魔女との出会い
大学卒業後、私は子ども服を製造・販売をする会社に入った。別に子どもが好きってわけではない。たまたま事務職の募集があって、たまたま引っかかっただけだ。
内定をもらった時も、子ども服ってかわいいから楽しそう! ぐらいにしか考えていなかった。企業理念なんて面接対策で覚えたけれど、胸に響くなんてことは一切なかった。
そんななんとなくな気持ちで入った会社で、書類作成や事務処理を毎日淡々と私はこなしていた。やりがいはなかったけれど、特に嫌なこともなかった。人間関係に頭を抱えることも、会社を辞めたくなるようなトラブルにも巻き込まれることもない。
これといった趣味もなく、平日の仕事後や土日のお休みは惰性で過ごした。料理をするのが好きなので、たまに時間をかけて料理をすることもあったけど、特に振る舞う相手もいない。
仕事もプライベートも単調な毎日を、私はただただ過ごしていた。
三十目前になって、ふと気がついた。四十人ほどいた同期の半数が転職、残った同期のさらに半数が結婚や家庭事情で会社を辞め、さらにあと二、三人が不祥事で消えていた。
不祥事組は話にならないけれど、辞めていった大半の人が「やりたいことが見つかった」、「もっと面白いことがしたい」、「お金が欲しい」と言っていた。あ、お金が欲しいは不祥事組も言っていた気がする。
辞めた人のことを考えた時、今のままの自分でいいのかなと、急に不安に襲われた。何かが駄目というわけではない。でも、何かが良いということもない。この中途半端な状況に、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。
今の仕事では専門スキルは身につかない。多少は身につくけれど、誰でもやれば身につくし、特に誇れるものでもない。そもそも私の代わりなんていくらでもいるし、私でなきゃいけない仕事もない。
転職に役立つスキルや経験もなく、入社して成長したことと言えば、強いて言うなら事務処理スピードが速くなったことぐらいだろう。
会社を辞めたいわけじゃない。でも、今のままでいたら、この先どうなるんだろうと不安になる。そんな不安が首をもたげるようになって半年ほど経った時だった。私は魔女に会った。出会ったのはスーパーだった。
「ねえ、今の生活は楽しい?」
仕事を定時で上がり、家の近くのスーパーでお惣菜を物色しているといきなり声をかけられた。初めて聞く女の人の声で、しかも後ろから聞こえたのに、私は何故かその問いかけが私に向けられているものだとすぐに察した。
楽しいか楽しくないかでいくと楽しくはない。刺激もなければときめきもない。仕事は単調で慣れた業務を日々繰り返すだけだから。私は振り向く前に頭の中で問いかけに対する答えを考える。
「楽しくないなら一緒に来ない?」
私は思わず振り向いた。だってまだ何も返事をしていなかったから。振り向くと綺麗な女の人がいた。真っ黒なロングパーカーに黒のロングコートを羽織り、下は黒のスキニーパンツ。黒いブーツを履いて、黒いデニムのトートバッグを持った黒髪ロングの女の人。そう魔女である。
普通に考えるとかなり怪しい誘いだと思う。見ず知らずの人に声をかけられ、一緒に来ないかと聞かれている。詐欺か、危険な宗教の勧誘かもしれない。普段なら絶対に無視するか逃げるはず。でも、その時私は一緒に行きたいと思った。
「一緒に行けば変わりますか?」
今のままが嫌だった。なんだか置いてけぼりにされたような気がして。変えたかった。仕事も日常も、それから私自身も。
「変わるかどうかはあなた次第よ。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも、変わるきっかけにはなるかもね」
なんだ、一緒に行けば絶対に変わるわけではないのか。少しがっかりした。でも、がっかりした反面、安心している自分もいた。このご時世『絶対に儲かる』、『すぐに成果が出る』、『確実に痩せられる』といった謳い文句ほど怪しいものはない。不思議な誘いだけれど、『絶対』と言わないあたりに好感が持てた。
「じゃあ、行きます」
「あら、本当? かなり即決ね。でも、よかった! 実はね、もう晩御飯は決めているの。さ、早く行きましょう!」
即決したものの、そんなにすぐに行くことになるなんて思っておらず、戸惑う私。そんな私の手を引いて、魔女は笑顔でスーパーを出た。
スーパーの裏の路地を進み、街灯のない真っ暗な道を通り、何百人ものコックが調理している広い厨房を通過し、三匹の子豚による『安心安全な住宅セキュリティ講座』の会場を迂回して、気がつけば人気のない住宅街にある、小さな空き地に立つラーメン屋台に辿り着いた。
「今夜はここのラーメンが食べたかったの。一人で行こうかとも思ったんだけど、なんだかピンと来たのよね。私の弟子に良さそうな人がいるなって」
「弟子?」
「そう、魔女の弟子。まあ、詳しい話は食べながらにしましょう。ほら、入るわよ」
今、魔女って言った? 私の中に大きな疑問が生まれたけど、ここまで来る道中で見た様々な光景と、女が纏う雰囲気から、私はすとんとすぐに納得してしまった。魔女に続いて屋台の暖簾を上げると、淡いブルーのだぼだぼパーカーを着たでっぷりとした虎猫が立っていた。
「いらっしゃい、寒かったでしょう」
虎猫はにっこりと目を細め、温かいおしぼりをくれた。私は思わずびっくりして大きな声が出そうになったけれど、なんとかそれを飲み込んで、虎猫にお礼を言った。
虎猫のお店のラーメンはすごく美味しかった。細くて少し硬めの麺に、白い豚骨スープ。細切りのきくらげに、ネギ、味玉と焼き豚が乗ったシンプルなラーメンは癖になる味だった。
最初、この屋台のメニューは豚骨ラーメン一択と知った時、それでやっていけるのかなと失礼ながら思ってしまった。でも、食べた瞬間それが愚問だと知った。あまりの美味しさに、普段なら考えられないけれど、私は替え玉までしてしまった。
ラーメンを食べながら、女は自分が魔女であること。魔女の名前は『水曜日』であることと、最近一人暮らしに飽きてきたから楽しそうな同居人を探していたこと。探していたら、なんとなく私を見てピンと来たことを教えてくれた。
話をして聞いていても何のことか全く意味がわからなかった。魔女が何かを聞いても答えは不明瞭だし、私が選ばれた理由もよくわからない。
でも、虎猫が出してくれた生ビールが美味しくて気が大きくなっていたのと、「上手く言えないけど、私はあなたがいいなって思ったの。それ以上の説明が必要?」なんて綺麗な人に言われちゃったから、私はそれで満足してしまい魔女の家に行くことになった。
そう、それが半年ほど前の話である。
虎猫の屋台でラーメンを食べた後、魔女の家に直行。すると、私の家の荷物が何故か全て綺麗に箱詰めされて届いていた。
両親は私が成人してすぐに亡くなっていたし、兄弟もいない。親戚付き合いも特になく、一人暮らしだったから別に何の問題もない。けれど、アパートの退去手続きはしなきゃ。あと、会社を辞める手続きと。そうだ、住民票も移動しなきゃだし、銀行や通販サイト、あとクレジットカードの登録内容を更新しなきゃ……なんて考えていると、魔女が「それ、終わってるから」と、笑顔で言った。
「終わってる? え?」
戸惑う私。きっとこれは私じゃなくても戸惑うと思う。
「うん、全部やっといたから安心して!」
私、こう見えてちゃっかりさんなの、と得意げな魔女。最初は疑っていたけれど、後日、私は本当にその時既に全て対応が完了していたことを知る。まあ、でも、それは私の生活にとってはかなり些細なことだったのでここでは省略しようと思う。