第40話 君がいたから、ひけた音
『やっほー、優P!聞こえてる!』
――え?
何が起きてるのか理解できなかった。頭の奥がキーンと鳴って、視界がぼやける。
さっきまで凍りついていたステージ。その空気を真っ正面からぶち破るように、大型ビジョンから真珠の声が飛び出してきた。
画面には、明るいスタジオの中で笑顔を見せる真珠が映っている。白いワンピース、いつものように天真爛漫な笑み、そしてその隣には腕を組んで座る北斗。
なんで今、映像が……?
動けずにいた俺の周囲で、観客がざわめき始める。スマホを構える手が次々に上がり、フラッシュがちらちらと光る。
「……っ」
喉が詰まる。汗が頬を伝うのが、被り物の中でもわかる。
そんな中で、真珠の声だけがやけにクリアに響いた。
『ねえみんな、ちょっとだけ聞いてくれる?』
明るい声。でも、その語尾に少しだけ緊張が混じってる気がした。
『優Pって、ちょっとだけ変なとこあるでしょ? 突然声が出ちゃったり、体がピクってなったり。あれってね、“トゥレット症候群”っていう病気なんだ』
会場が、微かにざわめいた。
『病気って言っても、うつるわけでも怖いわけでもないの。ただ、気持ちと関係なく声が出ちゃったり動いちゃったりする。それだけなんだよ』
真珠の声は、まっすぐで、少しも揺れてなかった。
『びっくりするよね、うん、分かる。目の前で突然声が出たり、体が動いたりするの観たら、驚くのは普通だと思うの。でも、それは本人の意思じゃなくて、病気のせいなの。』
俺は――何も言えなかった。
目の奥がじんわり熱くなる。
『でもね、優Pの声も、動きも、音楽も、ぜんぶその人の一部で、否定されるものなんてひとつもない。だから、もしびっくりしても、少しずつ知ってくれたら嬉しいなって思ってる』
まるでそれが特別でもなんでもないみたいに、笑って、まっすぐ。俺のことを言葉にしてくれてる。
……それが、どれだけすごいことか。
胸の奥にずっと貼りついてた、どうしようもない恥と情けなさが、じわじわと剥がれていくのを感じた。
喉が熱い。真珠の声が胸の奥に染み込んで、固まっていた何かがふっと緩んだ。怖くて苦しくて、ひとりで抱えていたものが、少しだけほどけていく感覚だった。
『優Pは、怖がってた。嫌われるかもしれないって。変に思われるかもって。でもね――』
真珠が画面の中で、すっと真顔になる。
『私は、優Pの音楽を聴いて、あ、この人ってこんなに優しいんだって分かったの。まっすぐで、一生懸命で、ちょっとだけ抜けてて、でも本当にすごい人なんだって』
笑いながら、ちょっとだけ潤んだ目で、真珠が続けた。
『だから、変な声出しちゃっても、驚かなくて大丈夫だよ。ちょっと出ちゃったんだな、くらいで流してくれたら嬉しい。優Pのお父さんがね、“優しい無視”って言ってた。すごくいい言葉だと思わない?』
会場のあちこちから、小さな笑い声が漏れる。
『だから、そんな感じで。変に気にしすぎず、でも知っててくれたら、それだけで十分だよ!』
真珠が小さく手を振る。
そのとき、隣にいた北斗がタイミングよく身を乗り出してきた。
『……ってことで、俺も一言いい?』
ぶっきらぼうに腕を組みながら、でもしっかりカメラを見据えて、北斗が続ける。
『あいつさ。そんな病気持ってんのに、駅前ライブでぶっちぎりの演奏かまして、しかも即興でカガミ・シンとセッションしてんだぜ?』
『馬の被り物でな。マジ意味わかんねえけど、でも……それが格好よかった、それって最高にクールじゃね?』
「え~!北斗様デレてる~!」
観客の間から、ちょっとした笑いが起きる。
『最初は俺も半信半疑だった。でも実際に聴いて、震えた。背中がゾワッとした。そういう音って、聴いた人の心を動かすんだよ』
少しだけ、北斗の声が柔らかくなる。
『今そこに立ってる優Pも、そういう音を出す奴だ。だから、見てやってくれ。そいつは……本物だから』
最後にもう一度、北斗がしっかりと前を見て言った。
その隣で真珠が笑って、北斗とアイコンタクトを交わす。
『――というわけで、以上、私たちからでしたっ!』
ぱっと手を振る真珠。そして画面が、静かに暗転していく。
……その直後だった。
「え、SNS更新された」
「タグえぐい」
前の方のざわめきが、ざわつきじゃなく、何か別の熱に変わってるのがわかった。
ステージ脇に設置された大型モニターの一つに、リアルタイムのSNSコメントが次々と流れ始めた。
『トゥレット症候群って初めて知った』
『あの声とか動きって、そういうことだったのか』
『こんな病気があるなんて……勉強になる』
『駅前ライブのあの演奏、病気と闘いながらだったのか……すご』
目の前に、#優P #トゥレット症 のハッシュタグが並ぶ。 一つひとつが、画面の中で光るみたいに表示されていた。
その言葉が、胸にゆっくり沁みていくのが分かる。
顔は被り物に隠れているけど……バレてないといいな、今、ちょっとだけ泣きそうだ。
最前列のコスプレイヤーの子たちが、さっきまでの興奮した顔じゃなかった。じっとこっちを見て、目元が赤くなってる子もいる。
中段の学生グループの中では、誰かがスマホを見せながら、周りに何かを説明してる。
会場の空気が、明らかに変わっていた。
