第52話 ポニーテールは振り向かない
まだ少し肌寒い朝の空気が、制服の襟元からゆっくりと入り込んできて、俺は思わず肩をすくめた。
だけど、不思議と気分は悪くなかった。むしろ、少しだけ澄んだように感じるこの空気が、どこか心地よくて。胸の奥で、静かに深呼吸をするような感覚だった。
並んで歩く真珠の髪が、ひゅっと風に揺れる。朝の日差しがそれを淡く照らして、まるで絹糸が光を撫でているみたいに見えた。
さっきのあの手の感触が、まだ腕に残っている気がして、意識しないふりをしながら、つい足元ばかりを見てしまう。
……いや、違う。
意識しないようにしてる時点で、もう意識してるんだって。
自分にツッコミたくなるようなこの感じ、どこかくすぐったい。
「……ね、優?」
いきなり声をかけられて、びくっとなった。顔を上げると、真珠がこっちを覗き込むようにして見ている。
ポニーテールがふわりと揺れて、薄いブルーグレーの瞳が、まっすぐに俺の目を見ていた。
「な、なに?」
「う、ううん……なんか変な顔してたから、見てただけ」
あっけらかんと笑うその声に、どう返せばいいか分からず、俺は曖昧に笑ってごまかした。
けれど、その笑顔が……ちょっとだけ眩しく見えたのは、きっと気のせいじゃない。
いつもと同じように歩いてるのに、見える景色が少し違って感じる。
教室へ向かう通い慣れたこの道も、なんだか空が少し高く見える気がして、
俺は胸の奥で、ぼんやりと思った。
——なんか、違うな。
真珠が隣にいて、何かを引っ張ってくれるような気がして。
いや、今までも実際に引っ張られてたというか、強引に連れまわされたというか……でも今は、心の方を掴まれてるような、不思議な感覚だった。
二学年の校舎が近づいてくる。
連結路をくぐった瞬間、どこか緊張の膜が張り直されるような気がして、
俺は軽く背筋を伸ばした。
よし、大丈夫。
なんとなく、そんな気がした。
今の俺なら——きっと、ちゃんと話せる。伝えられる。
昇降口を抜け、俺たちは自分たちの教室へと向かう廊下に出た。
真珠と並んで歩くその足音が、静かにタイルに響く。
教室までの道のりなんて、もう何度も通ったはずなのに、今日はその先に何かが待っている気がして……なんとなく、深く息を吸い込んだ。
次の角を曲がろうとした、そのときだった。
向こうから見慣れた二人の姿が現れる。
何度目撃しただろうか、この光景……浅間と、千秋。
……手を、繋いでる。
一瞬だけ胸がぎゅっとなった。でも、それもすぐに消えた。
ただ、冷静にその光景を見つめている自分がいた。隣にいる真珠が、ぴくりと動いた気配を感じる。
「出たな、浅い奴〜…‥‥」
真珠が小声でぼそっと言った。
言葉自体は軽口なのに、声のトーンと目つきが完全に“戦闘モード”だった。
浅間が真珠の視線に気づく。
目が合った瞬間、びくっと肩を揺らし、たじろぐように一歩だけ千秋との距離を取る……かと思った次の瞬間、
俺の視線に気づいたのか、浅間はニヤッと口元だけで笑って、繋いだ手からぐいっと千秋の肩を引き寄せた。
あからさまに、見せつけるように、千秋の肩に、遠慮なく手を回す。
その手が触れた瞬間、千秋の顔が一瞬こわばったのが分かった。
——そういうの、まだ怖いんだな。
浅間のその態度に、怒りよりも……ほんの少し、冷たさが込み上げた。
だけど、心は妙に静かだった。波立たない。
千秋の視線が泳いでいる。俺を見ようとしないまま、でも、明らかに気づいてる。
浅間は一歩踏み出すように俺の方を睨んできて……でも、その圧にも俺は揺れなかった。
驚くほど、何も感じなかった。
……いや、違う。何も「揺れなかった」って気づいた。
それが、きっと——
ああ……もう俺は、以前とは違うんだって、そう思えた瞬間だった。
心のどこかで、ずっと千秋の言葉にすがっていた。
「守ってあげる」とか、「君の味方だから」とか。
それが、自分を形作る輪郭だと信じてた。
あの頃は、それだけで生きていけるような気がしてた。
