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第49話 鎖を知る子供たち

 ファミレスの扉をくぐって外に出た瞬間、午後の光がまぶたを刺した。空は高く澄んでいて、都会の喧騒が遠くでくぐもって聞こえる。さっきまでの重たい会話の余韻だけが、足元に影を落としていた。

 

 心が少し軽くなった気がした――はずだった。


 千秋の名前を口にしたあと、なんだか胸の奥に空っぽの穴が開いたような、そんな変な感覚が残っていた。


 あのとき信じていた『好き』って気持ちは、いったい何だったんだろう。


 真珠や北斗が言ってたこと……たぶん、どこかで納得してる。でも、それを本当の意味で受け入れる勇気までは、まだ自分の中にない。


 これまで信じてたものに、ヒビが入ったみたいな感じ。


 ……そのヒビの向こうに何があるのか、考えるのが少し怖かった。


「なあ、優。明日、時間あるか?」


 北斗の声に、ハッとして顔を上げた。


 急に言われて、ちょっとだけ返事に詰まる。

 

 けど……。


 北斗はちらっと俺の顔を見て、少しだけ真面目な声で言った。


「お前、顔に、いかにも“思いつめてます”って書いてあるぞ。ちょっくら気分転換でもしようぜ、な?」


「……うん」


 気がつけば、その言葉に、ほんの少し心が揺れて、俺の首は自然に動いていた。


 このまま家に帰ったら、また何も変われなかった昨日の自分に戻ってしまいそうで、怖かった。


「じゃあ、決まりな。時間とかは後でメールすっから、よろ~」


 北斗が笑いながら言う。


「え〜、なんかずるい! 私も行きたい……!」


 真珠が不満げに口を尖らせた。


「お前、明日撮影だろ?」


「連休最後の日に仕事とか……うぅ……行きたかったなあ、優と一緒……」

唇をふくらませながらも、どこか本気で悔しそうに呟く真珠。


 俺はどう返せばいいか分からず、思わず目を逸らした。


 真珠もすぐに笑ってごまかしたけど、その目がちょっとだけ切なそうに揺れていた気がした。


 俺が「どこ行くの?」と聞いても、北斗はニヤニヤした顔で「当日のお楽しみ」とはぐらかした。


 それ以上は教えてもらえず、俺は曖昧なまま頷くしかなかった。


 頷いただけなのに、胸の奥がふっと軽くなった気がした。誰かが、ちゃんと気にしてくれている――そんな感覚がじんわりと広がっていく。


 そのまま、静かに思った。心のどこかで、何かが少しだけ――救われたような、そんな気がした。


 ファミレスを出た後、無言で歩きながら家に着いた。


 いつものようにパソコンを開いて作業をしていたけど、頭の中はどこかぼんやりしていて、何も手に付かない。


 その後もだらだらと過ごして、気づけばあっという間に一日が終わっていた。


 夜、ベッドに入っても、なんとなく眠れなかった。

 

 救われたような気持ちと、ざわついた心のどっちも残っていて、胸のあたりが落ち着かない。


 スマホを開くと、北斗からメッセージが届いていた。


『明日9時、お前んちまで行くから』


 たった一行だけ。

 

 それでも、なんとなく分かった。きっと、明日は“何か”があるんだって。


 画面を閉じて、目を伏せた。


 ……ちゃんと眠れるかは分からなかったけど、それでも、少しだけ安心していた。





 朝、目を覚ました瞬間、胸の奥で軽い動揺が残っていた。


 ……千秋の夢を見ていた気がする。でも、内容はぼんやりしてて、はっきりとは思い出せない。ただ、手を伸ばしても届かない距離に千秋が立っていたことだけは、なぜかはっきり覚えてた。


 何か言ってた。けど、声は聞こえなくて、口の動きも読めなかった。


 それでも、あのときの千秋の表情は、たぶん……笑ってた。


 なのに、どうしてか、その笑顔が「さよなら」って言ってるように見えて、胸が少しだけ苦しくなった。


 起きてもなお、胸の奥に、ひっかかるような何かが残ってる。


 ベッドを出て、いつものようにパソコンの電源を入れて、MIDIキーボードの前に座った。手を伸ばす。


 ……でも、それだけだった。


 そのまま、指が置けなかった。


 最初の一音を出すのが、怖い。


 昨日の会話が、まだ頭の中でぐるぐるしていて、うまく整理できない。こんなふうに音に触れられないのは、初めてだった。


 自分でも、少し驚いた。


 北斗に「付き合えよ」って言われた昨日の夜のこと。あのときは、ただ流されるように「うん」って頷いた。


 でも、今になって胸の奥に浮かんでくるのは――北斗の誘いそのものじゃない。


 俺の中にある、まだ答えの出ていない感情のことだった。


 “千秋のこと”。


 “昨日の言葉”。


 それとも、もっと別の何か――。


 何か、確かめたい気持ちがある。自分でもはっきり分かってるわけじゃない。けど、それでも今日は……行かなきゃいけない気がしていた。


 時計を見て、そろそろ来る頃だと思った。

 

