第51話 今はその手を離せない
朝の空気が、なんだか少しだけ澄んでいるように感じた。日差しは柔らかくて、制服の上からでも、あたたかさがじんわり伝わってくる。
風がスッと頬を撫でていって、まだ少し冷たいけど、心地よかった。
坂道を登る足取りは、昨日までよりも少し軽かった。
スマホを取り出すと、北斗からのメッセージが届いていた。
画面には一言と、リンク。
「上げといたぜ。マジで神だったから」
なんのこと?
首をちょっと傾けて、スマホをポケットにしまおうとした、そのとき――
前方に人影が見えた。
交差点の手前に、三つの影――梢、陽介、翔子。
瞬間、足が止まった。心臓が一拍だけ大きく鳴る。
逃げる理由はなかった。けれど、少しだけ呼吸が浅くなる。
「……優斗」
梢が名前を呼んだ。
久々に聞く変わらない声だった。相変わらず姿勢は良くて、髪も整ってて、表情もどこか冷静で。
けど、昔みたいな親しさはそこには感じなかった。
俺の目が変わっただけかもしれないけど。
「話したいことがあるの」
「ちゃんと……伝えておかなきゃって」
俺は黙ったまま立ち止まった。
何も言わずにいると、陽介が一歩出てきて、少し気まずそうに頭をかいた。
「……高校に入ってからさ、急に距離置いたよな。……ごめん。別にお前のことが嫌いになったとか、そういうのじゃなくて」
気まずそうに頭を掻きながら、陽介が続けた。
「むしろ逆で。優斗が、俺らに頼りすぎてるように見えたんだよ……だから突き放した。わざと、な」
翔子もそっと口を開いた。
「本当はずっと気になってたの、でもほら、私たちずっと優斗君にかまってあげてたでしょ?それって、優斗君にとってはあまりよくなかったんじゃないかって思って……」
申し訳なさそうに俯く翔子は、相変わらず梢や陽介の顔色をうかがいながら話している。
「優斗君が変わってくの、見てたよ。どんどん表情なくなって、無理して笑ってるみたいで……でもね、ぜんぶそれもこれも優斗君の為で……」
それが本心なのかどうかは分からない。でももし事実だったとしても、たぶん、それぞれが、それぞれの正義で動いてたって事だと思う。
全部が間違いだったとは思いたくない。できれば今言われたことも全て信じてあげたい。
ただ——俺は静かに、言葉を返した。
「……そっか。そうだったんだ」
一歩だけ、視線を落として、少し息を吸った。
「ありがとう。話してくれて」
三人の顔が、少しだけ和らいだのが見えた。
でも、俺はそこから先の言葉を選ぶのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
「でもね……ごめん。今の俺は、もうちょっと違う場所を見てると思う」
そう、もうあの頃には戻れない。いや、戻りたいとも思えない。皆には感謝している。あの時、手を差し伸べてくれて……でも、それにすがるのは……もうやめたんだ。
「昔は、あの頃は、それが当たり前だった。でも……今は、自分でちゃんと考えて、ちゃんと選びたい」
そう、選ばされるのではなく、自分で選びたい。
「たぶん、それだけなんだ」
語気を強めたわけじゃない。誰を責めたわけでもない。
でもその一言で、三人の間に、はっきりと線が引かれた気がした。
「何を言ってるの優――」
梢がそう言いかけた瞬間だった。
カツン、と鋭い音を立てて、誰かの足音がこっちへ向かってきた。
俺の腕が、ぐいっと引っ張られた。
力が強くて、一瞬バランスを崩しかける。振り返ると、真珠が立っていた。
制服の袖が揺れていて、顔は少しだけむくれてる感じ。
見た事ないくらいおっかない顔をしている。
「えっ?」
なんか怒ってる……よね?
