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第53話 這いずる決意

 保健室のカーテンの向こうで、誰かの足音が遠ざかっていく。


 白衣の保険医の言った「じゃあ美空さん、ご両親が迎えに来るそうだから、それまで安静にしててね」その声が頭の中に残響のようにこびりついている。


 私は、うっすらと目を開けたまま、ただぼんやりと天井を見上げていた。


 シーツの上に沈む身体は妙に冷たくて、でもどこか他人のものみたいに感じる。上半身だけを少し起こしているけれど、身体を支える力も、気力も残っていない。感情が擦り切れて、心の中が空洞になっていた。


 横の椅子では、浅間先輩が落ち着かない様子で何度も足を組み直していた。椅子のギシッという音が耳障りだ。視界の端で、彼が私の表情を盗み見るようにしているのがわかる。だけど、私は目を向けなかった。


「なあ……千秋」


 浅間先輩が声をかけてくる。私は返事をしなかった。すると、少し笑ったような声で、軽い調子の言葉が続く。


「アイツのことなんか気にすんなって。あんな陰キャ、どうでもいいだろ?千秋は俺といればいいじゃん」


 彼は笑ってるつもりなんだろう。元気づけようとしてるつもりなんだろう。でも、その軽薄な声が、ひどく苛立たしかった。鼓膜に粘つくようにまとわりついて、吐き気すら覚える。


 私の中で、何かがじわりと滲んでくる。


 ……違う。そうじゃない。


 私が求めてたのは、こんな言葉じゃない。


 優斗君は……優斗君は、あんなこと言わない。絶対に言わない。なのに、なんで、なんであんな……


 わからない。どうして、あんなふうに突き放されたの?


 私はずっと、優斗君を……。


 いや、そもそも、あんなこと言われるようなこと、してない。してないはず。ちょっと手を繋いだり、肩を抱かれたり、それだけで恋人だなんて誰が決めたのよ。そんなの、浅間先輩が勝手にやったことで……私だって戸惑ってたし、流されてただけで……。


 そう。私は悪くない。私は優しくしようとしただけ。浅間先輩を無下にできなかっただけで、何も裏切ってなんかない。


 私の中で、どす黒い声が囁く。


 ……この人がいたからだ。


 この人が、勝手に私の隣に立ったからだ。


 この人が、優斗君に誤解されるようなことばっかり……。


 私が、選んだわけじゃないのに……。


 優斗君だって、ちゃんと話を聞いてくれたら……私の気持ち、信じてくれたら……。


 それなのに……。


「な、なあ……あんなやつのこと、気にすんなよ」


 先輩が声を落として言った。その声は、いつもの自信に満ちた声ではなかった。どこか緊張したような、おどおどした声色。


「……」


 私は黙ったまま、また視線を天井に戻した。


 浅間先輩は私が倒れた瞬間、すぐに駆け寄ってきてくれた。その先輩が今、こうして私のそばにいてくれている。でも、なぜか心がぽっかりと虚ろなまま。


「ま、負け惜しみだよきっと。俺と千秋が仲良さそうだから、あいるきっとやきもち妬いたんだよ」


 浅間先輩は少し笑って見せ、私に気を遣っているようだった。その笑顔が、どこか媚びているように見える。


「あ、あんなダサい陰キャのことなんて、忘れろよ。地味で何にも取り柄がない奴だぜ?」


 その一言で、私はやっと彼の顔を見ることができた。


 心の奥から、ぞわっと冷たいものが這い上がってくる。


 何よ、この人。


 ただの地味な奴? あんたには、あの音が聞こえないんだ。


 優斗君の演奏が、どれだけ人の心を震わせてるか……。


 顔がちょっと整ってるくらいで、調子に乗って。誰もあんたのことなんか本気で見てないくせに。


 優斗君の顔が脳裏に浮かぶ。中学生の頃、ピアノの前に座っていた優斗君。いつも自信なさげに俯いていた優斗君。でも、ピアノを弾き始めると、まるで別人のように輝いていた。