けど、今の俺には——
そういう“誰かの言葉”じゃなくて、“自分の声”がちゃんとある。
自分の足で立って、自分の気持ちで選べるって、ちゃんと分かってる。
それを、仲間が……北斗が、美弥が、そして真珠が、教えてくれたんだ。
廊下を通る他の生徒たちの話し声や足音が、いつもよりも遠く聞こえる気がした。
なのに、真珠の気配だけは隣にくっきりとある。
なんでだろう……いつもより、すごく近く感じる。
千秋と浅間が目の前にいる。
でも、俺の心は、それほど乱れていない。
むしろ、どこか静かで、落ち着いていて……妙な言い方かもしれないけど、少しだけ優しくなれそうな気がした。
言葉が、静かに胸の内から浮かんでくる。
誰かに用意されたものじゃなくて、自分で選んだ言葉が。
あの頃の俺は、ただ、あの温かさにしがみついてた。
怖くて、孤独で、どうすればいいか分からなくて。
そんな時、差し伸べられた千秋の手が……あまりにも優しすぎたから、
「これは恋だ」って、思いたかった。
でも——
今なら分かる。
誰かにいてほしくて、誰かの隣にいたくて……そうしなきゃ自分が消えてしまいそうで。
だから「好き」って言葉で、無理やり蓋をしてたんだ。
今の俺なら、きっと言える。
本当の気持ちを、ちゃんと。
そう思ったら、不意に肩の力がふっと抜けた気がした。
呼吸が、少しだけ深くなった。
浅間の視線も、千秋の表情も、
どこかフィルター越しに見ているみたいで、
俺はふいに、小さく笑った。
自分でも驚くくらい、自然に出た笑みだった。
無理に作ったわけじゃない。ただ、そうなった。
たぶん、ようやくちゃんと“自分”に戻れたって、そう思えたからかもしれない。
一歩前に足を踏み出す。その瞬間——浅間の眉がぴくりと動いた。
まるで「は?」って言いたげな顔。
でも、口には出せない。
睨み返すつもりだったんだろう。でも、俺の表情を見て、言葉を飲み込んだように見えた。
千秋も、目を見開いたまま、声にならないような声をこぼす。
「……え?」
かすれたその一言が、やけに耳に残った。
戸惑いとか、焦りとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになってるような……そんな声。
その気配に気づいたのか、真珠がそっと俺の袖を引いた。
「優……大丈夫……?」
声は小さくて、少しだけ不安そうだった。
ちらりと横を見ると、真珠の瞳がじっと俺を見ていた。
いつものあの強気な感じじゃなくて、どこか頼りなさげな……
まるで「無理してない?」って聞かれてるみたいな目。
俺は、そっと自分の手を伸ばして、真珠の手を軽く押さえた。
「大丈夫だよ……」
笑顔のまま、そう返す。
自分でも驚くくらい、声が落ち着いていた。震えてない。迷ってもない。
本当に“大丈夫”だと思えてるから、言葉に力がこもる。
そしてそれが、真珠にもちゃんと伝わったみたいだった。
真珠が、ふっと息をついたのが分かった。
その指先の力が少しだけ抜けたのを感じながら、
俺は視線をふたたび前に向けた。
やるべきことがある。
ちゃんと、伝えるべき言葉がある。
今の俺なら、きっと言える。
ゆっくりと、千秋たちのほうへ歩を進めた。
浅間が一瞬身を起こし、俺を真っすぐに睨んできた。
まるで「来いよ」とでも言いたげな目。
その眼差しには、挑発とも焦りともつかないものが混じってた。
でも……そんなもの、どうでもよかった。
俺の足は、迷いなくその横を通り過ぎた。
肩すれすれに通った瞬間、浅間の表情が一瞬だけ固まったのが見えた。
何か言いたげだったけど、その言葉が形になる前に、俺は千秋の前で立ち止まった。
彼女は……目を逸らそうとしてた。
でも、そのままにはしなかった。
「千秋」
声は自然に出た。張る必要も、強く言う必要もなかった。
ただ、まっすぐに。心からの言葉を、そのまま口にするように。
千秋が、ゆっくりと顔を上げた。
「俺はもう……大丈夫。だからもう、心配しなくていいよ。今まで、ありがとう」