何も言わずに俺の腕を掴んで、じっとこっちを見ている。睨んでるような、拗ねてるような。まるで怒り心頭のチワワみたいな迫力。
「し……真珠?」
声をかけても返事はない。かわりに、手に込められた力がじわっと増した。
「なに? 急に……」
梢の苛立ちまじりの声がすぐ後ろから聞こえる。
その直後だった。
「ス、スピカ……!?」
「……顔、ちっさ……」
陽介と翔子が同時に息を呑んだ。
まさか「スピカ」が目の前に現れるとは思ってなかったんだろう。まるでアイドルに遭遇した一般人みたいに固まっている。
二人の目が、俺の隣で腕を掴んでる真珠に吸い寄せられていた。
知ってるはずなのに、実際にこの距離で現れると、反応が追いつかないらしい。真珠はそんな視線も気にせず、ポケットからスマホを取り出した。
画面を操作しながら、無言のまま俺の目の前に突きつけてくる。まるでお説教する先生みたいな勢い。
再生された動画には、いつものハスキーな北斗とは違う、大人びた色気のある歌声。
しかもこの曲……昨日、俺があのロビーで即興で弾いたあの曲だ……。
そこに歌が加わって、アレンジされ編曲されている
「……うそ、これ、もう……」
朝の北斗のメッセージ。「上げといたぜ。マジで神だったから」
その言葉の意味が、やっと繋がった。
画面の中で流れるコメントと再生数に呆然としていると、真珠はふいっと顔を背けた。
頬が少しだけふくらんだままで、スマホを引っ込める。
次の瞬間、俺の腕をまたぐいっと引いた。
俺の腕が、またさらに強く引っ張られる。
真珠は何も言わず、ぐいぐいと歩き出していった。
いや、待って、これどこ行くの?
って言おうとしても、振り向く気配すらない。
完全に無言。しかも手の力がぜんぜん緩まない。
「ちょ、真珠……?」
足を引きずるようについていく俺の背後で、梢の声が追いかけてきた。
「ちょっと、あなた!なに勝手に——」
言いかけたところで、真珠がくるっと振り返って梢たちを睨む。
その目は、完全に"怒ってる時の真珠のやつ"だった。細くなった目と、ほんの少し噛んだ唇。怒鳴りはしないのに、空気が一瞬で凍るあの感じ。
梢が反射的に息をのむ。
陽介と翔子はなにも言えずに固まったまま、ただその場に立ち尽くしていた。
俺も、ついていっていいのか迷ってたんだけど——やめよう、抵抗したらさらに悪化しそうだ……。
手を離す素振りもないし、真珠はそのまま黙って歩き続けてる。
どこに行くのかも分からないまま、俺は半ば引きずられるようにして真珠に連れられていった。
人気のない中庭の方へ回って、建物の裏側の植え込みの影に入る。
朝の登校時間帯にしては、ここだけ妙に静かだった。
ようやく真珠が足を止めた。
それでも手は離してくれない。でもようやく、少しだけその力が緩んだ気がした。
俺が何か言おうとしたとき、真珠はさっともう一度スマホを取り出した。
真珠は無言のまま、スマホの画面をもう一度俺に突き出してきた。
映っていたのは、昨日北斗と行った施設の談話室。
角度的に後ろからの映像で、俺の顔は映っていない。けど——見ればわかる。
服装、色、手の動き、肩の揺れ。弾いているのは――俺だった。
流れ出したのは、昨夜、北斗のために弾いたあの旋律。
そのまま動画になって、今、SNSに上がっている。
投稿主は不明。おそらくあのとき誰かが録っていたらしい。
再生数はまだそこまで多くない。でも、コメント欄に目を向けた瞬間、息が止まった。
《グリッサンドの滑り方、駅前ライブと同じ》
《中盤の動き、あのセッションの即興と一致してる。優Pの可能性高い》
《コミワの動画と聴き比べたけど、打鍵が完全に一緒》
《この跳ね方は本人じゃないと無理。知ってる人はもう分かってる》
「げっつ……」
思わず声が漏れた。もしかしてこれがネットの特定班ってやつ……?
