第七幕 贖い
海上自衛隊の護衛艦『あたご』と漁船『清徳丸』の衝突事故は予想以上に尾を引いた。
最近起こっていた自衛隊内の不祥事に続いての事故だったために、『あたご』への非難は火がつく勢いだった。現場検証や当直士官への事情聴取、海難審判所の捜査等が進む中、世間は冷ややかだった。
海難審判の捜査で判明した『あたご』側の監視不十分への指摘、乗員への教育不足、隠蔽工作の疑惑、様々な方面からマスコミや国会内でスケープゴートにされた。
規律が正しいのが当然の自衛隊、しかし海上自衛隊では組織の弱体化やモラルの低下が浮き彫りになっていると言われ、海上自衛隊の不祥事を並べ立てての報道、事故発生から半年以上が経っても偏向と言わざるを得ない状態が続いていた。
国民の自衛隊への意識に関わる重大な出来事となり、その懸念は『あたご』のみならず、海自のほとんどの艦に伝染していった。
横須賀港の岸壁に着岸する護衛艦『いかづち』は数ヵ月ぶりに日本へと帰ってきていた。
「……………」
「あ、いかづち~。おかえりなさいです~~―――って、どうしたのですか?」
「はたかぜさん……ただいまです」
溜息を吐くような暗い表情でインド洋からの帰還を果たしたいかづちを迎えたのは、はたかぜ型護衛艦一番艦『はたかぜ』の艦魂、はたかぜだった。
十五か十六ほどの少女。上から下までぴっちりと着た海自の白い制服が華奢な輪郭を表し、ショートヘアの黒髪は制帽の中におさめられている。
「わかりました、遠洋での任務にお疲れなのですね。 お勤め御苦労さまです。 どうぞ、ごゆっくりお休みください」
「あっ、そうじゃないんです……」
「では、何故元気がないのですか?」
「……………」
護衛艦『いかづち』は『あたご』の事故発生から二ヶ月後の四月に、新テロ特措法の基づき、補給艦『ましゅう』と共にインド洋に派遣されていた。
あの、あたごが現場検証のために海保の船魂と一緒に行ってしまった日から間もなく経った時のことだった。
ずっとあたごのそばで支えていたいかづちだったが、任務のためにやむを得ず、あたごのそばを離れ、遠洋へと出ていた。やっと任務を終えて帰ってきたいかづちだったが……
「…それより、あたごさんは」
日本から遠い外洋にいる間、いかづちはあたごの事が気にかかって仕方なかった。任務に支障が出ない程度には抑えていたが、いざ帰ってみると、真っ先にあたごへの心配が沸き起こった。
そして―――
「……ねえ、いかづち」
「なんですか、はたかぜさん……」
「ここに来るまでの間に、みんなに冷たい目で見られなかった? 特に漁船に」
「――――ッ!!」
思いつめていた表情も一変して、いかづちは動揺を隠せずにいた。はたかぜは案の定という風に溜息を小さく吐いた。
「ここ最近……特にあたごの件以来、行き交う船、特に漁船の視線が痛いですよね~」
「…………」
「いかづちの元気ない理由も、それですよね? 浦賀水道は特に漁船がたくさんいますから」
いかづちが遠洋での任務を終え、長い航海を経て日本に辿りついた時。
任務の疲れを背負って祖国への帰還を果たしたいかづちを迎えたのは、漁船の船魂たちの冷たい視線だった。
横須賀港までに入る間に通る浦賀水道は、漁船や貨物船、船の種類問わず、日本一の船舶が多く通過する海域だ。
インド洋派遣任務を終えて浦賀水道を航行していた『いかづち』と『ましゅう』は、突き刺さる多数の冷たい視線を受けながら、入港した。
海上自衛隊の艦というだけで―――
「明らかに嫌われていますね、私たち。特に漁船には」
「……………」
『あたご』の事故以来、事故の捜査は順調に進み、報道は真相が明かされるたびにそれを報じた。片方の船にのみ―――
「……たとえ嫌われても、それでも国民の皆様を御守りするのが、自衛隊の役目に変わりありません」
