第43話 星々の音
最後の音が響き渡り、歓声と拍手が鳴り止まない会場。 スタッフが親指を立てながらニコッと笑ってくれて、なんだか不思議な感覚に襲われる。
俺はステージ袖に戻り、誰もいないのを確認し、ようやく馬の被り物を脱いだ。まだ手は震えていて、胸の鼓動は激しいままだった。いつもの自分を取り戻すのに、少し時間がかかりそうだった。
さっきまでのステージでは、自分の中のすべてをさらけ出してしまった。病気のこと、震える指のこと、自分の弱さも含めて——全部。
それなのに、この拍手。
……信じられなかった。全部見せてしまったのに、あんなに温かい拍手をもらえるなんて……。
「夢じゃない……よな」
思わず口にした言葉が、静かに空気に溶けていく。
ステージの照明が消えて、真珠たちの姿が見えた。三人は俺のいる方へと歩いてくる。最初に目が合ったのは真珠だった。彼女は走るように俺に近づいてきて、目の前で立ち止まる。
その瞳が、わずかに潤んでいた。
「……優、ちゃんと届いてたよ。音も、気持ちも」
真珠の声は、少し震えていたけど、まっすぐだった。
そのひと言で、胸の奥に押し込めていたものが一気に溢れ出す。
「ああ……俺の音が、あそこにあった……やっと」
言葉を絞り出すように呟くと、涙が勝手に流れてくる。拭っても拭っても止まらなくて、顔を背けかけたところで、真珠がそっと手を握ってきた。
「……ずるいよ、そんなの見せられたら泣くしかないじゃん」
真珠も目元を指で押さえていて、その仕草が優しくて、胸がいっぱいになる。
「や、やめろよ……釣られて泣くなって」
「だって……だってさ……」
言葉にならない想いが、自然と二人の間に満ちていく。
鼻をすすって顔を上げると、北斗と美弥がこちらに来ていた。北斗は照れ隠しのように目を逸らしながら、少しだけ笑っていた。美弥は相変わらず無表情だけど、その目はいつもよりやわらかかった。
「……よう」
北斗がぼそっと声をかけてくる。その言い方は素っ気ないのに、どこか安心感があった。
「北斗も……すごくかっこよかったよ」
「お前こそ、馬のクセによくやったな」
口は悪いくせに、北斗の顔は笑っていて、それがなんだか嬉しかった。美弥も、静かに一言だけ頷く。
「……素敵だった」
その短い言葉には、彼女なりの想いがしっかりとこもっていた。
しばらく沈黙が続いた。でも、その静けさが心地よかった。言葉がなくても、今この空気だけで、ちゃんと伝わっている気がした。
「……控室、戻ろっか」
真珠が涙を拭いながら、やわらかい声でそう言った。
俺たちは自然に歩き出した。まだステージの余韻が体に残っている。でも、肩に入りっぱなしだった力がふっと抜けて、呼吸が少し楽になった気がした。真珠が隣にいて、北斗と美弥が少し後ろをついてくる。
歩くうちに、胸の中がじわじわと温まっていった。あのステージが夢だったように思えるけれど、それでもちゃんと自分の音が届いたことだけは、確かに感じていた。
「このステージでやっと、自分の音楽が皆に受け入れられたって思えた」
自然と口からこぼれた言葉に、真珠がふんわりと微笑む。
「うん。今日の私は、歌じゃなくて気持ちでぶつかれた。優がいてくれたから、できたんだよ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。俺の音が、誰かの力になれたんだ。
「俺も、自分の立ち位置をやっと理解できた。あれが……“ステージ”なんだな」
北斗がぽつりと漏らした言葉には、少しだけ照れたような響きが混じっていた。
「……今日は、音じゃなくて、音楽だった。私も……ようやく溶け込めた」
美弥の静かな声が、その場の空気をさらに深く染めた。
俺は少し考えてから、ぽつりと気持ちを言葉にした。
「この一歩が“はじまり”なら、今までの挫折も、苦しみも……全部、無駄じゃなかったって思える」
我ながら、まっすぐすぎる言葉だったけど、不思議とすんなり出てきた。
前を歩いていた真珠がぴたりと立ち止まり、驚いたようにこちらを振り返る。目が合った瞬間、彼女の頬がふわっと染まった。
「……顔、赤いよ?」
つい口にすると、真珠はびくっと肩を揺らして、慌てて両手を振った。
「な、なんでもないっ!……ほら、控室、すぐそこだからっ!」
どこか挙動不審な真珠を見て、思わず笑みがこぼれる。
そのまま、俺は控室のドアに手をかけた。
控室に入ると、冷房の風が心地よくて、ステージの熱気から一気に解放された。思わず深呼吸して背伸びする。テーブルには、スタッフが用意してくれた冷たい飲み物やおしぼりが整然と並べられていて、その気遣いが嬉しかった。
ふと横を見ると、真珠が妙に落ち着きなく動き回っていた。ミネラルウォーターのキャップを開けかけては戻し、髪をいじって、窓の外を見て、またこちらをちらりと見ては慌てて視線を逸らす。いつもの堂々とした彼女とはまるで別人のようで、その様子がなんとも可笑しくて微笑ましかった。
ペットボトルを手に取りながら、心の中にじんわりと安堵が広がっていく。この場所、この時間、この仲間たち。自分がようやく“ここ”に戻ってこられた気がして、胸が静かに温まった。
そして真珠。気づけば、その中心にはいつも君がいたんだ。
そう思った瞬間、体が自然に動いていた。立ち上がって、ふらりと真珠の前へ。
「真珠……ありがとう。君がいたから、俺は……」
気づけば、彼女の両手をそっと握っていた。感謝と、今の想いがあふれて止まらなかった。
「——っ!」
真珠がびくんと小さく肩を震わせ、目を大きく見開く。何かを言いかけて口をぱくぱくさせるけれど、言葉になってない。
ん?
