不整脈
ステラには個人名と作戦内容を除いて脚色も添削もすることなく事実を伝えた、フェイの口調には抑揚が入らない、信号のような音声から感情を読み取るのは難しいはずだがステラの想像力は豊だ。
食い入る様に耳を傾けているステラの顔は既に真っ赤になっている。
「ステラさん、顔が赤いです、具合が悪いのでしょうか」
「違うわよ、私の想像を上回っているじゃない」
「申し訳ありません」
「何で謝るのよ、余計に悔しくなるわ」
「悔しい?」
「あーもうっ、スパイとの恋愛なんて映画の世界だわ、素敵すぎる!」
「スパイではなく諜報員です、それに恋愛要素はありません」
「ねえねえ、それでその諜報員の人はどんな人なの」
フェイの言葉はステラには届いていない。
「中肉中背、年齢不詳、人種不詳、特に目立った特徴はありませんでした」
「はぁ?何よそれ、それじゃ物語にならないじゃない」
「申し訳ありません」
「だから謝らないでよ」
「あっ、ひとつありました」
「えっ、なになに聞かせてよ」
「リリィ少佐の真似が上手でした」
「なんで少佐が出てくるの、それでどんな真似」
「殺すぞ」
結局、病室が静かになったのは消灯時間近くなってからだった。
一緒に食べた夕食の食器も運んでくれた。
ベッドに横になって緩いバンドの時計を見ると、サファイヤガラスの向こうにチヒロ・ハマダの真っすぐな視線を思い出す。
(君は綺麗だ)
そう言った彼の顔は偽物だ、髪の色、髭、いろんな偽装がされているに違いない、人混みですれ違っても気付かれないように。
最後に名前を教えてくれたのは彼の若さだろう。
嘘でもチヒロの言葉はフェイの枯れた感情を呼び覚ます、嬉しかったのだ。
ステラやリリィ少佐以外で肯定的な言葉を聞いたのはいつぶりだろうか。
干からび罅割れた感情の湖を映したコーンスネークの顔、無機質なその顔に今夜初めて感情の紅色が唇にさした。
(約束だ)
チヒロの言葉が湖に雨を降らす。
どんなに変装していても、人混みにいても自分の視界の入ればチヒロだと分かる、根拠のない自信。
五色覚の能力は関係ない、自分が目を逸らさなければ分かる。
(もう、寝ておけ)
チヒロの時計が刻む秒針のリズムがフェイに背中を抱かれて眠った暖かな感覚を呼び覚ます。
「チヒロ・・・さん」
誰もいないのに名前を口にするのが恥ずかしくて小さく呟いた。
心臓の動きが変だ、安静にしているのに鼓動を感じる。
「不整脈になってる・・・?」
痩せすぎの白い蛇は、自身の中に灯った小さな灯を消さないように小さく丸まりながら眠りに落ちる。
シャトー・レゾリュー前線基地、廃城を基点に各沢筋から侵入してくる歩兵を迎え撃っている。
大きな山脈を越えた向こうに敵、ナジリス軍の拠点施設があると思われていた、山脈の向こう側は樹海が広がっている。
重い重機や戦闘車両が入り込む道はないはずだった。
レゾリューに配置されたリーベン軍は守備隊、侵略者から領土を守るために徹している。
一度配属されれば半年は帰ることが出来ない。
昔は神殿があったのだという赤岩の壁にくり抜いた穴がある、発令所や兵士住居となっていた。
中には木造の倉庫群や燃料倉庫等が立ち並んでいる。
周囲を半円型に巨石が囲み防壁としていた、コンクリートブロックやレンガではないため、その強度は20mm砲や、ましてライフル弾程度では石榑を削るのみだ。
強固な自然要塞は長年に渡りリーベン共和国の神域となる水源を守ってきた。
標高は二千メートルを超える、大陸を分断するラライ山脈の峰は最高峰サガル神山の一万1千メートルを頂点に九千メートル、八千メートルが連なる、五千メートル以下は低山扱いだ。
デスゾーンとなる山肌を越えての侵略行為は不可能だ。
レゾリュー隊が守る赤石沢の森が唯一といっていいナジリス川から越境出来るルートだ。
「先日のカカポ隊の損害は分かったのですか」
「ああ、3機撃墜2名死亡、1名重傷だそうだ」
レゾリュー発令所には重い空気が流れていた、少数とはいえ105補給基地との間を分断された形になっている、カカポ隊による補給が出来なければ徒歩による歩荷隊を編成しなければならない、カカポ機一機が搭載する物資は百キロ前後、人で運べば三人は必要だ、更に要する時間は片道二時間で飛ぶカカポ機に対して歩荷では丸二日かかる。
非現実的だ、ナジリス側が引いている時は空中投下も出来たが、今は落とした物資を敵に回収されてしまう危険をはらむ、おいそれとは実行できない。
「リリィ少佐はなんと?」
「迂回路を探して今週中には補充飛行を再開すると言っているが・・・」
「カタツムリの脅威がある以上簡単にはカカポを出すわけにはいかんだろう」
「はい、彼女たちには武装も援護も無いのですから」
「我々がいくら飢えようとも若い女の子を踏みつけて飯を食おうという輩は我が隊にはおるまい」
「我々に届ける荷のために食べたい盛りの女子に食事制限をさせている、酷な任務だ」
「航空隊の中に適材がいればよいのですが、Fナンバーに搭乗する者たちでは重すぎて積める荷物が半分以下になる」
「ああ、それに揚力を使わずに飛行するカカポ機の操縦は簡単には出来んそうだ」
パァッン パパァッーン
外では越境してくる先遣隊に向けてレゾリュー狙撃隊が9mm弾の洗礼を浴びせている。
今はこれで十分だが、カカポ隊を襲った対空戦車の20mmは要塞にとっても脅威だ、重機の侵入が可能になれば迫撃砲も射程に入る。
かたやこちらは狙撃銃と据え付け型の高射砲のみ、下に向かっては撃てない。
「最大の心配は我々が追い詰められればリリィ少佐自ら補給を行うと言い出すに違いない」
「私もそう思います、我々のために祖国の英雄に何かあったら・・・」
「そんなことになれば全員で特攻して死に花を咲かせることになるな」
「頼みの綱は内閣情報室だな・・・頼むぞ」
窓の外を睨んで煙草に火を付けた。