千秋の瞳が揺れる。
「え……?ゆ、優斗君……何を……」
戸惑いが滲むその声を、遮るつもりはなかったけど、言葉は自然と続いた。
「——あのとき、俺に手を差し伸べてくれたのは、千秋だった。そのことは……今でも変わらない。すごく感謝してる」
千秋が口を開きかけて、すぐ閉じた。でも俺は、続ける。
「でも……その手を取るべき相手は、もう俺じゃない」
「優斗君!?」
千秋が、思わず俺の袖をつかもうとする気配があった。
でも俺は、一歩だけ下がった。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……君の、笑う顔が好きだった」
声が、自分でも驚くほど穏やかだった。
懐かしさと、ほんの少しの痛みと……それでも、優しさがこもったような声に、自分でも驚くほど。
「泣いてた俺を励ましてくれて、そばにいてくれた君が……本当に、大好きだった」
その言葉を聞いた瞬間、千秋の顔がぱっと明るくなった。
どこか、救われたような、安心したような、そんな表情だった。
……でも。
「でも、それは……恋じゃなかった」
俺の口から、その言葉がこぼれた瞬間、千秋の表情が、ゆっくりと崩れていくのが見えた。
「え……?」
小さく漏れたその声に、俺は答えなかった。ただ、少しだけ目を伏せてから、顔を上げて言った。
「さようなら、千秋」
そして、背を向けた。
もう……迷わなかった。
俺は、ちゃんと“自分の言葉”で、過去に別れを告げられたんだ。
言い終えた瞬間、胸の奥に何かが静かに沈んでいった。
重さじゃない。むしろ、ずっと背負っていたものが、ようやく地面に降ろされたような……そんな感覚だった。
背後で何かがざわめく気配があったけど、もう振り返らなかった。
あれは、俺の大事だったもの。けど、それはもう、ここに置いていく。
ふっと息を吐いて、目線を横に移す。
真珠が、ほんの少し離れた場所で俺を見ていた。
その瞳に宿っているのは、驚きとも、安堵とも、言葉にできない感情の入り混じった色。
何かを確かめるように、じっと、俺のことを見ていた。
さっきまでのような軽い口調も、勢いのあるツッコミもない。
彼女がこうやって黙ってると、空気の透明度が上がったように感じる。
その静けさが、逆にたまらなく真珠らしくて、どこか胸がきゅっとなった。
だから、俺は笑った。自然と。
「行こう、真珠。チャイム、鳴っちゃうよ」
そう言った瞬間、真珠の肩が小さく揺れた。
「え……?」
一瞬ぽかんとしたような顔をして、でもすぐに頬がふわっと染まっていくのが分かった。
さっきまで凛としていた表情が、照れくささに染まっていく。
そして、視線をそらしながら、小さく頷いた。
「う……うん」
声が、ちょっとだけ上ずってた。
でも、そのたった一言が、やけに嬉しくて。
俺も、何かから解放されたような気持ちで、そのまま歩き出した。
歩幅は自然とそろってた。
何も言わないまま並んで歩いてるのに、沈黙が心地よかった。
過去とちゃんと決別した今、俺の隣にいるのが、真珠なんだってことが——
たまらなく、誇らしかった。
自分で選んだ道を、自分の足で歩いてる。
隣には真珠がいて、俺の歩幅に合わせてくれてる。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど、その温もりをかき消すように、背後から声が飛んできた。
「優斗くん!!」
……千秋の声だった。
振り返らなかったけど、どんな顔をしているのか、分かる。さっきまでの穏やかな空気を、破るような必死さが、声に滲んでいた。
「待って、優斗くん!お願い、話を……!」
走ってきたのか、靴音がバタバタと響く。
そのあと、別の声が重なる。
「おい、千秋!落ち着けって……!」
浅間の声。焦ったような、戸惑ったようなトーンだった。
ざわ……と、廊下の空気が揺れた。
周囲の生徒たちが何事かと振り向きはじめる気配。
廊下のざわめきが、波のように広がっていくのが分かった。
