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第55話 Love Sunday

「んなもん知るか!」


 深夜零時。北斗の怒声がスマホの通話口から響き渡る。耳元で爆弾が炸裂したみたいに痛かった。


「そこをなんとかお願い!もうちょっとだけ教えてってば!」


 必死に画面に顔を近づけて懇願する私に、北斗は鼻で笑った。


「はあ?いい加減にしろ!もう何時間同じ事聞いてんだおめえは!」


 画面越しでも怒り心頭の様子の北斗。あ、これマジギレしてる。でも、まだ聞きたいことがあるし……。


「三十分くらい?」


「頭沸いてんのか!何時間って言ってんだろ!もう三時間だぞ三時間!」


 またもや切れ気味に言う北斗の声に、思わず耳がキンキンする。そんなに長くなってたっけ?あれ?でも気になるし、もうちょっとだけ……。


「だって優がどんなタイプが好きとか、全然知らないんだもん……」


 しょんぼりしながらベッドに寝転び、天井を見つめながら呟いた。


「俺だって知らねぇよ……」


 北斗のため息混じりの声。


「はぁ……こういう時はあれだ、無難に清楚な感じで良いんじゃねえの?」


 観念したように答える北斗に、思わず飛び起きた。


「せ、清楚ね。あ、待ってメモるから!」


 慌ててノートを取り出し、必死にペンを走らせる。「清楚系」という言葉の下に大きく丸を書いて、さらに「香水は?」「ワンピース?」と書き足した。


「お前なぁ……」


 画面越しでも北斗の苦笑いが伝わってくる。明日は優との約束の日。初デート——。


 デートという言葉を思い浮かべただけで顔が熱くなってくる。そもそもデートで合ってるのかな?


 だって——


 だ、だって男女が二人で遊びに行くんだから……う、うん!そうだよね、そうだよ!……多分。


「初恋でもあるまいし、何をそんなに興奮してんだお前は……」


 ため息交じりに言う北斗の言葉に、思わず顔が熱くなる。


「は、初恋って、そ、そんなんじゃないし!」


「今更隠すなよ。まあ初恋がパパのお子ちゃまじゃ仕方ねえか」


 からかうような北斗の声に、さらに頬が熱くなるのを感じた。


「う、うるさいな~違うって言ってるでしょ!それに初恋はパパじゃないもん!」


 私は思わずベッドの上で転がりながら、画面越しの北斗に激しく抗議した。


「ん?ああ、そっか、おもちゃ売り場の魔法使いだっけ?」


 北斗のその言葉に、ハッとして思わず俯いた。胸の奥で何かがキュッと締まる感覚。


「うん……」


 それは七年前、長い闘病生活から日本に帰って来た時の記憶。


 オペラ歌手だった母親の影響で歌うことが大好きで、あの日、ピアニストの父に連れられて初めて自分だけのマイクを買いに行ってもらった時だった。


 何気なく立ち寄ったおもちゃ売り場で、その少年と出会ったんだ。


 ピアノから流れる音色は、透明な水のように澄んでいて、空気そのものが輝いているみたいだった。音符が一つ一つ宝石のように光を放ちながら踊っているような、まるで目に見えるほどに美しい音が、売り場全体を別世界に変えていた。


 その音に導かれるように足が勝手に動いて、気づけばその子の隣に座っていた。


 鍵盤に触れるその指は、羽根のように軽やかに、でも確かな強さを持って動いていた。鍵盤から紡ぎ出される音の一つ一つが、何かの魔法みたいに私の心を揺さぶって、そのまま胸の奥深くに染み込んでいくみたいだった。


 思わず、「凄い!君は魔法使いなの?」って言っちゃった。


 ポカンとしてた顔がとても可愛くて、おかしかった。恥ずかしそうに俯きはにかむその子の顔が、凄く印象的で、初めて自分の胸が変な音を立てたのが分かった。ドクドクドクって、今までにない速さで心臓が動いた。頬が熱くなって、でも嬉しくて、何だかふわふわしてるような、ちくちくするような、変な感覚だった。