名前は出ていない。顔も映っていない。でも、分かってる人は気づき始めている。
演奏のクセ。手の運び。音の立ち上がり。それをちゃんと聴いている人たちが、すでに「これは優Pかもしれない」と反応していた。
焦り、というより、胃の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚だった。
それよりも何よりも——
画面の明かり越しに見上げてくる、真珠の視線が刺さる。
じとーっとした目。頬はむすっとして、口元はきゅっと結ばれてる。
「何も聞いてないんだけど」って言葉を使わずに語る表情。
あきれてるようで、拗ねてるようで、それでいてどこか不安そうにも見えた。
何か言わなきゃと思って、口が開きかけたけど——声にならなかった。
その視線がまっすぐすぎて、どんな言い訳も跳ね返される気がして、何も出てこなかった。
沈黙のまま数秒が過ぎた。
真珠がふいにスマホを引っ込めた。そして、ぷいっと顔を背ける。まるで怒った猫みたいな仕草。
次の瞬間、ふくらんだ頬のまま、いきなり口を開いた。
「なんで、私だけ知らないの」
真珠の声は小さいけど、いじけているのは一発で分かる。
ぷくっとした口元、目線を合わせない態度。全部が分かりやすかった。
「演奏のことも、投稿のことも……なんで、何も言ってくれなかったの?北斗には言ってるのに。私には、な~んにも……」
真珠の語気が強くなっていく。
「せめて……せめて一言、言ってくれてもよかったじゃん!」
スマホを握った手が、ぶんっとちょっとだけ振られる。
でも勢いで振り回すというより、もどかしさが溢れてるみたいだった。
「しかも、優Pの正体がバレかけてるんだけど!?」
そこまで言ってから、真珠がぐるっと振り向いた。
ようやく目が合ったと思ったら、目元がほんの少し潤んでて、俺は完全に言葉を失った。
「優Pハッピー学園ライフ計画、どうすんの!?」
「全部ぶち壊しなんだけど!? 完全にピンチ!!」
怒ってる、たしかに怒ってる。
でも、どこか涙目でむすっとしてて、顔もほんのり赤くて——なぜだろう、目の前で怒られてるって分かってるのに、そんな真珠の姿が、やけに可愛くて……
真珠はそのまま、「……もう!優、ついてきて!」と、また俺の腕をぐいっと引っ張った。
引っ張られる力がさっきよりちょっと強くて、でも、不思議とさっきよりは痛くはなかった。
真珠はそのまま歩き出して、俺は無言でついていくしかなかった。
廊下は、ちょうど授業前の時間帯で、まだ人の姿はない。
窓から差し込む光が床に伸びていて、二人で並んで歩く影がそこに落ちていた。
真珠は無言のまま歩き続けている。
でも、その歩幅はさっきより少しだけゆっくりだった。
手はまだ繋いだまま。けど、強くは握ってない。
どこか、お互いに言葉を探しているみたいな、そんな静けさだった。
ふいに、真珠がぼそっと呟いた。
「……謝るのはいいけど、それで済むと思わないでよね」
ぷいっと顔をそらしながら、口をとがらせている。
声は不機嫌なはずなのに、なぜか少しだけ、息が抜けたような音が混じっていた。
「……ごめん」
思わず、さっきよりも素直に言葉が出た。
嘘じゃないし、取り繕いでもない。ただ、謝るしかなかった。
真珠はちらっと俺の方を見たあと、ふいっと前を向いて、今度はすごく小さな声で、こう言った。
「……ほんとにもう……優は抜けてるんだから……バカ」
怒ってる声なのに、どこかホッとしたような響きがあって、俺はその言葉に助けられたような気がした。
ポケットにしまったはずのスマホを、真珠がもう一度取り出す。
画面にはさっきの動画の再生ページが映っていて、コメントもタグも、さっきより増えていた。
じわじわと広がっていく"噂"。
このままじゃ、本当に優Pが誰か、知られるのも時間の問題かもしれない。
でも——今、隣で歩いてる彼女がいてくれるなら。
その視線の隣に自分がいられるなら。
少しだけ、怖さも消えていくような気がした。