そして次の瞬間、彼女の頬が一気に真っ赤に染まった。
「わ、わたしも……えっと……ゆ、……ぴっぴ!?」
最後の言葉が妙な音になって、場の空気が一瞬固まる。
「え?し、真珠?」
「おいおい、火ぃ吹きそうだぞこいつ」
北斗が大笑いしながらツッコむ。その声に真珠はさらに真っ赤になって、必死に手をバタバタさせる。
「ち、違うの!そういうのじゃないからっ!」
否定すればするほど挙動不審で、ますます可笑しい。
「……かわいいけど、うるさい」
美弥がぼそっと呟く。北斗は肩を揺らして笑いながら、真珠を面白そうに眺めていた。
「ぴっぴって何?」
何気なく口にした俺の質問に、真珠は顔を両手で覆い、勢いよく机に突っ伏した。
「わ、忘れて!ほんとに!今のは聞かなかったことにしてーっ!」
耳まで真っ赤に染めながら叫ぶ真珠。その姿が可笑しくて、控室の空気は柔らかく弾けたように笑いに包まれていく。
俺はその様子を眺めながら、こんな風に笑い合える時間が、本当に幸せだと思った。
北斗が笑いを堪えつつ、真珠の背中をぽんと軽く叩く。
「ちょっと休め。脳みそ、完全に沸騰してるぞ」
その一言に、真珠はハッとしたように顔を上げ、目をぱちくりさせたかと思うと、手を叩いて何かを思い出したように叫んだ。
「あっ!そうだ!」
突然の閃きに瞳が輝く。
「急だけどさ、グループ名、まだ決めてなかったじゃん!この際だから決めちゃわない!?」
「あ……」
真珠の声に、俺たちは思わず顔を見合わせた。曲も披露して、ステージにも立った。けど、そういえば……名前がなかった。
「マジか、完全に忘れてた」
北斗が額を押さえて苦笑する。美弥もほんの少し目を丸くしたあと、静かに頷いた。
「……今更だけど、あったほうがいい」
俺はつい笑ってしまった。でも、このタイミングで思い出したことに、妙な縁を感じていた。
「せっかくだし、考えてみようか」
真珠が意気込んでそう言うと、北斗がソファにふんぞり返って、ニヤリと笑った。
「じゃあさ、デッドオアアライブなんてどうよ!」
「危険そうだから却下」
思わず即答すると、北斗が「ちぇっ」と肩をすくめる。
美弥が、ぽつりとつぶやく。
「……ブサ猫ファンタジーとか」
「それいいかも!」
真珠がなぜかテンション高く乗っかってきたけど、俺は慌てて手を振った。
「よくないよ、ていうか名前的にアウトだよ!絶対どっかで訴えられるやつ!」
「ぶーっ」
真珠と北斗がそろって不満そうに口を尖らせる。
「じゃあ、優は何かいい案あるのかよ?」
北斗に詰められて、俺は少し考えてから、口を開いた。
「“ステラノート”ってのはどう?」
その言葉に、三人の視線が一斉に俺に向く。
「ステラ……って?」
真珠が小首を傾げた。
「ラテン語で“ステラ”は星、“ノート”は音。ばらばらな音が、夜空の星みたいに重なって、一つの景色になる……そんなイメージ」
説明している間に、真珠の瞳がぱっと輝く。
「いい!それ、すごくロマンチック!」
目をきらきらさせながら俺を見つめてから、勢いよく北斗の方を向く。
「ね、北斗もいいと思わない?」
北斗は一度腕を組み直し、ふっと口元をゆるめた。
「……悪くねぇな。響きもスマートだし」
三人の視線が、自然と美弥へと向かう。彼女は無表情のまま少しだけ頷いた。
「……いいと思う」
その一言に、場の空気がふっと整ったような気がした。
思わず笑みがこぼれて、俺は手を差し出す。真珠が勢いよく自分の手を重ね、北斗も「しゃーねぇな」と言いながら続く。美弥は無言でそっと最後に手を添えた。
四人の手が重なり合った。
「ステラノート!」
声が重なった瞬間、控室の空気がふわっと明るくなった気がした。まるで、ステージの続きをここでやっているような、そんな感覚。