―――所詮、貴様らは国民を護ってなんかいない―――
―――貴様らが護っているのは、“国家”であり、それも幻想にしかないお伽話の中の“国家”だ。 逆に貴様らは国民を殺している―――
「……ッ!」
初めて自分をあそこまで奮い立たせた言葉を、いかづちは思いだして苦い表情になった。
「……まぁ、あまり外部の事を気にすることはないと私は思いますけどね」
ハッと顔を向けると、はたかぜは真剣かいつものお気楽なのかわからない微妙な表情で呟いていた。
「実際、船舶同士の事故は自衛隊に限ったことじゃない。 ただ、私たちが“自衛隊”だから、ただその一点だけなんですよ。簡単な話」
「……それはそうかもしれませんが」
「もちろん、行方不明になった漁船側の方々や、漁船には、気の毒だと思うし、冥福を祈る思いですよ。 でも……あたごが一方的に悪役になるのはいただけないですねぇ」
「……………」
「公平に審査して、真相を明かして、皆にきちんと説明する。 そうすれば自衛隊も、漁協側も、そして国民にも、本当の意味で真相を教えてくれたら、真の再発防止になると思うんだけどなぁ……」
はたかぜの言うことは、いかづちにとってもまったくその通りだと共感できる感があった。
そして、それだけに……
「……あたごさん」
「可哀想ですね、彼女」
「!」
そよ風が、妙に生温かい風が二人の肌を撫で、髪を揺らした。
「本当に、可哀想……」
はたかぜの悲しいような、憂うような、少し寂しげな声が風に乗っていかづちの耳に届いていた。
その時、『あたご』は既に横須賀港にはいなかった―――
九月。
夏も終盤に差し掛かった頃、四国の沖合を護衛艦『あたご』が航行していた。
『あたご』の周りには、不用心に近づく船は一隻もいなかった。
それが、本来の当然の事であった。
だが、『あたご』の監視は例の件もあって、他の艦とはまた違う厳重な監視が行われていた。
時計の針が午前七時に近づこうとしている朝、『あたご』は海と空、周囲の視界がはっきりしてきた朝の風景の中で、静かに白波をたてていた。
事故当時の艦長をはじめとした六名が異動となり、新たに着任した艦長たちが指揮を執る航海。
艦橋付近からそびえ立つマストの上に腰を下ろすあたごは、視界いっぱいに広がる波立つ海面と四国の陸をうっすらとした瞳で眺めていた。
「……………」
あたごは事故が起きた直後からずっと続いていた状態からは一応の脱却をしていた。それは自分を支えてくれたいかづちたちのおかげであるとあたごは理解していたが、まだ以前のような自分にはまだまだ戻れずにいた。
罪の意識は消えるはずもなく、肩が重い。精神はいつも痛んでいて、息苦しい毎日が続くのが日常になっていた。
だが、あたごはそれを仕方がないと当然のように思っていた。これは、自分への罰なのだから―――
「……………」
隅で小さくなり、震え、泣いていた貧弱な自分。そんな自分のそばにはいつも、いかづちがいた。まるで、姉のみょうこうのように――
そして、いかづちの温もりが、いつしか大好きな姉の温もりを思い出させた。
それがまた、心が苦しかった。
姉を思い出し、そのたびに会わせる顔がないと、嘆く。
自分の犯した罪は、全国に知られている。きっと、姉も知っているはずだろう。
姉は自分の犯した罪を知って、どう思っただろうか。悲しんだだろうか、怒っただろうか、失望しただろうか。
そんな思考がぐるぐると回り、ますます心を締め付ける。
必死に庇ってくれた、いかづちの姿。
少し過剰なほどのスキンシップをするものの、本当に自分を大切にしてくれていた姉の姿。
あたごは、二人の姿を重ねて、気付いた。
自分はいつまでも過去に縛られてばかりで、泣いてばかりだと。
