第45話 記憶の瞳
霞がかった空間に、かすかな人の話し声やアナウンスが遠くから聞こえてくる。僕は白く光るフロアの上に立っていた。視界がゆっくりと鮮明になるにつれ、周囲の輪郭が浮かび上がってくる。
まぶしい照明。色とりどりのパッケージに収められたおもちゃ。大きなディスプレイ。ここは、デパートのおもちゃ売り場だ。
僕の足元には、小学四年生の頃に履いていた赤い運動靴。両手を見下ろすと、子供の手のひらが広がっていた。
売り場の一角に、小さなグランドピアノが展示されていた。誰も座っていない。「弾いてみてね」と書かれた小さな立て札が鍵盤の上に置かれている。
僕は自然とそのピアノに足を向けていた。黒く艶やかな表面に映る姿は、間違いなく小学生の僕だ。
スツールに腰掛け、ゆっくりと指を鍵盤に近づける。一音、鳴らしてみる。
澄んだ音色が指先から空間に広がった瞬間、不思議な感覚に包まれた。その音が、頭の中に色とともに焼き付いていく。Cの音は青、Dは緑、Eは黄色……。
もう一度、別の鍵盤を押す。今度はDの音。これも同じように、頭の中に鮮やかに記憶される。次々と違う音を試していくと、それぞれが違う色を持ち、頭の中で整然と並んでいく。まるで音の地図ができあがっていくかのようだった。
気づくと、僕は簡単なメロディを弾いていた。今さっき初めて触ったはずなのに、指が勝手に動いている。売り場で流れていた曲だろうか。一度聴いただけで、どうして弾けるんだろう。
音を重ねるたび、頭の中の地図はさらに豊かになっていく。これが「弾く」ということなんだ。音と音をつなげて、何かを作る喜び。
没頭していると、ふと、視線を感じた。顔を上げると、いつの間にか隣には見知らぬ少女が座っていた。
ニット帽を深く被った小柄な女の子。帽子の端からのぞく髪はとても薄く、ほとんど見えない。でも一番印象的だったのは、その眼差し。澄み切ったブルーグレーの瞳が、僕の指先を食い入るように見つめていた。
僕が演奏をやめると、少女の表情がぱっと曇った。まるで宝物を奪われたかのように、しょんぼりとした顔になる。その落胆した表情に、なぜか胸が痛んだ。
また弾いてほしいの?
そう思って、もう一度指を鍵盤に置いた。ゆっくりとメロディを紡ぎ始めると、少女の顔がみるみる明るくなっていく。
目を輝かせ、身を乗り出してくる様子に、僕はなぜだか嬉しくなった。誰かのために弾く喜び。誰かが聴いてくれることの温かさ。初めて感じた感覚だった。
最後の音を奏でると、少女は小さな手を叩いて立ち上がった。
「凄い!君は魔法使いなの?」
甲高い声が、売り場に響く。
「すっごく素敵な音だった!私、こんな近くで魔法見たの初めて!」
少女は僕の手を取った。小さくて温かい手。
「あのね、私ね、将来お母さんみたいな歌手になるの!一等星になるのが夢なんだ!」
一等星?
「一番明るい星のこと!お母さんが教えてくれたの。私、スピカになりたいの!」
少女は帽子の下からのぞく目で、僕をじっと見つめる。僕がニット帽に目をやると、少女は明るく笑った。
「あ、これ?今、病気の治療中なの。だから髪がつるつるなの!でもね、すぐ治るって。だからそれまで帽子!」
そう言って、誇らしげに帽子を指さす少女。その屈託のない明るさに、僕は思わず微笑んだ。
「あっ!パパだ!」
少女が急に立ち上がる。振り向くと、白金の髪を持つ背の高い外国人の男性が立っていた。
「パパ!ほら、こっちに魔法使いがいるの!」
少女は男性の元へ駆け寄った。父親は優しく微笑むと、少女を抱き上げる。
「いつか、君の魔法で私に歌わせてね!約束だよ!」
「僕の……魔法」
この音は魔法……なんだかその言葉が凄く嬉しい。
「じゃあ……君は僕の一等星になってくれる?」
そういうと、彼女は満面の笑みで頷いて見せてくれた。
「うん!」
そのまま彼女は高く持ち上げられながら、僕に向かって手を振る。僕も手を伸ばした。でも、二人の姿はどんどん遠ざかっていく。
景色が徐々にぼやけていく。光が薄れ、音が消えていく。そして、意識が朧げになっていった。
はっと目を覚ました時、俺の目には朝日が差し込んでいた。
朝六時。目覚まし時計の音よりも先に、光に促されて俺は完全に目を覚ました。ベッドのシーツに手を伸ばし、今見ていた夢の感触を掴もうとする。
デパートのおもちゃ売り場。初めて触れたピアノ。そして、あの少女。
どこか懐かしい感覚が胸の奥に残っていた。今朝見た夢は、間違いなく俺の記憶の底に眠っていた光景だ。忘れていた、初めて誰かの前でピアノを弾いた瞬間を。
