第46話 “インスピデート”
休日の渋谷駅前は、まるで人の波に押し流されそうなほどの喧騒に包まれていた。
交差点の信号が変わるたびに、わっと人が流れ込み、ハチ公前は待ち合わせ中の人たちでごった返している。耳に入るのは、楽しそうな笑い声やカメラのシャッター音、どこからか流れる音楽のフレーズ。全部まとめて、ここは俺の普段の居場所とはまるで違う、別世界みたいだった。
俺はハチ公前のベンチに一人座って、手持ち無沙汰にスマホをいじっていた。周りを見渡せば、どこもかしこもカップルばかり。あとはグループで盛り上がってる学生たち。その隣でポツンと座ってる俺は、どこか場違いな気分だった。
自分の服装をもう一度見下ろす。黒のシャツに、同じくモノトーンのスキニージーンズ。
やっぱり、もっと明るい服にすればよかったかな……。
小さくつぶやいて、周りの華やかな服装をちらちら見る。女の子たちはみんな、鮮やかな色のワンピースやショートパンツ姿。男子も、ジャケットの色やデザインにこだわってる子ばかりだった。
俺はスマホの画面を再度確認する。SNSからのいくつかの通知が並んでるけど、真珠からのメッセージはまだない。待ち合わせ時間まであと十分。
「う~……」
声にならない呻き声が喉から漏れた。正直、緊張してる。これが初めての"デート"だなんて、ちょっと前までは想像もしてなかった。それでもどうしても、俺たちに必要なことだったんだ。
ふと、前日のことを思い出した。あの突然の決定から、今こうして渋谷にいるなんて……。
昨夜のことは、まだ鮮明に覚えている。
――部屋に戻って軽く咳払いをしてから、俺はノートパソコンを開いた。時計は夜の九時半を指していた。
「よし」
小さく呟いて、オンライン通話のアプリを立ち上げると、すでに北斗と真珠の顔が画面に映っていた。真珠はいつものように両肘を机について前のめりになっている。北斗は北斗で、髪をかき上げながらカメラに向かって笑顔を見せていた。
「おっ、来たか」
北斗が俺の姿を見つけると、そう声をかけてきた。
「優、お疲れ〜」
真珠も元気に手を振ってくる。見慣れた顔に少し安心する。
画面の右下には美弥のアイコンだけがぼんやりと映っていた。美弥は風邪をひいていて、カメラをオフにしているらしい。
「美弥、大丈夫?」
俺が聞いた途端、スピーカーからは「ゴホッ、ゴホッ」という咳の音だけが聞こえてきた。
「こいつ、さっきからずっと咳してんだよ。もう寝たほうがいいって言ったのに、頑固だからな」
北斗が呆れたように言うと、美弥からまた「ケホッ」と小さな咳が返ってきた。
「とりあえず、本題に入るぞ」
北斗が姿勢を正して、声のトーンを変える。ビジネスモードに切り替わったみたいだ。
「アニメのタイアップが正式に決まった」
その言葉に、思わず背筋が伸びる。
「本当に?」
真珠が目を輝かせて聞き返した。
「ああ。先方と詰めの話をしてきたんだが……」
北斗は少し言葉を切ると、真珠と俺の方を交互に見た。
「一つ要望があったんだよ。"初めてのデートで幸せそうなカップル"の雰囲気を曲で表現してほしいって」
「え……」
俺は思わず言葉に詰まった。何と答えればいいのか、すぐには出てこない。正直に言うしかなかった。
「……俺、デートしたことないし……」
目を伏せながら告白した瞬間、自分でも少し引っかかった。千秋と付き合ってたことは、みんな知ってる。でも、あれは……デートって呼べるようなもんじゃなかった。だから嘘ではない。けど、正確でもない。
一瞬、空気が止まったような気がした。けど、誰も何も言わなかった。
それは気を遣ったのか、察してくれたのか──あるいは、今はあえて触れないでいてくれたのかもしれない。
その沈黙を破るように、真珠がくすくすと笑う音が聞こえた。