それでは、姉やいかづちたちをさらに失望させるだけだし、迷惑をかけるし、そして何より死んでしまった人たちへの贖いもできない。
あたごは、過去に縛られて震えて泣くばかりだった頃を捨てた。そして、自分の未来を罪滅ぼしのために使おう。
あたごは、苦しかった心の隙間に、その決意を埋め合わせた。
「……ごめんなさい、姉さん。いかづちさん」
頬に伝った雫を、ぐいっと拭う。
「私、贖うよ……」
あたごはマストの上から消えると、一瞬にして甲板に降り立った。波に揺れる甲板の上で、あたごは手の甲に短刀を顕現させ、ぐっと握った。
そしてそのナイフを自分のポニーテールに突きつけて―――
バサッ。
躊躇なく、綺麗に捌くように、トレードマークだったポニーテールをばっさり切り下ろした。
姉さんが結んでくれた髪型だった……だけど。
切り下ろした髪を握っていた手をゆっくりと開く。手のひらから、潮風に乗って、あたごの髪が海の彼方へと流された。
そして一緒に、結んでいた黄色いリボンも、風に流されて海の中に溶けていった。
「……私」
あたごは、自分の髪が波に呑まれていく海面を見詰め、ポツリと呟いた。
だが、その言葉は波の音に掻き消され、聞こえない。
あたごはピクリと何かを感じ取ると、その場から一瞬にして消え去った。その直後、艦は異様な空気に包まれると、舵を取って通常とは違う動きを始めた。
九月十四日午前六時五十六分、護衛艦『あたご』は豊後水道の領海内で、国籍不明の潜水艦らしい潜望鏡を発見。アクティブソナーによる追尾を実施。同日午前八時四〇分ごろに失探した。
もうそろそろこの作品も終わらせようかなと思います。
ちなみにこの作品、自衛隊側は全然悪くないと言っているわけではありませんので。なんだか本文中に感情的な部分も入っちゃってる感もあったりしているかもしれませんが、私はただ、当時一方的に憶測だけで自衛隊を叩いていた状態が許せなくて、公平に扱ってほしかったがために執筆しているわけで。
まぁ、捜査の過程でわかった事は、やはり『あたご』側に大きな過失があったこと。
マスコミの報道では、一〇〇パーセント『あたご』が悪いみたいな言い方でしたが。
勿論、漁船側にも避航動作を取らなかったこと等、過失はあります。
亡くなった二名の方は本当に気の毒に思いますし、このような事故が起こったことは本当に残念であり、ご冥福をお祈りするばかりですが……
一方的に『あたご』が悪役にされるのはどうかと。
法律的には、海上衝突予防法の第二節第十七条あたり……かな。
『あたご』は避航船、『清徳丸』は保持船となるので……『清徳丸』より『あたご』の方が過失は大きいのは認めますが……
やむを得ない場合を除けば、保持船は避航するための最大限の努力をすることはちゃんと書いてあるんですけどね。それをしなかった『清徳丸』にもやはり過失はあるわけで。
警告の信号も打たなかったみたいだし。
あと、ここで言うのも何ですが、漁船っていっぱいいますから。それを全部避けろというのは大型船にとっては酷な話で……って、これは前も言いましたね。
真っ暗とはいえ、現場の気持ちは実際に経験したことがある身としてはわかってしまう(ホントに見えない…)のですが、『清徳丸』の接近を許してしまった『あたご』にも当然過失はあり、そしてそこまで近づいてもなお協力的な避航動作を取らなかったのもいけないことです。
ま、要は……
確かに『あたご』には大きな過失はありました。
だけど『清徳丸』にも過失はあるんです。
そもそも船舶同士の事故において、過失は双方にあるはずなんです。
審判長が述べた本文等の一部引用は、いずれ本作でも記載しますが……
偉そうなこと言ってるかもしれないけど……
どちらも悪かったこと、本当の真相を知ってほしい。ただそれだけなんです。