。


 せっかくの真珠との時間なのに、なんでこうなったんだろう……。頼みもしないのに急にこんな展開になって。せめて真珠の応援を無駄にしない演奏をしないと。


 ふとカルマさんがこちらに来ないことに気づき、振り向いた。


 視界の端に、彼と真珠が立っている姿が見えた。二人は少し離れた場所で、何やらこそこそと話をしている。妙に親密な距離感で話す二人を見て、胸が締め付けられる感覚がした。


 何を話しているんだろう?俺のこと?昔のこと?それとも……。考えるほどに胸がもやもやする。


 集中して見ていると、真珠の表情がだんだん変わっていくのが分かった。最初は困惑していたが、カルマさんの言葉に次第に驚き、そして……困惑している様な、驚きを隠せないような表情に変わってきた。



 真珠の様子がおかしい。明らかにショックを受けているようだ。強い感情を抑えているような表情。でも頬を赤らめている様子もうかがえる。何か嬉しい事でもあった?だめだ、良く分からない。何があったんだろう?


 話が終わったのか、カルマさんが真珠に笑顔を向けている。しかし真珠は俯き、頬を染めたまま唇を震わせていた。普段の明るい彼女からは想像もつかない表情に、胸がチクリと痛んだ。


 真珠……?何を聞いたんだ?すごく気になる……。


 考える間もなく、彼が俺のもとへ歩み寄ってきた。彼の足取りは軽やかで、ステージを歩くように優雅だった。


「どうかな?一応プロの音響スタッフが用意してくれたものだから大丈夫だと思うけど?」


 ピアノを指して言う彼の笑顔と声は穏やかだったが、その目は何かを隠しているように見えた。


「えっ?あ、はい……問題ないです」


 取り繕うように答えるが、頭の中は真珠のことでいっぱいだった。あの表情、何があったのか知りたくて仕方がない。


 カルマさんはふと俺の視線の先を見て、くすりと笑った。


「もしかして、僕とスピカさんが何話してたか気になってる?」


 彼がピアノに触れながら言った。その瞳に秘められた冷たさに、一瞬たじろいだ。なぜか彼の姿勢が、わずかに威圧的に見えた。


「えっ?あ、いや、その……」


 図星を突かれて狼狽える。白状した方がいいのか、ごまかした方がいいのか迷う間に、カルマさんは俺に微笑んだ。


「ふふ、分かりやすいね、君は。でも、スピカさんに聞いちゃダメだよ?」


 そう言って微笑みを零した。その表情には、上辺だけの優しさと、何かを隠した暗さが混在していた。少し冷たい微笑み。


「き、聴くって……」


 言い淀む俺に、カルマさんはさらに踏み込んできた。


「女の子に秘密の一つや二つはつきものだよ。しつこく聞いたりなんかしたら嫌われちゃうかもね……」


 からかうような声音だったが、その言葉は鋭い刃物のように胸に突き刺さった。嫌われる……。たった今告白しようとしていたのに、その言葉が重くのしかかってくる。真珠に嫌われるなんて、考えるだけで息が詰まる。


「そこまで言わなくても……」


 つぶやくような声で言うと、カルマさんはピアノのフタを完全に開け、場所を作る仕草をした。


「じゃあ、始めましょうか。観客が待ってますよ」


 彼の言葉に、周囲の期待の声が高まるのが聞こえた。もう逃げられない。


 恐る恐る真珠の方を振り返った。


 彼女は先ほどの様子のまま、小さく肩を震わせるようにして俯いていた。瞳は隠れて見えない。何が起きたのか、何を話したのか、知りたくても聞けない。その姿に切なさが込み上げてきた。


 そして彼女の横では、梢の上品な佇まいが目に入った。優雅な立ち姿で、どこか満足げに様子を見ている。カルマさんと梢、二人の間にはきっと何かあるんだろう。でも何なのか、全く想像がつかない。


 今はとにかく演奏。鍵盤に触れる指先が、震えていることに気づいた。これから演奏は始まる。でも心は真珠の方へ、過去と未来を漂うに、彷徨っていた。

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