第四幕 衝突海難事故発生
イージス艦『あたご』と漁船『清徳丸』の衝突事故が発生。
『あたご』、そして報告を受けて駈けつけた海上自衛隊は懸命なる捜索を開始しますが……
二〇〇八(平成二〇)年二月十九日火曜日午前四時七分、千葉県野島埼南方海域において護衛艦『あたご』と漁船『清徳丸』が衝突するという海難事故が発生した。
北緯34度31.5分、東経139度48.6分(野島埼灯台の南約42km)の海域。天候は晴れ、風は北東5ノット(約2.5m/秒)、気温8度、視程18km、海上模様は平穏だった。
護衛艦『あたご』は真珠湾から横須賀港に向かって航行中だった。一方の漁船『清徳丸』はマグロのはえなわ漁目的で川津漁港(千葉県勝浦市)を出港し、三宅島北方へ向けて航行中だった。
艦首に漁船衝突を察知した『あたご』は直ちに両舷停止の令が第二当直士官から下された。
そして第二当直士官の指示により、『あたご』の隔壁灯を点灯した。
右ウイングからは信号員が投げた救命浮環が一個、真っ黒な海に着水した。だが、その浮環を掴む者は誰一人いなかった。
さらに『あたご』は信号探照灯を用いた捜索を開始した。そして四時九分、衝突して二分後に艦橋右ウィングに移動した艦長は、艦に後進の行き脚(艦が動いている状態)を認めた。
「行き脚止めッ」
艦長はすぐに艦の行き脚を止めることを決め、第二直当直士官に指示して、行き脚を止めさせた。
その後、第二直当直士官は、右ウィングにて艦首方向一五〇〇ヤードから二〇〇〇ヤードを左に進む漁船一隻を視認した。
漁船は紅灯を灯しながら、左に横切るように進んでいた。衝突した漁船の仲間だろうと見た者ならわかるだろう。
艦長は、行き脚が止まった後、第一直当直士官が艦橋にいるのを認めたため、第二直当直士官に第一直当直士官と当直士官を交代するように命じた。
「当直士官、交代します」
「当直士官、交代しました」
二人は当直交代の定められた報告を述べるが、その声と表情には緊張の色が伺えた。
それも当然だ、と艦長は思った。実際、自分にも焦りがあると自覚していた。
漁船と衝突。これは由々しき事態であり、とんでもない出来事だった。
第二直当直士官は、艦橋内で当直士官を交代した後に『あたご』の右舷側を漁船二隻が緑灯を点け艦尾方向に進むのを視認し、捜索活動に影響がないことを確認した。
「第三班、第六班も総員よろしッ!」
『あたご』の上甲板前後部両方の艦上には乗員が整列していた。海難対処部署の発動により、救助用具の準備を行うと共に、乗員たちは目視による海面の捜索を開始した。
だが、灯りを灯しても視認できる範囲は限られている。そもそも真っ暗な海を肉眼で捜すなど、不可能に等しい事なのだ。
たとえ昼間だとしても、艦の上から海に向かって何かを捜索するなど限りなく難しい事だ。海の上に何かが浮かんでいても、艦の上から広すぎる海を見て捜そうとしても、豆粒を捜すようなものだ。
それも視界が限りなく狭い真っ暗な海なら、海の上から何かを捜しあてるなど、一〇〇パーセント不可能である。
だが、やらなければならない。理屈も何も関係ない。人の命が懸っているのだから、なんとしてでもやらなければいけないのだ。
乗員たちが艦上から懸命な捜索をしている一方、彼女は現実に衝撃を打たれ、震えていた。
「……あ、ああ……わ、私……」
ガクガクと震える両足は立っているのが不思議なくらいだった。
顔は蒼白になり、目は目一杯開かれ、手が触れた口元はわなわなと震え、歯がガチガチと鳴る。
頭の血がサーッと下がり、どうして良いか全然わからなかった。
「私……なんて、ことを……」
合わせ、ぎゅっと握り締める両手も震える。目を瞑り、震えるあたごは、見るに耐えない姿となっていた。
「お願い……見つけて……お願いだから、見つけて…ッ!」
本格的に捜索を開始する乗員たちに向けて、あたごは涙ながら必死に願いを込めるのだった。
四時十八分、『あたご』から第一救助艇が発進し、四時二十一分に『清徳丸』の二つに分断された船体の船尾部付近に到着、漁船乗員の捜索を開始した。
だが船尾部付近に乗員が見つからなかったため、第一救助艇は漁船の船首部分付近に移動し捜索に従事した。
「…………ッ」
艦長は真っ二つになって浮かぶ漁船の荒れ果てた姿を見て、呻いた。二つに分断されて浮かぶ船首付近を捜索する救助艇を見詰めていると、本艦内に浸水などの異常がないことが報告された。
「艦の運動に関わる者を除いて、すべての乗員は上甲板に移動し、捜索に全力を注げ」
