第48話 見えない鎖
渋谷のファミレス。休日の昼下がり、食事はとっくに終わっていて、ドリンクバーのカップもそろそろ空になる頃だった。俺たちは店の奥、壁際のボックス席に並んで座っている。窓から差し込む光がテーブルの上を柔らかく照らしていて、空気はのんびりとしていた。
北斗と真珠が、しょうもない話題で軽くじゃれ合ってる。そのやり取りをなんとなく眺めながら、俺はぼんやり考えていた。
……この空気、なんだか落ち着く。気を張らずにいられるのって、やっぱり気が楽でいいな……。
「優はどっち派?」
突然、真珠の声が飛んできて、ストローの先で俺をちょんと指してくる。
え、なに? ……って、全然聞いてなかった。やばい、何の話してたんだ?
思わず視線を二人に戻すと、真珠が小首をかしげて俺を見ていた。北斗もニヤニヤしながらこっちを見ている。なんか、試されてるみたいで、ちょっと恥ずかしい。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろこの空気が、心地よくて――つい、口元が緩んだ。
「なに? 今の笑い方、なんか意味深じゃない?」
からかうような真珠の声。北斗も「だな」と笑って頷いて、二人が顔を見合わせる。
その空気に、俺は少し肩をすくめた。
「……なんかさ、実は北斗が来てくれて、ちょっとホッとしてたんだ」
「ん? なにが?」
「……二人きりで、こんな“デートっぽいこと”してるの、正直ちょっと後ろめたくてさ。その、千秋に……」
言葉にしてみたら、胸の奥に沈んでいたものがゆっくり浮かんでくる気がした。
千秋から、まだ何も答えを聞いていない。なのに俺は、曲作りのためって理由をつけて、真珠とのデートを割り切って考えてた。
彼女と一緒にいると、気持ちが軽くなる。でもその軽さが逆に怖くて――俺はそれを“仕事だから”って言い訳していたような気がする。
本当は、気づいていたのかもしれない。真珠といると、今まで感じたことのない気持ちが湧いてくることに。それを抑えようとしても、うまくできなかった。そんなふうに戸惑いながらも、俺の中に確かに芽生えていたもの。
だけど、その感情に踏み込もうとした瞬間、俺は立ち止まってしまう。 それはたぶん、あの日の言葉が今も胸に残ってるからだ。
――千秋には幸せになってもらいたいんだ。だから無理して俺に合わせる必要はない。
そう言ったとき、何かがほどけた気がした。解放されたような感覚。どこまでも自由に行けるような気さえして……でも同時に、胸の奥でずっと感じてきた不安が顔を出した。
千秋たちは、俺のすべてだった。音を失った日から……いや、それよりずっと前から。いじめられて、一人ぼっちだった俺にとって、あの子たちは唯一の居場所だった。
そんな千秋を、自分の言葉で遠ざけた。後悔はしてない。あのとき、本気でそう思ったから。
でも、今――
真珠といると、その優しさに触れるたび、比べてしまう。過去の自分が選んだことと、今、感じていること。
その狭間にある何かが、まだ言葉にはできなくて……でも確かに、胸の奥に絡みついて離れない。
まるで足に、見えない鎖が巻き付いているみたいに。
その感覚に言葉を探していると、隣からそっと声が届いた。
「……うん。分かる。仕事って分かってても、千秋ちゃんのこと考えたら……なんか、やっぱり悪いことしてる気がしてた」
ふいに届いた真珠の声が、胸に沁みるように響く。
思考の渦に沈んでいた俺は、その一言で現実に引き戻された。
顔を上げると、真珠が少し気まずそうに笑っていて、北斗が「減るもんじゃねーし」といつもの調子で言い添える。
「デートくらい、体験っしょ体験。曲作りの資料だし。合法。健全」
その軽い言い方に、少し笑ってしまう。だけど、すぐにまた胸の奥がざわついてきた。
……さっきまで真珠の言葉に救われた気がしてたのに、今はまた、何かが引っかかる。
こんなふうに心が波打つのは、きっと――
「……誰かとこうして、普通に話して……変な話、ちゃんと向き合ってくれる人がいるのって、やっぱりいいよね」
言ってから、思ったより自分が静かだったことに気づく。
……なんだろう、この感覚。こんなふうに誰かと向き合ってると、自分の中の何かが揺らぐ。
少しだけ躊躇ったけれど、俺は思い切って言葉を続けた。
「……だから、ちょっと話してみたい。ずっと、どこにも出せなかったこと……誰にも話さなかった事、聞いてくれる……かな?」