 名前も知らないままだったのに、あの子のことはずっと覚えてる。あの子は、私との約束、今でも覚えてるかな……。


「もしもーし、真珠さ~ん?」


 北斗の声でハッとして我に返った。


「どこ行ってたんだよ、おい……。もうそろそろ大人しく寝ろ、お互い明日あるんだから。程々にしとけよ」


「へ?」


「俺だって休みの日くらい用事あるっての!もう起こすんじゃねぇぞ!」


「あっ、ちょっと待って北斗まだ——」


 通話が一方的に切られた。画面がブラックアウトして、自分の顔が薄く映り込む。ひどいなぁ、勝手に切るなんて。深いため息をついて、スマホをベッドに投げ出した。


 う~緊張する~。


 ベッドの上で悶えながら天井を見つめる。あと何時間で朝になるんだろう。今から寝たらどれくらい眠れるんだろう。でも今の興奮状態で眠れるわけない!


 ごろごろ転がっていると、スマホに通知が入った。ピコンという音に慌ててスマホを拾い上げる。北斗からのメッセージだ。


「勝負下着だけは忘れるなよ……」


 その瞬間、私は思わずベッドにスマホを投げつけた。


「バカじゃないの!!いやバカだって知ってたけどもうほんとバカ!」


 思わず大声で叫んでしまった。おっと、もう深夜だった。でもこれは許せない!こんなメッセージ送ってくるなんて——。


 するとドアが勢いよく開いた。目を吊り上げたママが立っていた。


「し~んじゅ~!」


 あ、やばっと思った瞬間。


「夜中に何に騒いでるの貴女は!」


 思いっきりママにほっぺを両手でつねられた。


「いひゃいいひゃい!ごめんあひゃい~!」


 情けなく謝りながら、やっとママに解放された私は、頬をさすりながらベッドに倒れ込んだ。


 うう、ほっぺ痛い、最悪……。


 でも、明日は優と二人きり——。その考えだけで、また顔が熱くなる。


 しばらくベッドの中でもぞもぞしていたけど、さすがに眠気が襲ってきた。「明日ちゃんと起きられるかな…」とつぶやきながら、目を閉じる。なんとか眠りにつこうと深呼吸を繰り返すうちに、いつの間にか意識が遠のいていった。






「ぴぴぴぴ……」


 アラームの音で目が覚めた気がしたけど、手を伸ばしても止まらない。もう一度耳をすませると、それはアラームじゃなくて小鳥のさえずりだった。


 目を開けると、既に部屋の中は明るくなっていた。窓からこぼれる朝日が、ベッドの端までぎりぎり届いていて、日差しの暖かさが頬をくすぐる。


 時計を見ると——あと四時間で待ち合わせ時間。


「ひいっ!」


 飛び起きて、慌ててクローゼットのドアを開ける。昨日までコーディネートに悩んだ結果辿り着いた「清楚系」。シンプルなワンピースを引っ張り出して、鏡の前に立ってみる。


「うーん……」


 何度見ても今一つしっくりこない。だって私、いつもスカート短めでカラフルな服ばっかり着てるのに、こんなシンプルなのはちょっと……。


 でも北斗が言ってたから……きっとこれが正解のはず……。


 結局、ワンピースに落ち着いた。そして一番の決め手——昨日わざわざ買ってきた黒髪用カラースプレー。鏡の前で慎重に髪に吹きかけると、いつものホワイトブロンドから黒髪に変わっていく。