顔を上げると、彼女は少し照れたような表情で頬に手を当てていた。
「私もないよ」
「えっ」
思わず声が出た。
「なに?意外?」
真珠が顔を覗き込むようにカメラに近づいてくる。
「いや、その……ごめん」
「まぁ、そもそも私、学校も違ったし……それにスピカの活動もあったし。それよりも、どうしよう?」
二人で「うーん」と顔を見合わせたまま、ふと同時に、北斗の方をちらりと見た。
「……何だよ、その目は!」
北斗が大げさに身をのけぞる。
「おいおい、俺だってねぇよ!でもこういう時は想像力だろ?あ、あれだ!浜辺で追いかっけっことかさ——」
北斗が勢いよく言い始める。突然の発言に、俺と真珠は思わず顔を見合わせた。
「何時の時代の少女漫画だよ……」
俺が呆れた声で言うと、真珠もクスクス笑いながら頷いた。
「はぁ?違ぇのかよ?少女漫画だろ?浜辺で波打ち際を走って——」
「北斗の言うことは、だいたい信用できないよね」
真珠があっさり言い切ると、北斗は「おい!」と声を荒げた。
「……ケホッ」
美弥の小さな咳が会話に割り込んできた。
「今のは絶対『同意』って意味だぞ!」
北斗が得意げに言う。
「ゴホッ、ゴホッ!」
今度は抗議するような激しい咳が続いた。
「だから、咳だけで会話に参加すんじゃねぇよ!」
北斗がスピーカーに向かって怒鳴る。その光景が妙におかしくて、思わず笑いがこみ上げてきた。真珠も同じように、口元を押さえて笑っている。
結局、三人とも混乱したまま、元のスタート地点に戻ってしまった。
しばらく沈黙が流れた後、北斗がふいに椅子の背もたれに寄りかかりながら言った。
「じゃあさ、お前ら明日二人でデートしてこいよ」
「……え?」
真珠と俺は同時に声を上げた。
「えっ!?」
「えええっ!?」
北斗はニヤリと笑いながら、そのまま続ける。
「実際に体験して、その空気を曲にすりゃいいだろ?リアルに勝るもんはねぇってな」
「そ、そんな急に……」
俺は慌てて口を開いた。心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。真珠と二人きりでデートなんて、考えただけで頭がパニックになりそうだった。……でも、どこかで、ほんの少しだけ楽しみだと思ってる自分がいた。
「でも、面白そうかも」
意外にも真珠が興味を示す声。彼女はカメラに向かって笑顔を見せていた。俺よりずっと冷静で、なんだか頼もしく見える。
「わ、わかった……」
断る理由が見つからず、最後は渋々頷くしかなかった。
「よっしゃ!決まりだな!」
北斗は満足そうに両手を打ち鳴らした。そして、意地悪な笑みを浮かべながら付け加える。
「デートして、恋、してこいってことだな」
北斗がニヤリと笑いながら言い放った。
「……反対!」
はっきりと、美弥の鋭い声がスピーカーから飛び出した。
「おっ、ついにしゃべった、ていうか喋れるんじゃねえか!」
「不純。私の風邪が悪化する。だから断固反対」
「いや、お前が行くわけじゃねえだろ!」
北斗のツッコミに、咳払いが返ってくる。
そんな二人を他所に、真珠が少し口元を手で隠して、俺の方をちらりと見る。
「じゃあ、明日11時に渋谷のハチ公前ね」
真珠が声を明るくして言った。そのあと、小さく口元を緩めて、照れくさそうに付け加える。
「……楽しみにしてる、かも」
その瞳が、ふと揺れた気がした。
……もしかして、真珠も少しだけ“楽しみ”だと思ってるんだろうか。
通話が終わって部屋が静かになると、俺はベッドに倒れ込み、天井を見上げながらぼんやりと考えていた。
明日、真珠とデート。初めてのデート。しかも曲のインスピレーションを得るためのデート。
……これって、仕事のためだよな。
