雨の日は大人しく読書を
ベイクドチーズケーキを初めて知ったのは中学生の時。当時普通のチーズケーキしか知らなかった私は、ケーキ屋さんで初めてその名を見た時、英語の授業で習った文法の知識が起因して勘違いをした。
商品名を『焼かれたチーズケーキ』と理解した私。誰かの悪戯によって火傷をした可哀想なチーズケーキ、そんなベイクドチーズケーキを可哀想なケーキだと私は憐れんだ。
時間が経つにつれて私は自分の認識に違和感を持ち始め、幸いなことに人前で恥をかく前にベイクドチーズケーキが可哀想なチーズケーキでないと気がついた。でも、一度持ったイメージを完全に払拭することができず、大人になった今でも心のどこかで可哀想なチーズだと思ってしまっている。
オーブンが予熱完了の音を鳴らす。火傷をしないように気をつけながら、私は170度に温めたオーブンの中へケーキの型をそっと置く。今、私は可哀想なチーズケーキを作っている。
朝からずーっと雨が降っていた。ホットコーヒーと、焼きたてトーストにベーコンと目玉焼きを乗せただけのシンプルな朝ごはんを師匠と食べ終えた私は、食器を片付けながらなんだか今日は外に出たくないなあなんて考えていた。すると、私の頭の中を覗いたのか、師匠が「今日はお出かけせずに、家でのんびりしましょ」とソファーに座りながら顔だけこちらに向けて提案してきた。
師匠の顔を見ると少しげんなりとしていた。どうやら私に気を遣ってくれたというよりも、師匠も出かけるのが嫌になっているみたいだった。
「そうですね、雨、止みそうにないですもんね」
「でしょう? 雨が嫌いってわけじゃないんだけど、今日はなんだかお出かけしたい気持ちが湿度に押しつぶされてるのよねー」
なるほど、確かに私も雨の日のお出かけは嫌いじゃない。雨の日独特の匂いを嗅ぎながら、いつもと違う表情をした景色を眺めるのはわくわくする。でも、今日はそんなお出かけに行く気持ちに何かが覆い被さっているような、阻害されているような、そんな気分がした。そうか、湿度のせいなのか。私は妙に納得した。
「晴耕雨読って言うしさ、今日は本でも読んでのんびりしましょ」
師匠はそう言うやいなや、どこからかサイコロのように四角い文庫本を取り出して読み始めた。なにあの本、分厚すぎない? 驚く私を他所に、師匠は「BGMは彼らに任せましょう」と呑気な声で言った。
「彼ら?」
「そう、彼ら」
師匠が窓辺を指差すのでその先を見ると、四匹の真っ白な猫がいつの間にか窓際に立っていた。お揃いの可愛らしい濃紺の蝶ネクタイを締め、ヴァイオリンを持つ猫が二匹、チェロとヴィオラを持つ猫が二匹いた。ああ、カルテットか。猫のカルテットなんて初めて見る。私は自分がわくわくし始めているのを感じた。
そういえばあの黒猫は今頃どこにいるんだろう? 豆腐の街を案内してくれた黒猫。三回ほど一緒に豆腐の街に行ってちょっと仲良くなれたかなと思っていたら、いつの間にかどこかへ行ってしまった。気ままにふらふらしているのかな。
「じゃあ、お願い」
師匠の声を聞いて私は我に返った。師匠の声を合図に四匹の白猫は深々とお辞儀をし、どこからか椅子を出現させた。猫たちは素早く準備をすると慣れた手つきで演奏を始めた。四匹が奏でる音は軽やかで、湿気のせいで重たかった部屋の中の空気をからんと変えた。
猫たちによる、チェコにある川の名を冠した有名な曲の演奏は、部屋の中を川のように自由に流れる。素敵な音楽にじっくり耳を傾けるのもいいなと思ったけれど、演奏をBGMに何か別のことをするのもありかもしれない。サイコロみたいな本を読む師匠を見てそう思った私は、クマーラからもらった本のお菓子を作ることにした。
以前、師匠と一緒に月曜日の魔女に会いに行った時に、大きな本棚が並ぶ空間で出会ったインド人のクマーラ。彼がおすすめしてくれた『おうちでつくるお菓子の本』は不思議な本だった。
見た目は普通のレシピ本だ。表紙はおしゃれなデザインで、本屋さんに並んでいても違和感はない。でも、この本は全く普通の本じゃなかった。だって内容が読めないのだ。
決して全く読めないということではない。スコーンやスイートポテト、ドーナツにチーズケーキなどなど、何となく載っているレシピのお菓子はわかる。あと最初のページのシフォンケーキも作り方は読める。なのに、ページによっては作り方を見ても日本語なのに読めないんだ。いや、読めるのは読めるんだけど、書いてあることが理解できない。
決して専門用語が並んでいてわからないとかではない。なんて言うんだろう、目が文字の上を滑っていき、読んでいるのに読めない。頭の中に作り方が入ってこないのだ。
師匠にこのことを話したら、師匠はにっこりと笑って「クマーラもやるわねえ……」とどこか遠くを見ながら言った。
「レシピがうまく読めないってことは、まだそのレシピを作る時じゃないってことなんじゃない?」
「作る時じゃない?」
私は師匠が言うことがわからなかった。
「そう、今じゃない。読めるレシピもあるんでしょう? と言うことはそのレシピは今のハルにも作れるレベルってことなんだと思うの。逆に読めないレシピは……」
「私が作るにはまだ早いってことですか?」
「御名答」
師匠はにこりと言った。でも、すぐに「あ、勘違いしないでね。ハルの料理のレベルが足りてないってことじゃないから、きっと」と謎のフォローをしてくれた。料理レベルが足りてないってことじゃない。じゃあ、一体どういうことなんだろう? 余計にわからなくなって私の頭はこんがらがる。