ゆっくりとベッドから身を起こし、窓辺に立ってカーテンを開けた。五月の朝日が部屋に燦々と降り注ぐ。朝露に濡れた庭木が、光を受けて煌めいていた。
あの少女は一体、誰だったんだろう。病気で髪が薄かったと言っていた。ニット帽に隠れた姿。けれど、その鮮やかなブルーグレーの瞳だけは、今でもはっきりと覚えている。
夢の中で紡いだメロディが、いつの間にか頭の中で再生されていた。そう言えば、あの時の体験の後、小学校五年生の時、クラスメートたちがいじめていた俺を助けてくれた千秋と出会った。千秋は先生と共に、俺の音の才能を見出してくれた。あの出会いから、俺の人生が少しずつ変わっていった。
それから数年。中学でピアニストとして注目されるようになった俺は、コンクールで優勝を重ねた。でも、あの発作が始まるまでは。
思い出すと、まだ心がざわつく。チック症が発覚して、コンクールの会場でピアノを弾けなくなった日。観客の目、先生の落胆、そして千秋の困惑した表情。
窓ガラスに映る自分の顔が、物憂げに見えた。
そう言えば、夢の中の少女が言っていた「一等星」という言葉。
それが、あの曲のインスピレーションになったんだ。
俺がピアノを弾けなくなってからも、ネットでこっそり始めた「優P」の活動。ボカロ界隈で、徐々に認められ始めた音楽。スピカという名前の歌い手が、俺の曲を気に入ってくれて、初めてコンタクトを取ってきた時のこと。
あの時、スクリーンに映るスピカの姿を見た瞬間、かつて出会った少女と重なって見えた。
朝日の中で、真珠の笑顔が頭に浮かぶ。優しくて、明るくて、時に強引で——。胸の奥がわずかに熱くなる。心臓が早くなる感覚。
「もしかして……俺、真珠のこと……」
つぶやきかけて、自分の声に驚いた。何てことを考えてるんだ。だけど、この胸の鼓動は……。
制服に着替え、朝食を済ませ、いつもの通学路を歩く。頭の中ではあの夢と、真珠の笑顔がぐるぐると巡っていた。
教室のドアを開けると、すでに半分くらいの席が埋まっていた。席につくと、バッグから教科書を取り出す。窓際から差し込む朝の光が、教室全体を明るく照らしていた。
水沢さんと学級委員長の深田さんが、なんだか話し合いながら俺の席に近づいてくる。二人とも少し緊張した面持ちで、俺の前で足を止めた。
「あの、天川君」
水沢さんが小さな声で話しかけてきた。俺は少し身を固くする。
「天川君の病気って、チック症っていうやつなの?」
不意の質問に、俺は一瞬、何と答えればいいのか迷った。
「突然声が出たり、体が勝手に動いちゃったりするんだよね?」
今度は深田さんが言う。その声には嫌味な感じは全くなく、むしろ柔らかさがあった。
俺は驚きつつも、小さく頷いた。
「や、やっぱりそうなんだ!」
水沢さんが声を弾ませる。
「あのね、私たち調べてみたんだ。困ったことがあったら、言ってね!」
深田さんも、いつもの学級委員長らしい真面目さで、でも明るく続けた。
「ほら、昨日SNSでチック症がトレンド入りしたの、天川君は知ってる?けっこう話題になってて、クラスの子達とも話してたとこなんだ」
トレンド入り……。あれは間違いなく、コミックワールドでの出来事だ。真珠と北斗が流してくれた、俺のチック症についての映像。
あのとき、ほとんど死にたいと思うほど恥ずかしかった。でも、そのおかげで俺の「怖いもの」が、みんなに「知ってもらえるもの」に変わってきている。
以前なら避けられていたような場面で、こうして向き合ってくれるクラスメートがいる。少しずつ、何かが変わってきている。そう実感すると、胸がじんわりと熱くなった。
「あの、ありがとう。なんか嬉しい」
素直に、感謝の気持ちを口にした。
その時――。
「おはよっ!」
背後から突然、ひときわ明るい声が響いた。。振り返ると、真珠が満面の笑みで立っていた。朝日を浴びて煌めく藍色の瞳が一瞬、夢の中の光景と重なる。
「朝からモテモテだね、優」
そう言う彼女の唇が少しだけとがっている。なんだか機嫌が悪そうだ。
夢の中の少女と真珠が重なって、思わず顔が熱くなる。咄嗟に目をそらしてしまった。
「あ~!いま目を逸らした!」
真珠が人差し指を突きつけてくる。彼女の鋭い視線が、まるで僕の頭の中を覗き込むように感じられた。
「な、なんでもないって!」
あたふたと否定するも、余計に怪しまれる結果に。
「怪しい~!朝から何考えてたの?」
真珠の詰問にますます動揺する僕。彼女は追及をやめる気配がない。
「絶対何かあるでしょ?ね、ね、教えてよ!」
真珠は僕の机に両手をついて身を乗り出す。近すぎる彼女の顔に、心臓の鼓動がさらに速くなる。