考えれば考えるほど緊張したけど、どこか楽しみな気持ちも少しだけ湧いてきた。二人だけの一日か……うまく話せるかな。でも、真珠が笑っててくれたら、それだけでいいかもしれない。
渋谷駅前の広場には、休日らしい賑わいがあった。
すれ違う人の会話や笑い声、行き交うカップルたちの空気。
その中で俺は、一人だけ、時間の流れが少し違う場所に立ってる気がしてた。
スマホの画面をちらりと見る。時刻は、待ち合わせの二分前。
「……そろそろ、か」
胸の奥がじんわりと熱い。緊張してる。だけど、それ以上に——ほんの少し、楽しみだった。
考えれば考えるほど不安は膨らむけど、今日一日、二人きりで過ごせる。うまく話せるかなんて分からない。でも、真珠が笑ってくれてたら、それだけで十分かもしれない。
そんなことを思っていた、そのときだった。
「優、お待たせっ」
背後から声がして、反射的に振り返る。
「……真珠?」
いや、思わず名前を呼んだけど……一瞬、誰か分からなかったくらいだった。
髪はポニーテールじゃなく、さらさらのストレート。肩の辺りで光を受けて柔らかく揺れてる。
白いオーバーサイズのカットソーに黒のショートパンツ。編み上げブーツが脚を引き締めて、シンプルだけど映えすぎるほどお洒落だった。
周りの視線が、一斉に真珠を振り返るのが分かる。でも本人は気にする様子もなく、まっすぐに俺の前に来て、にこっと笑った。
思わず、言葉がこぼれる。
「……なんか、いつもと違う」
真珠は嬉しそうに笑って、くるりと一回転してみせた。
「ふふ、たまにはねっ」
それだけなのに、心臓がひときわ強く跳ねた。
そのときだった。
駅前の大型ビジョンから、音楽が流れ始めた。
聴き覚えのあるイントロに、心臓が跳ね上がる。
『Change of Heart』——あのライブの後、動画にアップした優P名義の新曲だった。
「……あれ」
真珠が目を見開いて、嬉しそうに声を上げた。
「これ……新曲の『Change of Heart』だよね?」
俺は何も言えなくて、ただ頷いた。
「やばっ……!これすっごく好き、ほんとに好き……!」
真珠がぴょんっと小さく跳ねる。目が輝いてて、そのはしゃぎっぷりが可愛すぎて、俺はますます何も言えなくなった。
「ガチエグ!こんなところで聴けるなんて……運命かもっ!」
真珠はそのまま、大型ビジョンを見上げたままくるくる回って、まるで子供みたいに笑っていた。
その姿を、ただ見ていた。まわりの視線を浴びながら、それでも胸の奥が少しずつ温かくなっていくのが分かった。
「テンション爆上げだね!」
真珠がくるっとこちらに向き直り、軽く手を差し出すような仕草をした。
手を繋ぐほどじゃない。けど、“一緒に行こ”って言ってるのは分かった。
一瞬だけ戸惑って、それでも自然と体が動いて、立ち上がった。
ちらっと横を見る。真珠の顔が、すぐそこにあった。
やっぱり、見惚れるほどだった。
いや、分かってた。真珠が目立つのはいつものことだし、今さら驚くことじゃない。
だけど今日の真珠は……びっくりするくらい綺麗だった。
すれ違う人が何度も振り返る。男も女も関係なく、視線が真珠に吸い寄せられていく。
……まあ、当然か。
現役モデルで、あの有名なファッション誌にも載ってた。
あらためて思う。やっぱり真珠って、圧倒される。
堂々としてて、綺麗で、どこにいても、目が行ってしまう……そんな存在だった。
そんな子が、今、俺の隣にいる。そう思ったら、ちょっとだけ……にやけそうになる。
さりげなく、真珠との距離が近いのが、嬉しいような、くすぐったいような。
横にいる――それだけなのに、なんでこんなにドキドキしてんだろ。
隣で軽く笑った真珠の横顔に、また息が止まりそうになった。
そっと一歩、足を踏み出した。真珠もすぐに並んで歩き出す。
渋谷の雑踏へ。二人きりの、“初めての”デートへ。