四時二十一分、艦長は、艦内に浸水などの異状がないことを確認した後、艦の運動に必要な人員を除いた全員を上甲板に上げ、艦上からの目視による捜索を強化した。
四時二十六分。
第一救助艇は、船体に書かれていた船名を確認。漁船を『清徳丸』であることを確認した。
「第一救助艇から報告。 本艦と衝突した漁船の船名を『清徳丸』と、確認しました」
「……そうか」
艦橋内はまるで鬱が降りたかのような雰囲気だった。艦橋にいる者全てが、重い空気を背負っていた。
「第二救助艇発進。 引き続き、漁船乗員の捜索を行うように」
四時二十八分、第二救助艇が発進、『清徳丸』乗員の捜索を開始した。以後、第二救助艇は『清徳丸』の船尾部分を中心に捜索した後、潮流方向の海面捜索を実施した。
ちなみに、既に四時二十三分に『あたご』は事故発生の事を海上保安庁第三管区海上保安本部に通報していた。
四時二十九分、『あたご』に装備されているGCS(射撃指揮システム)の光学照準装置及びCIWS(近距離防空システム)の赤外線照準装置による捜索を開始した。
まさか自艦と衝突し、遭難した民間人の捜索に使うことになるとは思いもしなかっただろう。日本の五番目のイージス艦として、最新鋭の防空システムを備えた『あたご』は、その装備システムを駆使して、漁船乗員の捜索を懸命に行った。
だがそれでも、漁船乗員を発見することはできなかった――――
漁船との衝突を受け、『あたご』は四時半ごろに護衛艦隊司令部に報告しており、今頃は自衛艦隊司令部、そして政府に情報が回っている頃だろう。その時、報告を受けた護衛艦『しらゆき』が、続いて『くりはま』が現場海域に到着した。
栗のような茶髪の短髪に、くりっとした丸い目が愛らしい少女、艦魂のくりはまが『あたご』艦上に降り立った。
後から到着した艦魂のくりはまが急いでやってきた頃には、しらゆきがあたごを慰めている所だった。
くりはまはあたごの様子を見て、絶句した。
初めて顔を見たが、あたごの整った顔立ちが蒼白になって涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって酷い有様になっていた。ぺたんと冷たい甲板に座り、震えながら両手で頭を抱えている姿は、痛々しかった。
そんなあたごを、そっと抱き締めている雪のように白い、眼鏡の少女が、艦魂のしらゆきだった。
しらゆきは姉のように、震えるあたごを優しく包み込んでいた。
くりはまはしらゆきに視線を送るが、至って冷静なしらゆきは、首を横に振った。
「……あたごちゃん」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
涙ながらに震えながら発した言葉は、謝罪だった。
彼女はそれ以来謝罪の言葉を繰り返しながら、震え、身を小さくした。
「…ッ。 ―――しらゆきさん、状況は……」
「……………」
しらゆきは首を横に振る。
「―――――ッ」
行方不明になった漁船乗員は、まだ見つかっていない。
くりはまは悟り、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「―――私の、せいです……」
「!!」
くりはまとしらゆきは、一斉にあたごの方に視線を向けた。
「私が……ちゃんとしていれば……気を付けていれば……早く、避けていれば……こんなことには……」
しらゆきの腕の中で震え、泣きながら言葉を紡ぐあたごは見るに耐えない姿だった。
「あたごちゃん、しっかりして。 今は自分を責める時じゃないよ……。 きっと、漁船の人たちも……」
くりはまは口を噤んだ。軽く、助かるよなんて言えなかった。何故なら、より重く、深く状況を察していたから、逆に最後まで言えなかった。こんな真っ暗な海に投げ出された人間を捜すなんて、不可能に等しい。
「私……必死に捜したけど……クルーの人たちも…一生懸命捜してくれてるけど……見つからない、見つからないんです…ッ! 色んなシステムを使っても、全然見つからない…ッ!!」
「あ、あたごちゃ……」
半狂乱になって、泣きながら言葉を紡ぐあたごに、くりはまは動揺した。
「漁船の船魂も……私が……」
「――ッ!」
その先は言わせてはいけないと、くりはまは思った。真っ二つになり、“魂”が抜けた無残な姿で浮かぶ漁船を思い出して、くりはまは叫んだ。
「私たちも、捜す…ッ! ―――しらゆきさんッ!」
くりはまの大声に、特に驚く様子もなく、しらゆきが顔を上げる。
「今より、漁船乗員の捜索を行いますッ!」
「……了解」