 何度か振り返りながら、角度を変えて髪型をチェック。


「よし、これならスピカだってバレない!」


 自分でも驚くほど印象が変わって、でも嫌いじゃない。案外いいかも。


 準備を終えて家を出ると、いつもより少し汗ばむくらいの陽気。空は青く澄み渡って、絶好のお出かけ日和だ。


 電車に揺られながら、優との会話を妄想して、何度も顔が熱くなる。こんなに緊張するなんて、自分でも信じられない。いつもの私なら、もっと堂々としてるはずなのに。


 駅に着いた時には、待ち合わせの時間まであと三十分もあった。早すぎる……。けど緊張で家でじっとしてられなかったんだもん。仕方ないよね。



「もぉ、どうしよ…」


 両手をぎゅっと握りしめて、人混みの中で緊張で口をもごもごさせる。正直、昨日はあまり眠れてない。枕に顔を埋めて転がったり、服を何度も着替えたり、香水を何度も変えて、そのたんびにシャワー浴びて……はぁ……何やってんだろ私。



 ハチ公前に立ちながら、周りから視線を向けられていることに気づく。何だろう?髪型のせい?服装のせい?やっぱりおかしいかな?


 近くのショップのガラス窓を見ながら自分の身なりをもう一度チェック。レイヤード風オフショルワンピに、小さめのショルダーバッグ。カチューシャで額の髪を留めて、ほんのりとピンク色のリップ。うん、よし!変じゃないはず。


 だけど、やっぱり緊張する。優に会ったら何て言おう?何処行こう?何食べる?う~ん、考えがまとまらない。こんなんじゃダメだ


 思い切り深呼吸して、自分を奮い立たせる。心の中では「優に会える」という言葉をリピートしていたら、緊張よりも嬉しさの方が勝ってきた。


「こんにちは、君一人?」


 突然、背後から声がかかって飛び上がりそうになる。振り向くと、三人組の若い男性がニヤニヤしながら立っていた。


「あ……えと……」


 どうしよう。こんな大事な日にナンパとか……。いつもは北斗やスタッフがいるから、こんな風に声かけられたことなかった。


「よかったら、一緒にランチとか行かない?このあたりおすすめの店知ってるよ」


「あ、いや、その……ご、ごめんなさい」


 言葉が詰まる。いつもならきっぱり断り切れるはずなのに、優が来る時間が近づいていることもあって、なぜだか緊張して言葉が出てこない。


「そんなこと言わないで~、ちょっとだけ!ね?お願い!」


「このあたりならいいとこ知ってるんすよ。一緒に行きましょうよ」


「せっかく声かけたんだし、お茶だけでも!」


 できるだけ冷静に対応しようとするけど、見知らぬ男たちの視線が妙に重くて落ち着かない。次々と声を掛けられる中、戸惑いながら必死に声を出した。


「あの、待ち合わせしてるんです、だからごめんなさい!」


 それでも引き下がらない男たち。後退りするスペースはなく、彼らに囲まれながら、なんとか言葉を絞り出す。


「ほんとに、待ち合わせなんです。彼氏が待ってて……」


 彼氏――なんてことを口にして、一気に頬が火照った。彼氏なんて、大げさかもしれないけど……でもこんな時ぐらい、そう言っても罰は当たらないよね?


 そんな思いを巡らせていると、聞き覚えのある声が聞こえた。


「も、もしかして……真珠?」


 その声に、心臓がドクンと高鳴る。振り向くと、そこには——


 会いたくて仕方がなかった彼の姿。


「優!」


 思わず名前を呼び、三人の男性の間をすり抜けて駆け寄った。無意識のうちに彼の腕をつかみ、まだ男たちに見られてる気がして、身体を寄せるようにして隠れる。


「え!えっ?」


 優の驚いた声と、混乱した表情。でも私はただ嬉しくて、安心して、守られている感覚に包まれていた。肩に当たる彼の腕の感触が、こんなにも心地よいものだなんて。


「よかった……」


 思わず小さく呟いた言葉に、自分自身が驚く。本当に、よかった。待ち合わせの時間よりずっと早く来てくれたこと。あの男たちから救ってくれたこと。そして何より、黒髪になった私を一目で見つけてくれたこと……。