 そして今日、廊下でまっすぐ私を見つめた優斗君の姿。あの顔は、中学生の頃の面影を残しながらも、どこか違っていた。強さがあった。


 優斗君は今、あの頃の姿を取り戻そうとしている。


 あんなに素晴らしいピアノを弾いていた天才が、再び輝き始めている。


 それなのに、浅間先輩は何も知らずに「陰キャ」とか「あんなやつ」とか、そんな風に言う。


 そう思いながら、浅間先輩の顔を見ていると、その表情がどんどん醜く見えてきた。みっともない。張り付いたような媚びた笑顔が、気持ち悪い。



 浅間先輩が、にこりと笑った。


「千秋?聞いてる?」


 浅間先輩の声に、我に返る。


「俺たちに関係ないって。忘れろよ、あんなやつ」


 その言葉が、最後の一押しだった。


 不意に胸の奥から怒りが込み上げてきた。その瞬間、私の中に溜まりきった何かが、破裂した。


「……うるさいっ!!」


 思わず声が出た。浅間先輩の顔が凍りついたようだった。


「え……」


 驚きに目を見開く浅間先輩。私もはっとして、自分の言葉に驚いた。


「あ、ごめん、そういう意味じゃなくて……頭が痛くて……」


 慌てて言い訳をする。こんな言い方をしたのは初めてだった。でも、もう我慢できなかった。


「あ、ああ……そうか。すまん、しゃべりすぎたな」


 浅間先輩は明らかに動揺している。手を膝の上で握りしめて、どう振る舞えばいいか分からない様子だった。


「お、俺、もう行くわ。……あとで連絡するから」


 そう言って、浅間先輩はぎこちない動きで立ち上がった。


「ああ、うん……」


 私は小さく返事をした。


 浅間先輩はドアの前で一度振り返り、何か言いかけたが、そのまま黙って出て行った。


 保健室のドアが閉まった瞬間、部屋に静寂が戻ってきた。


 窓から差し込む光が、少し傾き始めている。時間が過ぎていくのが分かった。


 でも私の頭の中は、時間が止まったままだった。


 優斗君の言葉。優斗君の顔。そして、優斗君の隣にいた、あの女。


 早乙女真珠。


 あの白金色の髪を優雅に揺らし、優斗君の横を堂々と歩いていた女。


 下唇を噛み締める。歯が当たる痛みさえ、今は何も感じない。


 あの女のせいだ。


 全てはあの女が転校してきてから始まった。


 私は悪くない。優斗君が私を誤解したんだ。浅間先輩と付き合っているわけじゃない。ただ、みんなが羨むような先輩に気に入られて、ちょっと調子に乗っていただけ。


 でもあの女が現れなければ、優斗君との関係も、もとに戻せたはず。優斗君はずっと私を待っていてくれたはず。


 垂らし込んだんだ……きっとあの白い肌と青い瞳で、優斗君を誘惑したんだ。


 そんな思いが頭を巡る中、保健室のドアがゆっくりと開いた。


「千秋ちゃん?入っていい?」


 聞き覚えのある声。矢野景子だった。


「ええ……」


 私は上半身を起こして答えた。


 カーテンの隙間から矢野がそっと姿を現す。手には私の鞄を抱えていた。


 小さく会釈してから、彼女はベッドの脇まで歩み寄ってきた。


「大丈夫?先生から聞いたよ。保健室で休んでるって」


 矢野は私の顔を覗き込むようにして心配そうに言った。


 その声は確かに優しかった。けれど、不思議と胸の奥にざらつくものが残る。どこかよそよそしいような、あるいは……何かを探るような目だった。


「ありがとう、わざわざ……鞄、持ってきてくれたの?」


「うん。早退って聞いたから、先生に頼まれて」


 矢野は手に持っていた鞄を、ベッドの脇の椅子の上にそっと置いた。


 そして、一歩私に近づくと、少し周囲を見回してから、腰をかがめるようにして顔を寄せてきた。


「ねえ……千秋ちゃん」


 声のトーンが一段下がる。まるで秘密の相談でも持ちかけるような雰囲気。


「……優Pって、知ってる?」


 その名前を聞いた瞬間、息が止まった。


 胸の奥が一気に締めつけられて、言葉が出てこなかった。


「……知ってるけど」


 何とか声を出したものの、それはかすれていて、自分でも聞き取れないほどだった。


 矢野は、ちらとこちらの顔色をうかがうようにしてから、続きを口にした。


「実はその優Pがさ……もしかして、天川君なんじゃないかって噂があるの」


 言葉の意味が、頭に入ってこなかった。


 ゆっくりと、しかし確実に背筋が冷たくなっていく。


「え……な、なにそれ……」


 矢野は、少し身を起こしてから、声を落とす。


「そんなに広まってる話じゃないよ?三年の放送部の先輩が言ってたの。優Pって、トゥレット症候群で、ピアノがすごく上手くて……それにスピカと組んでるって」


 私は何も言えなかった。ただ、息が苦しい。


 その一つ一つが、確かに優斗君と重なっていた。


「でも、それ……」


 声が震えた。止めたいのに、止まらなかった。


 矢野はすかさず言葉を重ねる。


「よく分かんないけど、天川君もそれと同じ病気なんでしょ?、昔からピアノ上手かったって、一部の子たちは知ってるみたいでさ。で、真珠ちゃんと、最近あんなに仲良いでしょ?」