しらゆきがあたごを腕の中に抱きながら、コクリと頷いた。
先に現場海域に到着した『しらゆき』は午前五時十五分以降、内火艇二隻により『あたご』の北東側を、『くりはま』は五時二十三分以降、作業艇一隻により『あたご』の北西側海域の捜索に従事した。
四時五十九分、『あたご』から複合型作業艇が降下し、周辺海面の浮遊物を揚収しつつ『清徳丸』乗員の捜索を実施した。
五時四十六分、第一救助艇及び複合型作業艇の乗員が船首部分、船尾部分それぞれの船体を叩くことによって、船体内の生存者の有無を確認した。同時刻、『しらゆき』は捜索海域を衝突地点付近に変更した。
五時四十八分、複合型作業艇が揚収した漁網標識に船名の『清徳丸』、漁港名の『川津』の文字を確認した。
朝日が昇り、視界も大分良くなったが、海上自衛隊所属の護衛艦の懸命な捜索にも関わらず、『清徳丸』の乗員が発見されることはなかった。朝、人々が目覚めた頃、一番にテレビを付けて目にしたものは、イージス艦と漁船が衝突したという大事件のニュースだった。
浮かぶのは、真っ二つになった、漁船船首と船尾部分。その周囲を海自が捜索するが、成果は未だに得られなかった。
その上空には第二十一航空群所属のヘリコプターが飛びまわり、空からの捜索に従事していた。
午前七時台には、横須賀港から出港した護衛艦『いかづち』と『はるさめ』が現場海域に到着した。護衛艦『いかづち』には第一護衛隊群司令が乗艦しており、現場における指揮を執った。
護衛艦『いかづち』の艦内、会議室には、現場海域に集結したあたごとしらゆきを除いた艦魂たちがいた。と言っても、あたごとしらゆきがいないので、この場にいるのはいかづちを含め、三人だけだった。
「それでは今回の状況を整理します」
一人、指揮を執るのは、第一護衛隊群司令が乗艦したむらさめ型護衛艦七番艦『いかづち』の艦魂、いかづちだった。
成熟した女性の優美さと美貌を同時に、童女のような可憐さがその姿に漂っている少女、いかづちの表情は普段の彼女には考えられない冷静さと、真剣さがあった。
「平成二〇年二月十九日火曜日・午前四時七分ごろ、ここ、千葉県野島埼南方海域において我が海上自衛隊所属の護衛艦『あたご』と漁船『清徳丸』の衝突海難事故が発生。 私たちは司令部の報告と命令を受け、現場海域に集結、これより捜索の予定」
いかづちは今回の状況を読み上げ、二人の顔を見渡した。一人は緊張を垣間見る真剣な表情で、一人は無粋な表情であった。
「現在、漁船側乗員の行方不明者を捜索する任が全員に与えられている。 行方不明者の数は不明ですが、全力を以て捜索にあたるように。 以上。 なにか質問は?」
いかづちは再び二人の顔をゆっくりと見渡すが、反応がないことを確認すると、静かに頷いた。
「では、各自自艦に―――」
「―――あ、あの…ッ!」
声をあげ、いかづちが視線を向けた先にいたのは、心配そうな瞳を持ったくりはまだった。
「その…ッ」
声をあげたのは良いが、何かを言おうと戸惑っているかのようだった。だが、振り絞るように声をあげる。
「あ、あたごちゃんは……」
いかづちは、唇を噛み、きゅっと胸の前で手を握り締めている、不安に満ちた瞳を向けた一人の少女を見詰め、優しく微笑みかけた。
「今はしらゆきが付いているから、大丈夫ですよ。 私たちは、捜索に従事しましょう」
「……は、はい」
「あたごが心配なのはわかりますが、今、私たちがするべきことは漁船の方々の捜索です。 今は、あたごの事はしらゆきに任せましょう」
「……………」
くりはまは心配そうに歪めた表情を変えなかったが、一応納得したのか、黙ってその場をあとにした。
「……本当に、大丈夫なのか?」
「え…?」
寂しげな瞳で、去りゆくくりはまを見送ったいかづちは、低く通った声の持ち主に振り返った。
そこには、腕を組み、椅子に腰かけた長髪のクールな少女、いかづちの姉にあたるむらさめ型護衛艦二番艦『はるさめ』の艦魂、はるさめがいた。
「…はい。 あたごには、しらゆきが付いていますから……きっと、あの娘がそばにいれば…」
「違う」
「えっ?」
ピシャリと冷たく遮られたはるさめを、いかづちは目を丸くして見詰める。
「捜索中の漁船側乗員の事だ。 衝突事故発生は……午前四時過ぎだったな?」
「……はい、報告では」
「二月の冷たい海、それも真っ暗な海で、救命具もなしにそんな海に投げ出されては、未だに見つからないのであれば、生存の可能性は限りなく低いな」
容赦なく、はっきりと断言するはるさめに、いかづちは複雑な表情になった。