 パーカーのチャックを引き上げながら、キーボードケースの脇を避けて玄関に向かう。


 頭はまだもやがかかったままだけど、それでも足は自然と動いていた。


 チャイムが鳴って、玄関を開けると、北斗が立っていた。私服姿の北斗は、いつものパンクな雰囲気は少し影を潜めていて、どこか落ち着いた印象を受けた。


「準備できてんな?んじゃ、行きますか」


 俺は一瞬だけ躊躇してから、その背中を追いかけた。


 並んで歩くけど、会話はなかった。


 北斗は時折ポケットに手を入れながら、いつもより少しゆっくり歩いていた。


 それが逆に、今日が“特別な日”だってことを静かに伝えてくる気がした。

 

 駅前の通りに出ると、タクシーがちょうど一台、乗り場に停まっていた。


 北斗が無言で歩み寄り、軽く手を挙げると、運転手がこちらに頷く。


 俺も無言のまま、そのあとに続いた。


 タクシーのドアが静かに閉まり、車が走り出す。


 俺たちは並んで座ったまま、何も言わなかった。


 車窓の向こうでは、朝の街がゆっくりと流れていく。


 通学中の学生、開店準備をしている店員、信号待ちの自転車。


 目に入るもの全部が、どこか遠くの出来事みたいに思えた。


 移動中、北斗は道筋だけ告げるだけで、目的地を明かそうとはしなかった。


 その沈黙が気になって、俺は思い切って聞いてみた。


「……いい加減、どこに向かってるのか教えてくれない?」

 

 北斗は少しだけ口元をゆるめて、窓の外を見たまま答えた。


「まあ、着けばわかるって」


 穏やかに言ったその一言だけで、北斗は再び黙り込んだ。


 会話が続くかと思ったけど、そうじゃなかった。


 少しだけ会話を交わしたり、軽い冗談を飛ばす場面もあったけど、今日の北斗はどこか真面目モードだ。


 俺も何も話さなくなって、ただ、車の振動だけがじんわりと体に伝わってきていた。


 北斗は窓の外をじっと見ているままだ。


 その横顔をなんとなく見てると、昨日よりもちょっとだけ大人に見えた。


 言葉じゃうまく言えないけど……いつもの雰囲気とは違う、“ちゃんと、自分で歩いてる人”って顔だった。


 ……それを見たとき、胸がちょっとだけ痛くなった。


 なんでか、昨日から胸の奥で引っかかっていた気持ちが、また顔を出した。


 真珠に言われた言葉がふいによみがえってくる。

 

『それって……嬉しかった?』


 俺は、答えられなかった。


 自分の気持ちなのに、言葉が出てこなかった。


 今でも、その答えは分からない。


 でも……


「嬉しい」って思おうとしてた自分がいた気がする。


 あのとき、俺は……


 誰かのそばにいることで、安心してたのかもしれない。


 ……けど、それが何だったのかは、まだちゃんとは分からない。


 思い返すと、どこかに小さな引っかかりのような感覚があった。


 車が細い坂道を上がるころ、街の喧騒がだんだん遠ざかっていった。


 助手席で沈黙を守る北斗の横顔は、さっきよりも、どこか張り詰めている気がした。


 俺は問いかけたい気持ちを抑えながら、ただ黙って外を見ていた。


 ブレーキの音が静かに消えていく。


 タクシーが停まると、カチャリと小さな音を立ててドアが開いた。


 北斗は無言のまま先に降りた。その動きには、ほんの一瞬だけ何かを確かめるような間があった。


 俺も続いて足を外に出す。ひんやりとした風が頬をかすめた。


 視線の先にあったのは、整った灰色の外壁を持つ建物だった。


 住宅街の中にすっと溶け込んでいながら、その存在感だけは不思議と際立っていた。


 ……たぶん、ここは都心から少し離れた住宅地なんだと思う。静かで落ち着いていて、でもどこか息を潜めているような空気があった。


 建物の正面まで歩いてきたとき、ふと目に入ったプレートに目が留まった。


 何気なく視線を向けたその瞬間、そこに書かれていた言葉が、胸の奥にじんと刺さった。


 ――認知症対応型共同生活介護施設。


 ……文字だけは読めた。でも、意味がすぐには入ってこなかった。


「……え、ここって……病院?」


 思わず聞いてしまった俺に、北斗はポケットから手を抜いて、ゆっくりと頷いた。


「俺の母さんが……いや、今の“母さん”がいるとこだ」


 理解したはずの言葉が、現実としてのしかかってきて、息を呑んだ。


 気づけば北斗はもう歩き出していて、俺もその背中を追うようにゆっくりと足を動かした。

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