俺のことを「気味が悪い」って思ってた人も、いたと思う。でも今、その中の誰かが「すごい」って言ってくれてる。
全部を素直に受け止められるほど、俺は強くない。でも、あの映像を見てくれた人たちは、俺が今まで言えなかったことを、ちゃんと聞いてくれた気がした。
真珠……北斗…… こんなふうに、俺の代わりに言葉にしてくれて、ありがとう。
さっきまでの絶望と、恥ずかしさと、怖さでいっぱいだった胸が……今はこんなに熱を帯びている。。
……俺、このまんまでいいんだ。
そんなこと、思ったことなかったのに。
被り物の奥で、俺はそっと目元を押さえた。
誰にも見られてないと思って、こっそり涙を拭った。
こんな場所で泣くなんて、ダサすぎるけど。
でも、今だけは――少しだけ、許してもらえる気がした。
「す、すみません!みなさん!」
突然、MCの声が響いて、思わずびくっと肩が跳ねた。
ステージの反対側からMCが小走りで現れて、マイクを握りしめながら深々と頭を下げる。
「先ほどの映像、本来は優Pさんご登場のタイミングで流す予定だったのですが……手違いで遅れてしまいました!申し訳ありません!」
会場からざわっとした笑いが起きた。責めるような雰囲気じゃない。ただ、みんな驚いてたんだ。
――そっか。あれ、真珠たちが……。
自分たちがいなくても、俺がステージに立つことになって困らないように、最初から真珠たちが準備してくれてたんだ。
タイミングがずれちゃったのは仕方なかったけど……でも俺は、あの映像に救われた、いや、むしろ全てをさらけ出せて、これで良かったとさえ思える。
マイクの前に立つMCが、やや恐縮した様子で、申し訳なさそうにこっちを向いた。
「本当にすみません、優Pさん、大丈夫ですか……?続けられますか?」
どうしようもなく、胸が熱くなった。
涙を拭ったばかりなのに、また出てきそうだ。もうほんと、感情の起伏が忙しい……。
でも、もう大丈夫。
ちゃんと、胸を張って言える。
「……一曲、弾いてもいいですか?」
マイクを通して響く自分の声が、妙にしっかりして聞こえた。
「今、すごく……弾きたい気分なんです」
一瞬の静寂。
そのあと、会場からわあっと、暖かい拍手が湧き上がった。
ああ……もう、全部が夢みたいだ。
MCが慌ててスタッフと何かを確認して、ピアノ周りの調整が始まる。
少しずつ、会場の空気が変わっていくのが分かる。
ざわめきが引いて、照明が落ちていって――俺の立つ場所に、スポットライトがひとつだけ落ちてきた。
さっきまでの暗闇じゃない。ほんのり、あたたかい色の光。
それが、まっすぐ俺を照らしていた。
……よし。
ピアノの前に座り、ゆっくりと息を吸い込む。
手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。指先がまだ少し震えてる。だけど、鍵盤の前にいるだけで、何かが少しずつ整っていくのがわかった。
君は僕の一等星――この曲はまだ、未完成だ。
でも今なら、続きを弾ける気がする。
震える指で、そっと一音を鳴らした。
静かで優しい音。ホ長調のコードから入って、内声に優しく広がる。
右手の旋律が、ゆっくりと上がっていく。
真珠を想うと、音にあたたかい色が混じった。彼女の声とか、笑い方とか、頑固なくせに人のために必死なところとか――思い出せば思い出すほど、音が生きていく。
和音の進行が、感情に導かれるみたいに自然に変わっていく。
Aメロを弾きながら、俺は自分の指の動きに確かさを感じていた。
少しずつ、自分を取り戻していく。
……そうだ、これが俺の音だ。
サビに向かう手前、ふいに肩がピクッと動いた。
出た、チック。
でも、次の瞬間、その揺れが偶然弾いたアルペジオになって、音にリズムが加わった。
俺はそのまま、何事もなかったかのように次のフレーズに進んだ。
――違和感じゃない。
これはもう、曲の一部だ。
観客が、一瞬息を呑んだ気配がする。
……そして、静かな拍手が、小さくひとつ起きた。
それがきっかけみたいに、会場の空気が変わっていくのが分かった。
最前列のコスプレイヤーたちの目が潤んでいる。中段の学生グループも、黙ったまま目を閉じて聴いてくれてる。
音が、空間を優しく染めていく。
客席のあちこちで、小さく息を呑む音が聞こえた。
「……きれい……」
「やば……」
そんな囁き声がぽつぽつと広がっていく。 頬に手を当てて涙をこらえている人もいれば、身を震わせている人もいた。
ただの旋律じゃない。この音は、誰かの心に届いてる。ちゃんと届いてるんだと、俺にも分かった。
サビに入る。
ピアノの中音域を強く押し出し、メロディーが羽ばたく。
もう、指は震えていなかった。
あの不安も、怖さも、全部この音の中に流し込んでやった。
クライマックスへと向かう。
旋律が大きく広がって、心の中の景色が一気に開けていく。
音のひとつひとつが、自分でも信じられないほど素直に出てくる。
――真珠、君に届くといいな……。
最後の音を響かせた瞬間、会場がしんと静まった。
それから、一拍置いて。
割れんばかりの拍手と歓声が、一気に押し寄せてきた。
俺は深く息をついて、手を膝の上に置いた。
スポットライトの中で、胸の奥に込み上げてくるものを、ぎゅっと抱きしめた。