真珠が一瞬だけ驚いたように目を見開いて、それからふわりと優しく笑った。
「うん。……ちゃんと、聞くよ」
北斗は背もたれに腕を組んで、少しだけそっけなく言う。
「言葉選ばなくていい。思ったまんまで話せ。そーいうの、俺らにも必要だろ?」
俺は小さく息を吐いて、頷いた。テーブルの上を照らす陽の光が、少しだけ暖かく感じられた。
……少しずつ、話せる気がした。
「……千秋って、昔から……俺のこと、分かってくれてたんだ」
「小五のときさ、俺、どこにも居場所がなかった。変な声出すし、勉強もできないし、空気も読めない。みんなに気持ち悪がられて、殴られたりもしてた」
「でも、そんな中で……千秋だけが、話しかけてくれた」
「“この子、すごくいい子なんだよ”って、梢や陽介たちにも紹介してくれて……それで、みんなが俺に話しかけてくれるようになったんだ」
「……あの時、本当に救われたって思った。自分のこと、ダメな奴だって分かってたし……何をしても、どうせ邪魔にされるだけだって思ってたから」
だけど、千秋の言葉ひとつで、全部変わった気がした。
誰かに受け入れられるって、こんなに嬉しいんだって、あのとき初めて知ったんだ。
「でも……千秋たちが一緒にいてくれるだけで、“俺でもここにいていいんだ”って、初めて思えたんだ」
あの感覚が、俺の心を救ってくれた。
「中学で付き合うようになって、ピアノの練習も頑張った。千秋が“優斗のピアノ、すごく好き”って言ってくれたから……褒められたくて、もっと上手くなりたくてさ」
その一言が、俺の背中をずっと押してくれてた。頑張る理由が、ちゃんとそこにあったんだ。
「コンクールのときも、千秋は友達を連れて応援に来てくれて、俺のこと“自慢の彼氏だよ”って……みんなの前で言ってくれた。それが、すごく嬉しかった」
胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「中二の冬、トゥレットの症状が出始めて、周りが引いていっても……千秋だけは、隠れてでも変わらずそばにいてくれた。俺のこと、誰よりも理解してくれてた」
あの頃の俺は、千秋の言葉を疑うことなんて考えもしなかった。そう思っていれば、大丈夫だって思えたし、頼っていれば安心できた。
「浅間に“彼氏とか嘘ついてんじゃねえ”って怒鳴られたとき……ほんとは、千秋が言ってたことと食い違ってて、正直、混乱した。でも……」
少しだけ、違和感もあった。でも、それよりも……千秋の言葉を信じていたい気持ちが勝った。
「千秋は、“優斗を守るために一緒にいた”って言ってくれた。だから、俺は納得した。だって、千秋は俺のこと、誰より知ってくれてるし……全部考えて行動してくれてたから」
そう、全ては俺のためにしてくれた事なんだ……きっと。
「……俺、あの子に……ううん、千秋たちに守られてきた。支えてもらって、導いてもらって……高校からは孤独だったけど、そうやって、いろんなことがあって……今の自分があるんだと思ってる」
ずっと、そう信じてきた。
それが正しいんだって思えたから、心のバランスを保てたんだと思う。
「だから俺……やっぱり、千秋のこと……好きなんだと、思う」
……それが、今の俺にとっての答えだと思ってる。
だけど――
静かに、真珠の声が落ちてきた。
「……優、それってさ、その……ほんとに、嬉しかった?」
言葉を選ぶというより、どこか戸惑いながらも浮かんできた疑問を、そのまま口にするような響きだった。
「え?」
「うまく言えないんだけど……なんか聞いてて、ずっと……少し怖かったというか」
「怖い……?」
「ああ!ご、ごめん! そうじゃなくて……なんか、優が、“千秋ちゃんが言ってたから”って全部そのまま受け取ってるの、すごいなって。でもさ……全部“言われたから”じゃなくて、優自身がどう思ったのかっていうのが、あんまり見えなかった気がして」
真珠の言葉は、慎重というよりも、素直な感覚のまま揺れながら紡がれていた。
「それは……俺がちゃんとそう思ってるからで……」
「うん……そうだよね、ごめん。うまく言えなくて。でも、最初からずっと、なんか……気になってたんだ」
少し間を置いて、真珠がふと何かを思い出したように呟いた。
「あっ……だから私、あの時屋上であんな事……」
「屋上で?」
思わず聞き返した俺に、真珠はハッとした顔で目を丸くした。
「えっ、な、なんでもない! ううん、忘れて、今のなし!」