確かにはるさめの言うことは最もだった。真冬の暗い海に投げ出され、未だに発見されなければ、生きている可能性は極めて低いだろう。真っ二つになった船体を見れば、絶望する材料には十分だった。
「……これからが正念場だな、彼女にとっては」
「……………」
海上自衛隊のイージス艦が、民間の漁船と衝突。これはマスコミの格好の餌食となり、世間の目に触れて、批判の対象として浴びせられるだろう。
最近まで自衛隊の不祥事が相次ぎ、しかもこれはなだしお事件(海自潜水艦が遊漁船と衝突した事故)から二〇年経って以来の衝突事故である。
就役して一年という最新鋭のイージス艦という点についても、注目され、彼女は罪と世間に苦しめられることになる。
「彼女には、海保と海難審判所の捜査の手がこの先ずっと続くことになるだろう」
「……そうですね。 ―――気の毒です」
「気の毒なのは、漁船側も同じだがな。 軍艦であるイージス艦に衝突されては、脆い小さな船体じゃ敵わんからな」
はるさめの不適切というか、容赦のない言動に、いかづちはますます表情を難しくさせた。普段から姉の一人であるはるさめは姉妹の中でも容赦がない人なので、いかづちは姉の性格を普段から理解していても、完全にはその言動には理解できなかった。
「どっちに、非があると思う?」
「……はるさめ姉さん、今はそんな時じゃありません。 それより、行方不明者の捜索を……」
「そう。 まだ捜査も何も始まっていない。 だが、既にある所では、我々自衛隊側に非難の目が向けられているらしいぞ」
「―――ッ」
「確かにさっきも言ったように、彼女には徹底的な捜査が行きわたるだろう。 ―――だが、私が言っているのは、世間の目だ。 捜査や罪深さより、世間の目や声が、彼女をより一層苦しめることになるだろう」
「……………」
「たかだか生まれて二、三年。 就役して一年の小娘に、その重圧が耐えられるのか、な」
「……姉さんッ」
「……私なら、どうなのかな」
「え…?」
「もし私が彼女の立場なら、私はその重圧に耐えられるのか、ふと疑問が浮かんでな……いかづち、お前はどうだ?」
「……………」
いかづちは考えた。護る対象のはずである国民を殺し、自分を蔑み、罪を指摘する世間に、その重圧に自分は耐えられるのだろうか、と。
考えてみると、ぞっとする話だった。だが、それが現実に起こり、しかも自分よりずっと若い女の子が、その重圧を受けているのだ。
「……………」
いかづちは黙り込んでしまった。黙り込むしか、なかった。
はるさめもそれ以上口を開くこともなく、二人の姉妹はその場に沈黙してじっとするという、奇妙な時間が続いた。
すでにこの事件は朝のニュースとして日本中に報道され、昼ごろには真っ二つになって浮かぶ漁船の船首・船尾部分や、艦首をへこませて海に漂うイージス艦の姿が、全国中継されていた。
午後十三時十一分、『あたご』は海上保安庁の捜査を受けるため現場海域を離れ、十七時六分、横須賀港に入港した。
そして捜査を受けるために横須賀港に留まる、艦首に傷跡を残した『あたご』の姿が、いつまでも全国中継され、世間の目に触れることとなった。
この事件は発生後、様々な論説や調査で判明された事実を巡って、世間を騒がせることになります。
当時の石破防衛相をはじめとした政府責任者や自衛隊最高責任者による、自衛隊の情報公開の姿勢(“清徳丸を視認したのは『二分前』と長く公言し続けてきたが、調査の結果実は『十二分前』だった”等)や自衛隊員への教育等の指摘。
そして捜査も進んでいないうちに感情論で一方的に叩かれる自衛隊側。
捜査が進んでも、事故当時の状態を縮図された物しか公開されず、詳細な情報を国民が知ることができなかった状況。
作中であたごは今後、罪深さと世間の目に苦しまれることになりますが……
実際に、事件後に上陸が一ヶ月間禁止された『あたご』艦内で事故当時当直にあたっていた海士長の方が自殺未遂するという事件も起こりました(これを受け、その翌日から乗員の上陸が許可された)
行方不明になった漁船側の乗員も、後にジャンパー等の遺品が発見されただけで、遺体は見つからず、死亡認定され、双方悲しいだけの出来事でした。
次回から、罪に苛まれ、世間に蔑まれるあたごの苦悩の日々を書いていきたいと思います。
が……
残念ながら明日、再乗船のために神戸に発つので…
続きはまた下船してから執筆しようと思います。
ちなみに下船は三月上旬になると思うのでそれ以降になると思います。
何卒ご了承ください。
それではまた次回……と言っても、一カ月ちょい後ですが(苦笑