 男たちが呆然と立ち尽くしている。


「え?マジで彼氏と待ち合わせ?」


「見た目地味なのに、彼女こんな可愛いとかマジかよ…」


「バカ!ご、ごめんね彼氏君」


 優が地味?何言ってるの?優は最高にカッコいいんだから!って反論したかったけど、この状況が恥ずかしくて何も言えない。ただ優の腕に抱きついたまま、顔を少し伏せる。


「いや、別に…」


 優の戸惑ったような声。きっと驚いてるよね。いつもは手を引っ張ったりはするけど、こんな風に抱きついたりしないもん。でも今は離れたくない。このままずっと抱きついていたい気持ちでいっぱい。


「ほらみろ、あんな可愛い子に彼氏がいないわけねぇじゃん」


「お前だって『当たって砕けようぜ』とか言ってただろ…」


「いやあれは難易度激ヤバだって」


 そんな声を残して、男たちは人混みに消えていった。ようやく二人きりになって、ほっとした瞬間、優の声が聞こえた。


「あの……」


 我に返って、見上げると優が不思議そうな顔で私を見ていた。まるで初めて見る生き物を観察するような……あ、そうだ。髪色。


「ど、どうしたの?」


「あ、いや、その…どうして髪が黒いの?」


 ドキッとする。やっぱり気づいたんだ。優が気づいてくれた。それだけで、胸の奥がきゅっとなって、顔が熱くなっていくのが分かった。


 だって……今日は特別な日だから……。


 口元をむにっと指で押さえながら、小さな声で呟く。


「だ、だって…せっかくの優とのデートなんだもん……邪魔されたくないし、スピカってばれたくないんだもん……」


 言葉を選んでるつもりが、どんどん本音が漏れていく。


 優の顔がみるみるうちに赤くなっていく。言葉の意味が届いたのかな?「デート」って言葉に反応してるのかな?だったら嬉しい。でも、もしかして自分の変装がおかしいのかも……。


「あの……変、かな?」


 不安が込み上げてきて、視線を逸らしそうになるけど……勇気を出して、上目遣いに優を見上げた。


「全然変じゃないって!め、めちゃくちゃ似合ってるし…か、かわいいし……」


 優の言葉に、心臓がバクバクと跳ねる。優が私のことを「かわいい」って言ってくれた!胸の奥が熱くなる感覚。この人に「かわいい」って言われるために、どれだけ頑張ったか。


「……ほんと?」


 嬉しさのあまり、伏し目がちに聞き返してしまう。すると、目の前の優の顔が真っ赤になっていることに気づいた。耳まで染まって、視線も泳いでいる。


「優?どうしたの?顔、真っ赤だよ?」


 もしかして、緊張してる?私のために?その考えだけで、胸がきゅんとなる。


「え?あ、いや、その……」


 優がさらに動揺して、言葉を詰まらせている姿が愛おしい。いつもの優も好きだけど、こうして照れる優も最高にかわいい。


「い、行こうか」


 やっと小さく呟いた優の言葉に、無言で頷く。この後どこに行こうか、何をしようか、全部考えてきたはずなのに、この距離感の中で頭が真っ白になって何も思い出せない。


「あ、でも……」


 不意に優の声。


「も、もうあの人たち行っちゃったよ?」


 ハッとして気づく。まだ優の腕にしがみついたままだった。優が少し困ったように笑っている。


 普通ならさっと離れるべきなのに、なぜか手が動かない。触れているだけで伝わる彼の体温、柔らかさの中にある筋肉の感触。全部が心地よくて、離れたくない。このぬくもりが心地よくて、手が勝手に頑張っちゃう。


「いやっ……」


 思わず小さな声が漏れる。顔を伏せ、顔が熱くなるのを感じながら、上目遣いで優を見た。


「まだこのままがいい……」


 小さな声で、だけどしっかりと届くように。勇気を出して言葉にした。


 こんな大胆なこと、普段の私なら絶対に言えない。でも今日は特別な日。少しくらい素直になってもいいよ……ね。


 優の頬が、さらに色づいていくのがわかった。


 こんな気持ち、初めて。


 だけど、それが心地よくて。


 私はそっと、優の腕に頬を寄せた。


 この温度がずっと続けばいいのに――そんな願いが、胸の奥にふわりと過った。


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