慌てて両手を振って誤魔化す真珠に、俺はそれ以上何も言えず、なんとなく曖昧な空気だけが残った。
その空気を断ち切るように、北斗がふっと口を開いた。
「……前にも少し話したよな。俺の親のこと」
俺はふと、学校を休んだ時に、北斗たちが見舞いに来てくれた日の事を思い出す。
「……うん、覚えてる」
「俺さ、小さい頃よく言われてた。“桃子は可愛くない子だね”“誰にも好かれない”“だから私だけが愛してあげる”って。……あいつ、俺を殴ったあとに、いつもそう言うんだよ」
言葉の節々に、無理に笑いに変えるような軽さが混じっていた。けれどその奥にあるものは、言葉の重さに比例して、はっきりと伝わってくる。
「俺、それ信じてた。“俺にはこの人しかいない”って思ってたし、“これが愛なんだ”って思ってた。だって、そうでも思わなきゃ、自分がどんどん壊れていく気がしたからさ……」
「でもそれってさ、“守られてた”んじゃなくて、“縛られてた”だけだったんだ。そう気づけたのは、もうだいぶ後になってからだけどな」
北斗は視線を少し落とし、言葉を探すように間を置いた。
「お前の話、聞いてて……なんか、昔の俺にそっくりでさ」
「俺と……そっくり?」
「千秋が“全部考えてくれてた”“俺のためにやってくれた”って、お前は言ってた。守られてたんだろ? 教室の隅で震えてる時も。でもそれってさ、お前自身の考えとか選択を、知らないうちに奪われてたってことじゃないか?」
「周りのお友達とやらにも、同じようなこと言われてたりしてないか?」
「梢たちに……」
「追い詰められた人間ってのは、“お前のためだ” て言われると、その言葉に逆らえなくなる。“そうなんだ”って信じるしかなくなる。でもそれ、本当に“守られてる”って言えるのか?」
千秋の言葉が脳裏に蘇る。
『……だから、それまでの辛抱なんだ。すべては優斗君の為なんだよ?」』
昔から繰り返し言われ続けた言葉。 千秋だけじゃない。梢や陽介、翔子にも言われ続けた。『優斗の為なんだよ』
「それ、俺にはどうしても……支配にしか見えねぇよ」
北斗のその言葉を聞いて、俺は思わず小さく肩を震わせた。
“違う”って言いたいのに、うまく言葉が出てこない。
「……違うよ。だって千秋は、千秋たちは本当に俺のこと……」
気がつけば、拳を強く握りしめていた。
「俺を必要としてくれたし、分かってくれたし……!い、今は変わっちゃったけど、また前みたいにピアノが自由に弾けるようになれば、皆だって……!そ、そうだよ……あの子は、千秋は、ちゃんと最後には俺を選んで……だからそれまでは……!」
「優斗……」
その声が胸に触れたとき、張り詰めていた気持ちが一瞬だけ揺れた。真珠の声は、俺の中にあるぐちゃぐちゃな感情を、そっと撫でてくるみたいだった。
「……千秋たちがいなかったら、俺……とっくに終わってた。あの子がいたから、俺はここまで来れたんだ……そうだよ、そうに決まってる……」
言葉を吐き出しながら、胸の奥で何かがじわじわと広がっていくような感覚があった。
「ねぇ……優斗」
真珠が静かに口を開いた。
その声は、どこまでも優しくて、でもどこか切なかった。
「“好き”って、どういう気持ちのことを言うんだろう……」
不意に胸の中で何かが止まった。
言葉に詰まる。
「優斗が言ってる“好き”ってさ……ほんとに、それだったのかな。……“怖くないため”とか、“安心するため”とか……そういうのじゃなくて?」
真珠が少し視線を落としたまま、小さく首を傾げた。
その空気に、ふっと静けさが広がる。 俺は言葉を返せないまま、胸の奥に何かが引っかかる感覚だけが残っていた。
そして、少し間を置いて、北斗が口を開いた。
「……それ、恋って言わねえよ、多分……依存だ。違うか?」
その言葉に、思わず息を止める。
胸の奥に何かが突き刺さるような感覚が走った。
「お前、自分が“許される存在”でいたかっただけなんじゃないか? だから千秋が絶対に正しいって思いたかった……」
北斗の声は静かだったけど、その言葉には確かな重みがあった。
「“俺が間違ってるんじゃない”“千秋がそう言ったから大丈夫”――そうやって、自分で考えるのをやめてなかったか?」
言葉の余韻が消えないうちに、ふと、あの声がよみがえった。
『……あの頃から、私の王子様だと思ってるの、だから大丈夫。私を信じていればいいんだよ、今迄みたいに……ね?』
北斗が続ける。
「それって、自分を守ってるようで、自分を差し出してただけなんじゃないか?」
――差し出してた?