でも、それでも俺は振り返らなかった。
もう、戻る理由はない。
さっき、ちゃんと伝えた。俺の気持ちも、過去も、感謝も。
あれ以上の言葉は、もう要らない。
それでも背中から聞こえてくる叫び声は、どこか痛々しかった。
まるで昔の俺が、その声にすがっていた頃の記憶を引きずり出してくるようで——
……でも、もう違う。
今の俺には、あの声にすがらなくても歩ける足がある。
あの言葉に頼らなくても、信じられる人がいる。
そう思ったら、胸の中にあった最後の鎖が……静かに、ほどけていくような気がした。
静かに、でも確かに、自由になれた気がした。
けど……不思議だった。それなのに、心が空っぽになった感じはしなかった。
どこか温かくて、やわらかいものが胸に残ってて。
それはたぶん、隣を歩いてる——真珠の存在だと思う。
あのざわめきの中で、ただ黙って俺のそばにいてくれた。
手を引っ張ったり、問い詰めたり、無理に笑わせたりしないで、
そのまんまの“俺”を見てくれてた。
……ありがたかった。
すごく、救われた。それを言葉にするには、どうしたらいいんだろう。
前を向いたまま、そっと声をかけた。
「ねえ、真珠」
名前を呼んだだけで、真珠がぴくっと反応して顔を上げた。
「な、なにっ?」
慌てたようにこっちを見る真珠に、思わず笑いそうになるけど、
でも、ここはちゃんとまじめに言わなきゃいけない気がして——
少しだけ間を置いてから、言った。
「……あのさ。今度、ちょっとだけ、付き合ってくれないかな」
「え?」
真珠が目を瞬く。
「べ、別に深い意味とか、そういうんじゃなくて……ただ、気分転換に。……ほら、俺、いろいろ整理できたから。今の気持ちのまんまで、ちゃんと……君とその、ゆっくり話せたら……って」
なんだそれ。言ってる途中で恥ずかしくなって、途中から視線をそらした。でも、取り繕いたくはなかった。これが今の俺の、正直な気持ちだったから……。
しばらく沈黙が続いた。返事が返ってこないのが、ちょっと怖くなって、ちらっと真珠の顔をうかがう。
あ……れ?
……真っ赤だった。顔が顔が首元までりんごの様にまっ赤っ赤。
目をぱちぱちさせたまま固まってて、完全にフリーズしてる。
あ……これ、やばかった?
タイミング早すぎた?い、言い方おかしかった?へ、変に思われた!?
「あ、えっ!いや、本当に深い意味は――」
焦って何か言おうとした、その時だった。
「に、日曜!」
真珠が、急に叫んだ。
しかも、俺の胸を両手で押してきて——
「うわっ」
完全に油断してたから、そのまますっころんだ。
後ろに転びそうになって、反射的に片手をついて体を支える。
「痛っ……」
腰をさすりながら顔を上げると、真珠が顔を真っ赤にして立っていた。
「今度の日曜っ!!」
えっ……なに?日曜って何!?
唐突なその言葉に、思わず混乱してる俺の前で、真珠はさらに真っ赤になって続けた。
「ま、前と同じ時間と場所でっ!……で、でも、遅れたら……」
一度言いかけて、真珠が口を噤む。
でも、震えるように息を吸って、次の瞬間、叫んだ。
「お、遅れたら噛みつくからねっ!!」
……ええ!?って思う間もなく、真珠はそのままくるっと踵を返して、猛ダッシュで走り出した。
廊下を通る生徒たちの間を「うわっ」「ちょっ……危なっ」とか言わせながら、疾風のごとく走り去っていく。
俺はその背中を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
「し、真珠!?教室こっちだってば!」
慌てて呼びかけたけど、真珠は振り返りもせずに駆け抜けていった。
制服の裾とポニーテールだけが、風を引いてふわっと揺れていた。
……なにあれ。ほんとに……なんなんだよ。
でも、思わず笑ってしまった。
口元がゆるんで、頬があたたかくなる。
さっきまで張り詰めていた心の糸が、ふっとほどけるような感じがして——
なんていうか……ちょっと、救われた気がした。
「やっぱり敵わないな、真珠には……」