 私は小さく震えていた。指先に力が入らない。


「そ、そんなの……」


「たまたまだとは思えないって、先輩が言ってたの。私も最初は、えーって感じだったけど……聞けば聞くほど、繋がっちゃってる気がしてさ」


 矢野は肩をすくめて、困ったように笑った。


 でも、その笑いの奥には、どこか興奮したような熱があった。


「え、でも……他に誰か知ってるの?」


「今のところ、私が聞いた限りじゃその先輩くらい。でもさ、こういう話ってさ、火がついたら一気に広まるでしょ?きっと、そのうち……」


 私は唇を噛み締めた。


 胸の中に、どうしようもないざわつきが広がっていく。


 自分だけが知っていたと思ってた。優斗君の、あの姿を。


 でも、誰かが気づき始めている。どこか遠くで、静かに火がついた音がした気がした。


 矢野の視線が、ふと真剣になる。


「……で、話変わるんだけどさ。千秋ちゃんの本命って、やっぱ浅間先輩なんでしょ?」


 その質問に、思わず言葉に詰まった。


「え……?」


「だって、もう皆言ってるよ?三年の先輩も言ってたし、クラスのみんなもそう言ってる」


 矢野は当然のように言った。まるで、それが既定事実であるかのように。


 皆が言ってる?そんなはずない。私は浅間先輩と付き合っているわけじゃない。ただ、先輩が好意を見せてくれるから、それに甘えていただけ。優斗君のことを愛しているのに。


「じゃあさ、天川君、私が狙ってもいい?」


 その言葉が、まるで鋭い刃物のように、私の胸を貫いた。


「彼、見た目はまあ、ちょっと幼い感じもするけど普通だし。なんていったって、もし噂が確定ならあの優Pじゃん?ねえ?おっけー?」


 矢野の言葉が矢継ぎ早に飛んでくる。


「だ、だめ!」


 思わず声が出た。矢野の顔が一瞬引きつった。


「え?なんで?千秋ちゃんには浅間先輩がいるじゃん」


 そう言われても、違うものは違う。あの人とはそういう関係じゃない。私が愛してるのは優斗君なんだから。


「あの人とはそういうのじゃないの。私が愛してるのは優斗君なんだから」


 そう言うと、矢野は眉を寄せた。


「でも、千秋ちゃん、浅間先輩と付き合いながらそれはずるすぎない?」


「でもそれを勧めたのは矢野さんでしょ!」


 思わず声を荒げてしまった。頬が熱くなるのを感じる。


 矢野は少し驚いたように瞳を見開いた後、肩をすくめた。


「同意はしたけど、基本的に浮気はダメでしょ~」


 その言い方に、矢野を軽蔑するような目で見てしまった。昨日まで二股なんてみんなやってるよと言っていたくせに。


「私は悪くないって、矢野さんだって言ってくれてたじゃない!」


 矢野はそれでも譲る気配を見せなかった。


「どうせキープだったんだからいいじゃん!天川君だって浮気するような彼女とか絶対いやでしょ?」


 その言葉にぐっと言葉に詰まる。


「それに私、知ってるんだよ……?」


 矢野の声が不気味に低くなった。


「な、何を……?」


 緊張が走る。矢野の目に、今まで見たことのない光が宿っていた。


「千秋って、浅間先輩と寝たんでしょ……?」


 その瞬間、血の気が引いた。


 なぜそれを矢野が知っているのか。そんなはずはない。私は誰にも言っていない。浅間先輩だって、そんなことを人に言うはずがない。


 言葉が出ない。口が開いたまま、閉じることができなかった。


「浅間先輩、友達に千秋とヤったって自慢してるらしいよ?」


 矢野の言葉が、耳の奥で反響する。


「ほら、もういいじゃん。天川君、私に譲ってよ?」


 その瞬間、私のスマホが鳴り始めた。矢野はそれを見て、小さく舌打ちをした。


「あ、親から?じゃあ私もう行くね」


 矢野はそう言うと、にこやかな笑顔を浮かべた。さっきまでの険しい表情が嘘のような、明るい笑顔。


「また明日ね、千秋ちゃん。お大事に」


 矢野は手を振って、保健室を出て行った。


 呼び止めようとしたのに、声が出なかった。頭の中が真っ白で、どうしていいか分からない。


 全てが崩れていく。思い描いていた世界が、少しずつ砕け散っていく。


 スマホの着信音がうるさく鳴り続ける。


 優斗君が私のことを振った。


 浅間先輩は私のことを自慢話のネタにしている。


 矢野は優斗君を狙っている。


 どうすればいいの?


 何もかもが狂っていくのに耐えられない。


 矢野のことなんて大嫌い。あんな奴、友達だと思ってたのに。こんなふうに裏切るなんて。


 怒りと絶望が混ざり合い、気づいたら枕を掴んで壁に投げつけていた。


 自分は悪くない。悪いのは矢野や浅間先輩だ。こんなことを勧めたのは矢野だし、優斗君と会うなと言ったのは浅間先輩だ。


 スマホの着信音が、鳴り止まない。


 頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうしていいか分からない。


 指を噛みしめながら、必死に考える。


 そうだ……あの女だ。


 早乙女真珠。


 全部あの女が現れてからおかしくなった。


 優斗君が変わったのも、私との距離ができたのも、あの女が入り込んできたから。


 ……あの女さえ、いなければ。


 あの女さえ、いなければ……


 スマホの音が遠くで反響するように響いていた。


 私はカーテンの向こうに目をやる。誰もいない。


 光の射さない保健室の片隅で、静かに、ゆっくりと笑みがこぼれた。


 優斗君は、きっと……また私のもとに戻ってくる。


 そのためなら……

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