「ちょっと待って、そんなに近づかないでよ……」
必死に距離を取ろうとする僕に、真珠はますます食い下がってくる。
「だって気になるんだもん!水沢さんと深田さんと何話してたの?」
そういえば、彼女が来る直前だった。もしかして見てたのかな。
「ああ、それは……えっと……」
言いよどむ僕を見て、真珠の目がさらに細くなる。
「怪しすぎ~隠し事禁止!」
そんなやり取りをしているうちに、チャイムが鳴り、先生が入ってきた。真珠は不満そうな顔で自分の席に戻っていく。
「絶対昼休みに聞くからね」と小さく口を動かす彼女に、思わずため息が漏れた。
授業が始まり、先生の声が教室に響く。でも、僕の頭の中はまだ真珠のことでいっぱいだった。真珠の姿を見ていると、夢の中の少女と重なって、胸がうずく。この気持ちは……。
窓から差し込む光の中、真珠の横顔を見つめながら、時間はゆっくりと過ぎていった。
昼休みになっても、なんとなく落ち着かないままだった。チャイムの音が鳴った瞬間、俺は小さく息をついた。真珠の横顔が、まだ焼きついている。
「ほら、行くよ」
不意に声がして顔を上げると、真珠がいつもの調子で俺の机に立っていた。
「え、どこに?」
「屋上。今日のお昼、ちゃんと作ってきたんだから」
鞄からちらっと見せられた保冷バッグ。その瞬間、もう断れない空気ができあがっていた。
保冷バッグを押しつけるように見せてくる真珠の顔が、あまりにも当然のようで。
仕方ないな……と思いつつも、そんな押しの強さに、つい笑いそうになった。
ほんと、相変わらずだ。
気がつけば、俺はその声に従うように立ち上がってた。
「……うん、行こうか」
手を引かれる形で教室を出て、階段を上がる。
屋上の扉を開けた瞬間、風がふっと頬をなでてきた。空はどこまでも高く、白く光る雲が流れていく。コンクリの床に広がる昼の光が眩しくて、思わず目を細めた。
「ほら、ここ座って。風、気持ちいいでしょ?」
真珠はそう言って、階段脇のベンチに腰掛ける。
「今日はね、ツナとたまご、あときゅうりとハムも挟んでみた。食べ比べセットって感じ」
ラップを外しながら話す真珠の横顔。その瞳がふとこちらを向いた瞬間、吸い込まれそうな感覚にとらわれた。気づけば、何も言えずに見とれてしまっていた。
「ちょっと、人の話聞いてるの!」
「えっ、あ、ご、ごめん……」
返事をする間もなく、サンドイッチがいきなり口に突っ込まれてきた。
「ごふっ……っ!」
「もう! アニメのタイアップの件と、インタビュー記事の件も正式に決まったんだよ? ステラノートとしての初仕事なんだから、もっとシャキッとしなさい!」
むせながら必死に飲み物を流し込んでいると、真珠が「あっ、やばっ……」と慌ててハンカチを取り出した。
焦った顔で俺の背中をさすりながら、真珠が言う。
「ご、ごめん、大丈夫?」
その手が、なんかやけに優しくて。
「……やりすぎ」
咳き込みながら、なんとかそれだけ絞り出す。
「や、やりすぎた……」
真珠が青ざめた顔で、ぎゅっとハンカチを握りしめていた。
焦ったり謝ったり、青ざめたり――コロコロと変わる真珠の顔が、なんかもう可笑しくて。 自然と口元に笑みが浮かんだ。
それに気づいたのか、真珠が気恥ずかしそうにちらりとこっちを見て、小声で言った。
「な、何?……急にどうしたの」
その藍色の瞳が、またまっすぐ俺を見てて……。
「いや……綺麗だなって思って」
一瞬、真珠が固まった。言葉の意味が頭に届いた瞬間、目が見開かれて、頬がみるみるうちに染まっていく。
「な、何言ってんのよっ!」
再び、勢いよくサンドイッチが飛んできた。
「ごふっ……っ、ま、また……!」
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
本気で心配そうに俺の背中をさすってくる。
「おま、絶対わざと……」
「ち、違うもん! たまたま、勢いが……」
口を尖らせる真珠の顔に、咳き込みながら笑いがこみ上げた。
ふと、目が合う。
俺が何か言うより先に、真珠がぽつりと呟いた。
「ほんとに……もう」
真珠の口元に、ふっと笑みがこぼれた。
その一瞬が妙に綺麗で、胸がきゅっとなって――思わず見とれてた。
「次は……ちゃんと味わってよね」
「う……うん。いただきます」
手と手が、ほんの少しだけ触れそうになる。
でもそのまま、何も言わずにまたサンドイッチを口に運んだ。
風の音だけが聞こえる中で、妙に静かで、気まずくて、でもそれがなんだか悪くなかった。