心の奥に、何かが沈んでいくような、言葉にできない鈍さが残った。
目をそらしたくなる。でも、そらしたくないと思ってる自分もいて……それが何なのか、まだちゃんとは分からない。
……でも、もし“差し出してた”って本当だったら。俺は、千秋といた時間で、何をしてたんだろう。
あのときは、いつも“正しくあらなきゃ”って思ってた。嫌われないように、気を遣って、間違えないようにして……。
それって――俺が“自分らしくいられたわけじゃなくて、ただ千秋の期待に応えようとしてただけだったのかもしれない。
千秋に思いを伝えた時も、どうにか彼女が傷つかないようにって、言葉を選んで、考えて……でも今、真珠の隣にいると……なんでだろう。何も気を張らずにいられる。それが変に、心地よいって思える自分がいて……
だけど――それって、おかしくないか?俺は千秋が好きなはずなんだ。ずっとそう思ってきた。好きじゃなきゃいけないって、思い……込んで……? いや、まさかそんな……。
でも、真珠の笑顔にいつも安心して、声に癒されて……ふとした仕草に、見とれてしまうこともあって。
気づけば、目で追ってる。それが“好き”って……いや、だからそれは違う。違うはずなんだ……好きって言うのは……俺を、守ってくれる気持ちのはずなんだ……。
でも、もしも。この感情が、そういうものだったとしたら――
「……俺、なんで……なんで俺、そんな風に……ご、ごめん、ちょっと、頭が混乱してる」
「優……」
真珠が心配そうに俺を見る。
頭の中がぐちゃぐちゃで、まとまらない。けど、それでも何かを言わなきゃいけない気がした。
息を吸って、吐いて、少しだけ視線を下げる。
「……千秋が正しいって、信じてた。ずっと。あの子の言うことが正解だって……疑いもしなかったから……」
言ってから、自分の声がわずかに振れていたことに気づく。思いがけず、胸の奥がじわっと痛んだ。
本当に、信じてたのか? それとも……そう思いたかっただけなんじゃないか?
そんな俺の様子を、真珠がそっと見つめていた。目はまっすぐで、でも優しい光を宿していて――
「……無理に答え出さなくてもいいよ。今のままで、十分伝わってる」
真珠の声が優しくて……胸の奥に、そっと温かいものが広がった気がした。
「自分の気持ちって、すぐに分かるもんじゃないし……でも、こうして向き合おうとしてる優斗を見てると、私、すごく……ほっとする」
「ほっと……?」
「うん……ちゃんと悩んでくれる人って、信じたくなるんだよ。きっと大丈夫だって思えるから」
言葉の一つ一つが、すっと胸に入ってきた。否定されることも、急かされることもない。そんな風に話してくれるのが、どれだけ救われることなのか……。
隣で腕を組んでいた北斗が、ふっと鼻で笑った。
「……俺もさ、ずっと“親が正しい”って思ってた。疑ったら、自分が壊れそうで怖かった」
「でもさ、ある日気づいたんだ。そのままだと、“自分の人生”を誰かの言葉に明け渡すだけだって」
一瞬だけ、北斗の目が本気の色を帯びた気がした。冗談の裏にある想いが、ひしひしと伝わってきて――なんだか胸が少し熱くなる。
「だから今だけは、自分で考えて、自分で選んでみろよ。苦しくても、そっちのほうが絶対に後悔しねえから」
「それに……間違えたっていい。そんときは俺らが、全力で笑ってやるし、全力で支えるから」
照れくさそうに笑いながらも、その言葉はまっすぐだった。北斗がこんな顔するなんて、ちょっと驚いた。でも……すごく嬉しかった。
言葉じゃうまく言えないけど、確かに、何かが救われた気がした。
真珠が小さく頷いて、そっと言った。
「……だからね。優斗は、一人じゃないよ。私たちが、ちゃんとここにいるから」
……ああ、そうか。
ずっと誰かに寄りかかってばかりだった俺が、今はこうして、自分の言葉で迷って、自分の足で立とうとしてる。
それに気づけたのは、前を歩く人たちじゃない、隣にいてくれる人たちがいたからだ。
少しずつでいい。間違えてもいい。俺は……俺のままで……。