「これからも頼むぜ」
北斗が軽く肩を叩いてきて、真珠が「よろしくねっ!」と明るく笑う。美弥も控えめに、「……よろしく」と小さく添えた。
控室にはまだステージの熱が残っていて、みんな少しハイな状態だった。
その空気を破るように、控えめなノック音が響く。
俺は慌てて机の上に置いていた馬の被り物を手に取り、急いで被り直した。
「ど、どうぞ」
俺が返事をすると、ゆっくりとドアが開いた。
現れたのは、運営スタッフの男性だった。
「素晴らしいステージをありがとうございました。皆さんのおかげで、イベントは大成功でしたよ」
男性は深々と頭を下げながら、満面の笑みを浮かべてそう言った。
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
俺も慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
「それでですね……実は、みなさんにぜひお会いしたいという方がいまして」
声を少しひそめながら、スタッフが周囲を見回す。
俺は反射的に真珠たちを見る。三人とも不思議そうに首を傾げていた。
「どなたですか?」
「えーとですね……それはご本人から、直接お話されたほうがいいかと」
スタッフが軽くドアの外に目配せすると、その視線の先から颯爽と現れたのは、紺のスーツをびしっと着こなした落ち着いた雰囲気の男性だった。
年は四十代前半ほど。細身の体に品のある立ち振る舞い。どこか只者ではない空気をまとっていて、その鋭い目元が印象的だった。
彼は軽く一礼すると、丁寧に名刺を差し出してきた。
「本日は素晴らしいパフォーマンスをありがとうございました。本当に素晴らしい演奏、素晴らしい歌声でした。いやはや感服です!こんなに奇跡的なライブイベント、めったにお目にかかれるものじゃない、今日この日に巡り合わせてくれたことを、神様に感謝したいぐらいですよ!」
その声には不思議な説得力があって、言葉の端々に本気の熱が宿っていた。俺は戸惑いながら名刺を受け取り、そこに刻まれた文字を見た瞬間、息を呑む。
「——ハルモナ・アニメーション、プロデューサーの藤岡と申します」
その名前を聞いた途端、北斗と美弥がピタリと動きを止めた。わずかに目を見開き、互いに顔を見合わせる。何かが伝わっているようだった。
真珠も驚いたように「えっ?」と声を漏らす。
「ハルモナ……アニメーション……?」
北斗が小声で確かめるように呟いた。藤岡さんはにこやかに頷き返す。
「はい。あなたたちのグループに、大変興味を持ちまして」
その一言で、控室の空気が変わった。北斗の顔から冗談っぽさがすっと消え、美弥の視線も鋭さを帯びる。
“ハルモナ・アニメーション”──俺もようやく、その名前の重みを思い出す。あの、誰もが知る有名アニメ制作会社。
藤岡さんは一礼し、真剣な口調で続けた。
「特に、皆さんの一体感に心を動かされました。今日はご挨拶だけですが……もしよければ、我々の次回作で主題歌をご担当いただけないかと思いまして」
喉が鳴る音が自分でも聞こえるほど、息を飲んだ。アニメの主題歌——それは夢のような話だった。
「ご興味があれば、後日改めてご連絡させていただきます」
そう言って、藤岡さんはもう一度丁寧に頭を下げて、静かに控室を後にした。
ドアが閉まる音だけが響き、取り残された四人は呆然とその場に立ち尽くした。
沈黙が流れる中、北斗が小さく口を開く。
「これ……」
美弥が静かに言葉を継いだ。
「……まさか、タイアップ?」
真珠はぽかんとしたまま、ぽつりと呟いた。
「なんか、信じられないんだけど……すごすぎない……?」